贅沢 許されるとしたら、どんな贅沢がしたいか。
そんなたあいも無い話をしたことがある。
任務の途中で死にかけたときだったか、移動中のトラックの荷台の上だったか、とにかく、話題も尽きて、時間だけは合って、することはなくて、でも何処へも行けなくて。
横たわる沈黙をどうにかしたくて、口にしたような話題だ。
無人島に行くときに一つだけ持って行けるなら何を選ぶか。最後の食事は何を食べたいか。一番馬鹿馬鹿しいと思う祭りは何か。一番間が抜けていると思う瞬間は何か。これだけは絶対着ない色はなにか。
おおよそ意味も意図も無い、言った先から煙草の煙のようにふわふわと空中を漂って消えていく、そんな会話だった。
「贅沢」
「そう、贅沢。一切の条件節ナシで選べるとしたら」
小さな島を買い取って、誰にも邪魔されずにのんびり過ごすんでもいい。でも島だからと言って不便な生活がしたいわけじゃないから、快適な寝室とバスルームは欲しい。あと、電話一つで冷えたシャンパンでも、熱いステーキでも、何でも持ってきて貰えなきゃ駄目だ。部屋に戻ったら、アイスペールには常に砕きたての氷が入っていて欲しい。寝室の窓は、星空が視界一杯に広がるような、大きいのがいい。満月は好きじゃ無いから、三日月ぐらいで。
そんなことをつらつらと並べていたら、お前はそもそも注文が多過ぎだ、とイリヤに鼻で笑われた。
じゃあ、お前はどうなんだ、とはぐらかされるかもな、と思いながら切り返すと、イリヤは思ったよりも素直に、ヤツにとっての「贅沢」を告白した。
「なんの邪魔もなしに、本が読みたい」
単純な、ほんとうにただ単純な声だった。
「読めばいいじゃないか」
なんて返すのが正解かは分からないまま、本ぐらい今だって、と、なるべく軽い口調で混ぜ返す。
「読みはするが、あともう一息で最後の謎解きだ、って時に限って、時間切れだったり、いきなり呼び出されたりするからな」
お前、犯人の分からない探偵モノの最悪さを知ってるか?
そうじっとりとした視線を俺に向けると、イリヤは聞いたことの無いような作家の名前と本のタイトルをつらつらと上げだした。
「任務で行った国のペーパーバックなんて、最悪の極みだ。翻訳もされてなければ、わざわざ取り寄せるようなモノでも無い。その上、話に穴があるから、正解が分からない」
そう言うイリヤの顔は本当に憎々しげで、俺はイリヤの頭の中にいる探偵たちに同情したくなった。きっと、イリヤと顔を合わせてしまったら、こっぴどくどやしつけられるんだろう。
そんな話を、した当のイリヤが覚えているかどうかは分からない。
頼んでいたカフスボタンを受け取って、ついでに見かけたイリヤが使っているアフターシェービングを買って、さて、他に必要なモノはあっただろうか、と考えながら、落ち合う約束をしたカフェに向かうと、少し色の褪せたシェードの日陰の席にイリヤの姿があった。
シェードと街路樹が作り出す暗緑色の影の濃淡が、イリヤの上に綺麗なレース模様を広げている。
伏せられた目元に見えるはずの無駄に長い睫の影は、この距離では判別はつかない。
視線は手元のペーパーバックに吸い寄せられているようで、少し離れた席から寄せられている女性客の視線にも気づいていないように見える。
長い指がページをゆっくりと捲り、そのまま卓上のコーヒーカップに伸ばされる。
多分、頼んだカフェオレをすっかり飲み干してしまっていたんだろう。持ち上げたカップの軽さにふと気がついたのか、イリヤがペーパーバックから手元のカップに視線を移し、そうして顔を上げる。
多分、あれはのんびりと近づく俺に気がついた顔だ。
軽く顎を上げて合図をしてくるイリヤに、こちらも片手を上げて了解のサインを送る。
ゆっくり近づく間に、ペーパーバックにカフェのペーパーナプキンを栞代わりに挟み込むのが見えた。
「犯人は分かったか?」
立ち上がらないイリヤの横に立って、読みかけのタイトルに目をやると、読んだことのある作品だった。
にやつく俺の顔つきでそれに気がついたのか、上目遣いにイリヤがにらみつけてくる。
「まだだ。……言うなよ」
「言わない言わない」
そう肩を肩をすくめると、一応は信用したのか、イリヤは軽くのびをして、椅子から立ち上がった。
「読み終わってからでいいぞ」
今日はもう予定がない。
ここでイリヤがペーパーバックの中の犯人に対峙するのを待っても良いし、もう一回り店を見て回ってきても良い。
小腹が空いてきたから、ここでサンドイッチでも摘まむのも良い選択のような気がしてきた。
イリヤの望む、贅沢。
それを、邪魔したくは無かった。
イリヤが、あの言葉を覚えているかどうかは分からないけれど。
「いや、いい。帰る。腹が減った」
「それは、俺に作れって言ってるのか?」
「作らせてやる」
「……じゃあ、食材を買って帰らないと」
「簡単なので良い。さっさと食べて、続きを読む」
それが人に頼む態度か?と思いながら、家にある食材を頭に浮かべる。
パスタもあったし、アンチョビやらトマトペーストやらの缶詰もある。イリヤがどこかで貰ってきたイタリアンバジルの鉢植えもあるから、適当で良いというなら、どうにかなるだろう。
「あ、ほら、これ」
ふと思いだして、手に持っていた紙袋をイリヤに押しつける。
「切れそうとかいってただろ?買っといたぞ」
覗き込んだ紙袋の中に自分のアフターシェイビングを見つけたイリヤの顔に、ほんの少しだけ気まずさを含んだ、それでも充分に嬉しそうな表情が浮かんだ。
「……助かる」
「どういたしまして」
イリヤとっての本当の贅沢を少しだけ脇に置いて、自分と一緒に帰ろうとしてくれるのだ。
こんな贅沢なことはない、とイリヤに知らせたかったが、きっと伝わらないから、やめておいた。