綺公子の甘やかし方 綺場シオンという男は、常に複数の草鞋を履いている。綺場家の御曹司として経済界で辣腕を振るうこともあれば、フェンシング選手として大きな大会に出場することもある。勿論、ヴァンガードファイターとしても一流の実力を誇っている。
常に済ました表情で、時には余裕すら感じさせる笑みを浮かべる彼を見て『天は二物を与えず』という言葉を信じたくなくなる者も多いと聞く。
しかし、綺場シオンとて人間である。
ある日。大学の講義を終えたクロノはスマホに届いたメッセージを見て眉をひそめる。遊びに行こうという友人の誘いを断り、彼はまずスーパーに向かった。
その日は朝からみっちりと商談のスケジュールが詰まっていた。その全てを終わらせ、空白の時間をようやく確保したシオンはある場所に向かっていた。
御曹司には似つかわしくない、古いアパート。その一室は、かつて中学生だったシオンが一年近く暮らしていた場所だ。苦い記憶も蘇るその場所を、今は一時の休息を過ごす場としてシオンは活用していた。
明日からも商談は続く。ここで一度、張りつめた神経をリセットさせる、そして初心に帰る。そんな目的でシオンはそこを訪れていたのだが。
食欲をそそるスパイスと肉の匂いに、鍵を取りだしかけた手を止めた。
(まさか)
シオンがこの部屋を使っていたことを知っている人物は限られる。おそるおそる鍵を開け、中に入る。
「クロノ」
「お、おかえり。そろそろだと思ってた」
狭い台所で窮屈そうにしながら、クロノがビーフシチューの入った鍋をかき混ぜていた。
「どうして」
「その感じだと気づいてなかったな。お前、メッセージ全部ひらがなになってたぜ」
「え」
シオンは慌てて鞄からスマホを取り出し、送信履歴を確認する。
『つぎにあえそうなひのことなんだけど、いっかげつごくらいになると思う』
「本当だ……気づかなかった、っわ」
「はい、没収」
クロノの手がシオンのスマホと鞄を奪い取る。
「ちょ、ちょっと」
「ほら、スーツも脱いで眼鏡も外せ」
「あ」
強引に眼鏡を外され、スーツを脱がされ、あれよあれよというまにガラスのテーブルの前に座らされる。
「クロノ、君ねえ……」
「ほら。食った食った」
ビーフシチューがよそられた器と丸パンの乗った皿がテーブルに置かれる。木のスプーンも手渡され、シオンはおとなしく口をつけた。
「いただき、ます」
「美味しい」
「よかった。ゆっくりでいいし、おかわりもあるからな」
クロノはシオンの隣に座る。小さなテーブルに、向かい合わせでなく隣同士で座るのは居心地が悪いのだが、シオンは指摘しなかった。
「今日さ、朝まで一緒にいたい。寒いし、狭いから二人で布団入ろうぜ」
「………………そうだね。君がそう言うなら、そうしようか」
一見すると、クロノの方が甘えているように見える。しかし実態は逆だ。
シオンは器用だ。要領もよく、それ故に複数の草鞋を履きこなして日々を過ごせている。
しかしその要領のよさは、恋人同士の営みにはまるで発揮されない。はっきり言って甘え下手だ。
そしてシオンは、クロノに対して厳しいが甘い。
勉強に関しては悪魔のように妥協がなくなるが、同時にクロノからの願いを断ったことは一度たりともない。
そんなシオンの性質を熟知しているクロノは、それを逆手に取った。
「……ありがとう」
「おう。あ、デザート買ってきたけど食うか?」
「………………今は、まだいいかな。もう少し、このまま」
「ああ」
シオンの頭の重みが肩に伝わる。クロノはそっと反対側の手でシオンの頭を撫でた。