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    humi0312

    @humi0312

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    師弟とモブ霊が好きな字書きです。

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    お祭りなので、前回参加イベントで頒布を完了した既刊の話をあげておきます。

    1629『恋をするのは楽しいな』
    モブへ気持ちを告げるつもりはまったくないながら、モブへの恋を楽しむ師匠とそれを見ているモブの話。
    前半「恋をするのは楽しいな」は、WEBで掲載済みです。

    #モブ霊
    MobRei

    恋をするのは楽しいな(完全版)恋をするのは楽しいな


     霊幻新隆は開き直った。土壇場で面倒くさくなるタイプだが、面倒くさくなったのではなく、受け入れる方向の覚悟を決めたということだ。
     そう覚悟だった。
     受け入れると決めたのは他でもない、弟子に対する諸々の感情についてだった。
     十一歳で霊幻の前に現れた男の子は、いまや十六歳の少年になっていた。ランドセルと半ズボンからのぞくまあるい膝小僧が可愛かったのが、大きめに誂えたはずの中学の学ランがぴったりと袖も余らなくなって、師の欲目はあれど、気づけば優しい黒目はそのままに、目つきも顔の輪郭もややシャープな男前になりつつあった。
     素直で純で人を疑うことを知らない。心底救いようのない相手にも理解を示そうと努力する。自分の気持ちを伝えることを諦めない。そういう弟子だった。
     初っ端はその柔らかくきれいな性質をいかにして自分の利益に役立てようかと思っていたはずが、霊幻はきれいなものを搾取し尽くそうとするほどに悪辣な性分を持たず、関係が続けば続くほど、その向き合い方は慈しむ方向へと変わっていった。
     茂夫が中学二年生のとき、幼馴染の女の子と仲良くなりたいと筋トレを始めたときも、マラソン大会で頑張って告白するのだと決意を固めたときも、霊幻はそれを微笑ましく思ったし、応援してやりたいと思った。大暴走の告白の果て、盛大な玉砕をして大いに泣きに泣いた日も肩を抱いて慰めてやった。隠したかった自分を曝け出してでも向き合って、もう師弟でいられなかったとしても、心から茂夫のためにできることをしてやりたかった。

     それがなーんでこんなことになったかなー。

     いやいや覚悟を決めたと言ったばかりだった(誰に。自分に。)と堂々巡りに陥りそうな思考を止めて目の前の仕事に戻る。夏という季節柄、心霊写真のお祓い依頼も多く、いい加減マウスだけでは効率が悪いかと思い始めていた。いやでも変にペンタブ買うより、タブレットにしちまった方がいいのか?
     何はともあれ、できるところまでさっさと進めてしまいたい。なにしろ今日は。
     控えめなノックと応えの前に開くドアに、訪問者に合点がいった霊幻は顔を上げた。
    「よお、モブ」
    「こんにちは、師匠。お久しぶりです」
    「おー、焼けたなーお前」
    「そうですか?一応、走ってはいるんで」
    「勉強の合間に大したもんだ」
    「へへ」
     私服のシャツから覗く腕や首元が日焼けした茂夫が見慣れたドア向こうから現れて、霊幻は隠すことなく喜色を顕にした。

     高校に上がった茂夫は別のアルバイトを始め、相談所での立場は臨時の手伝いに落ち着いていた。とはいえ、今日のところは依頼での呼び出しではなく、純然に遊びに来ている体である。
     高校生の夏休みは忙しい。
     塩中の肉体改造部のような、純粋にトレーニングを行う部活動というものはなかなかない。茂夫は同級生と同好会を立ち上げて活動しているらしい。ただそうなると、できる活動はやはり限定されて、専ら個々にトレーニング室を使うか、走り込みに行くかとなってしまうらしい。そこでいっそのことと、学校の夏期講習(欠点補習ではない。進学補講だ。)に通いながら、合間にトレーニングを入れることにした、と話していた。
     こうと決めたときの思い切りの良さは実のところ、小さい頃から変わっていない部分だと思う。
    「選択肢を広げたいんです」
     高校一年生の現在、明確に将来やりたいことは決まっていない。見つけたときに、それを実現できるカードは多いに越したことはない。
    「師匠は器用だっていう以上に、努力もしてるでしょ。そういうのはやっぱり見習いたいなって」
     師に倣って、と楽しそうに日々の努力の成果を報告する弟子には、面映ゆくも嬉しく。可愛いなあ、好きだなあなどと、良い心掛けだと涼しい顔で頷いてやった心の中では大騒ぎなのであった。

     そう好きだった。霊幻は弟子の茂夫に恋をしていた。

     なぜこうなったのか。
     影山茂夫を好きな理由をあげるなら十数個はあげられるが、恋愛における具体的な理由とは、その点が損なわれれば冷めるという実にシビアなものである。声が好きだとか、優しくしてくれたとか、スポーツができるとか。一度、その人が声変わりをしたり、冷たくなったり、運動音痴になったら雲散霧消する思いならば、その人物を好いているのではなく、その人を象る一点を好ましく、憧れているに過ぎない。
     異論は認める。だが、霊幻新隆は恋について、そのように断じていた。
     だから、霊幻は好きな理由を挙げるのはナンセンスだと考えているし、実際のところ茂夫の好ましい部分が損なわれたとて、彼が彼であるならば好きなことに変わりがない自信があった。自分の中身には自信がなくとも、茂夫を好きな気持ちには絶対の自信があった。拗らせている。

    「生物を取ったんですけど、授業でやらない実験とかあっておもしろいですよ」
    「ほお〜、どんなことすんの?」
    「前回は解剖をやりました。豚の心臓と肝臓で」
    「授業じゃやんないんだ?」
    「苦手な人も多いですしね。僕も血の匂いはちょっと駄目でした」
    「それは仕方ないな。俺も苦手だ」
    「はい。でも、洗っちゃえば大丈夫でしたよ。食用のなので、残ったやつは講義の後もらって帰って食べました」
    「おお……、ちょっとワイルドだな……」
    「新鮮なお肉だからおいしかったですよ」
     知らぬところでまた少し成長していることを、こうして茂夫の口から聞けるのは嬉しい。成長の仕方が思いがけない形ではあるが。
    「おいしいのを知ると、お店のホルモンとかもっと挑戦してみようと思いました」
    「あー、まあ分かるな。旨いとこのは本当に旨いよ」
     ホルモンか、近くに旨い店あったかな。
     せっかくなら茂夫が興味を持っているうちに誘うことができればと、霊幻は脳内で駅周辺のホルモン焼き屋のあたりをつける。大概は居酒屋だが、料理が旨くてソフトドリンクの種類もあって、酒が飲めずとも楽しめるところとなると絞られるが。
    「ちょうど、駅の並びにホルモン焼きの店あるけど、行くか?」
    「え、ほんとですか。行ってみたいです」
     よっしゃ、よくやった俺の記憶力、食べ□グチェックしといて良かった。要チェックジャンルはラーメン屋とたこ焼き屋と焼肉屋だが、違う系統も調べておいてグッジョブだ。
     自画自賛、脳内喝采を決して表には見せず、霊幻は「じゃあ、暇な日教えてくれよ。別にこの後でもいいけど」などと、決してがっつかずに一歩引いた態度まで見せたのだった。後はもう帰宅するだけの茂夫が、じっと霊幻を見た後「じゃあ、今日いいですか?」と言って、そこでとうとう笑みがこぼれたが、あくまで師匠としての対面は保てる範囲の破顔だった。

     好きな物をリサーチ(というほどのものでもない。長年の師弟関係で食事の好みくらい十分に把握できる)し、何気ないふうを装って食事に誘うなんぞ、あたかも狙った相手を落とすための駆け引きのようだがまるで違う。霊幻には弟子に対する恋を成就させる心持ちは毛頭なかった。むしろ、絶対に実らない、実らせない自信があり、その自制心がゆえに何の気もない茂夫の向ける好意を楽しんでいた。
     もとより、恋心を抱く以前から一人飯で当たりを見つけたら今度連れてきてやろうくらいのことは思っていたが、最近は茂夫を連れていくために積極的に新規の店を開拓している。そして、上手いこと誘えて、吟味した店で茂夫がおいしそうな顔をしてくれたなら、もう何も言うことはない。茂夫が来ると分かっていれば、できたてを求めてわざわざたこ焼き屋に赴き、客からのお高めな菓子は急に来るかもしれないと期待して賞味期限間際まで手をつけずにいる。
     あくまで好意の発露は今までの関係性から逸脱しない範囲に留めており、それで十分に満足していた。会うのは相談所や依頼先、そのついで(らしく託けて)に食事を一緒にする。特別なことはしない。もちろん、仕事に関係なく一緒に出掛け、二人だけで過ごすことを妄想しないではないが、霊幻は慎重派だった。うっかり『師弟』らしくない誘いをかけて、万が一にも不審がられてはならない。いかな茂夫が鈍いとて、念には念を入れてだ。だから、今期の気になる映画が珍しく大衆向けで茂夫が好きそうだと思っても、博物館の特別展が蟻の世界というニッチで、やはり茂夫の好みだろうと思っても、一緒に行けたらいいな、で終わっているのである。

    *

     霊幻はたいそう機嫌が良かった。それというのも茂夫が突然尋ねてきた上に、手土産に菓子まで持参してきたのだ。しかも、霊幻が前になかなかうまいと言ったエクレアだった。コー○ーコーナーの決して高価ではない代物だが、茂夫が自分の言ったことを覚えていて買ってきてくれたという事実が、以前よりも遥かに素晴らしく美味に感じさせる。ちなみに通常のものではなく、コーヒー風味のチョコレートがかかったエクレアだ。いつもなら諸々を悟られないように控えるところだが、少々良い紅茶を淹れるくらいには浮かれていた。カップを温め、熱湯できちんと蒸らし、時間を計った紅茶は一味違う。
     常のように口元を汚しながらカスタードクリームを頬張っていると、茂夫がじっと見つめてくる。稲妻の如く素早く食べるのはもったいないが、そこに何か物言いたげな気配を感じ取り、師匠の体面を整えるようにエクレアを全て口に片付けて、ソファの背もたれに預けていた身を起こす。
    「どうした。何かあったか?」
     不意を突かれたのか、茂夫は黒い目を丸くしてから二、三度瞬きをした。シャープになりつつも顔の面積に対して瞳が大きいので、無防備な表情をすると特に幼く見えるのを可愛いと思っている。
    「悩んでいるように見えましたか?」
    「いや、なんつーか、なんか言いたそうだなあと」
     首を傾げてしっかり視線を向ける茂夫には、中学生の頃に度々見受けられた追い詰められ思い煩う陰鬱さはない。されど、何かしら思案していることはありそうで、霊幻は弟子のそういった気配に敏感だった。
    「まあ、そうですね……」
     なんとでも取れる返事で視線を斜め上に逃す茂夫は、どう見ても話したいことがあるに百ペリカだった。ただ、どう言葉にしたらいいか考えあぐねているのではなく、打ち明けまいか否かを迷っている風情であるのは珍しかった。
     相談所には就職しない、と告げて以降、独り立ちを意識してか、以前のように何でも相談してくるわけではなくなった。自分の力で状況を変えようと、物事への向き合い方が変化したように思う。素晴らしい成長ぶりであり積極性であり、霊幻は嬉しいし、淋しかった。
     ともあれ、師の力を借りずともブレイクスルーできるようになった茂夫が、自身で取り組んでみようとしているならば、はっきりと大丈夫です、と言いそうなものであるし、相談するかどうか、の点で迷っているのは珍しかった。そうなると考えられるのは、自分自身では上手く状況を打破できないが、相談することに抵抗がある内容と思われる。

     ……………………恋じゃね????? 恋愛相談なんじゃね???????

     いや、決めつけるにはまだ早い。が、しかし。茂夫の表情に陰鬱さはない。ないが、それこそ恋煩いに陥った者のどことなく物憂げな気配が漂っていなくもない。いや、単なる目の錯覚かもしれないが。
    「その……遊びに誘われるとしたら、どんなところがいいものなんでしょうか」

     はい、ビンゴ。ビーンーゴーーー! こんな確定台詞あるか? ガチャだったら虹演出入ったな。

     霊幻は自らソーシャルゲームをプレイすることはないが、芹沢が休憩時間にポチポチタプタプして時に見せてくるので妙な部分にだけ明るくなっていた。
     整理しておくと、初恋である茂夫の幼馴染は、今は善き電話友達(普通にSNSでやりとりしているのだろうが)であって、玉砕して以降、進展があったとは本人の報告も周囲の聞き取りからもない。第一、憧れの君の性分を聞くに、おそらく行きたいところがあれば本人がすっぱり決めて、エスコートを必要とするようなタイプではない。だからこれはきっと、新たな恋の予感だ。高校で良い子を見つけたのかもしれない。
    「そりゃあ、相手がどんなタイプかと、今の関係にもよるな。最初は飯に誘うくらいがいいんじゃないか」
    「その段階は、結構前に済ませているので」
     おお、そうなのか? いつの間に。案外、やることやってるじゃないか。
     子どもだ子どもだと思っていても、大人の階段を少しずつ上っているのである。ここに至るまで報告の一切もなかったことは寂しいが、急に仲が深まったか、茂夫の方に恋の自覚が突如として芽生えたのかもしれない。もしかすると、友達と思っていたが向こうから告白されたということもありうる。
     思い返すに中学時代も、初恋相手以外には鈍感で、普通に女子と交遊していたエピソードも小耳に挟んでいた。うち一人は、暗田トメではあるが。なにしろ、将来有望を予感させるいい男に育っている真っ最中なのである。告白されてもおかしくない。
     霊幻新隆は恋に開き直り、かつ、それを成就させない自信があり、かつ、弟子の幸せを何より尊く祈っていた。ゆえに、子どもが手を離れていく親の切なさはあったが、瑞々しく実りゆく恋を全力でサポートしてやろうと思考は舵を切っていた。弟子の恋路を手伝ってやるなんて、いかにも師匠らしいではないか。
    「なるほどなるほど、もう少し踏み込みたいと……」
    「ええ、まあ。そうなのかな……?」
     自分のことだというのに抜けた返事をする茂夫に、霊幻は思考を巡らせる。
     高校生の足や資金で行ける範囲で、初めてのデートらしいデート。なるほど分からん。
     正確には、イマドキの高校生の行くようなところは分からないのである。致し方ない、霊幻にとっては十年以上昔のことであるし、相談所はF2層を中心に十代の客はそういない。日頃接する高校生は茂夫だったり、サブカル趣味だったり、あまり参考にならない。
    「うーん……あれだな、趣味が分かるなら映画とか……。ただ、ハズレを引いたときの気まずさが半端ないな。テーマパーク系も初っ端はやめとけ。ライド待ちの間が持たん」
    「そうなんですね」
     実体験はないが、初デートで某ネズミの国に行ったカップルは別れるという都市伝説は有名である。今は有料で優先パスが買えるなどと師弟が知る由もない。
    「そうだな、会話がなくても大丈夫で、逆に盛り上がりそうなら話のネタが作りやすいとこがいい。遊園地とか、動物園とか水族館もありだろ。あ、ただし乗り物酔いとか、臭いで気分悪くなる子もいるから気をつけろ」
    「なるほど」
     感心したように茂夫はこっくりと頷く。宇宙人に初めて出会った年末の山道ドライブでは、車酔いが酷くて大変な目に遭っていた。遊園地は相手が平気でも、茂夫が無理かもしれない。
     茂夫は提示された三つから吟味しているのか、酔っちゃうかな、電車で行くんだったら、などブツブツと呟いている。考え事が声に出るタイプである。別に例として挙げただけなので、その三つから選ばずとも良いのだが。
    「霊幻師匠。水族館……だったら、いつ行けますか?」
     ……なぜ、俺を誘う?
     熟考を経た茂夫が視線を戻し、窺うように尋ねてきて、霊幻は宇宙を見る猫のような顔になった。ご飯を一緒にするくらいには仲の良い高校の子と初めてのデートの行き先(ここまで推測)について話をしていたはずである。なぜここで自分を誘うのか、霊幻には本当に全く意味が分からない。分からないので何かしらその理由を聞くか、推察しようとした。その結果、茂夫が相手との関係やどんな人物かを明言しないこと、そして自分を見ながらも先の会話が何か探るようにしながらのものであったことを加味して、その答えを導き出した。
    「なるほど予行練習だな?」
    「そう? ですね?」
     はっきりしない様子で首を傾げるのに、ははあ、ごまかしてやがる、なるほど師匠にはバレたくないんだな? と了解する。隅に置けないやつめ。
     どうやら高校生になった弟子は、自身の色恋沙汰を明らかにすることに抵抗があるらしい。女子にモテてているかもしれないと淡い勘違いを赤裸々に披露していた頃から、随分と照れ屋で謙虚に自意識が成長したようだ。それでいて水を向けたとはいえ、こうして相談して頼ってくれるのだから可愛い自意識である。
     霊幻はまた茂夫の変化と成長と変わらない愛らしさに内心激しく頷く。不器用で優しい茂夫はぶっつけ本番では盛大にテンパるであろうし、ちゃんと相手のことを楽しませてあげたいのだろう。そのためのロケハンに同行するのはやぶさかでは無い。むしろ、素晴らしい役得である。
    「その依頼、この霊幻新隆が引き受けた!」
    「依頼ではないんですけど」
    「いいじゃねえか。だいたい、師匠が弟子にお願いされて聞かないわけないだろ」
     やや困惑の表情でいる茂夫の肩をバシバシと叩いてやる。茂夫の恋のアシストをしつつ、二人だけで一緒に出掛けたいという願望も叶う。願ったり叶ったりだ。どうでも良いが重ね言葉である。 

    *

     かくして、本日はお日柄も良くと言いたくなる土曜日の朝、二人は駅で待ち合わせをした。相手の家に迎えに行くのはもっとレベルが上がってからだ。
    「おはようございます、師匠早いですね」
    「おはようさん。たまたま早く出られてな」
     今日は防御力の高い学ランでも、見ていると不安になる黄色いシャツでもない。そもそも高校の制服はブレザーなので、学ラン姿の茂夫はもう写真の中だけである。茂夫の私服は何しろ小学生の頃からの付き合いゆえに見慣れているはずだが、着やすそうなTシャツに重ねた、大きめシルエットの黒いシャツに洒落っ気が見受けられる。足元を見るといつものスニーカーだが、どうやら綺麗にしてきたようで先端が白い。ボディバッグを斜め掛けしている姿に、ランドセルや手提げ鞄の時代を不意に思い出して懐かしくなる。
     なお、霊幻はたまたまではなく、しっかり目覚ましをかけて早くから起きだし、きちんと活動できるようにパンではなく目玉焼きと白米を食べた後、入念に身だしなみや持ち物、火の始末と戸締りを確認してなお、時間が余ったので早く着いてしまったのである。
    「うん。デート服としては気負い過ぎず、かつ清潔感もあって良い塩梅じゃないか」
    「ありがとうございます。師匠はそういう格好するんですね」
    「まあ、仕事じゃないしな」
     霊幻の方こそ、気負い過ぎない清潔感を意識して、今日の服装には頭を悩ませた。高校生のデートの予行練習にスーツで行くような空気の読めなさは持っていないし、せっかく念願の茂夫とのお出掛けなのだから気合いも入る。
     自己主張は控えめに、派手な色合いを避けた結果パンツは黒で細めな分、ゆったりとした明るい茶系のニットで緩和する。色々考えた結果、無難な感じにまとまった。この日のために新調したことは気取られないように心掛ける。
    「いつもきちんとしてるから、新鮮です」
    「そらあ、こちとら客商売だからな」
    「なんか、良いですね」
    「へあ?」
     霊幻の声帯が間抜けな音を上げた。慌てて表情や顔色に致命的な変化--茂夫のシンプルな褒め言葉に喜び舞い上がり、照れて赤面するなどといったことがないように取り繕う。
    「あ、ありがとな。うん、その調子だ。ちょっとしたことに気づいて褒める。小さいことだが大事なことだぞ!」
    「はあ」
     危ない危ない。冷静になれ、冷静に。
     茂夫がこんなリップサービスができるようになっているとは、霊幻にとっては誤算だった。思わぬところに爆弾が潜んでいるものだ。とんだサイレントボムである。
     車内は空いているとまでは言えないが混み合っているとも言わない程度で、無事に席に座ることができて霊幻は助かった。隣り合って座る状況に先程の喜びが急に去来してこないとも限らないが、横並びならば表情をじっくり観察されることもないだろう。

     味玉県は海なし県であるからか、動物園はそこそこ大きなものがあるが、水族館はあまり目ぼしいものがない。そして、だいたいが車でないと交通の便がよろしくないところにある。地方は車社会なのである。
     よって都内に出るとなったとき、霊幻は電車一本でアクセスできる、大変有名な超高層ビルの上にある水族館に行くものだと思っていた。小学生の茂夫を連れて行ったこともある。しかし、茂夫が提案したのは、そこから電車を乗り換えてぐるりと環状線をほぼ半周した駅近くにある水族館だった。巨大なハブ駅を出て巨大なロータリーを渡れば、ものの五分で水族館を含む建物群だ。
    「よくこんなとこ知ってたな」
    「昔に、ここのイルカショーの話をテレビで見たんです」
     レストランやショップの間を抜け、高層ホテルのラグジュアリーな外観を横目に進んでいく。ジャンプが苦手な運動音痴のイルカの話は、幼い茂夫に感ずるものがあったらしい。
    「その子はもういないらしいんですけど。でも、いつか来てみたいと思ってて」
     そう言って、少ししんみりとしてみせた横顔は、大変ポイントが高かった、と思ったが口には出さなかった。

     入場券も都心の一等地らしく、霊幻は本番が控えているからと払ってやろうとしたが、茂夫は頑として受け取らず、二人はそれぞれ自分の料金を支払って入場した。暗いエントランスには虹色の魚群が映し出された巨大スクリーンがあり、そこだけ煌々と幻想的な世界を描き出している。最初に霊幻が思い浮かべた水族館とは正反対の演出で、客層もあちらが子どもや中高生のカップルが多いのに対し、落ち着いた年代が多い。格好もどことなく洗練されている。茂夫の要望でもあったが、こういう雰囲気を好むなら、相手は結構大人っぽい子なのかもしれない。初恋相手のことからも推測するに、茂夫の好みは大人っぽくて格好良いタイプのようだ。
     本格的な水槽展示に至るルートも、照明や点在するアートワークで都会の喧騒の中で海の底へ沈んでいくような不思議な没入感を味わえた。唐突に現れるメリーゴーランドと海賊船がより非日常感を演出する。
    「水族館っていうより、遊園地みたい」
    「だなあ、これが今風なのか」
     お上りさんよろしく、ライトで珊瑚礁が浮かび上がるカフェカウンターの横を呆気に取られながら進んでいくと、光の浮かび上がる広い空間に出る。いくつもの天井まである円筒形は全てクラゲの水槽だ。ヴェールのように触腕を伸ばして泳ぐクラゲを光が照らし、それが天井にも床にも映り込んで、音楽と共に包み込む。
    「すっげえな」
    「はい、すごい……」
     クラゲ自体の種類は少ないようだが、光と音のシャワーがその姿を如何様にも見せ、飽きることのない情景になっていた。雰囲気に飲まれてぼうっとクラゲの踊る様を見る。
    「モブ、クラゲ好きだったろ。良かったな」
     小さい茂夫がクラゲをその真っ黒な目に映して、いつまでも水槽の前にいたことを霊幻は思い出す。傷つきやすく、繊細な幼少期、静かな展示を好んだ茂夫に、同じくそれに癒されながら付き合っていた。
    「はい。昔見たのも好きだったけど、これはすごいですね」
     水槽から視線をこちらに向ける、ふんわりと笑ってみせる茂夫は心臓に悪かった。いつの間に、こんな綺麗に笑うようになったのだろうか。
     クラゲの間を抜けると、階を上がって薄暗くも、見覚えのある感じの展示になる。定期的にテーマの入れ替えが行われるようだが、きっと熱帯魚の中でどんと構えたサメはいつも存在を主張していることだろう。
    「あ、こっから明るいですね。わあ……」
    「おー、こらまた」
     暗い展示スペースを抜けて現れたのはトンネルだが、そのサイズが桁違いだった。大水槽の中を突っ切る形のトンネルは長さが二十メートルはあり、天窓が設けられている。そこから注ぐ光が水槽を通して、ゆらゆらとフロアに水の影を映し出している。
    「あれってマンタでしたっけ」
    「あのサイズならそうだろうなあ。いや、こうして見るとホントにでっかいな」
     悠々と現れたのはエイの中でも実に動物的な顔つきをしているマンタだった。顔の左右についた目は驚くほど円で、白い腹に僅かに斑点がある。大きく鰭を動かし、長い尾がその体に追随していく。
    「この辺りじゃあ、ここでしか見られないらしいぞ」
    「そうなんだ。初めて見ました」
    「修学旅行ってどこ行くんだ?」
    「沖縄です」
    「だったら、そっちにもいるはずだから、きっとそんときも見れるぞ」
     その頃にはめでたくお付き合いを始めて、班行動の隙に一緒に回ったりなどしているだろう。クラスが一緒だと良いのだが。いや、そもそも学年が一緒かまでは確認していないのだが。どこかで聞き出しておこう。
     至極ロマンチックな海中トンネルをマンタに見守られながら進めば、透明標本のスペースを挟んで、すっかり昼日中の様相のジャングルゾーンである。上部の開放された目の高さの水にを巨大な淡水魚、ピラルクが揺蕩っている。イグアナやヘビといった爬虫類の中にカピパラが混ざっていて、突然の毛皮の生き物の登場に二人はしばし目が点になった。しかし、そこからは海獣の類やペンギンのエリアになっていくので、配置としては正しいのだろう。
    「カワウソって随分表情豊かなんですね」
     僕よりも表情筋使ってそう、などとボヤく茂夫に、お前も結構分かりやすい、と慰めつつ、お付き合いする相手にもぜひその点は分かってほしいと願う。
    「かなり賢いらしいな。道具を使って遊ぶらしいぞ」
    「へえ、すごいや。それにしても元気ですね」
     アクリル板の向こうでカワウソは一時も止まることなく、忙しなく遊び回っている。顔つきがネズミのようでいて、なんとなく犬っぽくも感じるので霊幻は少しカワウソが好きになった。

    「師匠はどれにしますか?」
    「んんーー……、やっぱここは苺Wクリームチョコかな。モブは?」
     迷ったならば全部乗せが正しい判断だ。ラーメン然り、クレープ然り。
     一通り展示を楽しみ、ショーまでの時間を栄養補給に当てようと、オープンスペースに出ていたクレープのワゴンに寄る。入り口のカフェはオシャレすぎて怖気づいた。
    「なら、僕はバナナで」
    「バナナも鉄板だよな」
    「お互い味見しましょうよ」
    「お。それ、きっと本番でもウケるぞ」
    「はあ」
    「なんだよ、チャンスは狙ってかないとだぞ」
     相手の子、ドキドキすんだろな。俺だってドキドキしてんだもん。
     無理のなく間接キスをゲットできるのは僥倖である。が、きっと心のキャパシティが一挙になくなってしまうだろうから、おそらくできないだろう。一口貰うにしても、決して茂夫の歯形がついているところは選べない。
    「師匠は?」
    「え?」
    「師匠は嬉しいですか?」
    「そ、そらあ、バナナも好きだし……」
     じっと黒い目に見つめられると、自身の汚い願望を覗かれているようで霊幻は生きた心地がしなかった。心のキャパ以前に、この瞳の前で間接キスなんぞ狙えそうもない。背中に冷や汗が浮かび、インナーがそれを吸い取っていく。
    「クレープって小さい頃に買ってもらってたけど、自分で買うのは初めてかも」
     全てを見透かすような瞳は、密かに硬直する霊幻からふっと外れ、ワゴンから手渡されたクレープに注がれる。二人分を受け取った茂夫に、赤々とした苺の方を渡されて礼を言い、嫌な動悸に苛まれる霊幻は自分の分を早々に齧った。
     味見を強請った茂夫にはそのまま残りをくれてしまって、バナナの方は茂夫の口の触れていないところを探してほんの少しだけ口をつけた。生クリームとカスタードクリームに塗れた苺はえらく酸っぱかった。

    「ここか、ショーやんの」
    「そうみたい。こんな形なんだ」
     円形プールを囲む客席はスタジアム形式で、三百六十度どこからでも広々とショーが望めるようになっている。空を望むよう中央の天井にはガラスが嵌め込まれていて陽の光が差している。その真下に吊り下げられたいくつもの配管とライトの円環は、ショーを演出するギミックなのだろう。
     土曜日なので人手も少なくない。最前列にまだ空きはあるが、イルカショーならば少し引いた方が見やすそうだと中段の席に腰を据える。
    「そろそろ始まるみたい」
    「楽しみだな」
     音楽が始まり、プールの縁に作られたステージにウェットスーツのトレーナーが現れる。マイクで呼びかけるトレーナーに観客が答えると、バックスペースから中央のプールへ勢い良く流線形のイルカ達が泳いできた。
    「イルカってあんなに速いんだ」
    「なんかあいつだけイルカっぽくない顔してるな」
    「ほんとだ。あれ、なんだろ。ちょっと顔が丸いのかなあ」
     二頭の黒い模様のある、シュッとした可愛いらしい顔のカマイルカ。いかにもイルカらしい顔つきのバンドウイルカ。一頭だけ鼻先が丸く、どこか怪獣めいた口元をしているのはオキゴンドウという名で、イルカではなく小型のクジラだという。通りで一頭だけ顔の系統が違う。どのイルカもクジラも泳ぎの鋭敏さは甲乙つけ難く、水の中を凄まじいスピードで泳いでいく。
     普段のんびりとした調子の茂夫がそのはしっこい動きを追っているのは、霊幻の目に無邪気で愛おしかった。演技をする前からステージはワクワクと期待に満ちている。
     イルカ達がウォームアップとばかりに次々とジャンプしていく。軽めのジャンプらしいが大きな全身が水面に飛び出し、上手に着水していく様は十分に迫力があった。しかし、ショーはこれからが本番だ。
     天井のパイプとプールのあちらこちらから水が噴き出す。そこへライトが音楽に合わせて点滅し、イルカがタイミングのしっかり合ったジャンプを披露する。そうかと思えば片鰭だけを水面に出し、まるで手を振るようにプールを周遊していく。一際高くジャンプしたイルカが、天井近くに吊るされたボールを尾鰭で叩いてみせた。大きな水飛沫を上げながら水中に戻ったイルカは、誇らしげにぐんぐんとスピードを上げて観客のすぐ側を泳ぎ去っていった。
    「すごい……、あんな高くに」
    「水ん中の生き物なのになあ」
     羽があるわけでも、ましてや超能力があるわけでもないイルカが空を跳ぶ姿に素直に圧巻される。素早く泳いでいく表情を窺うことはできないが、キュイキュイと高く鳴くイルカ達はどこか楽しげだ。水面近くに来るたび、散る水滴までもが鮮やかだった。
    「師匠、すごい。すごいですね、イルカ!」
     興奮した様子で言葉が単調になった茂夫が、霊幻の方を振り返る。目を輝かせて、笑顔を浮かべてはしゃぐ姿が眩しい。それは付き合いの長い人間だけが察することのできるものではなく、誰の目にも明らかなキラキラとした満面の笑顔だった。声も弾んで興奮のあまりか、すぐ隣にあった霊幻の手を茂夫のそれがぎゅっと握った。
     その瞬間、霊幻は目の前が真っ暗になった。

     え、これ、触れちゃっていいのか。俺が貰っちゃっていいのか。
     すごく、心の底から嬉しいのに、手に入れたら後悔する。そう、歯止めが聞かなくなる。もっと欲しくなる。
     恋することが、楽しいじゃ終わらなくなる。切なくなる。
     あれもこれも貰ったし、嬉しかったのに、なんでこれは自分のじゃないんだ。
     なんで、俺の気持ちは貰ってもらえないんだ。

     一瞬間に、霊幻の心を駆け抜けた絶望は凄まじかった。
     茂夫の好意が嬉しかった。予行練習に託け、デートの疑似体験をできたことを一生の宝物にして、ちゃんと茂夫の恋を応援できる気持ちでいた。笑顔を向けてもらうことが、手を握れたことが、心から嬉しかったはずなのに。きっちりと線引きされていた境界が緩み、滲んでいく。
     自覚して開き直って覚悟を決めていたはずが、全部崩れたことに気づいてしまった。
    「師匠? どうしたんですか」
     ハッと我に返るがもう遅い。明らかに顔色の悪い霊幻を心配そうに窺う茂夫から、慌てて顔を背ける。普段ならそんなあからさまな真似はしないのに、取り繕えないほどに傷ついている自分に動揺していた。
    「モ、モブ」
     大丈夫だ、と茂夫を安心させるため、本心を悟らせないための嘘が出てこない。クレープを食べた後だからか、油分が上回る糖分で乾いてしまったように舌が上手く回らなかった。本当の心を自分自身にも隠して、突如目の前に暴かれてしまったショックだったのかもしれない。
     気づけばショーは終わっていて、笑顔の観客達が三々五々に散っていく。茂夫が最後までショーを見れていたのか、霊幻は頭の片隅で心配した。
    「調子が悪いならどこかで休みましょう」
     支えようとしてか、絶望を与えた手がそのまま力を込めた。逃げなくてはいけない、と霊幻は思った。何かしら理由をつけて茂夫から離れないと、きっと人目も憚らずに泣いてしまう予感があった。頭の冷静な部分がそう警告するが、茂夫の繋いだ手から鉛のように体が重くなって身動きができない。
    「師匠」
     声にのろのろと顔を上げ、その目を見たのは狙ってのことではなかった。霊幻は相手の目を見て嘘を突き通せるタイプだが、今、それをやってのける力はない。表情を作る余裕もない霊幻が、茂夫の目にいかに弱々しく映ったか想像に難くない。
     茂夫は驚いたように息を飲んで、それから、なぜか決意を固めるように眉間に力を入れた。薄いブルーがかった白目は赤ん坊のようなのに、力強い目つきに少年から青年になろうという雄々しさが感じられる。
     その強い眼差しでひたと霊幻を見つめ、一世一代の告白をするかのごとき気迫で、茂夫は口を開いた。
    「師匠、僕のこと好きですよね」
    「え? そりゃ、弟子だからな」
     惚けたわけではない。敬愛やら親愛やら愛のつくその他多くの感情が混ざり合っているとはいえ、茂夫の好意にも思慕にも、あくまで恋い慕うの意はないのである。だから、当の茂夫の中に師弟間での恋の概念などあるはずもないと、霊幻は最初から弁えている。
    「ああ、すみません、そうじゃなくて……。恋愛で、という意味です」
     しかし、追撃は断定的で有無を言わさぬものであった。
    「な、に言ってんだよ」
    「目を見れば分かります。嘘つかなくて大丈夫ですよ」
     澄んだ黒い虹彩が絶対的な力を持って、当然のことのように言う。水は高くから低くに流れるのだとか。春の次には夏が来るのだとか。それらと同じように、至極当たり前のような口調だった。
    「そんなになっちゃう前に、聞いてくれればいいんですよ。師匠は話すの上手なんだから」
    「だから、な」
    「僕が、師匠のことをどう思っているか」
    「に」
     食い気味の茂夫の言葉に絶句して、喉から溢れた以上の声は続かなかった。
     霊幻が、ではなく、茂夫が、どう思っているか。
     そんなこと、霊幻は分かって。分かっているはずで。分かっているつもりで。
    「ちゃんと聞いてくださいね」
     引こうとして添えてあった手は、霊幻を逃がさないものになっていた。それでいて、その手に滲み始めた汗と、黒い目に張り詰める緊張は幼く、茂夫も必死であることを窺えた。
     ただでさえ弟子として可愛がってきた子どもに、ましてや恋に目の眩んだ死に体は、その口を塞ぐことができなかった。
    「僕は師匠のことが」



     本当に『目を見れば分かる』のだと、全部知られていたのだと分かるのは、しばらくの後のことだった。



    *************



    恋をみるのは楽しいか


     影山茂夫は生まれながらに超常を身に宿していたが、多少周囲とズレた部分はあれど、社会不適合者とは縁遠いところにある。争いを好まず、その異能を無闇に用いることを厭う、至って温厚な気質だった。力を誇示して満たされるものはなく、むしろ不必要で道理にもとる使用は、彼を自己嫌悪させるに十分だった。
     特異稀な能力を持ち、常に不可思議と隣り合うような日々の中にあって、摩訶不思議な現象は彼の力の預かり知らぬ部分に理由のあることが多かった。要は、おかしなことにはよく遭遇するが、それは茂夫のせいというわけではなかった。そして、自身の力の暴走を恐れ、なによりも誰かを傷つけることを恐れる茂夫にとって、不可思議な物事というのはさして驚くべき、重大な事柄ではなかった。
     しかし、自身の超能力が制御を外れ、一種のサイコメトリーを獲得するとは、さすがの茂夫にも思いもよらぬことだった。

    「こんにちは」
     慣れ親しんだ久方ぶりの階段を上がりきると、営業中の札のかかったドアの磨りガラスには明かりが見える。下の道ですでに確認していたそれが示すように、ドアを開いた先にはデスクに向かう師の姿があった。
    「おう、モブ。久しぶりじゃないか」
    「はい。ごぶさたしてます」
     高校のブレザーに袖を通した茂夫が霊とか相談所を訪れたのは、先々週の入学式帰り以来だった。式は緊張こそすれ、さほど疲れはしなかったが、入学したての一年生というものはとにかくやることが多い。式の翌日からクラスで自己紹介をしたり、委員を決めたり、写真撮影や検診、学習の指導に施設の案内と、気の休まる隙がない。授業が始まれば尚更だ。
    「ま、座れよ。学校の話はさておき、まずは茶でも飲んでけ」
    「ありがとうございます」
     気がつけば一週間以上、こうして訪ねるどころか、ろくに連絡も取れていなかった。霊幻の方も新生活に忙しい茂夫を気遣ってか、予告無く呼び出すこともなく、たわいの無い会話も実際以上に懐かしいものに思える。
    「芹沢さんはどうしたんですか?」
    「出張除霊。もうすっかり一人で任せてるからな」
    「そうなんだ。立派だなあ」
     定位置となっていた受付台ではなく、促されるまま応接ソファにかける。ミニキッチンへと向かった霊幻も、程なく盆を手にやってきた。
    「で、高校はどうよ」
    「いろいろやることがあって……。それに、中学のときより自分で決めたり選んだりすることが増えたなと思います。進路のことも、もう始まってて」
    「一年のうちからか……。そら、忙しいわな」
    「あ、部活なんですけど、肉体改造部みたいなのはないみたいで……。同じようなこと、愛好会で一緒にやらないかって声かけられたんで、やってみようかなって」
    「そうか。確かに珍しいよな、ああいう部活……」
     取り留めない話題が次から次に口をついて、思っていたよりも話したいことがあったことに気づく。時折、湯呑みで手を温めながら相槌を打つ霊幻に、一昨年の今頃はずっとこんな風だったと思い起こされた。
    「ん、どうした」
    「え?」
    「いや、急に笑ってるから」
     知らず、昔を思い出して笑っていたことを指摘されて、茂夫は口元をさすった。その拍子に口についていたチョコレートを広げてしまったようで、霊幻がティッシュを寄こす。
    「なんだが久しぶりだと思って」
    「まあな。受験の頃ほどじゃないが」
    「いえ、そうじゃなくて。二人だけで僕の話聞いてもらっているっていうのが……。懐かしく思えて」
     茂夫が言うと、霊幻も、そうかもしれないなあと良い塩梅に冷めた茶を啜る。
    「なんか、ちょっと悪くない感じです」
     こそばゆいような懐かしい気持ちが、どこか嬉しくてそう伝えたときだ。
     ちかり、と何かが光った。
     なんだろうと光に目を向ければ、真向かいには、当然今の今まで話していた霊幻が座っている。その目が黄色に光っていた。
     髪の毛を見ても色素は薄い方だが、霊幻の瞳の虹彩はごく普通の日本人的な焦げ茶色である。それがちかちかと黄色に光って見えるのだ。
     幾度か目を擦ったところで、茂夫は確かに師の目が不可思議に明るい色を放っている事実を受け止めるだけだった。
    「なんだ、どうかしたか」
    「あ、いえ……」
     黙って凝視する茂夫を不審に思ってか、霊幻が尋ねると、その色は瞬きに消えて見えなくなってしまった。
    「なんでもないです」
     すっかり焦げ茶に戻っている目を見て、何かの見まちがいだろうと思うことにした。事実、不思議の名残も見えない、いつもの相談所の情景に、茂夫がそう了解してしまっても仕方のないことだった。

     そんなことはすっかり忘れて高校生活をこなす中、再びの相談所。その日は予定はなかったが、トレーニングルームの利用時間の関係で早く愛好会の活動が終わったので、相談所へ顔を出すことにした。早くも夏服への移行期間で、半袖のカッターシャツが涼しかった。
    「え、モブ? 今日来る予定だっけ?」
     久しぶりだね、と朗らかに歓待する芹沢に対し、文字通り目を白黒、ならぬ緑と黄色にして、霊幻は驚きを露わにした。緑と黄の点滅は信号機のそれよりもゆっくりとした瞬きで、まちがいではなく、確かに見て取れた。
    「師匠、何かありましたか?」
    「ん? 特に変わったことはないが……。てか、お前、部活は?」
    「今日は早く終わったんです。愛好会ですけれども」
    「ああ、そうなのか」
     図らずも逸らす形になった会話に、茂夫の尋ねたことは挨拶のそれと了解されたらしい。特に追及もなく、まあ座れよと促されたソファで、そろ、と横目で窺う。仕事の手を止めて顔を上げた芹沢は、今まさに霊幻の目がカラフルなことになっているのに気づいていない様子である。
     超能力者としては非常に強力な力を持ち、心霊の対処もできる芹沢は、感知の面でも茂夫に引けは取らない。それがまるで気がつかないとなれば、この異変は常人には無論、能力者にも相当の力がないと気づけないらしい。
     日頃、同じ事務所内で働いている芹沢が気づいていないとすれば、目の色以外、霊幻の様子に変わりはないのだろう。もしも、悪意のあるものの仕業ならば、相当巧妙で知恵のまわる奴だ。
     どこかで連れてきてしまったのだろうか。また危ないことに一人で首を突っ込んでいるのかもしれない。
     焦る気持ちはあったが、上手くはぐらかして当人から心当たりを聞き出す自信のなかった茂夫は、この日は黙っていることを選択した。もう暑いな、と氷のグラスに緑茶を注ぐ霊幻の目は、穏やかな黄色だった。

     学校帰りや週末にしばしば相談所へ通うようになって、受験期以降思っていたよりも足が遠のいていたことを実感する。足繁く通う茂夫を初めは新生活でのストレスや不安からかと心配した霊幻だが、「師匠に会いに来てるだけです」と言ったところ、難解な表情の後に一応納得した。
     その過程で図らずも判明したことがある。それは、瞳の色はどうやら霊幻の感情に連動しているらしいということである。
     「何かあったか?」と尋ねてきたときには紫に翳っていた虹彩が、茂夫が件の言葉を返すとパッと緑になり、それが黄や赤に目まぐるしく、それこそ色味もあってさながら信号機のように点滅し始めた。やがて、最後は黄色に落ち着いた目を明後日の方向へ向けて「ならいいけど」と呟く霊幻に、さすがの茂夫も一連の様子から照れていること、まんざらでもないことは分かった。それからは、もう少し試してみることにした。
     行けないと連絡しておいて急に尋ねると、驚きの表情から一転、瞳は緑から黄に。依頼先の、いかにも虫が出そうな廃ビルでは冷や汗が吹き出すと共に、怯えた青がぐるぐると渦巻いていた。物音がするたび、緑と青が全く安全ではない調子で点滅する。通りすがりのコンビニでポップを眺めていたから、次の訪問の手土産に新商品のピスタチオ風味のポテトチップスを買っていくと、ありがとな、と返す目は明るい黄色にピンクがちらついていた。
     色には一定のパターンがあり、喜んでいるときは黄色、驚きや困惑は緑、心配は紫、恐怖には青、おそらく照れているときは赤。といった具合が、茂夫が観察から得た予想だった。
     そして、この観察の過程でさらに分かったことがある。

     一つは、この現象に危険はなさそうであるということだ。
    「少なくとも霊的なもんやら、悪質な念は感じないな」
     茂夫の感知の及ぶ限り、目の色が変わる以外に霊幻に特段変わったことはなく、そしてその変化は茂夫にしか見えない。ある晩、部屋にやってきたエクボに正直に尋ねてみたが、やはり気がついていなかった。
    「俺様が感じ取れないんだ。霊障の類じゃあないだろう」
    「そっか……。そうすると、超能力の方かな?」
    「だとしても、ここまで隠蔽できるたあ、かなり器用な奴か。もしくは……」
     茂夫を一瞥するエクボは言い淀んだが、それは一瞬で「シゲオ、お前さんの能力なんじゃないか」と告げてきた。つまり、何かしら未知の力の影響ではなく、茂夫の能力で霊幻の感情が目に見えるようになっている、ということだ。
     躊躇ったのは、自身の能力が知らぬ間に発現しているという推測に、茂夫が傷つきはしまいかと心配してのことだろう。茂夫は友人に、大丈夫だと目で頷いてみせる。言うべきことは、はっきり伝えた方がいいと、もう分かり合っている間柄である。それに、感情を盗み見ることは良くないことかもしれないが、霊幻が危険に晒されているよりかはいい。
    「なるほど……、そっちの可能性があるんだ……」
     家族が危険な目に遭っていると思ったとき、探知の能力を飛躍的に向上させた経験があるが、同じく鋭く研ぎ澄まされた能力が、人間の認知を一段階上げたのだとしたら。なくはない話である。
    「俺様も一応気は配っておくが。大事がないようなら気にしすぎるなよ」
    「うん、ありがとう」

     そうして、もう一つ。茂夫に会うことを霊幻は殊の外喜んでいるということだ。それも、思いがけない形で。
     頻度の増えた訪問を鬱陶しがるでもなく、「入ったばっかなんだし、学校の友だちと遊ぶとかないのか?」などと言いながら、その目にはいつも隠しきれない黄色が映し出され、さらには明るいピンクが見え隠れする。
     初めはピンクも黄色と同じく喜びの感情かと思った。しかし、当たりのラーメンを見つけたときや散歩中の犬を撫でさせてもらったときには、やはり黄色しか現れない。
    そして、ピンク色に染まるとき、茂夫を見る霊幻の目は、なんとも言えない甘い気配をまとっているのである。
    「恋してるんじゃないの? モブくんに」
      驚きの混じった黄色い声を上げるトメは、好奇心を隠すでもなく、茂夫の顔を覗き込む。
     近頃、こんな視線を向けられるのだけれど、なんだと思いますか。相手を伏せた上で打ち明けた際の第一声だった。
    「え、でも、前はそういうの勘違いって言われたけど……」
    「女子の視線を感じるーってやつでしょ? そりゃあ、あんときのモブくん、完全に調子に乗ってたもの」
     夕方のファーストフード店、相談料のポテトを摘みながらの指摘に、茂夫も若干恥ずかしさを覚える。自覚はあるが、それを人から再度指摘されるのは別の問題だ。
    「モブくんなんだかんだ優しいし、高校で一から人間関係スタートってなれば、そういうとこ気づいてくれる子もいるんじゃない?」
     思いがけず手放しで褒めるトメは「で、どんな子なのよ?」と楽しげに聞いてくる。サブカルを愛する彼女であるが、知り合いの恋バナも同じく楽しめる性質らしい。
    「どんな子……」
     相手が霊幻だと言えれば苦労はない。が、実際に気持ちを告げられたわけでもなく、勝手に感情を見ている状況なのでそうもいかない。かと言って、上手い作り話も思いつかない。
    「……いい人だと思う」
    「へえー印象は悪くない、と」
     嘘を吐くときは幾らかの事実を混ぜるともっともらしく聞こえると言う。実際、茂夫にとって霊幻が『いい奴』であることは事実だ。
    「他には? どうなのよ?」
    「どうって……」
    「その子のこと、いいな、とか。付き合いたいなーとかないの? 相手はモブくんのこと好きなんでしょ、たぶん」
     スプライトのストローを啜りながら、トメは少し呆れた様子である。しかし、茂夫はただ純粋に驚いていた。
     霊幻が自分のことが好きである、ということまでは、ずっとそばにいれば嫌でも分かる。ただ、それは純然な好意や師弟の情であって、恋の感情になるとは思いもよらなかった。
    「モブくん?」
    「……今は、意外だなって気持ちが一番かな」
    「ふーん」
     もっと喜んだりするかと思った、とつまらなさそうなトメに、茂夫もポテトを齧った。油分と塩気がおいしい。
     意外な気持ちは大きかったが、嫌悪感はない。ただ、長い間師弟の間柄であったものに恋心を抱けるのかと不思議だったのだ。
     茂夫が幼なじみの高嶺ツボミを意識したのは遠い昔で、長らく片思いの関係だった。振られて以降、関係は少し変化したように思うが、彼女にとって茂夫はまだその対象ではない。
    「まだよく分からないけど、今までの関係がなくなっちゃうのは嫌かな」
    「ふーん?」
    「でも、本当に相手が僕を好きだっていうなら、簡単に断りたくないし、ちゃんと考えたい」
     茂夫にとって恋をするのは楽しいことだった。彼女のことを考えると気持ちが明るくなるし、手を繋いで一緒に帰る想像はドキドキして、嬉しくて温かかった。霊幻も、その茂夫と同じような気持ちならば。 
     今、霊幻の気持ちを改めて、自身の気持ちも判然としないまま決断することはきっといけないことだ。この気持ちには誠意を持って向き合わなくてはならない。彼女がそうしてくれたように。
     だから、茂夫は霊幻の恋を見守ることにした。
     モブくんらしくていいんじゃない? と、スプライトを飲み干して、トメは笑った。

    *

    「よお、モブ」
    「こんにちは、師匠。お久しぶりです」
    「おー、焼けたなーお前」
    「そうですか?一応、走ってはいるんで」
    「勉強の合間に大したもんだ」
    「へへ」
     すっかり夏と呼んでいい季節になっていた。誕生日を迎え、正式にアルバイトができる年齢になった茂夫は、トレーニングになるかと愛好会のない曜日に本屋での仕事を始めた。とはいえ、相談所の手伝いも続けている。今日も霊幻の顔を見に来たが、今では異変がないかの確認というより、彼が自身に向ける感情の色を確かめに来ている意味合いが大きい。
    「生物を取ったんですけど、授業でやらない実験とかあっておもしろいですよ」
    「ほお〜、どんなことすんの?」
    「前回は解剖をやりました。豚の心臓と肝臓で」
     進路は未定だが、学校の補講で興味のあった生物の講座を取った。その話を興味深げに聞いてくれるのが茂夫は嬉しかった。話題の内容というより、茂夫が話しているからだということは自惚れではなかろう。霊幻の目には黄だけでなく、微かな緑やピンクがじんわりと発光する様子が見てとれる。
    「おいしいのを知ると、お店のホルモンとかもっと挑戦してみようと思いました」
     勉強も楽しいが、食い気に流されるのは致し方ない。実験の後もらったホルモン焼きの味を思い出すと空腹を覚えた。日常的に運動をしている男子高校生の胃袋は底なしである。あまり食が太い方ではなかった茂夫もそこは同様だ。
    「ちょうど、駅の並びにホルモン焼きの店あるけど、行くか?」
    「え、ほんとですか。行ってみたいです」
     パッと瞳の黄色が一際輝いた。茂夫が誘いに乗ると霊幻は特に嬉しそうだ。殊更に大きなリアクションがあるわけではないが、目が口ほどに物語っている。
    「じゃあ、暇な日教えてくれよ。別にこの後でもいいけど」
     控えめな物言いだが、目は期待するように黄色がちかちか光っていた。
    「じゃあ、今日いいですか?」
     それを見て茂夫が答えれば、そこで霊幻は笑みを浮かべた。当然、瞳は花が咲くように黄色く瞬いている。
     茂夫の目にだけ明らかなことではあるが、これだけ強い感情を向けていながら、霊幻がそれを口にしたことは一切なかった。むしろ、おくびにも出さないよう気をつけているように見える。
     どうやら、霊幻には茂夫にその気持ちを告白する気はないようなのである。

    「師匠は、どうしたいのかな」
     霊幻の恋を見守る傍ら、茂夫の中でだんだんとその疑問は大きくなっていった。

    *

     以前、貰い物でおいしかったことを思い出し、買っていったコーヒー味のエクレアは、学生の財布にも優しいチェーン店のものだったが霊幻はいたく喜んだ。きちんとカップで紅茶を入れていたあたりからも、それが窺える。
     芹沢は出張のようで、霊幻の様子見を頼んでいたエクボは、茂夫が来たのと入れ替わりにどこかへ出ていった。懐かしい二人きりの相談所で、カスタードクリームを口の周りに食べさせている霊幻を見ながら茂夫は考えていた。
     茂夫が告白しようと思い立ったのは、彼女の転校がきっかけだったが、いつかは気持ちを伝えて、登下校を一緒にできたらと淡い願望を抱いていた。茂夫と霊幻は十四離れていて幼馴染でも、同じ学校の同級生でもない、会おうと思えばいつでも会えるが、茂夫が足を運ぶなり、霊幻が呼び出さなければ会う機会がない。それは向こうも分かっているはずで、茂夫からすれば行動力の塊である霊幻が何もアクションを起こさないのが不思議だった。恋をしている相手がいて、少なくとも好意を伝えて嫌がられない程度の距離ではあるというのに。
    「どうした。何かあったか?」
     不意を声をかけられてはっとする。霊幻はいつの間にかエクレアを食べ終え、茂夫へ紫の目を向けていた。
    「悩んでいるように見えましたか?」
    「いや、なんつーか、なんか言いたそうだなあと」
    「まあ、そうですね……」
     やはり、すぐ悟られてしまう。霊幻は単純に勘がいい。そこに長年の付き合いがある上、茂夫は彼曰く分かりやすいらしい。一方で、茂夫には霊幻の真意が分からない。器用で、変なところに一生懸命で、ずるいところがあって、けれど尊敬している。知っていることはたくさんあるが、なぜこの恋心を打ち明けないのかは分からない。
     そこまで考えて、ふと一つ思い当たった。自身が告白するときは、彼女に心を寄せるライバルとかち合わないよう、昔、一緒に遊んだ公園に呼んで思いを伝えようとした。その点は、米里にも特別なシチュエーションなら差がつくと褒められた。
     霊幻と会うのはいつも相談所か、そうでなければ除霊の出先、他に一緒になるとしたら帰りに食事に行くときだ。もしかすると、いつものパターン過ぎてタイミングがなかったのかもしれない。かといって、そのどちらでもない場所で会うには、何と誘い出すべきか。いかな霊幻が口が上手くとも、難度が高かろう。だったら、経験者として、助け舟を出すべきなのではないだろうか。
    「その……遊びに誘われるとしたら、どんなところがいいものなんでしょうか」
     告白にはシチュエーションが大切だ。良い雰囲気の場所で二人きりになれれば切り出しやすいかもしれない。それに、茂夫と一緒に遊びに出かけるとなったら、霊幻はきっと喜ぶだろう。とはいえ、茂夫には成人男性の想定する良い雰囲気の場所は思いつかないので、当人の好みを聞いた方が早い。
    「そりゃあ、相手がどんなタイプかと、今の関係にもよるな。最初は飯に誘うくらいがいいんじゃないか」
    「その段階は、結構前に済ませているので」
    「なるほどなるほど、もう少し踏み込みたいと……」
    「ええ、まあ。そうなのかな……?」
     確かに、霊幻がこれからどうしたいのか、一歩踏み込んで聞いてみたいとは思っている。一度、緑色に目を丸くした霊幻は、饒舌にシチュエーションプランを語り出した。
    「うーん……あれだな、趣味が分かるなら映画とか……。ただ、ハズレを引いたときの気まずさが半端ないな。テーマパーク系も初っ端はやめとけ。ライド待ちの間が持たん」
    「そうなんですね」 
    「そうだな、会話がなくても大丈夫で、逆に盛り上がりそうなら話のネタが作りやすいとこがいい。遊園地とか、動物園とか水族館もありだろ。あ、ただし乗り物酔いとか、臭いで気分悪くなる子もいるから気をつけろ」
    「なるほど」
     そういうところに行きたいんだという納得と、やっぱり師匠は物知りだなと感心して頷く。ちょうど高校生の茂夫でも行けそうな場所ばかりだ。
     乗り物酔いが酷い自覚があるので、遊園地はあまり一緒に回れない可能性がある。基本的には公共交通機関で行ける範囲となると、心当たりは限られてくる。
    「霊幻師匠。水族館……だったら、いつ行けますか?」
     調味から電車で行ける範囲にはどちらもあるが、水族館の方がどことなく大人びた印象があった。テレビの特集では夕方から水族館を楽しむ大人向けのプランも見る。
     霊幻はまた困惑気味にしばし緑に目を瞬かせたが、マイナスな色は浮かべていない。そして、やがて合点がいったように黄色に染まっていくと、「なるほど予行練習だな?」と言った。
    「そう? ですね?」
     予行練習とは……何のだろう。
     よく分からずに首を傾げる茂夫に対し、霊幻は分かっていると言わんばかりに頷く。
    「その依頼、この霊幻新隆が引き受けた!」
    「依頼ではないんですけど」
    「いいじゃねえか。だいたい、師匠が弟子にお願いされて聞かないわけないだろ」
     霊幻はどことなく茶化す気配の笑顔で肩を叩く。困惑しきりであったが、明るい黄の瞳が満足そうだったので、ひとまず茂夫は口をつぐんだ。

    「本人と予行練習ってありなのかな……?」
     なんだか勘違いしてそう、と帰り道、思わず呟く茂夫だったが、その疑問に答えるものは誰もいなかった。

    *

     待ち合わせの朝はよく晴れていた。小学生の頃、どこかへ連れていってもらうときは、霊幻が茂夫の自宅まで迎えに来ていた。考えてみれば、二人で待ち合わせてどこかへ行ったことは少ない。
     霊幻と出掛ける旨を聞いたエクボは可笑しな顔をしたが、行き先を聞いて服装の相談に乗ってくれた。初心者はシンプルが一番と、茂夫が初めに手に取った色柄物ではなく、以前律の選んでくれた黒いシャツを真っ新なTシャツの上に羽織った。足元を綺麗にする重要性は霊幻から教わっていたので、クリーナーで磨いておく。
     先に着いていた霊幻はスーツではなかった。手元の携帯電話に視線は落とされていて、襟ぐりの広い茶のニットから首筋がすっきりと覗いている。ゆったりしたニットから伸びる脚は、黒いパンツがタイトゆえに長さが際立った。改めて見ると、自分の師匠は結構見た目も良い人なんだな、と思う。
    「おはようございます、師匠早いですね」
    「おはようさん。たまたま早く出られてな」
     声をかけると、携帯をしまった霊幻は茂夫の頭の先から足元までを見て満足げに頷いた。
    「うん。デート服としては気負い過ぎず、かつ清潔感もあって良い塩梅じゃないか」
    「ありがとうございます。師匠はそういう格好するんですね」
    「まあ、仕事じゃないしな」
     私服で待ち合わせ、なんだかデートみたいだ。
     ちょうどそう思っていたところだったので、霊幻の言葉に茂夫は頷いた。告白こそ受けていないが、好意を持っている人間と特別に二人だけで出掛けるとなれば、なるほどこれはデートである。
    「いつもきちんとしてるから、新鮮です」
    「そらあ、こちとら客商売だからな」
    「なんか、良いですね」
    「へあ?」
     仕事じゃないから。つまり、霊幻は自分のために服を選んできてくれた。ならば、良いと思ったならちゃんと伝えるべきだろう。純粋な気持ちで褒めたのだが、不思議な鳴き声とともに霊幻の目は黄色と緑と赤とピンクと……それはもう目まぐるしく変化した。
    「あ、ありがとな。うん、その調子だ。ちょっとしたことに気づいて褒める。小さいことだが大事なことだぞ!」
    「はあ」
     褒めたことを褒められた。霊幻が大仰な物言いをすることはいつも通りだが、なんとなく一生懸命取り繕っているように思える。少々、釈然としない気持ちはあったが、ひとまず電車で目的地へ向かうことになった。

     目的の水族館は、調味から電車を一度乗り換えた大きな駅から歩いてすぐにあった。よく知ってたな、と聞かれたので、その水族館のイルカショーの話をした。ジャンプが苦手で、それでも何度も挑戦したイルカがいたこと。直向きに努力するエピソードは、子どもながら感ずるものがあった。その話をしているとき、霊幻の目がポーとピンク色に染まっていったのは、なぜかだかよく分からなかった。

     霊幻が奢ろうとするのを断って館内へと進む。今日は保護者と子どもではないのだから、そこは対等でありたい。
     暗いエントランスは水族館のそれというより、大きなスクリーンに映し出される魚の群れの様子もあって映画館のようだった。深く、静かに沈んでいくような海の音が、BGMに流れている。以前、B級映画を見るのが趣味だと言っていたから、こういった雰囲気は好きかもしれない。横顔を見上げると、霊幻は映像や展示されている幾何学的な作品群を興味深げに見ていた。進むごとに微細に変化する瞳は嬉しそうだった。
     途中、メリーゴーランドと海賊船があって、遊園地のようだと二人で驚いたり、オシャレ度の高いカフェカウンターを少し遠巻きにしたりして進んでいく。そうして、最初の水槽の部屋についた。
    「すっげえな」
    「はい、すごい……」
     この水族館を選んだ理由は、イルカのことを覚えておいたからだけではない。小さい子ども連れが好むようなショーやふれあいコーナーばかりでなく、入り口からでも分かるように大人向けの演出がなされているからだ。その一つが、このクラゲの展示スペースだった。
     丸い水槽を照らすライトの色が、音楽に合わせて変化し、透き通った体のクラゲ達を何色にも見せている。薄暗い中、ゆったりと漂う姿を静かに眺める。こういうのが大人のデートなのだろう。
    「モブ、クラゲ好きだったろ。良かったな」
     霊幻の言葉に、小学生の頃、連れて行ってもらった水族館でもこうしてクラゲを見ていたことを思い出す。高い天井いっぱいに広がるメインの水槽は、大きくて明るくて、とても怖かったことを覚えている。静かで暗いクラゲの水槽は見ていると落ち着いて、それに霊幻も黙ってついていてくれたことも。
    「はい。昔見たのも好きだったけど、これはすごいですね」
     何気ないことを覚えていてくれたことが、なんだか嬉しくて、茂夫は自然に頬が緩んだ。その瞬間、霊幻の目にはピンクが飛び跳ねて、暗い中で花火のように散った。
     クラゲの展示を抜けて現れた大水槽の中を通るトンネルは、上空からの日光を通し、足元へ影を作る。波に揺れる光に茂夫は木漏れ日を想像した。夏は学校が休みであったこともあり、季節柄よく出張除霊に連れ出された。だからか、夏の木漏れ日と一緒に思い出すのは、やはり隣を歩く霊幻の姿だった。悠々と泳いでいくマンタを見上げ、二学期の修学旅行で行くであろう国営公園の話をする。ジンベイザメが有名らしい。
     熱帯の生き物達のゾーンに進むと、それまでの静寂で幻想的な雰囲気はなくなり、一気に賑やかな原色の世界になる。
    「カワウソって随分表情豊かなんですね」
     僕よりも表情筋使ってそう、と呟くと、お前も結構分かりやすい、と慰められた。そうは言うが、茂夫を分かりやすいと言うのは霊幻くらいだ。
    「かなり賢いらしいな。道具を使って遊ぶらしいぞ」
    「へえ、すごいや。それにしても元気ですね」
     ちょこまか動き回るカワウソを追う目は楽しげな黄色だ。カワウソはぬるりとした動きが猫のようで、けれどやはり違うなと茂夫は思った。
     目に見えて今日の霊幻は楽しそうだ。黄色はもちろん、ピンク色もたびたびその目に浮かび、常よりその頻度は高いように感じる。誘って良かった、と柔軟にスケルトンのトンネルを通るカワウソを眺めながら思った。

    「師匠はどれにしますか?」
    「んんーー……、やっぱここは苺Wクリームチョコかな。モブは?」
     クレープとは家族と一緒に行ったフードコートで、特別なときに買ってもらう物だった。ワゴンの周りは色とりどりのクレープの包みを持つ人々で賑やかだった。生地の焼き上がる甘い香りが漂っている。
    「なら、僕はバナナで」
    「バナナも鉄板だよな」
    「お互い味見しましょうよ」
    「お。それ、きっと本番でもウケるぞ」
    「はあ」
    「なんだよ、チャンスは狙ってかないとだぞ」
    「師匠は?」
    「え?」
    「師匠は嬉しいですか?」
    「そ、そらあ、バナナも好きだし……」
     本番も何も、それはこれからでは? と内心首を傾げる。ともあれ、違う味を選んで交換することが受けが良い、と霊幻は考えているらしい。
     言い淀む霊幻の目をじっと覗き込むと、緑から青、紫と困惑や怯えが滲んでいる。何か、想像していた反応と違う。
     そこで注文のクレープが出来上がったので、二人分を受け取る。
    「クレープって小さい頃に買ってもらってたけど、自分で買うのは初めてかも」
     霊幻に苺Wクリームチョコを渡すとすぐさま齧りついた。昼食にはまだ早い時間だが、そんなにお腹が減っていたのだろうか、と茂夫もクリームとチョコのかかったバナナを齧った。しかし、その割には味見で渡したクレープを霊幻はほんの少ししか齧らず、苺のクレープも半分食べたかどうかで残りを全て茂夫にくれてしまった。

    「そろそろ始まるみたい」
    「楽しみだな」
     小腹を満たして、今日のメインイベントであるイルカショーのステージに向かう。プールを囲むスタジアム型の客席の半ばに席を取ると、音楽と共にステージにトレーナーが現れ、合図でイルカ達がプールへやってくる。
    「イルカってあんなに速いんだ」
    「なんかあいつだけイルカっぽくない顔してるな」
    「ほんとだ。あれ、なんだろ。ちょっと顔が丸いのかなあ」
     軽く泳いでいるだけのイルカのスピードに早くも圧倒される。模様の違うイルカ達はウォーミングアップといった具合に、プールの中を縦横無尽に泳ぎ回り、軽いジャンプを披露する。一頭は小型のクジラだそうだ。
     プールのあちらこちらと上方から噴水が上がり、ライトの演出に合わせて音楽が始まる。ジャンプするイルカ、鰭を振って客席の間際を横切っていったイルカに目を奪われていると、高くジャンプしたイルカが吊るされたボールを尾鰭で叩いて、大きな水飛沫を上げる。
    「すごい……、あんな高くに」
    「水ん中の生き物なのになあ」
     素早いイルカ達の姿を追い切ることはできず、きょろきょろする茂夫の横で、霊幻も感心した声を上げた。
    「師匠、すごい。すごいですね、イルカ!」
     今はいないあのイルカも、このステージで精一杯跳んだのだろう。不思議な愛嬌のある声で鳴くイルカ達は、素晴らしい芸を次々に見せつけてくる。伸び伸びと軽やかに。
     その姿に思わず前のめりになった茂夫の手が、隣にあった霊幻の手に触れた。気持ちが昂ったまま、それをぎゅっと握りしめる。何か意図したわけではなく、勢いで握ってしまったが、茂夫自身、好きな子と手を繋ぐことが夢だった。だから、霊幻も喜ぶだろうかとは多少なりとも考えた。
     しかし、一瞬で強張ったそれが、自身の手の中で急速に冷えていくことに茂夫は驚き、隣を振り返った。そこにはひどい顔をして俯く霊幻の姿があった。
    「師匠? どうしたんですか」
     ハッと我に返ったように霊幻は茂夫を見たが、やはり真っ青な顔色をしている。そしてなにより、その目が物語っていた。
     茂夫は、霊幻が泣いているのかと思った。それほどに、その目は悲しみに溢れた色をしていた。
     どれほどつらい思いを押し固めたら、こんなに悲しい青になるのだろう。押し潰されてしまいそうな、深海の黒に似た冷たい水の色。どこにも行けない子どものような、絶望に満ちた暗い色。どうにも言い表しきれない、深く悲しい光だった。
     こんな姿は今まで見たことはない。唖然とする茂夫から慌てて目を背ける仕草も、明らかに精彩を欠いていて、らしくなかった。
    「モ、モブ」
     乾いた声が名前を呼んだきり、続く言葉はなく、ショーが終わって他の観客が席を離れる中、霊幻はそれにも気が回らない様子だった。
     どこかで休もうと、握ったままの冷たい手を引こうとするが、力無く座る霊幻を支えるには茂夫にはもう一歩リーチが足りなかった。
    「師匠」
     呼びかけると、のろのろと顔を上げた霊幻の目は、悲しみに加え、弱々しく怯えていた。
     師匠は何をそんなに怯えているんだろう。何が師匠をそんなに悲しませているんだろう。
     間近にある目の色は知れても、霊幻が何を思っているのか、茂夫には分からなかった。苦しげに眉を顰めて、唇を戦慄かせて、こんなにつらそうな顔をしているのに。
     師匠の表情を、きちんと見たのはいつぶりだろう。
     目の色を見て、師匠の気持ちを分かっていたつもりだった。
     けど、そうじゃなかった。

     茂夫は息を飲んで、それから、決意して霊幻を見つめた。霊幻は相変わらずひどい顔だが、茂夫の視線を受け止めてはいた。
    「師匠、僕のこと好きですよね」
    「え? そりゃ、弟子だからな」
     茂夫にとっては単なる確認だが、実際、ここまで茂夫は自分からそれを言葉にして確かめたことはなかった。霊幻は否定することなく返したが、言葉の意味合いが異なっていることに茂夫は気づいていた。
     霊幻が告白しなかったのは、初めから伝える気がなかったから。この恋が叶うはずもないし、叶える気もない。葬り去る以外の道は最初から霊幻の中になかった。それが、霊幻の誠意で、愛情だったのだから。
     茂夫が向けられる感情を素直に受け止めていたとしても。茂夫の心中なぞ知る由もない霊幻は、どれだけ不安だったろうとようやく思い知る。
    「ああ、すみません、そうじゃなくて……。恋愛で、という意味です」
    「な、に言ってんだよ」
    「目を見れば分かります。嘘つかなくて大丈夫ですよ」
     数多の感情が渦巻く瞳はすっかり混乱している。苦しげに歪んだ眉も、冷たく震える手も、何も取り繕えていない。
    「そんなになっちゃう前に、聞いてくれればいいんですよ。師匠は話すの上手なんだから」
    「だから、な」
    「僕が、師匠のことをどう思っているか」
    「に」
    「ちゃんと聞いてくださいね」
     霊幻が自分の言葉から逃げないように、自分自身の気持ちから逃げてしまわないように。
     冷たく震える手に、じっとり汗ばむ自身の手を少し恥ずかしく思いながら重ねて、真っ直ぐに目を見る。
     師匠がどうしたいのか、疑問に思っていた。告白してくれればいいのにと。
     そう思うこと、そもそも応えたいと思うこと自体、もう師匠のことが気になっているということだったんだ。

    「僕は師匠のことが」


     茂夫の見つめる先で、霊幻の虹彩は本来の焦茶に戻っていく。それから二度と不可思議な色合いになることはなかった。ただ、正真正銘、まっさらなままの気持ちをそこに浮かべて。
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    humi0312

    DONE2236、社会人になって新生活を始めたモブくんが、師匠と通話する話。
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    1305

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