※PVの黒い相里要が双子の弟、漂泊者♀が妹設定
夕方。電車が止まる。扉が開いて乗客がどんどん乗り込んでくる。
参考書から顔を上げて乗客の波を見た。
あ、今日もいた。
黒い髪を揺らして乗ってくる男子学生を目で追う。彼は僕がいるドアの左側の反対、つまり右側が定位置になっていて、いつもそこでスマホを触ったり立って寝たりしている。
彼について、制服と利用している駅から僕が通っているところとは違う学校に通っていて、髪と目が綺麗なことしか知らない。名前も学年も知らないし、話したこともない。
あ。あと、家の最寄り駅が一緒。
知っているのはそれくらい。
でも、同じ高校生で、同じ電車で、同じ駅を利用していて、同じような場所にいつもいるというだけで妙に親近感が湧いてしまって、彼を見かけるたびに嬉しくなってしまう。
今日はどんな日を過ごしたのかな。どんな授業を受けたのかな。明日も同じ電車に乗るかな。
……なんて、一人で思ってしまう。
仲良くなりたくないわけじゃない。でも切っ掛けも無いし、逆に話しかけたらいつも見てきてた不審者だって思われそうだし。
そう思って目を参考書に戻す。でも内容が頭に入ってこない。難しい解説が書かれている訳じゃないのに、目が字を追うだけでインプットがされない。
ふと我に返る。
どうしてこんなに彼が気になるんだろう。
彼のパーソナリティーどころか、声すら知らない。なのに、いつも目で追ってしまうし、仲良くなりたいけど足踏みをしてしまう。別に過度に口下手というわけでもないしのに。
というか他にも彼と同じ学校の生徒もこの電車を利用しているのに、何故彼だけ意識してしまうのだろうか。
参考書を少しだけ下げて彼を見る。
イヤホンを付けて目を閉じて壁に寄りかかっていた。
あまり寝ていなかったのかな。勉強してた?それともゲーム?友達と通話とかかな。
どんな話をしたんだろう。
……いやいや、何を気になっているんだ。
僕と彼は他人だし、何の関係もない。
……ない、のに。
電車のアナウンスが車内に響いた。あと2駅で僕たちの最寄り駅に到着する。そうすれば互いに人ごみの流れに従って電車を降りて、改札を出て、それぞれ家に向かって歩いて帰る。明日の朝登校するまで彼を見ることはない。
目をぎゅっと瞑って参考書で顔を隠す。
あとほんの少しだけでもいいからこの時間が続けば、なんて一瞬でも思ってしまった。どうしたんだろう、僕。こんなこと経験したことが無い。そのせいか自分の感情の分析もできない。
明日、学校で心理学の本でも借りようかな。そうしたらこの正体不明のモヤモヤの姿も見えるかもしれない。
この電車での時間は続けばいいのにと思うのに、原因究明を求める自分は早く明日になれと願っていた。
家を出たら土砂降りだった。傘を開いて水たまりを避けて駅に向かう。
雨が降ると電車に乗る人も増えるのが少しだけ億劫だ。普段もそれなりの乗車率だというのに体感1.2倍くらい増える。みんな生活があるから仕方のないことだとはわかっているけど、朝から圧迫感に耐える時間があるのは憂鬱だ。
いつも通り改札に定期をかざしてホームに向かう。いつもの車両に乗る列に並ぶ。顔を上げて電光掲示板を見ると数分の遅延が発生していることがアナウンスされていた。まあ、少しくらいなら余裕もあるし問題ない。
参考書を読むにしても10分もすれば電車も来るし、車内で開ける余裕もなさそうだ。
手持ち無沙汰になってスマホで今日の天気を調べて時間を潰していると。
隣に彼が並んだ。
別におかしいことじゃない。同じ電車で同じ車両で同じような場所に乗るんだし。
心拍数が上がるのを感じる。
精神についての資料を読んだけどストレスによる反応だという事はわかった。彼を見るたびにストレスを感じている?そんなことない。だけど、心拍数の上昇や体温の異常、体が少し強張ったり、目が泳いでしまうのは資料に書いてあった通りで。
彼を恐れてる?そんなことはない。恐れるほど交流もしてない。
だとしたら何なんだろう?ストレス以外……確認した資料が目的に合致してなかったのかな。また調べ直しだ。
と、一人でぐるぐる考えていたら電車がやってきた。心は落ち着かないのに体はいつも通り動いて電車に乗り込む。僕の定位置は空いていて、そこにいつも通り変わりなく進んでいってドアに背中を向ける。ドアが閉まったらそこに体重を預けて静かに到着を待とうと。
思っていたのに。
目の前に彼が立っていた。不測の事態に声が出そうになったけど制定バッグをぎゅっと握って耐えた。
どうして。
彼は、満員電車だからギリギリ僕に触れない程度の距離を保って窮屈そうにスマホを触っている。僕のことなんか見てないし、気にしていない。
目だけを動かして彼がいつもいる場所を見ると既に誰かが立っていた。車両の右側の方が少し人口密度が高い。
おそらく、いつもの場所かその近くに行こうとしたら人がいっぱいで、比較的に空いていたこちら側に来た、のだろう。
考えればすぐわかることで、特別不思議なことでもなくて、誰でも納得する行動なのに。
心の中はずっとどうして?ばかり湧き上がる。こんな精神状態の時にこんなことが起きなくたっていいじゃないか。せめてこの正体の解らない高揚感が判明してからでもいいじゃないか。せめて明日、いや今日の帰りでもいいから。今日調べるつもりだったのに、どうしてこのタイミングで。
そういった時に限って予想外のことは連発する。
電車が急ブレーキを踏んだ。車内にも微かに高いブレーキ音が響く。慣性の法則で車内にいる人は皆よろけた。
それは僕も彼も変わらなくて、僕はドアにもたれかかっていたから少し重心が動くだけで済んだけど、目の前の彼はその程度では済まなくて、それに他の乗客にも押されてしまって。
僕の顔の横に手をついた。その分距離も近くなってバッグを抱えた手が彼の服に触れていた。
「……すみません」
少し低くて落ち着いた声がした。それが彼の声だと気付くのに時間がかかった。
「大、丈夫です」
少しつっかえながら返事をする。
想像してたよりも優しい声だった。すごく近くにいる。近くで喋りかけられた。
パニックになりそうになったけど車内アナウンスが聞こえて少し冷静になった。どうやら線路点検のために急停車、再出発まで少し時間がかかるらしい。
流石にそうなると遅刻してしまうかな、遅延証明書を貰わないと。ああ、弟はあと2本遅い電車に乗るけど、彼の方にも影響が出るかもしれない。遅延証明書を貰えたからってそれを言い訳に寄り道をしないといいけど。
見た目こそそっくりだけど性格は全然違う双子の弟のことが思い浮かんでパニックも落ち着いてきた。
冷静になると周りも見えてくるようになって、僕の顔の横に着いた彼の手が少し震えているのに気付いた。顔も少し険しくて無理をしていそうだった。
すぐに再出発するわけでもないし、なんなら15分は動くことはないだろう。
「あの」
彼の綺麗な目を見て、バッグを抱える手に力を込めて。
「もう少しこっちに寄りますか?大変そう、ですよね?」
「いや、でも」
「少しだけなら後ろに行けるので」
ほんの数センチだけだけどすり足でドアの方にもっと寄る。背中がぴったりと冷たいガラスにくっつく。バッグも抱え直して少しでも彼のスペースを作れるようにした。
「ありがとう」
僕が動いた分だけ彼が近づく。同じ距離を移動しただけだから近付いてはいないのに、さっきよりも距離が近くなった気がする。顔もよく見えるし、彼の体温を感じるし、綺麗な目に反射する僕が見えるくらい近くて。
心臓の音がうるさくて他の乗客の話し声も車内アナウンスも何も聞こえない。視界がぐるぐるする。それなのに彼の「狭くない?」という声は世界で一番綺麗に、鮮明に聞こえる。
「大丈夫……」
短く答えるので精いっぱい。喉がつっかえて、引っかかって、うまく声が出ない。
冷たく聞こえなかったかな。そんなつもりはないのに。
彼はそれに対して「良かった」と笑ってからちらりといつもの場所を見た。笑わないと少しだけぶっきらぼうに見えるのに、笑った途端目尻が下がって人懐っこい表情に変わった。
「いつもの場所、他の人がいたから……今日は雨で人も多いし。あなたの場所しか空いてなかった」
知ってたんだ。僕がいつも反対側にいること。
ぶわ、と顔から頭の先まで熱が走った。嬉しいのと、照れと、恥ずかしと……何だろう、変な感じだ。でも、ポジティブな感情であることは間違いないから嫌な感じはしない。初めてなくらいむず痒いけど……。
「知ってた、の……?」
「うん。隣の超進学校の制服だ、と思って。あとすごく格好いいからすぐ目に入ったというか」
「格好良い……?」
「あ、失礼だった?」
「ぜ、全然……ありが、とう……?」
成績のことはよく言われるけど、見た目について褒められたのは小さい時以来で嬉しいより照れてしまう。
あ、これだけ顔が熱いってことは顔は赤くなってないかな。僕がいつも一緒の電車に乗ってるのを知ってくれてたというだけで嬉しくなってるのがバレるのはものすごく恥ずかしい。
冷静に、冷静に。何度も心の中で唱えるのに全然落ち着いてくれない。
「大丈夫?苦しい?」
バレてる……!
心配そうに見てくれる目に後ろめたさを感じてとっさに逸らしてしまう。
「……ううん、それは大丈夫だよ。でもちょっと暑いかな」
頭をフル回転させて誤魔化しながら笑った。苦し紛れの言い訳だけど、実際に人口密度と空調が嚙み合っていなくて車内の温度はいつもより高めだった。外が雨なのもあって湿度も高く、暑さを感じやすい状況ではある。
だから彼もそれを信じてくれて「そうだな」と頷いた。バレなくてよかった。ホッとして視線を下に向ける。
耳を澄ますと彼の息遣いが聞こえる。もしかしたら心臓の音だって……?
「雨、すごいな」
「そうだね」
なんでもない言葉なのに、きっと沈黙が居心地悪くて言った言葉だろうに、それだけで心臓が暴れそうなくらい動いている。
「……………」
「……………」
何か喋ってほしい。話しかけられたら答えられないくらい息が詰まるけれど、静かだとこの心臓の音が彼にまで聞こえてしまいそうで。
だけど、僕からは何も言えなくて。おかしいな、いつもなら当たり障りない世間話くらいできるのに。今は何も頭に思い浮かばない。
「ごめん、もう少しだけそっちに寄ってもいい?後ろ、結構人混みって感じで」
なんてことだ。
今で限界なのに!
だけどまさか、原因不明の動悸がしてそれを聞かれたくないので嫌です、とは言える訳もなく。
「いいよ」
と白々しく答えた。自然と笑って答えられていたらいいんだけど……。
彼は僕の返事を聞いてからまた数センチ僕の方に近寄った。
ああ、僕が機械ならもうオーバーヒートを起こして強制シャットダウンがされているだろう。活動限界を超えたそれを放熱するファンも機能してない、周りも熱が充満して冷めるものも冷めない。
ああ、機械なら良かったのに。そしたらシャットダウンして落ち着いた頃に再起動すれば、その間は何も記録されないのに。
だけど、そんな都合のいいことはなくて、僕は人間でしかなくて。
「さすがに遅刻かな」
「そうだね……なかなか、動かないね」
オーバーヒートしているのに無理に稼働させた脳がまともに動くことも無くて、会話らしい会話が出来ない。ああ、彼に居心地の悪さを感じさせてしまっていたらどうしよう。
彼の会話と呼吸を聴きながら早く動いて、と10分も祈ることになった。運転再開の車内アナウンスが神様の声に聞こえるほどだった。
塾が終わってもう時間は21時。早く帰って、ご飯を食べて、宿題を済ませて予習もして、お風呂に入って。急がないと睡眠時間が削れていく。
塾は知らないことを詳しく知れるから好きだけど、終わると寝るまで急がなきゃいけなくなるのだけがネックだ。塾長がリモート授業を採り入れようかと悩んでいた時に是非、と後押ししたけどあの件は前向きに考えてくれているのかな。
早足でいつもとは違う電車を降りて改札に向かう。
そういえば牛乳を切らしていたっけ。コンビニに寄ってそれだけ買って帰ろう。
改札を出てコンビニへ向かう。コンビニの前では同じ年頃の女の子が数人集まって談笑していた。彼女たちの邪魔にならないように入って、まっすぐ飲み物のコーナーへ。牛乳だけ手に取ってレジで支払い、さて走って帰ろうかな、なんて思いながら退店すると。
「すいませーん」
と、さっきの女の子たちに声をかけられた。
「何ですか?」
なにか困り事だろうか。
家の方向に向いていた足を彼女達の方に変える。
「これからみんなでカラオケに行くんですけど一緒に行きません?」
「……え?」
予想外の言葉に体が固まる。声も出ないし、言われた事を瞬時に理解できなくなった。
「ね?行こうよー」
「いや、あの、僕は……」
「いいじゃん、オールしよ」
「明日、学校……」
「1日くらい休んでもさあ」
どうしたらいいんだろう。こんなこと初めてでなんて返したらいいか分からない。
あ、これは恐怖だ。理解不能な事象に直面した時に起こる現象だ。嫌な感じがする。彼といた時と同じ身体の反応が起こってるのにすごく嫌だ。
きっぱり断らなくては、と思うのに僕が何かを言う前に被せるように彼女たちは畳み掛ける。こういう会話は苦手だ。対処方法が思いつかない。
「えっと、僕は……」
「お待たせ」
突然肩を叩かれてびくりと跳ねた。恐る恐る振り返ると。
「えっ……?」
電車のあの彼がそこに居た。
彼は彼女たちを少し厳しい目で見てから僕の手を握った。
「早く行こう、みんな待ってる」
少しだけ早口でそう言った彼は僕の手を引いて歩き始めた。引っ張られるような形で付いて行く。後ろでさっきの女の子たちが何か言っていたけど、それから逃げるように早歩きで駅から離れていく。
夜だから少しだけ冷たい手が僕の冷えきった手を握る。僕の方が冷たいから暖かく感じるはずなのに、何故か体温が急激に上がって彼の手が冷たく感じる。
駅から離れて住宅街の入口まで歩いた。そこで彼は脚を止めて、僕も同じように止まった。
「大丈夫だった?」
僕の方を向いた彼は少しだけ屈んで僕の目を覗くように見た。さっきのような厳しさはなくて、本当に心配してくれている優しい目だった。
「あ、ありがとう。すごく助かったよ、ああいうのどうしたらいいかわからなくて」
「余計なことしたかと思ったけど、助けになったなら何より」
僕の返事を聞いて彼は笑いかけてくれた。
同じように体が強ばって胸が苦しいのに嬉しくて仕方がない。全然違う。
「どうして駅に……?」
「妹にパシられて」
これ、と彼は小さなレジ袋を僕に見せた。半透明の袋からいくつかのお菓子のカラフルなパッケージが見えた。
まさか同じコンビニに居たとは。牛乳と帰宅で頭がいっぱいになって気付かなかった。
「妹さんがいたんだ」
「うん。ちょっとわがままな奴だけど」
彼のことは何も知らないからそんな些細なことでも驚いてしまう。
僕の反応に彼は笑って答えてくれた。それが嬉しくて僕も同じように話してしまう。
「はは、僕のところも一緒かも。双子なんだけど弟がいてね、ちょっとだけわがまま」
「双子?」
「そう。見た目はそっくりだよ、性格は違うけどね」
「そうなんだ」
彼が歩き始めたからそれに倣うように隣を歩く。こんなことが起こるとは思わなかった。駅と電車以外で出会うなんて。一緒に歩くことが出来るなんて。
ぎこちなく歩いてないかな。また顔が赤くなってるだろうけど夜だからバレないかな。
「それにしても、こんな遅くに帰ってきたのか?」
「あ、うん。塾の帰りで」
「そっか。すごいな」
そういった彼は手を伸ばしてきて。
「……わっ」
僕の頭を撫でた。
数回往復したかと思ったらすぐに手が離れていった。
「ごめん、妹にするくせで」
「……う、ううん、大丈夫。全然、大丈夫。気にしてないよ。……妹さんと仲いい、んだね」
頭が働かない。脳が動いている気がしない。自分が何を発言したのか分からない。
変なことは言ってなかったよね?と思うけど確認する術は無くて、ただ彼がまた謝るのを気にしていないと返すだけだった。
そこから沈黙が数分続いた。今はその沈黙が助かる。多分、何を話しかけられても声が出なかったり、裏返ったり、絶対に普通じゃない反応をしてしまう。
「俺、こっちだから」
住宅街の十字路で彼は僕の家とは反対方向を指さした。
「うん、僕はこっち」
「本当ごめん」
「本当に大丈夫だよ。今日はありがとう」
早口で告げて道を曲がる。
頭、撫でられた。
何も考えられない。沸き上がる感情を分析したいのにそれも出来ない。家に向かうルートは体が覚えてるから脳を介さず歩けているだけ。
彼が触れた髪を自分で触る。自分で触るのと全然違う。同じことを頭にしているはずなのに。
早く寝なきゃいけないのに絶対に寝れない。
今日はホットミルクを多めに飲もう、なんて意味の無いことを思うくらいには混乱していた。
「要、どうかした?」
弟が部屋に入ってきた。相変わらず散らかってるね、と軽い嫌味を言いながらその散らかった部屋に遠慮なく入って僕のベッドに転がった。
「人のベッドに勝手に乗らないでほしいな」
「ここの床みたいに散らかしてないよ」
そう言われると何も言えない。週末は掃除を頑張ろう。……頑張れたらいいな。
弟は枕元に置いてあったグルッポのぬいぐるみを抱えながら椅子に座る僕を見上げた。
「最近の君、変だよ」
と遠慮なくまっすぐに言ってきた。
「そう?具体的にどこ?」
「たまににやけてるし、朝は妙に楽しそうだし、帰る時間もいつも以上に時間通りの電車に乗ろうとしてる」
「……そんなこと」
「あるよ」
食い気味で否定された。
思い当たる節しかない。原因は彼だ。電車でしか会えない、最近少しだけ話すことがあったあの人。
両親は多分気付いていない。子供への愛情が無いわけじゃない2人だけど、だからといって教育に熱心な2人でもない。彼らは彼らなりの仕事があり、その成果の上で僕たちは生活しているから文句もない。もちろん、学者を目指す学生として、両親としてではなく偉大な研究者として尊敬もしている。
だからこそ僕たちはお互いのことを嫌でも良く理解していて、両親がいない間は2人で生活している。
そんな状況なら、僕が逆の立場でも弟に質問したりするだろう。
観念して椅子から立ち上がってベッドに腰かけた。
「体温の上昇、心拍数の増加、身体の軽度の緊張、喉もよく乾く。いつも乗る電車でたまに話す人がいて、彼と会話すると心身に何らかのストレスが掛かっていることは明白なんだけど原因がわからないんだ。君の意見が聞きたい」
弟を見下ろして状況を伝えると、少しだけ目を閉じて考える素振りをしたあと「ああ」と何か得心がいったような声を出した。
「その人のことが好きなんだ?」
「……え?」
「さっき言ってた症状を一言でまとめてあげるよ。ドキドキしてるっていうんだよ」
「いや……でも、そんなまさか」
「否定できる証拠でもある?」
「だって、その、今までほとんど喋ったことはなかったし、話すようになったって言っても片手で収まる程度だし」
「一目惚れしたんだね」
「そっ……う、なのかな」
「状況証拠としては100点満点だね。一目惚れした相手と話すことがあってドキドキしてさらに好きになった、とかじゃないのかな」
「…………」
逃げ道がない。これでもかというくらいの八方塞がりで見事な論破だ。
「僕……好きだったんだ……」
『好き』という単語の持つ意味を自分の中の感情に当てはめていくと気持ちの良いくらいぴったり当てはまる。
朝、彼が同じ列に並んで電車を待っていたら嬉しいし、同じ場所で電車に乗ってるとほっとするし、夕方彼が電車に乗ってきたら嬉しいし、たまに話すことがあったら心臓の拍動がすごくうるさくなって上手く喋れないし、目が合うと息が詰まる気がするし……。
それが全部『彼のことが好きだから』と仮定して当て嵌めていったらこれ以上ないくらい理由が付いてしまう。
ニヤニヤと意地悪な笑みのまま弟が近づいてきて体を起こし、僕と肩を組むようにした。熱くなる頬を両手で冷やしてる僕を下から覗いて嬉しそうに、面白そうに笑ってる。
「要にも青春が来たね」
「からかわないでよ」
「どんな人?教えてほしいな」
「教えないよ。君はそうやってすぐ人をからかうだろう。あの人に迷惑がかかる」
「酷いことを言うんだね。大事な兄の好きな人となったら気になるのが弟だよ」
「どんなことを言われても教えない」
「まあ知ってるけどね」
「…………」
だと思った。
弟が僕の変化に気付いたように、僕も弟のことはよく知っているつもりだ。
わざとらしくこうやって詰め寄ってくるということは全部の答えに見当がついているときだ。産まれる前からずっと一緒だから何だってわかる。
「謎がわかってスッキリしたよ。じゃあ僕は先にお風呂に入るから」
ベッドから立ち上がって床に落ちてるものを避けてドアに向かった弟が振り返って。
「初恋、応援してるよ」
なんて言って部屋を出た。
全部を見透かしたような笑顔を向けられるも、実際全てバレていたから何も言い返せない。
バタン、と扉が閉じられて急に体を支える筋肉が無くなったみたいにぼふ、とベッドに倒れ込んだ。グルッポのぬいぐるみを抱き締めて体を丸める。
「好き……」
電車に乗ってくる時に黒くて長い髪を揺らしてくるところとか。
綺麗な瞳とか。
低くて落ち着いた声とか。
笑った時は少しだけ鋭い目付きが途端に柔らかくなるところとか。
優しくて気遣ってくれるところとか。
困ってたら躊躇わずに助けてくれるところとか。
「……どうしよう」
全部好きかもしれない。
かもしれないじゃない。
「……好き」
明日、どんな顔をして電車に乗ればいいんだ。
別に悪いことをしたわけじゃないのに、何故かどこか後ろめたくて、一生伝える事も無いのかな、と毎日思いながら電車に乗る。
以前と変わったのは、駅で電車を待つ時、電車に乗った時、彼と目が合ったら軽く挨拶をするようになったくらい。
宙に浮いた奇妙なモヤモヤがずっと胸を巣食っている。だけど、それを払拭する勇気がなくて。
そんな日々を過ごしていた。
塾がある日は帰りが遅くなるから少し気楽。勉強に集中できるし、彼が居ない時間に電車に乗れるから。
そう思っていたのに、何の運命なのか。
「こんばんは」
「あ……こんばんは」
塾の帰り、遅くに改札を出たら彼が手を上げて挨拶して出迎えてくれた。
どうして?
「コンビニを出たらあなたが歩いてるのを見つけたから」
表情にも疑問が出ていたらしい。
「今日も塾?」
「う、うん」
「すごいな。俺は宿題をするので精一杯」
自然と一緒に歩いてしまった。走って逃げたい気持ちと、遠回りしてずっとこうやって話していたい気持ちが同じくらい生まれて僕の中を掻き乱す。
どうしよう、どうしよう。
制定バッグの肩紐をぎゅっと握った。夜も遅くて暗いから彼にはバレていない。
だから、そういえば、と彼は何事もなく会話を進めた。
「今日の帰りにあなたの双子の弟に会ったんだ」
「え」
嫌だって言ったのに!
弟は塾もサボってそんなことをしていたらしい。
「見た目はそっくりだったけど全然違うってすぐわかった」
「本当に……?」
どうせ弟のことだ。僕と彼をからかうために僕に変装して会いに行ったに違いない。同じ服を着て同じように喋ればほとんどの人は見わけがつかない。両親くらいしか判別がつかない。僕の友人ですらたまに間違えるのに。
「なんというか……雰囲気……?あなたの方が……こう、ふわふわしてる……」
「ふわふわ?」
「ごめん、ふわふわで……からかうつもりはないんだけど、言葉にするのが難しくて」
腕を組んで考え込んでしまった彼の歩みがゆっくりになる。
僕も弟も学校の成績は同じくらい。定期テストがあればどちらかが1位か2位、もしくはどちらも1位。だから、評価されるのは『相里兄弟』という括りになることが多い。
それに、弟の方が性格的に研究者に向いていて、両親の同僚や知り合いからは弟の方が将来有望だと言われることもある。実際そうだと思うから僕もそこに特別な思いはない。
でも、僕の性格を良いものとして評価する人は通信簿を付ける先生とかくらいで。
「ありがとう、とっても嬉しい」
心からの言葉が溢れ出た。久しぶりに緊張せずに笑えたかもしれない。
だって本当に嬉しかったから。
社会的に見たら良い性格と言われるのは僕の方だろう。でも、それは意識しているだけで、僕だってそこに気を向けなかったら両親や弟みたいになると思う。だから、この『優しい相里要』は一つの創作物みたいなもので。
でも、彼といる時はそんな余裕もない。ただただいつも心臓が痛いくらいドキドキして、言葉も考える余裕もなくて、返事をするので精一杯。
そんな僕しか知らない彼が僕を『ふわふわ』と形容してくれたのが嬉しかった。
なりたい自分に近付けた気がして、それを認めてくれた気がして。
僕が笑ったからなのか、彼も笑顔を見せてくれた。笑った時に下がる目尻が好きだなあと思った。
「もう少しあなたと話していたいけど、もう夜も遅いから」
「うん」
「よかったら、連絡先交換する?」
「いいの……?」
「もちろん。というか、お互いに名前も学年もまだ知らないし」
「そういえばそうだったね……」
ちょっと白々しいかな。僕はずっと知りたいと思ってたけど。
お互いにスマホを取り出してメッセージアプリを開く。
「明日も学校に行く?」
「行くよ?いつもの電車に乗って」
スマホを操作しながら会話をする。光る画面が僕の指先がかすかに震えてるのを明らかにしている。
「明日からあなたの場所で電車に乗ることにする。あ、改札前で待ちあわせる?」
「えっ……と、いいの……?」
「あなたが良ければだけど。いつも参考書読んでるから勉強の邪魔になるかな」
「全然!」
ここ最近なんか、君を見てるのがバレないように顔を隠すためにしか使ってないし。
「暇潰しに読んでただけだよ」
言い訳を伝えたら彼は良かった、と微笑んだ。
スマホの画面では彼をアプリ上の友達に追加したというメッセージが表示されていた。
「じゃあ、俺はこっちだから」
住宅街の中の十字路で彼は僕が進む先とは反対の道を指さした。短い時間だったのに嬉しい気持ちで窒息しそうだ。息苦しいのにそれが満たされた感覚と錯覚してしまう。
「あの」
彼が背を向ける前に。
「家に着いたら何か送ってもいい?」
「何でも。俺も送るよ、自己紹介とか、宿題の難しかったところとか」
「……あはは。うん、僕も自分のこと伝えたい。宿題も見せて?僕でよければいつでも解説するよ」
本当はこうやってまだ話していたいけど。
意思疎通なんて言葉と意図さえ伝われば十分で、会話も通話やリモートでの連絡で問題ないと思ってたのに。
こんな機械を通しての会話はもう物足りなくなりそう。
それでも、文字と声だけでも彼を知れるツールが手に入ったのは大きな一歩かもしれない。
「それじゃ、また明日」
「うん、また明日。改札前で」
彼が背中を向けて見えなくなってから僕も反対側の道を進む。
初めて見た彼の名前が表示されたスマホの画面を胸に抱きしめながら。