黒甜郷裏 見慣れた公園はオレンジに染まっている頃。私はベンチに座りどこを見るでもなくボンヤリと一人の時間を過ごしていた。
何の気まぐれで此処へ来て何の為……なんて理由も特になく、する事も考える事も何も無く。ただただ漠然と独りであることへの安らぎに浸るばかり。
そんな折、些細な疑問が漠然とした意識の中から思考を呼び覚ます。
(あれ、でもここってこんなに人居ない事あったっけ……?まだこの時間なのに……?)
ふと見上げたならいつの間にか暗さを増してゆく空。自分も帰らぬ理由はないだろうとばかりに時の流れを報せていた。
(帰ったら何しよっかなぁ)
そんな事を考えながら私は頭上から目の前へと視線を戻す──
「──!あれ、あの人……!きっとそう……!」
やや遠くて薄暗い故にハッキリとは視認できないが、確かに見覚えのある人影が目に映った。
その瞬間に走る驚愕、それから一拍遅れてきた高揚感は湧き上がる衝動となり私を突き動かした。
名前はおろか声も顔も、大まかな姿すらも薄れまるで思い出せない──しかし、私の記憶の片隅にずっと居座り続けている人。私の心に穴を開けたあの人に違いない!という妙に確信的な考えがまるであの時と同じ様に私を走らせる。
「待って、行かないで……っ!待って……!!」
縋る言葉が口から零れていく。当然声量のない微かな呟きは呼び声として届く訳もないが、幸いにもその人は立ち止まったままだった。
──にも関わず何故か一向に縮まらない距離が焦りを募らせて仕方がない。息苦しくはないものの、胸の苦しさは着実に積もり積もって涙になろうと目頭へ熱を集めつつある。
(なんで、どうして。嫌。嫌……!泣きたくない……!!)
堪えるのに必死で声も出せなくなり、こんなみっともない顔で会う事を拒否したい感情は段々と足を緩ませる。
……じきに立ち止まってしまった私には、すっかり『会いたい』なんて気持ちは封じられ、気付かれる前に逃げ出したくなっていた。
そう遠くはない、それなりの声を投げ掛ければ恐らく振り向いてくれるだろう程の距離まで来たのに。しかしはっきりと見る事の叶わない姿。綯い交ぜになった感情と千載一遇の好機がその場に足を縫いつけていて私は動けない。
どうしていいのか。どうしたいのか。どうしたらいいのか。そんな事すら分からなくなってグルグルと迷走する思考、いつもの癖で俯き立ち尽くしてしまう私。いっそその場に蹲らんとする気持ちをどうにか抑えながらギュッと固く目を閉じたその時──
「……ほろか?」
酷く懐かしくて心地のいい声が耳に届く。低く落ち着いた音の響きはすっと沁み渡り、いっぱいいっぱいだった私の心を和らげる。
自分の名を呼ばれた事を理解した途端、私は勢いよく顔を上げその人の名前を呼んだ。
思い出せないその名前を、私は、今確かに口を動かして、目の前に居る筈の者を見て──
────
「──……ろか……ーん。ほろかちゃーん!起きて!起きてー!」
ハッと目が覚めた。まだ朧気な意識で小さく唸り声を漏らすと友人は私が起きた事に気付いたらしい、肩を揺すっていた手が離れていく。
「次は移動教室だよ〜」
「ん……。ありがと、巡ちゃん……」
欠伸を欠いてから時計を見れば幸いまだギリギリという程でもない。私は授業に必要な物を準備し始める──ボヤける頭で記憶を辿りながら。
ほんの少し前の事なのに、夢で見たことはもう思い出せなくなりつつあった。何度見てもそうだ。もう何度も見た事があるというのは律儀に覚えているクセに肝心な事は何もかも失せてしまう。きっと今回もそうだろう、見た筈の顔や姿はおろかはっきりと聞いた声すら輪郭を失っているのだから。
それがやけに寂しくて寂しくてどうしようもない。いっそ悪夢にすら思えるほどに心苦しさを齎すのだ。
──それでも、やはり何度見ても得難い幸福感がある。
故に僅かに苦悩と釣り合わなくともこの胸を充たす感情があるのは事実だから──例え悪夢でも何でも構わない。私は幾度も見たいと思っている。どうせ叶わないのならば、覚えていられないのならばせめて……と。
手を止めて何気なく窓越しに空を見ればなんとも青く澄み渡っていた。雲ひとつなく綺麗に。
(あの日の空は、どんなだったかな)
私のささやかな哀しみは尽きない。もし全てを思い出せてもきっと、忘れていた分だけの痛みがこの心を翳らせるのだろう。いつからかそんな気がしてやまない。
そして私はもう用はないとばかりに青空から目を逸らし、窓に背を向け自分の席から離れた。