「ただい……」
もう手遅れの癖をなけなしのプライドが強制終了させる。
家に来てもいいなんて一度も言った事はないし、合鍵を作って渡したこともない。役所が管理している住所は別だし、例え着替えや授業の参考書が置かれていても一緒に住んでいるわけじゃない。そもそも付き合ってなんかいない。
保護者の真似事はいまだにしてるけど。
「…………」
今日も変わらず残業を終えてふらふらと帰宅した。玄関のドアを開くとそこは廊下の先も真っ暗で、外と変わりない冷気が靴を脱いだ脚に刺さった。
いつもならリビングの電気を頼りに暖房の効いた廊下を歩いてソファーに倒れ込むところだが。
廊下の電気をつけてからリビングに進む。真っ暗なリビングは物音一つしない静寂が薄気味悪く漂っていた。
いつもならリビングのソファーに倒れ込んだ俺を心配そうに見下ろして鞄を部屋に持って行ったり、ブランケットを掛けながら食事はどうするかを聞いてくるところだが。
物足りないと思ってしまったのはきっと連日の残業のせいだろう。今週は日曜から出て6連勤の残業続きの過酷な週だったから色々と麻痺しているだけに過ぎない。今晩しっかり寝て明日と明後日の休みで回復しなければ。そういう危険サインなだけだ。
ソファーに寝転んでポケットに入れたままだったスマホを取り出す。ホーム画面の時間はそろそろ日付が変わろうとしているのを伝えてきた。もう少し早く退勤できていればザンニーと遅めの華金だと自棄になって居酒屋に行ったものだが、今日ばかりはお互いに疲れ過ぎてさっさと帰ろうと別れてしまった。
ロックを解除して、無意識にメッセージアプリを開いた。
いや、これは保護者の真似事の癖が抜けていないだけだ。いくらもう大学生になったからと言っても、もう5年近くも親代わりをしていたものだから変な事件に巻き込まれたり、実は体調を崩していたりとか、どうしても心配になってしまっただけだ。駄目だな、これだとただの過保護だ。目を離すと問題ばかり起こす手のかかる奴ではあるが、もうちゃんと大人なんだし心配してばかりも良くないだろう。少しの失敗も自分を成長させるチャンスになる。俺が面倒を見すぎてそう言った機会を失わせてしまっていたら元も子もない。親の真似事というならその割り切りもしなくては。
と、思いつつも指は一番上にあった名前をタップしていた。
『今日飲み会に誘われた。あまり行きたくないがどうしてもというので少しだけ顔を出してくる。ご飯を作って待ってあげられなくてごめんな』
と、ソファーから跳ね起きるくらいには驚いた内容が書かれていた。
あのスカーが飲み会に。
あの、俺以外の人と関わりたがらなくて友達を作るよりも俺の家に入り浸るのを優先して高校の文化祭でも3年間ずっとクラスの出し物の当番をすっぽかして俺と遊ぶのを優先していたスカーが、大学の飲み会に。
ようやく俺の努力が実ったということだろうか。
確かに問題行動が多いし、人とわかり合おうとしないし、排他的で攻撃的だが、根は悪くない。むしろ誰かが虐げられているような状況を嫌うような優しいところが暴走した結果……という見方もできる。最初こそただの不良だと思っていたが、それなりの付き合いともなるとわかってくる。だからこそ自分の世界を広げるためにも色んな人と交流すれば、スカーの凝り固まった価値観も変化が出て、周りの人も彼の人となりを理解してくれるはずだと思っていた。
もしかしたらただの気まぐれかもしれない。でも、それでも。
目頭がじーんと熱くなる。今日はお祝いだ。ソファーに寝転がって時間を潰してる場合じゃない。
テーブルの上のリモコンを操作して暖房をつける。立ち上がってキッチンに向かう。手を洗っていなかったのを思い出して急いでお湯で清潔にし、冷蔵庫からビールと作り置きしていた惣菜のタッパーを取り出す。本当は豪華なオードブルとワインで夜を明かしたいくらいだが、毎晩スーパーも閉店する時間に帰宅するものだから用意がない。明日改めてパーティーを開き直そうと決めながら軽い足取りでリビングに戻る。
これが親の幸せなのかもしれない。ずっと見守ってきた子がようやく一歩を踏み出せたことがこれほどまでに嬉しいものだったとは。
初めて見た俺以外との予定のメッセージを改めて見る。乗り気ではなかったとしても外の世界に足を伸ばしたことを褒めてやりたい。
羽目を外しすぎるのも問題だが、大学の飲み会でしか得られない楽しさや友情というものもある。それだけじゃない。彼の世界の中心はどうしたって一番身近で面倒を見てきた俺しかいなかった。だから、あらゆる好意的な感情の矛先が俺にしか向いていなかった。
親や兄弟のような親愛も、恋人のような恋慕も向けられてきた。毎日告白もされてきた。子供だからという理由もあったが、高校を卒業してからも断り続けてきた理由はそこにある。
スカーの世界には俺しかいないから全部俺に向けるしかないだけだ。一度外の世界を見てみれば俺よりももっと自分と波長の合う人がいるのも知ってくれるだろう。
大学の飲み会というのはそういう出会いの場にもなる。というか大体はそれが目的だったりするし。
子の成長を嬉しく思いながらもほんの少しの寂しさに視界を滲ませていると、スマホの画面が暗くなった。そこに表示されていた名前は。
「…………」
俺の感動を返してくれ。
すっと目にたまる涙が引いていく。いや、まだだ。もしかしたら律儀に今日はうちに来ないから、と連絡しようとしているだけかもしれない。何なら酔ったままスマホを触って間違って電話をしてきただけかもしれない。
そう思って数秒待ってみたがスマホの震えは全く止まらなかった。
ここで通話を始めてしまうのも俺の良くないところだと思いながらも、もしかしたら初めての飲み会で羽目を外しすぎて何かあったんじゃないかという心配もあって電話に出てしまった。
「あ、出てくれたぁ」
アルコールのせいで呂律が怪しい聞き慣れた声が聞こえてきた。
「飲み過ぎちまってさ、ひとりで帰るのは少し疲れるから迎えにきてくれないか?」
「…………」
「お願いだよ、なぁ?駄目か……?我儘を言う俺のことは嫌い……?」
「…………」
誰かと遊ぶという小さな一歩すら喜べるくらいには親の真似事も板についているから。
「嫌われるのは嫌だな……。わかったよ、がんばる。ひとりで帰る……」
本当に不安そうな声を聞いてしまうと理性よりも前に体が動いてしまうのだった。
近くの駐車場に車を停めて電話を掛けながら店へと早歩きで向かう。
メッセージで貰った地図を頼りに歩いていくと大学の近くにあるチェーン店の居酒屋に到着した。明朝まで営業しているためか夜更けでも昼間のように活気付いていた。
「着いたよ。どこの席?」
「んー、奥の座敷のところ。眠たいぞ、早くー。外で寝たら困るだろー?」
よほど飲んだのか聞き慣れない間延びした声がずっとスマホから聞こえてくる。店員に事情を話して席まで案内してもらうと10人程度の大学生の男女が座敷タイプの席に集まっていた。大学生の飲み会といえば少し迷惑なくらい楽しげにはしゃいでいるものだと思っていたのだが、そこには妙な静けさというか重苦しい空気が参加者のほとんどを緊張させていた。
「あ、来た来た」
その中で場違いな明るい声を上げたのはふわふわと頭を揺らして左右で色の違う目を笑顔で隠していたスカーだった。
「遅いぞ」
「二次会とか行かないのか?」
「行かない。帰る」
何故か口を尖らせて拗ねた表情をするスカーから目を離して他の学生を見ると、1人が「あの……」と小さな声を出して控えめに手を挙げていた。
「ごめん、こいつは連れて帰るよ。参加費は払ってる?」
「あ、はい……貰ってます……」
「はやく帰るぞ〜?」
「この通り限界みたい。今日はごめん、また誘ってあげて」
おそらく彼が幹事だったのだろう。彼に軽く頭を下げてからもたもたと上着も着れないスカーの手伝いをし、さっさと引き連れて帰ろうとした時。
「……ん、今日まだしてなかったもんな」
隙を見せた俺が悪い、のか。頬に熱くて柔らかいものが押し付けられた。一瞬だけ落胆や怒りがよぎったけど、俺も疲れているしこんな状態のスカーをここにいさせるわけにもいかないと気持ちが急いでしまった。何事もなかったようにスカーのバッグを持って抱き着いてくる彼をそのまま背負って立ち上がる。
「それじゃあ、連れて帰るから。彼のことは気にしないで」
と言ったところで気にはなるだろうけど。
気休めにもならない言葉と、幹事に空気を凍らせたお詫びにと財布から紙幣を少し渡して引きずるように退店した。
夜道の空気は吸い込めば肺まで冷たさが沁みるほどなのに、アルコールで上がった体温のせいなのか気分のせいなのかスカーは変わらず俺に抱きついて楽しそうに頬にキスをしたり耳を噛んできたりやりたい放題だった。案外酒に弱いのかな。俺の家にいるときは基本あまり飲まない。むしろ飲んで疲れた俺を介抱するために飲まないようにしている節すらある。
節度あるお酒との付き合い方も教えてやらないといけないな。
「帰るぞ。ほら、ちゃんと歩いて」
「お前の家に帰るー」
「……わかったよ」
確かに、こんな状態にまで酩酊した状態で1人にするのは危険だろう。不本意ながらも背に腹は変えられないとして渋々了承する。
「引越しはいつにする?明日?」
「何が」
「同棲しようぜ。というか結婚だ。結婚しよう」
「しない」
「もう子供じゃないぞ。酒も飲める大人!」
「こんなに酔ってるんじゃまだ子供と同じだよ」
「へりくつだ、言い訳だ。そういうとこ嫌い。嘘、そこも好きー」
「はいはい」
「全部好き。嫌いなところはー……ないわけじゃないけどそこも好き。嫌いなところも好きだ」
「はいはい」
「照れてるだろー?俺はなんでもわかってるぜ」
「車乗って」
「隣がいい」
「……仕方ないな」
後部座席で寝かせようとしたら全力で拒否されてしまった。押し問答するよりはさっさと帰ったほうがいい。
助手席に押し込んでから運転席に回る。俺が車に乗り込んだ頃には早速シートを倒して寝る体制に入っていた。
「水も飲んでおいた方がいい。明日が辛いぞ」
「飲ませてくれ」
「自分で飲んで」
家から持ってきたミネラルウォーターのペットボトルを渡してからスカーと自分のシートベルトをつける。渋々自分で水を飲み始めたのを見届けてからアクセルを踏んで車を走らせた。
あ、ビール、冷蔵庫に戻してなかったっけ。
マンションについてエレベーターを待つ頃には饒舌だった口も目も閉じてしまった。俺よりも大きく育ったまだまだ手のかかる子供を背負ってなんとか自分の部屋まで到着する。
靴を脱ぐように言っても「うー」と返事とも取れない声しかあげないものだから、廊下に一旦寝かせて靴を脱がせてもう一度抱え直す。
一度横になったのが決め手だったのか、背負い直したスカーからは静かな寝息だけが聞こえてきた。
手はかかるし、問題児だし、自分勝手だし、我儘で困ったやつだけど、これだけ安心しきった寝顔を見せてくれるようになったのはいつまで経っても嬉しく思う。背丈もいつの間にか俺より高くなって、俺よりも勉強ができるようになって、最初は怪我ばかりしていた料理だって今はお店が出せるくらいには上達して。
「寝るならベッドっていつも言ってるだろ」
どうしても笑ってしまうのを抑えられず、返事がないのもわかってるのに昔から言ってることをつい口走ってしまった。
廊下を歩いて、リビングを横切って、寝室に到着する。
もう既に夢の世界に旅立ったスカーをそっとベッドに横たわらせる。もぞもぞとベッドの上で落ち着かないように動いてるのを見て気づく。何かに抱きつく癖があるのはわかってるから、リビングにあるクッションを持ってきて両腕の間に差し込むとそれをぎゅっと抱きしめてから静かになった。掛け布団を肩までかけてやってから顔にかかる髪を払ってあげた。寝ている時に頭を撫でると嬉しそうにクッションに頬擦りするのも変わらない。
「大きくなったな」
しばらく頭を撫でてからリビングに戻る。テーブルはビール缶から滴る水滴で濡れていた。暖房もつけたままだったから缶を持っても手のひらには冷たさは感じなかった。
静かな部屋に缶を開ける音が響く。スカーはいるけど寝ているから物音は何一つとしてない。それなのに缶が冷たかった頃にあった重い静寂はここにはなかった。
ぬるい炭酸を流し込んでソファーの背もたれに体重を預ける。
朝から仕事して、残業もして、帰って来られたと思ったら突然の呼び出し、めちゃくちゃなお迎えをした挙句最後は体力勝負。
心身ともに疲れたはずなのに何故か気分がいい。まだ酔いも回っていないのに気を抜くと小さな笑いが漏れてしまいそうなくらいには高揚している。
ベッドをスカーに渡してしまったから自分の寝る場所がない事に気づく。まあ仕方ない。あんな寝顔を見せられたらそのままにしたくなってしまうものだ。
ビールを飲み切って酔いが回らないうちにクローゼットにしまってあるブランケットを出すために立ち上がった。