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    do__kkoisho

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    do__kkoisho

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    漂スカ

    服にほつれも無し。ゴミや汚れも付いていない。フローヴァから奪ったもとい譲り受けた手鏡で見る顔はいつも通り。傷痕は置いておくにしてもクマや肌荒れもなし。うん、好きな人に会いに行くのに完璧なコンディションだ。
    初めて会うわけでもないし、何ならこっそり秘密の愛の逢瀬だって何度も繰り返しているし、やることもそれなりにしっかりやっている。快楽だけ求める我儘な奴は嫌われるだろうが、俺はたまに部屋の掃除や食事の作り置きもしている。キッチンにその時に使った保存容器が置かれていた時は嬉しくて小躍りしたほどだ。完食してくれたということは美味しかったのだと学んで献立を再考するくらいには尽くしている。あとやっていないことと言えば結婚くらいだ。結婚して、一つ屋根の下で一緒に暮らして、子供は……そうだな、2人か3人は欲しいか。こればっかりは漂泊者の意見も聞かないと。子供の有無が原因で夫婦仲に亀裂が入るというのもよく聞く話だ。でもどうせ結婚するならこの世界じゃなくて争いも不平等もない世界で2人だけの結婚式を挙げたいんだがな。
    話が脱線したが、まあ、うん。今日も好きな人に会いに行くのだ。この時間帯は外に出かけず、家で集めた素材や音骸の整理、体力回復のためのリフレッシュに充てているはずだ。だからこそ行くのだ。大切な愛する人がゆっくり自分の時間を過ごせるように掃除や料理などちょっと手間のかかることをしにいく。見返りは、そうだな……「ありがとう」とか「助かった」とか、労いの言葉を優しく言ってくれればそれで良いかな。
    等価の天秤がうまく働いていない気がするが、まあ足りない分は夜に求めればいいか。もしかしたら求められることもあるかもしれないしな。
    しかし、一種の羨望だったはずの気持ちが言葉を刃を交わすだけで恋に早変わりするとは。あの時の炎は確かにこの身を灼いたが脳の回路もいくつか焼き切っていたのかもしれない。恋に目が眩んでトラブルメーカーになる登場人物は物語の読者からすれば辟易するようなものだが、実際にその立場になってみるとなかなかどうして面白いものではある。俺のサプライズに漂泊者が驚く様は可愛らしくていじらしいし、何より三文芝居の脚本で小銭を稼ぐ小言野郎に嫌な気にさせられるのは胸が晴れる思いになる。
    頭を巡る無駄な考えを振り払うために両頬をぺちぺちと数回叩く。漂泊者は外見だけで判断するような浅慮ではないことはわかっているが、それでも好きな人には格好良くて可愛いところだけ見てほしい。とフローヴァに雑談で話したら鼻で笑われた。恋を知らない子供はこれだから。
    最後に深呼吸をして愛する人が待つ部屋への最短ルートを目の前に現す。信号塔というものが普及したこの世界ではそこまで利便性があるとも思えなかったし、この能力が発現したきっかけは忌むべき記憶の果てにあるものではあるが、今となってはこんなに便利だったとはと感謝しかない。これがあれば未来の夫がどんな場所にいてもすぐに会いに行けるのだから。強固なドアやセキュリティに守られた空間であっても、この通り。
    「漂泊者、今日もお前の妻が来てやったぞ」
    なんて冗談めかして真実を告げながら漂泊者の家のリビングに現れることだって簡単にでき、る。
    「おや、意外なお客さんね」
    「……はあ」
    「殺して良いよな。その権利が俺にはあるはずだ」
    毛先が鳥の尾のようになっている髪の長い女が俺の夫と楽しげにお茶を飲み交わしていた。
    こいつのことは知っている。俺ですらこいつと対峙する時は少し冷静になって身構えるか、最初から理性を飛ばして殴り掛かるかの二択を迫られるほどだ。
    俺がつまらない大獄に入れられる羽目になった大きな要因を作り出した張本人。乗霄山で角を巡る争いにおいても敗北を喫したのもこいつの手回しが原因。あと同じく炎を操る能力で幹部クラスというのがキャラ被りしてる。作劇上こういう要素の被りはできる限り排除するべきじゃないかと思う。
    今州の令尹参事、手練手管で盤面を掻き回す迷惑人、長離。
    左足を軸に踏み込んで脚を振り上げながら回転する。高速のエネルギーが乗った遠心力を全て乗せた初撃は取り出した刀によってその円を歪められていなされる。不味いな、不意打ちができなかった時点でこちらの攻撃は全て後手に回る。全力を出せば簡単に叩き潰せる相手ではあるが2人の愛の巣を燃えた廃材に変えるのは本意ではない。家具や食器、インテリアを破壊しないためにも一度距離を取って相手の出方を伺う。
    「あなたは意外に思っていないみたいだけど」
    「まあ。よく来てるし」
    「へえ……?」
    「あー……えっと、ここにいる間は悪いことはしないって約束の上で……」
    「なら、今のはどう説明しようか?」
    「それは……」
    ダーリンを、虐めている。
    特に低くはない怒りの沸点が突破する。原因は俺とかそういうのは見ないふりをするが、こいつの得意技によって漂泊者が困っているのは明白である。こいつは漂泊者に感謝こそすれこういう加害をする立場ではないはずだ。何度も救われてきた身でありながらこの態度と行為は目に余る。恩を仇で返す。何度も見てきた。その行為が漂泊者を英雄に仕立て上げているというのが何故分からない?
    湧き上がる怒りと憎悪が血よりも早く体を巡る。抑えられない感情の高まりが身を焦がす。鼻を擽ぐる茶の匂いが慣れた大火の余燼に変わる。
    こいつを殺す。殺さなければならない。殺さないといけない。殺さないと駄目だ。殺さないと。そうしないと漂泊者がずっとこうやって搾取されて彼本来の幸せを知ることができない。だから殺さないと。俺がしないと。
    「こら!」
    憤怒の熱で真っ赤になっていた視界が、漂泊者による叱責と頬をつねられた痛さでクリアになる。
    「長離は俺の友人の1人だよ。あなたが認めなくても」
    「……だって」
    「あと、家が壊れる」
    「……でも」
    「そして脱獄は悪いことだろ」
    「…………いじわるを言うな」
    「全て事実だ」
    下から見上げてくる金色の瞳は半分しか見えなくなって、俺の両頬を躊躇いなくつまんでくる。身体的には痛くも痒くもないが、心がちくちくと針で刺されたように苛まれて苦しい。漂泊者のためを思ったのに、なんて恩着せがましいことをいうつもりは無いが、そうであっても彼のことを思って湧き上がった怒りだと言うのに否定されるのはやはり堪えるものがある。身内にだけは優しい彼が友人を殺される場面を忌避するのはわかっていたが、それでも俺の気持ちを少しくらい汲んでくれても良いじゃないかと思わなくもない。
    確かに人を殺すのも家を燃やすのも脱獄だって悪いことかもしれないが、でも全部漂泊者を守ろうとした混じりっ気のない本心からの行動だと言うのはわかってほしい……と言うのは傲慢だろうか。
    少し泣きそうになっていたのを意地の悪い笑い声を聞いて涙が引っ込む。視線をその音の発生源へ向けると、長離が楽しそうに俺を見ていた。
    「そろそろ妾はお暇させてもらおうか」
    「ごめん。気を遣わせた」
    「いいよ。相談は済んだし、ね」
    俺の右頬をつまみながら漂泊者は顔を長離へ向ける。俺だけ見ていれば良いのに。
    「あなたの制止なら利くみたいだしこの家を出ないと約束できるなら今回だけは目を瞑ってあげる。子供みたいに泣きそうになっているのを見ると妾でも多少の情が芽生えるというものよ」
    「お前の情けはいらないが、命なら貰ってやってもいいぜ」
    「こら!」
    強めに右頬が引っ張られた。少しだけ痛い。この痛みの原因は目の前で楽しそうに笑う女のせいだが、こいつに危害を加えることは禁じられてしまった。やるせない感情が燻る。燻り切らなかった熱は両手を上げさせたが、漂泊者の体に回すことで熱を逃すことにした。
    「じゃあね、漂泊者。また改めて話すとしよう」
    その余裕は相手に弱みを見せないための策の一つであることはわかっているものの、見え透いたそれに対抗することもできず玄関から退室する尾羽を睨みつけることしかできなかった。


    「どうしてあなたが拗ねるんだ」
    と呆れながらも、ベッドに転がりながら漂泊者の太ももを枕にする俺の頭を撫でてくれる優しさはあるらしい。これくらいはしてもらわないとぽこぽこと湧き上がる不満は収まらない。
    言うなれば浮気現場なのだ。俺という妻がいながら、他人を家に上げてそれどころか楽しげに談笑をしていたなんて立派な浮気だ。それも俺を陥れた張本人の1人だというのだから何の当てつけかと思う。例え漂泊者が相手であってもぽこぽこ怒りの泡が湧き上がって脳みその中で破裂を繰り返すことになっている。
    ぽこぽこ。ぷんぷん。
    漂泊者がリナシータで買ってきたというミス・ロンリーなる音骸を模したぬいぐるみをぎゅっと抱いて漂泊者に仕返しをしたくなる気持ちを我慢する。
    本当は漂泊者の頬をつねり返したいし、浮気の追及もしたいし、ごめんなさいくらい言ってくれても良いだろって怒りたいけど、ぬいぐるみを抱きしめてさっきの漂泊者と同じ目で睨むだけで我慢する。
    別に喧嘩しにきたわけじゃない。部屋の掃除をしたり、疲れている漂泊者を労ったり、彼の好きな食べ物だけが並べられた食卓で一緒に食事をしたり、そういうことがしたかっただけなんだ。
    感情で暴走してばかりだなんて他の監察によく言われていたものだがとんでもない。目的と手段を間違えるほど馬鹿でもない。確かに手段は例えばクリストフォロが好むようなものではないかもしれないがそれでもそこの区別が付くくらいには理性はまだ焼き切れていない。
    だからちょっとした我儘を聞いてもらって、俺も俺でなんとか怒りを鎮めようと頑張っている。
    自分で言うのもなんだが、こんなに出来た妻の第一候補がここまで尽くしていると言うのに何故結婚をしてくれないのだろうか。家事のスキルも上がってきたし、彼の好きな味付けに沿った料理も作れるようになった。夜だって好みのプレイに合わせられるようにしてるし、俺がしたくても彼が疲れてしたくない時は我慢して抱き枕に徹することだってある。普通なら好きになってくれても十分なんじゃないだろうか。
    「いじわる」
    「俺が?」
    「あの女以外に他の人間がここにいるのか?」
    「いないよ」
    「ならわかるだろう」
    ぬいぐるみをベッドの端に投げて、今度は両手の中に漂泊者の体を収める。着痩せする体質、というのだろうか。いつもの服より厚手な部屋着の上から漂泊者の腹へ顔を埋めると無駄のない固い筋肉が出迎えてくれる。安らぎを得るものは柔らかく丸みを帯びたものが鉄板ではあるが、漂泊者の腹筋においては例外が適用される。これを堪能できるのは俺だけなのだという小さなリードが俺の怒りを鎮めてくれる。
    「う〜……」
    額をぐりぐりと押し付けたら笑い声が降り掛かった。怒りよりも喜びが上回ってしまった。怒りが治ったわけではないがそれを遥かに超える幸せが俺の脳を書き換えていく。あまりにも単純な思考回路に自分でも呆れるが、ふわふわとしてきた気分は悪くない。
    「スカーの中だと俺は何をしたことになっているんだ?」
    「浮気」
    「長離と密会したことになっているのか?」
    「事実だろ」
    「彼女は友人だよ。それに俺が依頼と相談したいことがあって招いたんだ」
    「相談なら俺だってできる」
    「今州の治安と残像に対する警備の相談だ。あなたには出来ないんじゃないか」
    「出来ないけど出来る」
    子供みたいなことを言うと漂泊者はまた笑って俺の耳朶をつまんで遊び始めた。くすぐったくて頭を振ったのに漂泊者は俺の耳で遊ぶのをやめない。耳の溝をなぞったり、ピアスに指を引っ掛けて持ち上げたり。好き勝手に弄ばれていることに少しの敗北感と大きな喜びが胸を満たしていく。
    「珍しいな。いつもならただの友人なら気にしないと言っていつも通り振る舞うのに」
    それは俺も思っている。何故ここまで嫉妬が俺を支配しているのか。
    いつもならどいつもこいつも漂泊者を漂泊者個人として扱わないでただの便利な駒として扱うような奴らに何の引け目も感じないのに。今日に限ってはどうしてだか心がざわついて落ち着かない。
    「……自分でもよくわからない」
    体重を軽く押し付けると彼は簡単にベッドに転がってしまった。その上を這って漂泊者の首筋に顔を埋める。嗅ぎ慣れたシャンプーと柔軟剤の匂いが肺に入り込む。彼は俺の後頭部と背中に手を回し、子供をあやすように撫でてくる。子供扱いされるのは多少なりむっとするところではあるが、こと漂泊者においては自覚がなくとも俺も含めたほとんどの存在が子供同然なのだろう。それに撫でられるのは嫌じゃない。
    悲劇の恋を自称してはいないが、それでも一応、勢力図的には、心外ではあるが、俺はそんなこと微塵も思っていないが、俺と漂泊者は敵対している。と言うのに簡単に押し倒されてくれるし、首に顔を埋めて抱きついても背中を撫でるだけで引き剥がそうとはしない。この家の中においての信頼は勝ち取っていると言うことなのだろう。それは素直に嬉しい。俺の努力が身を結んだ証拠だ。
    だが、何故かそれだけじゃ満足できない。何かが足りないのだ。
    残星組織に加わってくれないことじゃない。友情という利用価値にばかり目を向けることじゃない。
    もっと根本的で単純な何かが足りないのだ。
    背中を撫でる手が10往復したところで一つの天啓が降りてきた。
    「わかった」
    上体を起こして俺を見上げる金色を見つめ返す。俺の言葉を待っていて彼は何も言わない。
    「好きって言ってもらったことがない」
    言葉が全てというわけではないが。
    敵対しあっているのに抱き合ったり作った食事を食べたりしているのはそれに応じた感情があるという証左だというのはわかっているが。
    それでもこの二文字はそれなりの重みを持つ。
    俺の下で、俺の目の色が映る金色が何度か瞼によって遮られる。意味ありげな沈黙が寝室を支配しているのが気に食わなくて、ベッドの上でうねる漂泊者の髪に手を伸ばして何となく彼の首の上に置いてみた。
    漂泊者は一瞬だけ目を上にそらしてから。
    「そうだったっけ」
    「ない。お前がくれた言葉はほとんど記憶しているが、好きとか愛してるとか、好意を表す言葉をもらったことがない」
    そうだったっけ、というのは些か失礼というか、無頓着すぎやしないだろうか。
    はあ、と目の前で大袈裟にため息をつくとムッとされた。この無自覚さに関しては漂泊者に関わってきた他の連中にも同情する。どれだけ全力で好意を伝えても「そうだったっけ」なのだ。俺が漂泊者に好意を伝えるのは見返りを求めているからじゃない。俺がそうしたいからしている。だからそこの等価となるものを求めることはないにしろもうちょっとこう……何かあるだろ。
    「愛情がなければできない事もたくさんしてもらったがやはり言葉は欲しいものだぜ」
    「なら、今言おうか?」
    「それは違う」
    動き始めた薄い唇を指で静止させる。
    言葉が欲しい。その感情に嘘偽りはない。だが、額面通りでは困る。嫌だ。
    そこに相応の感情がなければただ文字を口にしただけだ。それを言葉にするのは別に誰だってできる。無感情に2音を口にするのなら嫌い合っているものですらできなくもない。しかし俺が求めているのはそうじゃない。
    だから。
    「もっと頑張って好きになってもらう」
    そう宣言してキスをする。漂泊者は俺の下で目をぱちぱちさせている。
    「好きと言ってくれればきっと俺は嫉妬しなくなる。だって言葉の効力というのは思っている以上に強い。それに言葉に出す、表現するというのは一種の契約だ。契約破棄の手順を正しく踏まないで浮気や密会なんてしてみろ、今回の比じゃないくらい怒る権利を得ることになる」
    一気に語ってみると漂泊者は少し考えた素振りを見せた後、俺の背中に両手を回してから器用にぐるりと回転し、上下を反転させた。つまり、今度は俺が漂泊者の下で目をぱちぱちさせることになった。
    「構わないけど、それは俺も適用される契約ということでいいんだな?」
    「俺が浮気をするとでも?疑われるほどにしか伝わっていないのであれば悲しいな」
    「確かに。あなたに限ってはないかも」
    いつもは金の髪留めで束ねている髪が、今は自由に肩から滑り落ちている。さらさらと黒羽のカーテンが俺と漂泊者だけの空間を生み出す。金の双眸が相異の目を見つめて笑っている。この表情はこの空間でしか見られない。
    「個人的な感情はそれと割り切るつもりだ。あなたへの好意が強くなったからと言って残星組織に与することはない」
    「えー」
    「そうやってふざける程度にはわかっていたんだろう?」
    言われた通りだけど。個人と対局を区別して立ち回ることができるからこそ、これまでの彼があるのも事実だけど。
    それでもちょっと気持ちが揺れ動くくらいしてほしいものだ。
    「逆にあなたが俺たちの仲間になればいいんじゃないか?こうやって隠れて会うのも飽きただろ?」
    「それだけはない。それこそわかっていただろ」
    余裕そうな漂泊者の眉間に薄い皺が一つ入った。そこを人差し指でぐにぐに揉んで皺を消してやる。
    「むしろそういう戦力図なんてものを考えない今の方がいいだろう?お互いの感情が全て打算になるなんてごめんだ。お前は、いや、お前を操ろうとしているものはわからないが、少なくとも俺は嘘偽りなく真摯に漂泊者へ自分の気持ちを伝えている」
    漂泊者が俺たちと一緒に来てくれるならそれは何よりも嬉しい誤算だが誤算でしかないのだ。彼はまだ自分とその過去をわかっていないし、俺としても彼の意思を持って俺の手を取ってほしい。その意思を構成する要素は好悪だけでは困る。彼の覚悟と決断を持って来てくれなければ俺の望みを理解してもらうことはできない。
    「あなたは変わらないな」
    「激情が俺をこうさせたんだ。怒りも憎悪も愛情も激しく燃えるものに違いはない」
    呆れたような笑顔を見せる漂泊者の背中に両手を回して抱きしめる。とくとくと力強い鼓動が聞こえる。これをいつでも聞けるようにするためには必要な言葉なのだ。
    と、俺の熱を半分くらいしかわかってなさそうに頭を撫でてくる漂泊者に対して思った。
    「さあ、遅くなったが休日を再開させよう。今日は何を食べたい?リナシータの料理だって構わないぜ」
    「あなたの熱意には驚かされてばかりだ」


    そうやって。
    漂泊者が音骸データの整理をする横で洗濯物を畳んだり、バッグの素材を整理や武器の強化をしているのを邪魔しないように掃除したり、漂泊者が集めた食材と冷蔵庫のものを見て考えて豪華な料理で食卓をいっぱいにしたり。
    時間が取られた分いつもより会話ができなかったが、漂泊者からありがとうと美味しいをもらえたので良しとする。こういう言葉なら簡単に言ってくれるんだがな。欲しいものは簡単に手に入らないからこそ欲しくなるのもわかるが、あまりにも難しすぎる。
    ため息を細く鋭くお湯の中に吐き出す。ぶくぶくと気泡が湯船に生まれてはぱちぱちと小さな水飛沫と一緒に消えていく。それを見たからと行って気分が晴れるわけじゃない。
    「機嫌悪そう」
    そう笑いながら湯船に足を入れる漂泊者に向かって両手を広げる。いつもの事だから彼も慣れたようにそこに収まってくれた。本当は抱きしめられる方が好きではあるんだが、そうなると俺の体に残って消えない傷痕を晒してしまうことになる。一緒にお風呂に入ってリラックスしたいが傷はあまり見られたくない。名誉の負傷であればよかったんだが、俺に残るこれはすべからくが俺を陥れ、破滅させた罪禍の余燼だ。だから少しでも彼の視界にそれが入らないようにするにはこうしかない。
    服を脱ぐ前に束ねてあげた髪が頬にチクチクと刺さる。うーむ、髪が少し傷んでいるのかもしれないな。自分に対して無頓着なのは感情だけじゃなく体についてもそうだ。どうせ家の風呂に入る時も普段は束ねてお湯に浸からないように、なんてしていないし、トリートメントも湯上がりのドライもそこまでちゃんとしていないのだろう。髪が濡れたままだと傷みやすくなると前言ったばかりなのに。
    俺に体重を預けてちょうどいい背もたれのようにしてくる漂泊者を抱きかかえる。
    まだ好きって言ってもらってない。
    つまりいつも通り頑張っただけでは駄目なのだ。なんて贅沢なんだ。普通ならもう10回くらいは好きと言われていてもおかしくないはずのことをしていると思うんだが。まあ、漂泊者に普通を求めるのも酷ではあるか。
    純粋にそうしたいという気持ちと少しの恨みで体温の上昇によって赤くなった耳をかじる。ちょっと上下の前歯で挟んでガジガジするだけ。痛みどころか傷も残らない。だから「こら」と日中も聞いた二文字で諌められて、彼の腹に回った俺の手をつついて静止しようとしてくる。
    素直に従ってあげてチクチクする髪に鼻先を埋めてぎゅーっと抱きしめた。濡れた手が回ってきて俺の髪に水を含ませてくる。
    髪に吸われなかった分の水滴が毛先から頬へ伝う。こそばゆくて気になったが漂泊者を離したくないのでそのまま雫が湯船に落ちるのを待つ。
    「何をすれば好きと言ってくれるのか、流石の俺にもわからなくなってきた」
    「宣言された手前、俺の言いにくくなってるところはあると思う」
    「言わなければよかったか?それはそれで不義理な気がする」
    「あなたがそれを言う?」
    う、痛いところを突かれた気がする。
    仕方のない顛末だったとはいえ記憶を失った漂泊者が悪いのだ。もう少しでも何か覚えていれば俺だって伝えられることはもっとあったはずなのだ。だから俺が悪いとか、そういう問題ではない……多分。
    俺の急所に寸分違わず言葉の刃を突き立てた本人は気付かずにふわぁ、と呑気にあくびをしている。改めて考えるが、微塵も思っていないが、今のこの状況は何かの間違いだが、本来あるべき形ではないと考えているが、俺たちは敵対しているのである。他の関係から断絶されたこの空間でのみ釣り合う脆い均衡の上で成り立つ砂上の天秤でしかなく、ひとたび足を玄関より外に出せば互いのしがらみと思想によって再び刃を交えることだってあり得るのだ。俺が望んでいなくても周りがそうしろと彼を操っている。そういう状況下でありながら、ある種の宿敵に防具どころか服すら纏わず、全体重を任せて急所である首元を晒しておいて呑気に欠伸をしている。
    俺だって常に理性が焼き切れているわけじゃない。皮一枚程度ではあるが理性の抜け殻くらいは脳の端にある。その唯一の廃材みたいな理性が漂泊者は普通じゃないと訴えている。当たり前だ。普通だったらきっとこんな傾いた天秤のような関係は続けないだろうし、そもそも俺についてこれないと思う。やはり似た者同士なのだと確信する。外れた螺子の場所は違うのに再現される挙動が一緒だ。それを肯定するのが俺で、否定するのが漂泊者。ただそれだけの差。
    ふぁ、とまた欠伸が聞こえて頭すら俺の肩に乗せてきた。上目使いで俺を見てくるのでじっと見つめ返したら笑われた。
    「何だ?」
    「今日は珍しく静かだなと思って」
    「へえ?いつもは静かにって言ってくるくせに。うるさい方が良かったか?」
    「あなたは0か100しかないんだ。ちょうど中間の50で話してくれればいいのに」
    「残念ながら出来ない相談だな」
    「わかってるよ」
    と言って眠そうに目をぎゅっと瞑って瞬きを繰り返した。眠気で閉じられる瞼を無理矢理動かして刺激を与えているような仕草だ。
    考え事をしていて気付かなかったが、漂泊者の耳や頬は血行が良くなって随分血の色が透けて見えるようになっていた。問題ないどころかこのままだと眠気と逆上せで最悪のコンディションに陥るだけだろう。
    体を少しだけ押し返して言葉もなく起き上がって湯船から出ろと伝える。寸分違わず意思が疎通した漂泊者は俺に湯がかからないように窮屈な伸びをしてから浴槽を出た。
    「全身全て洗ってやるよ。特に髪。どうせ毎日適当にしかケアしてないんだろう」
    「ちゃんと洗ってるし、もらったトリートメントは毎日使うようにしてる」
    「使い方がなってないんだ。ほら、座って前を向いてくれ」
    座椅子に座った漂泊者の後ろに立ち、渡されたシャワーヘッドから適温の湯が出るのを待つ。その間に彼は乱雑に束ねた髪を解き、濡れた背中に黒がペタリと張り付いた。それを根本から掬って毛先からゆっくり湯をかけていく。
    「湯でしっかり髪の表面の汚れを落とす。そうしないとシャンプーの泡立ちも悪くなる」
    「泡立ちが悪いと摩擦で髪が傷付く、だったか。覚えてるよ」
    「覚えているなら実行して欲しいもんだな」
    「やってるつもりだ。あなたほど器用じゃないだけ」
    これを何のしがらみもなく、誰に縛られるでもなく、俺も漂泊者も誰かに利用されて搾取されることのない世界でしたかった。誰からも何も奪われることなく、醜悪なシステムに組み込まれることもなく、心から笑う世界でしたかった。
    俺の願いとしてはただそれだけなのに何故か理解をしてくれない。
    わからずやの石頭をしっかり濡らしきってからシャンプーを手に取り、毛先から塗布して泡立てていく。爪を立てないように頭皮マッサージも兼ねて指の腹で洗っていくと、水滴で細くクリアになった鏡越しで目が合った。
    「あなたは変だ」
    「今更だな」
    「そうでもない。少なくとも俺の“変”と周りの“変”の意味は違うと思う」
    「そうか?」
    「だって、他の人は敵である俺を親みたいに叱る監察なんて知りもしないだろう」
    「知っていてほしかった?」
    お前の信じる仲間という幻想と足並みを揃えるために。
    「それがそうでもないんだ。例えば今やっているシャンプーのお手本、フローヴァにも教えているのか?」
    「まさか。勝手にすればいい」
    「そこにホッとするんだ」
    それって。
    次の言葉を口に出そうとした時、鏡越しの金色は見えなくなった。
    今日はいつもより眠そうだ。無茶な依頼を安請負するからだぞ。急いで泡をシャワーで流し、毛の間に指を潜らせて洗い残しがないことを確認し、軽く髪の水気を絞ってからトリートメントを塗布していく。
    「俺も洗ってあげようか」
    いつも触って遊ぶ部分に塗り終わった後、唐突に漂泊者が提案をしてきた。
    「ありがたい言葉だが、気持ちだけもらっておこう。先に上がってくれ」
    「……そんなに傷を見られるのは嫌?」
    「ああ。これは俺の罪の証だ。見せびらかすものでもないし、ましてや好きな人に見て欲しいものじゃない」
    「俺は気にしてないけど」
    「俺が嫌なんだ。お前がそれすら愛することのできる器量があるのもわかっているが、それでも好きな人の前ではすこしでも格好をつけたい。子供みたいだって笑わないでくれよ」
    「そんなことはしない。傷のあり方も人それぞれだ。あなたが見せてくれるまで待つ」
    長い髪を梳く手が止まる。きっと漂泊者はそれすら気づいているけど、知らないふりをして前を見続けている。
    結局はそうなのかもしれない。漂泊者が過去を知るまで。記憶を取り戻すまで。そうすれば俺を選んでくれる。
    ……変なところで勘が鋭いのがムカつくし好きなので困る。ムカつくので意地悪としてもう少し丁寧に髪に塗り込んでやることにした。ちょっと湯冷めしてしまえ。それから三日三晩俺に看病されればいいんだ。


    漂泊者は俺より少し小柄なので服を借りると寝苦しくなる。極秘脱獄を繰り返す身なので買い物なんてものを気軽にできず、風呂上がりはタオル一枚を巻いて過ごしていたらいつの間にか俺のサイズにあった部屋着が用意されていた。デバイスで調べたらリナシータで少し有名なブランドのものだった。曰く、現地で仲良くなった友人のおすすめのブランドだったとかなんとか。
    ……今更ながらだが、何故こんなにも俺に愛情を向けられていながらもこうなっているのかは理解できないが。
    ふと沸いた疑念が証拠を飲み込んで少しずつその熱を増していく。パチパチなんて音ではなくモヤモヤというやり切れない音を立てて俺の心をぼんやりと灯していく。普通ならそんなことはありえないが、喜ばしくも残念なことに相手は漂泊者なのだ。その可能性は零ではない。
    2人で広くもないベッドに乗り上げ、ドライヤーで完全に乾いた髪を丁寧に梳いてやる。いつもなら早く寝かせてやろうと思うのだが今日はそうもいかない。無理をさせるつもりはないがほんの少しだけ我儘に付き合ってもらう。
    「どう?好きになってくれたか?好きって言いたくなった?」
    ヘアブラシをサイドボードの方へ投げて、ガラ空きの背後から抱きつく。んー?と気の抜けた返事だけが俺を迎えた。
    「確かに俺たちは敵対している。俺は令尹に罪を問われて獄中の身ではあるし、お前は俺をそうさせるために陥れた。だが、この空間においてはそのしがらみを捨ててくれ。捨てられないなら頭の外に一旦置いておけ。ただここにいる俺とお前、この2人だけを見た時、お前は俺をどう思う?」
    ドアを一枚隔てた先の家電の稼働音が静寂を微かに汚す。言葉だけがない空間でも十分な戸惑いが伝わるほどには漂泊者の目が歪んでいく。
    「なら、問い方を変えよう。この関係に当てはまる言葉の意味をお前は知っているか」
    「…………いや、スカー。それは流石の俺だって」
    「ならば言ってくれ。お前の胸中にある感情に言語を当て嵌めろ。サンプルはこれまでにもたくさん見せてきた」
    ほら、と隣に寝転んで見上げる。俺の首元の音痕に手のひらを重ねられて力を入れられたら簡単に死ねる。でも今はそれをしない。その選択肢すらきっと頭に思い浮かんでいない。俺の言葉を単なるまやかしとして吐き捨てられなくなっている。
    「…………」
    「流石の俺でも堪えるよ。ああ、ちくしょう。辛いな」
    まさか友愛以外を知らないとは思わなかったよ。
    恋慕を、愛寵を、慕情を、恋着を知らないとは思わなかった。特定の誰かを特別扱いすることを知らないとは思わなかった。感覚では知っているのかもしれない。そうでないと理由がつかない事ばかりこの空間で繰り返してきた。だがそれを言葉にできるほど彼は。
    酷い奴だと一瞬過ったとも。だがすぐに考えを改めた。英雄には何かを特別扱いをする機能なんて不要だからかもしれないから。
    英雄は公共物だ。公共の使い勝手のいい駒だ。だから英雄として祀り上げられる運命の連鎖から漂泊者を解放したかった。好きだから。好きな人が使い潰されて最後には捨てて燃やされる運命なんて誰も見たくないだろう。だからもう炎は見なくて済むようにしたいだけなんだ。大好きだから。
    「好きだ、愛してる。漂泊者。この世界でたった2人だけの黒山羊。そっくりなところも好きだし、そうじゃないところもどうしようもなく愛している。この意味がわかるか?」
    「わかってる、つもり」
    「そう、つもりなんだ。つもりでしかないんだよ」
    だらりと下がっている腕を引っ張ると簡単に俺の眼前に綺麗な月が二つ堕ちてきた。
    「好きを知った時、お前はきっとようやく1人の人間として生きられるんだろうな」
    「お得意の回りくどい例え話か?」
    「茶化すな。事実だ」
    不用心に隙間を開けている口を代わりに塞いでやった。
    「俺はずっと本音しか伝えていない」
    曇る陰のない金の双眸を見つめて言葉を連ねる。
    「だけど全てじゃないだろう?」
    笑いながら放たれる彼が彼たるその鋭い洞察に言葉を窮する。
    「ネタバレが好みなら言ってやってもいい」
    「それがまやかしじゃないこともなんとなくわかるよ。でも俺は目の前で困っている人を無視して進むことはできない」
    「そこは嫌いだ」
    今日初めて漂泊者から目を逸らした。手を枕元に伸ばして、座らせていたミス・ロンリーのぬいぐるみを手繰り寄せて額を押し付ける。いつもは漂泊者の方から目を逸らしてくるのに、こういう時に限って、いや、俺にだけはそれを許してくれない。
    無理矢理顔を向かされることはなくても、その存在を示すように俺を抱き枕のようにして背中に抱きついてきた。
    「とはいえ、珍しく弱っているあなたは来るものがあった」
    「……驚いた。確かにこの前のプレイも激しかったがやっぱり」
    「そういうのを引き合いに出さないでほしい」
    「へんたい」
    「あなたにだけは言われたくない」
    まあ、今ではないのだろう。取り戻した記憶も永い刻のほんの僅かでしかないし、この世界の本質を見定める判断材料すら手元にない。全てがわかれば俺の手を取るという自信は揺るがない。
    「待つのは嫌いだが苦手じゃないんだ」
    「あなたはいつも回りくどい」
    「一本道を教えてやったのにお前がわざと見えないようにしているだけだ」
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