ピンポーン。
インターホンが空虚に鳴り響く。
反応がない。
ピンポーン。
もう一度鳴らす。やはり反応がない。
仕方ない、とスマホを取りだして訪ね先の家主に電話をかける。これには1コールで出た。
「どうかしたのか?」
声から伝わる感情は浮き足立っているが、その声色はガラガラと引きつったものだった。やっぱり、と頭を抱えて「今、下にいます」と伝えると瞬時にロビーのロックが開いた。
ロビーのドアを通り、エレベーターに乗り込んで先生の家の階層のボタンを押す。
「来てくれると思わなかった、脱稿より嬉しいな。だが、タイミングが悪いことだけが難点だ。今家にはお前をもてなす用意がなくて」
「先生」
「何だ?」
「体調良くないんだから黙っててください」
「…………わかった」
携帯越しの長い沈黙のあとの了承を聞いて一安心して通話を終了する。
エレベーターがポンと無機質な音を鳴らして目的の階層に着いたことを知らせた。エレベーターを出て先生の住む部屋のインターホンを改めて押す。ピ、の時点でドアが開いた。
「久しぶりに会えたな」
と言ったスカー先生は顔面が青を超えて白くなった顔で笑ってその場に崩れた。
「で、無理して3徹したと」
「筆が乗ったと言うやつだ。書けば書くほど止まらなくなって気付いたら3日経っていた」
「……あなたがここまで小説家にのめり込むと思ってなかった」
殺風景な部屋に持ってきたスポドリやゼリー飲料、フルーツをリビングに置いて、玄関で倒れたスカーを抱えてベッドに運んだ。普段なら俺に執拗に絡んでくるはずだったが、3徹を超えたスカーにはあの頃の暴力性を振るう余裕もなく大人しく俺に従った。
スカーが寝るベッドの縁に座って彼の額に手を乗せる。
「もっと触ってくれ」
「…………」
「冷たくて気持ちいい」
熱まである。
リビングに置いてきたドラッグストアの袋を寝室に持ち込む。買い込んできた袋から冷却シートを取り出して額に貼る。スカーは冷たさによる快適より、俺の手じゃなくてただの冷たいシートが額に乗ったことへの不満を表情に出していた。
「薬は飲んだ?」
「何も」
何も?ということは。
「食事は?」
「コーヒー、あとエナドリ」
「食べ物じゃない」
「でもその極限状態でいいものが書けた」
「倒れたら意味無いだろ」
高校時代は喧嘩三昧で誰かと喧嘩して殴り合うことが全ての不良だった割に勉強ができたスカーは、有名大学にすんなり入学、在学中に書いた作品で受賞、そこから瞬く間に人気作家へとなった。
あの頃の破壊衝動はどこへ、と思っていたらそれは仕事への熱意へと変換されたらしく、溢れんばかりのそれはたまにこういったオーバーワークを引き起こすことになった。
普通の感覚を持つ人ならどこかで自分の限界を感じて体を休めるだろうが、スカーの場合はその状態こそ良い物語が書ける、といってストップするどころかむしろ加速する。そのせいで定期的にこうして倒れて音信不通になり、編集者が生存確認と看病をしに行くことになる。
オブラートに包むと気難しい。そのままでお出しすると俺以外には排他的、敵対的。コミュニケーションが全く取れないわけじゃないけど、信頼関係というものはそもそも構築する土台がない状態。
そのせいで俺は元々コミックス部門に所属していたのにスカーのせいで部門異動させられた。超問題児ではあるが会社としてもベストセラー作家を逃すつもりはないらしく、俺が板挟みになって状況が落ち着いてしまった。
サイドボードに栄養価の高いゼリー飲料、スポドリ、薬を並べる。
「とりあえずこのゼリー飲料と薬を飲んでから寝てください、先生。市販薬ですけど、解熱剤は買ってますから」
「先生……」
「仕事としてここに来ていますし、先生の看病が終わるまで編集者として接します」
むすっとあからさまに不機嫌な表情をしたスカーの口にゼリー飲料の飲み口を差し込む。素直に吸って食べているところを見ると、見た目より機嫌自体は悪くないらしい。
「薬飲んで寝たら彼氏に戻ってくれるか?」
「状況次第です」
「……寝てる間に今進められている部分までの原稿も見ておいてくれ。あと洗濯とかもしてくれると助かる。あ、PCのパスはお前の誕生日」
「…………」
家事と一緒に仕事を進める。洗濯物は洗濯カゴから溢れるほどあったし、キッチンには空になった粉末コーヒーの瓶とエナドリの缶が乱立していた。
「はあ……」
ここは編集としてではなく、彼氏としてそろそろきつく𠮟った方がいいだろうか。こんなことをしていたらいつか倒れるだけじゃ済まなくなる。
とはいえ、俺の言うことを素直に聞くかも分からない。俺に甘くて何でも言うことを聞くと思われているけど、案外頑固なところがあるし、昔から自分が楽しいと思ったことは誰が何と言おうとやめることはない。変に生き急いでいるというか、むしろ自分が危ない状況に陥るのを楽しむ節もあるというか。
大きな課題で重くなる体を動かして部屋を片付ける。
洗濯機がゴウンゴウンと稼働する音を聞きながら自分の誕生日を入力してPCにログインする。俺が訪ねる直前まで書いていたらしく、原稿が画面に開かれたままだった。バックアップを取ってから、そのバックアップの方を開きなおして読む。
……相変わらず面白いな、と素直に思う。
誤字や構成に矛盾点がないかメモを取りながら読まなければいけないのに、その世界観に飲まれてただ一読者として没入してしまう。おかげで仕事を忘れてしまってもう一度読み直すというのを繰り返してしまった。
そうやって仕事や家事をしていると気付けば窓の外から夕日が差し込むような時間になっていた。
そろそろ様子を見に行くか、それとももう少し寝かせておいて夕飯でも作るか。
「おはよう」
その必要はなかった。
後ろからぎゅっと抱き締められて頬にたくさんキスされた。
「体調は?」
「かなり良くなった。薬も効いて熱も下がった」
「それは何より」
「あとはお前で気持ちがいっぱいになれば」
「まだ仕事中なので」
「酷いな」
離れないスカーの方を見たら、それが隙となって今度は口にキスをされた。
「スカー」
「いいだろう?いつからだ、3週間くらいは会ってないぞ?きっと3徹で倒れた訳じゃない、3週間もお前に会えなくて倒れたんだ」
学生の頃から変わらない綺麗な顔で寂しそうな表情をされると、仕事中は厳しくあろうとしていても揺らいでしまう。
「どうして逢いに来てくれなかったんだ?」
「執筆の邪魔になるかと思って」
「俺がお前を邪魔だと思うわけないだろう?筆は早い方だし、お前との過ごす時間くらい簡単に確保できる」
だから、と頬に手を添えられて。
PCの横に置いていたスマホが鳴った。むぎゅ、とスカーを押し退けてスマホを手に取ると、画面には折枝先生と表示されていた。
「もしもし、折枝先生?」
「ごごごめんなさい!急に電話しちゃって!今忙しいですか?忙しいですよね……」
「落ち着いて。大丈夫ですよ、どうかしました?」
前まで担当していた漫画家でイラストレーターとしても活躍している折枝先生から電話が来た。おそらくいつもみたいに携帯を持ちながら縮こまっているのだろう。小さな音声だがアシスタントの鑑心の「落ち着いて、先生」という声が聞こえる。
「先生、深呼吸」
「すぅー……はぁー……。ごめんなさい、取り乱してしまって」
「大丈夫ですよ。それで、ご用件は?」
「ああ、そうでした。ちょっと急ぎ確認してほしくって、っていう電話でした。この前依頼頂いた小説の表紙絵なんですけど」
「あー……」
折枝先生に依頼したのは、何を隠そうスカーの小説の表紙。新刊の表紙のイメージを聞いた時にぱっと思い浮かんだのが折枝先生の作風だった。
こちらもこちらで人気作家だからどうかと思い、ダメ元で話をしたら快く受けてくれた。
が、スカーは直接折枝先生と話すことはしないから毎回俺を通じてタイムラグのある打ち合わせをしている。スカー自身も折枝先生の絵は気に入っているのに、いざ本人となると話したくないの一点張りで困っている。
「ちょっと気になるところがあって。他の仕事のスケジュールの兼ね合いで早めに回答が欲しいなぁって……。さっきいくつかの案のラフ画をメールで送りました」
「確認しますね」
「俺の目の前で誰と電話してるんだ」
メールアプリを開こうとする右手とスマホを持つ左手をがっしり掴まれて、スマホが当てられていない耳から地響きのように低い声が聞こえた。
「ちょうどよかった。折枝先生、今ちょうどスカー先生が近くにいらっしゃるので直接確認してもらいますか?」
「ほ、本当ですか!?助かります!どんどんびしばしコメントをお願いします!……とお伝えください」
「は?」
「わかりました。では、確認後こちらからまたご連絡しますね」
「はい、お願いします!」
電話が切れてスカーの方へ首をひねると、いくらか顔色が良くなったスカーが口をへの字に曲げていた。
「折枝先生から表紙の案を見てほしいとの連絡でした。先生、ご確認頂けますか?」
わざとらしく仕事モードで話し掛けると、不機嫌、寂しさ、諦めの3つの感情を順番に表現してから「わかった」と了承を得た。
椅子を立ってスカーに席を替わろうとしたら、俺の脚を広げてその間に座った。狭いスペースにすっぽりと座れたのはスタイルがいいからなのか、不摂生からの痩せ型体型なのか。
「仕事はする。でもこれくらいのわがままは許されてもいいだろ?」
手持ち無沙汰になっていた手はスカーによってお腹に回された。
やっぱり痩せてる。夕飯は消化を気にしてシンプルなお粥にしようかと思っていたけど、雑炊とか具材がしっかりあるものの方がいいかもしれない。
「これは……うーん、いや……だったら3つ目の……」
自分の作品に関わることになると、駄々はこねるけど真面目に取り組む。そこが良い点だけども際限がないのが難点。
背中からじんわりと心地よい体温が伝わってきてつい大きな欠伸をしてしまう。俺も俺で最近残業続きだったし眠たい。何とか目に意識を集中して閉じないようにする。スカーに仕事をしろと言った手前、俺が眠る訳には。
「2つ目のがイメージに近いな。ただ背景のメインが山になっているのが気になる。ああ、人物の構図は文句なしだ。背景だけ追加注文するなら、街が前に出てきて山はもっと後ろがいい。読んでみたら実は表紙がネタバレだった……というのも面白いが、今回はそこまで奇を衒うような内容じゃ……聞いてるか?」
「聞いてる」
「要点だけメモにまとめておく。10分くらいだろうけど、少し休んだらどうだ?お前も残業続きだったんだろう?」
「そのまま執筆は……」
「しないさ。何度も怒られる趣味は無いし、しつこいとお前に嫌われる。ほんの少しだけでも眠っておけ」
「ん……」
結局きっちり10分後に起こされ、簡潔なメモが俺のPCに表示されていた。文字で人を魅了している職業なだけあって俺は一切手直しをする必要もなく、折枝先生へそのままコピペでメールを送信した。
何だかんだともうすぐ定時で、社内にいるはずの秧秧たちへスカーの状態と今日の報告をした。メッセージを送信して伸びをしていると、その手をぎゅっと握られた。
「定時だ。仕事モード、編集者モードは終わり」
「残業します」
「認めない。俺の夫として看病してくれ」
「…………」
元々残業の予定はなかったが、少しだけからかうために言ったら思いのほか真剣にお願いをされた。
PCを閉じてネクタイを弛める。これで一気に自分の中からも仕事の緊張感が抜けていった。
ふぁ……と欠伸をして立ち上がる。もう一度伸びをしてスカーの方を向くとさっきまでは無かった寝癖が追加されていた。どうやら短い時間でもう一度寝直したらしい。
「そうだ、原稿確認して気になったところはメモにまとめておいた。ちゃんとしたのは改めて書き終わった時にするけど、とりあえず現時点で見直しはしておいてほしい」
「今のは許す。俺の作品の話だから。だけどもう定時だ、終わりだ」
腕を組んでムスッとした顔で怒ってる振りをされた。これが『振り』で収まってるあいだにやめないと冗談抜きで大変なことになる。
「わかった。終わりにしよう」
「なら、今この瞬間からただの夫婦だ。だから、一緒にお風呂入ろうぜ」
ぎゅっと抱き締められる。スカーの方が身長も高くて体格もいいので、痩せているとしてもちょっとやそっとじゃ振り払えない。だから背中を軽く叩いて「俺は夕飯を作っておくから先にどうぞ」と促した。もちろん嫌だと拒否されてなおさら強く抱き締められる。
「仕事としてもだけど、あなたのパートナーとしても体調は心配してる。寝る時間を確保したいから先に入っていてほしい」
「そこまで言われると断れないじゃないか」
はあ、これ見よがしな溜息の後に開放された。風呂は日中に洗っておいたし、あとはお湯をためるだけ。たかだか10分も待てば入れるようになる。
俺はキッチンへ向かって、スカーは浴室へ向かう。
その背中を見てふときになったことを聞いてみた。
「結婚指輪、欲しい?」
意外にも冷静に振り向いたスカーは「欲しい。けど」と言葉を続けた。
「結婚指輪そのものへの価値を求めてる訳じゃない。俺が真に欲しいのはお前を縛って、お前に縛られる制約だ。それを日常的に意識させる物質としての結婚指輪なら欲しい。だから、形はこだわらない。ネックレスでもいいし、お揃いのタトゥーでもいい。ただまあ、お前が結婚指輪を嵌めることによってお前に言いよる存在を避けられるなら、その価値は認める」
「つまり、めちゃくちゃ欲しい?」
「酷い要約だな。だが、その通りでもある」
「前向きに考えるよ」
「おいおい、普通ここは次の休みにでも、って誘うところじゃないのか?」
「縛り縛られ、というのは理解の範疇を超えているけど、俺たちの関係を再認識するためのツールとして欲しいんだろ?なら、今更だし、わざわざそこまで急いでする必要があるかな、と思っただけだ」
「なんだ、ちゃんと理解してくれてるじゃないか」
アハハ!と部屋に響くような声で笑ってからスカーは廊下へ姿を消した。
「来客用布団とかはない?」
「あるわけないだろ?お前しか家に入れるつもりはないし、お前と一緒に寝るために大きいベッドを買ったのに」
いつまで経っても同棲してくれない、と文句を言われてしまった。
したいかしたくないかで言えばしたいが、どちらかと言うともう無理をさせない、倒れさせない、という意味合いの方が強い。だけど一緒に住むとスカーのわがままに俺がついていけるのか心配で踏ん切りがつかない。
残業続きじゃなければリビングのソファーを借りて寝ようかと思ったけど、人気作家の財力で買われた高級ベッドの誘惑には勝てず、スカーに招かれるままベッドに潜り込んだ。
「素直に来てくれて嬉しいよ」
借りた服の下に忍び寄る手をはたく。
ショックを受けるスカーの方を向きつつ、もぞもぞと動いて少しだけ距離を取る。
「当分泊まってスカーを健康にさせるつもり」
「本当か?」
一転して、パァ、と音が出そうなくらい明るい顔をしたスカーに厳しい目を向けてみる。
「健康にさせるつもりだから今日は早く寝てくれ」
そう続けると案の定またショックを受けた。
歴代の編集や作家仲間の間でのスカーの印象はどこか世捨て人のような冷たい目をしていて、ポーカーフェイスであまり感情を出さず、真意が見えない人、というもの。
それを聞いた時はいつも俺の前ではこうやって笑ったり悲しんだりして、たくさん喋って大はしゃぎしているからピンと来なかった。
それを思い出して少し笑いそうになった。
私はショックを受けて凹んでいます、とアピールしたいがためかベッドに深く潜って上目遣いで恨めしそうに見てきた。
「我慢する方が健康に悪いと思わないか?」
「思わない」
「ついさっきまで寝てたから眠くない」
「なら横になって体を休めるんだ」
「わかった、口でする」
「何もわかってない。とにかく、その目の下のクマが無くなるまで毎日たくさん寝ること」
それでも、と食い下がろうとするスカーの頬を少し強めに抓った。
「いつか本当に取り返しのつかない事になったらどうするんだ。俺を長い時間一人にさせるつもり?」
狡い言い方なのは承知の上、こういう言い方でもしないと朝まで駄々をこねられる。
少しの良心が痛みつつもキツく言い放つ。流石と言うべきか、やはりと言うべきか、スカーは小さな声で「悪かった」と本気で反省した。
今日は寝る、と決めて貰えたので安心してサイドボードのライトを消すと、ガサガサと隣で大きな音がした。喉でも乾いたのかとスカーの方を見ると、その視界が窓から射す月明かりも見えないほど真っ暗になった。
「これ以上のことは何もしない。ただ、俺を元気にさせるためなら抱き枕くらいにはなってもらう」
「…………」
「反省するから、もう二度とあんなことは言わないでくれ」
言い過ぎたようだった。
ごめん、と一言謝ろうとしたら頭上から静かな寝息が聞こえた。やっぱり限界だったじゃないか。
謝罪の気持ちとどうかぐっすり寝てくれることを願って、そっと背中に手を回して寝るまで撫でることにした。