遠くにありて思うもの『そっちはどうだ』
スマートフォン越しの声が抽象的にしかなりようのない質問を投げかけて、茂夫はどう答えるか考える。
「やること多くて寝るのが遅くなってるけど、元気ですよ。生活するのって、分かってたけど大変ですね」
笑い声とともに、そうだろうと返って来る。疲労はあれ、精神的にはまだ余裕があることが、声から伝わったのだろう。
『飯作ってる?』
「ごはんとお味噌汁は作りましたよ。玉ねぎと卵で。主菜は買っちゃいますけど」
『いいじゃん、十分。あとトマトくらい切れば』
「トマトかあ」
『葉野菜よりか保つからさ』
仕事が研修期間のうちに生活に慣れるよう、一人暮らしの細々としたことを教えたのは、長らくそうであったように霊幻だった。利便性と防犯面を兼ね備えた物件の見極め方に始まり、コインランドリーの活用法、面倒にならない収納の仕方。食事と清潔さは体調に直結するからと、新鮮なレタスを茎から判別する方法、野菜をたくさん採るには汁物が手軽なこと、生ゴミを出すのだけは忘れないよう習慣づけること、部屋の掃除は適当でも水回りはきちんとすべきこと、交換が簡単なボックスシーツ、スーツの手入れについては物のついでに、実にまめまめしいことこの上ない。
一度に全ては無論、伝えきれない話なので、新居の内見や引越しの手伝い、休日前夜の通話で、一人で生活するための術は着々と伝授されていっている。
「この前安いクリーニング屋さん見つけました」
『どこらへん?』
「駅に行く途中の、郵便局の並びです」
『へえ、近いじゃん』
「朝早くから開いてるんで、頑張れば行きがけに出していけます」
『便利だな。ノンアイロンでもたまに出しといた方がいいぞ』
「善処します」
アイロン掛けは端から諦めた茂夫を懸命な判断だと笑って、一緒に形態安定ワイシャツを選びに行ったのは調味を離れる前だ。つい先月のことがひどく昔のように感じる。
「連休には帰りますから」
『実家で休ませてもらえよ』
「師匠のとこにも行きますよ」
離れ難さはとうに癒えた気がしていた。一人暮らし、社会に出ること、初めてのことへの幾らかの不安は、それよりも大きい期待と、調味で別れてきた人たちの存在に支えられて向き合うことができている。
忙しなくとも十二分に今の生活を楽しんでいる。それでも声を聞けば募るものがある。
声に滲んだ寂しさを気取らないはずがないのに、素っ気ない返事の霊幻に被せるように言った。
『無理すんなよ』
「無理じゃないです。そうしたいんです」
師匠は、と意地の悪い質問だと分かり切っている。常ならば、こんな試すようなことはしないが、初めにつれなくしたのは向こうだからと、茂夫はなかったことにしなかった。
『肉食いに行こう』
「……焼肉?」
『しゃぶしゃぶでも良いけど。どっちにしろ食べ放題な』
「分かってますよ。混むから早めに行かないとね」
色気はないが色良い返事に同意して、会う日の約束をする。もう一言二言を交わして通話を終えた。
明日はシーツと枕カバーを洗って、布団も干そう。トマトと、鮭なら焼くだけで良い。心地良く、順調に生活していくために。