温泉坤が目を覚ましたとき感じたのは竹の敷物のが背中に当たる、さらさらした感触だけだった。
「おきました?」
と言う声とともに、透き通った肌色の青い目の男が坤の視界を独占する。
「俺……あれ」
背中のさらさらした感触と胸の肌寒さに坤は胸をぺたぺたと触る。
裸だ。辛うじて坤の腰には西洋手拭いの感触はあるが、たぶんそれ以外は何もない。
「モノノ怪が出る前に、あなたが湯当たり起こしたんですよ」
「あぁ」
やってしまった。と坤は顔を両手で覆う。
「熱い湯に弱いのかもしれません、俺」
恥ずかしさとともに坤の脳裏のもやがするすると晴れていく。昭和の温泉宿にモノノ怪が出ると聞いて来たのだ。モノノ怪がどうも温泉伝いに宿を転々としているため、今夜どの宿に出るか分からないからと離と二人で来た。
「そのようですね」
「……あのう、見ました?」
坤はぽつりと言った。
「何を?」
「……その色々」
衣を脱ぐ場所や身体を洗う場所で、目の端に入る裸と抱きかかえるような距離で見る裸はやはり色々と違う。
そりゃあもう形は違えど、色恋の果てに見るのと同じ距離で見られたのだ。坤は顔を覆う手を金輪際外せないのではないかと思うほど、恥ずかしい。
「まぁ見たことは見たのですけれどもね」
離は落ち着いた口調だ。
あぁ、
せめて笑ってくれればいいものを、と坤は呻く。
「飲みますか?」
「とりあえず飲んで、身体を冷やしたほうがいい」
ぽん、
と真っ黒な視界の隣で、間の抜けた音が響く。
「ほれ、身体を起こして」
坤はこれ以上が見えないように西洋手拭いを押さえながら、上体を起こした。
「飲みなさい。あと四半時もなく客が浸かりに来ますよ」
「何から何までほんとにすみません」
温泉の水質の衛生の検査だと宿の主人に言っているため、出ていかないと叱られる。
「どっちのナニかは聞きませんが」
離に差し出された冷たいガラス瓶を受け取って、坤は頭を垂れる。
「そういうことを言わないでほしいです」
離の声音はいつも冗談なのかイヤミなのか分からない。
なみなみとガラス瓶の口まで入った卵色の液体を坤は口に含む。
「え」
坤は飲み込んで目を丸くする。
「美味しい、これ」
牛乳と何かの果物の汁だろうか。驚くほど甘くて、冷たい。
「これ、どうしたんですか」
「そこから……持ってきたんですが……後で主人にカネを払えばいいと思うんです」
離は細い腕を透明のガラスの箱に向けた。
「私のは……珈琲と牛乳のような味だったんですが……」
「これ、初めての味です。召し上がりませんか?」
坤は離の顔の前に瓶を持って行く。
「え」
「珈琲は大正でも飲めたでしょう? これよく分からないけど美味しいですよ」
こう見えて好奇心の強い離だ。知らないものを知りたがるのを坤は知っている。
「分からない物を他人に勧めないでくださいよ……」
言葉とは裏腹に興味はあるのだろう。
離は小言を言いながらも、瓶を受け取り、口を付ける。
「あぁ……何種類かの果物ですね、たぶん」
離は瓶を坤に再び渡すと、立ち上がる。
「どこへ?」
「お前みたいな重いのを背負うと腰も肩も痛くて……あん摩のできる椅子があっちにあるらしいんで…………のぼせちまった」
隈取りのない離の顔はほんのりと桜色に染まっている。
「あの……湯当たりですか?」
坤は首を傾げる。
「坤、今後は自分が口を付けた物を他人に渡すのはやめなさい…………のぼせるんですよ、私が」
華奢な浴衣の背中は、足早に仰々しい椅子のほうへ歩いて行った。