レインVSウサ吉 後編レイン・エイムズの受難(レイン視点)
マッシュが部屋を出て行ってからウサ吉を見れば、座っていたローブへと身体を擦り付いている姿が目に入った。
マッシュの匂いが色濃く残るローブに自分の匂いをつける。つまるところマーキングである。
ウサ吉は自分のものだと主張したいのだろう。
マッシュの膝の上でも、撫でる手や触れてる足に必要以上にすり寄っていたのを見ていた。
マッシュがその意味を理解しておらず、ただ懐かれているだけだと思い、嬉しそうに許容している姿はなんとも複雑な心中にさせるものであった。
ウサ吉にとって、マッシュは命の恩人と言っても過言ではなかっただろうし、人間としては初めて本当の意味で自分を理解してくれる存在と出会ってしまった訳だ。
そりゃ、懐きたくもなるだろうし、好きにもなるだろう。
だが俺は、一部ならともかくとして、全てを容認してやる事はできそうになかった。
「それは洗って返さないといけない。だから、放してほしい」
ローブから離れようとしないウサ吉に頼んでみたが、前足をいっぱいに伸ばし、ブッと鼻を鳴らして拒絶されてしまう。
いつもなら、嫌がった段階で他の事に意識が向くその瞬間まで待ってから回収しただろう。だが、マッシュとの様子を見ていて、ウサ吉は⋯もしくは、ここに居る兎達は、こちらの言葉を理解している可能性が高いのではないかと踏んでいた。
それならば、わかって貰わなければならない。
「それがないと、マッシュが困る」
困らせたくはないだろう?とニュアンスを含ませれば、ピクリと耳を震わせてレインを一瞥した後、渋々といった体でローブからウサ吉が降りた。
この行動を見て、やはりかと確信が持てた。
ローブを手に取り、ウサ吉の頭を一撫でする。
嫌がらずに撫でられているウサ吉に、これだけは伝えておかなくてはいけない。
「悪いなウサ吉。マッシュを誰にも渡すつもりはないんだ。だから、諦めてくれ」
大人しく撫でられていたのが嘘のように、ブンブン頭を振っては不機嫌そうに鼻を鳴らし、それと同時に足をダンッと踏み鳴らした。
スタンピングと呼ばれるその行動は不満を訴えたり、嫌いな相手に対し威嚇のためにするもの。
ウサ吉はレインに対して、嫌だと行動で示してみせた。
(人たらしなだけでも厄介なのに、アイツは動物まで誑かすのか⋯⋯)
それも、大事な愛兎の一羽ときた。
今までも、これからも愛兎達を大事に育てる決意に変わりは無い。
レインにとってはどの個体も大切な家族だ。
だが、ウサ吉はレインへの認識が少しばかり変わってしまっただろう。もしかしたら、それでこれからの世話が大変になるかもしれない。それが、少しだけ悲しいと思うが、向き合わなければならない。
わかってもらえるその時まで。だって、大事な家族なのだから。
そうでない相手は、どうなろうがこちらには関係ないし、興味もない。
目障りなら視界にチラつく事すらさせない方法などいくらでもある。
大切なモノとそうでないモノの線引きなんてそんなものだ。
そんな“大事”枠にしっかり収まっているウサ吉は、不貞腐れた様子を見せているけれど、部屋まで連れてこられた時のような不調は見受けられない。普段と同じようなこの状態なら、夕食も問題無く食べてくれるだろうと思いたい。
だが、いかんせんマッシュ絡みの因縁が今後にどう影響するのかが不確定要素すぎて先が読めない。
(この食いしん坊の食欲が落ちたりしなければいいが⋯)
気がかりはあるが、先の事はその時になってみないとわからないものだ。
とりあえずはローブを洗って、兎達の夕食を用意しなくてはいけない。
嫌がられる事も念頭に置きながらウサ吉を抱き上げるが、思いの外暴れたりすることもなく大人しく腕に収まった。
兎部屋に移動するのがわかっているからなのか、それともウサ吉にも線引きがあるのかはわからないが、お世話は普段通りに受け入れてくれるのなら助かると一先ず胸を撫でおろした。
兎の散歩スペースにと囲ってある柵の中に放すと、ウサ吉と仲の良い兎が数羽近づいて来るのが見えた。
この数時間、姿が見えなかったのを心配していたのか、数羽が身を寄せ合い何事かを話しているようにも見える姿は微笑ましい。それを見届けてから、レインは今日やるべきことのリストの中にマッシュのローブの件を追加しつつ、まずは兎達のご飯を用意しようと兎部屋を後にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝。
現在時刻は七時前。やる事の多いレインがギリギリ寮に居られる時間だ。
レインは三〇二号室の前に立っていた。
きっちりと洗い、皺伸ばしまで完璧にされたマッシュのローブを紙袋に入れ、片手に携えて。
コン、コン、コンとノックを三回すれば中から「はぁーい」と声がした。
パタパタと軽快に扉に駆け寄る足音が止まると、扉が控えめに開かれる。
「あれ?兄さま?⋯えっと、おはよう?」
「あぁ、おはよう。マッシュは起きてるか?」
「マッシュくん?マッシュくんならまだ寝てて、あと一時間くらいは起きないと思うけど⋯⋯何か急ぎの用事?」
「用はあるが⋯⋯」
「起こしてみようか?」
フィンの提案に緩く首を振って、急ぎの用ではないから必要はないと断った。
「朝届けると約束したものがあるだけだから、無理に起こさなくていい。マッシュが起きたらコレを渡しておいてくれないか?」
「ローブ⋯と、タオル?」
「タオルはローブの礼だと言っておいてくれ」
マッシュが何かしらの説明をしていたのか、フィンはすんなりと「わかった」と頷いてローブとタオル(ウサギ柄)の入った紙袋を受け取っていた。
これで、要件は済んだと踵を返そうとしたのだが、フィンの方はまだ言いたい事があったらしく「待って⋯」と笑顔で止められてしまった。
「マッシュくん、昨日の放課後は兄さまの所に居たんだよね?」
「そうだな。ウサ吉を助けて貰って⋯しばらく部屋にいたが⋯」
「うん、マッシュくんもそう言ってたから、そうなんだろうなってわかってるんだけど⋯だけどさ⋯⋯」
ニコニコと微笑んでいるはずの弟の笑顔と、意味深に切られた言葉に不穏な空気が漂っているような感じがするのは気のせいだろうか?
まさかな、そんなはずはないと思うんだが⋯。
「あのさ、次から兄さまの所にマッシュくんが居る時は連絡して貰ってもいいかな?昨日ね、マッシュくんが全然帰ってこなくて⋯みんな、すっごく、心配したんだ。何の連絡も無かったから、余計に⋯」
「そうか⋯気が回らなくてすまない」
「本当に、大変だったんだよ⋯。レモンちゃんは泣き叫びながら“マッシュくんが戻ってきません!きっと誰かに何かされ⋯ハッ、もしや、誘拐?⋯ィイヤァアア!誰ですかその不届ものは!!とっ捕まえて然るべき裁きを!!”って半狂乱になってたし、ランスくんは“ウチの可愛いマッシュに何かあったら⋯!一体、どうすれば⋯今からでも捜索隊の派遣と探知犬の要請を⋯いや、それじゃ遅すぎる。クソッ!こんな事なら前もって追跡用の魔法道具を持たせておくか追尾魔法をかけておくべきだった!!”とかプライバシー侵害も甚だしいヤバめの事を口走っていたんだよ?」
弟の迫真の演技も相まって、当時の情景を想像するのは簡単だった。
セリフ部分の力の入った演技と、それ以外の平坦な疲れ切った声との対比もあり、よほど苦労したことも窺える。
ただ、そんな中でもあるセリフが引っかかって仕方が無かった。
「⋯ウチの、可愛い、マッシュ?」
(ランス・クラウンのそれは本当に友愛に収まるものなのか?普通、友人に対してそんな事を口走ったりはしないだろう?放置しても大丈夫なのか??)
「やっぱり、そこ気になる?でも、ランスくんは大丈夫。愛マッシュ家なだけだから。恋愛とは別ベクトルの溺愛だからね、アレ」
「⋯あい、まっしゅ、か??」
何だその新言語は。愛犬家のノリで言われてもどう反応したらいいのか困る。
世界共通認識ではないんだぞ。それと、思うに、たぶん、大丈夫でもないと思う。かなりの手遅れ臭がする。
言いたいことは山ほどあった。けれど、それはレインだけでは無かったらしく、フィンはレインの疑問符たっぷりな言葉など無かったかのように続ける。
「ドットくんはさ、最初は二人を宥めてたんだけど⋯“そもそも、お前が一緒にいればこんな事になってないだろ”ってランスくんにキレられててね、グラビオルで何度も床にめり込む事になってて可哀想だったよ。でも、仕方がないよね?実際にドットくんが離れなければ、そんなことになってないのも事実だし⋯⋯。まあ、兄さまが連絡くれてたらそんな事も無かったのかもしれないけどね⋯⋯?たださ、そんな状態でもドットくんはね、マッシュくんの捜索の要請を校長へ嘆願しに行こうとしてたくらい心配してたんだ⋯⋯。ほんとうに、みんな、しんぱいしてたの⋯」
フィンの言葉の要所要所に棘を感じ、背に伝う冷や汗が止まらない。
そんな時、フィンの言葉が途切れる頃を見計らっていたのか、背後から声がかかった。
「あのさ、一つだけいいか?」
廊下での話し声が聞こえていたのだろう、三〇二号室の廊下を挟んで向かいの部屋からドットがひょいっと顔を出した。
大部分の会話は聞こえていたのか、苦々しく表情を歪めて、フィンは俺たちがヤバいみたいに言ってっけどよぉ⋯と続ける。
「俺たち以上に怖かったの、フィン、お前だからな?」
ビシッと効果音が付きそうな勢いでドット・バレットが指差す先に居るフィンと、その言葉は普段なら結びつかなかった。
けれど、今なら何となく分かるような気がするとレインは思っていた。
「⋯⋯⋯万が一でもマッシュくんに何かあったら、犯人の細胞という細胞を再起不能になるまでズタズタにしてやるって⋯すっげー小さい声で言ってるの、俺、聞いてたからな⋯」
それだけを言うと、それじゃ、と扉をパタンと閉めてしまった。
顔が蒼ざめていたいたように見えたのは気のせいなんかじゃないはずだ。
予想以上の弟の豹変ぶりにレインだって薄ら寒さを感じていたのだから、近くにいる人間はもっと恐ろしく感じていてもおかしくはない。
フィンの魔法は治癒に特化していると思われているが、実際はそうでは無い。
本人が治癒を目的として、治癒のために使っているからそうなっているだけだ。
そもそも、治療は治療行為として行うから体を切る行為も肯定的に受け止められているだけで、殺傷行為と紙一重の部分があるのは周知の事実だろう。それを認めるか認めないかは別として。
そして、治療ができる程に体内構造に詳しいのなら、その逆に、どうやって傷つければ相手を死に至らしめる事ができるのかも熟知しているのと同義であると思っている。
フィンの固有魔法では身体の細胞組織同士を入れ替えることで、治癒を行う事が可能になっているわけで、使い方次第では破壊も容易いはずだ。むしろ、治癒にこそ神経を注がねばならないと考えれば、破壊の方が簡単なのかもしれない。
本来の機能するものと違う細胞同士を組み合わせるだけ。
それだけで細胞同士は自己破壊行動を起こし、自己免疫疾患を引き起こす。
一度、自分の細胞を敵と認識させてしまえば自己破壊は止まる事を知らず、生命に関わるほどに破壊し尽くすののだから、それを誘発させる事もできる能力と考えれば恐ろしくて仕方がない。
今までにそんな使い方をしない⋯いや、思いつきもしていなかったのは弟の優しい人柄故のものだったのかもしれないが⋯それが、どうしてこうなっている?
どうか、弟には今後も優しい魔法だけを使って多くの人を癒やす頼れる存在であって欲しい。
いや、それを兄である俺が実現させる努力をしなくてどうすると言うんだ。
「次からは、必ず連絡する。必ずだ⋯」
大事な事は強調しておかなければと、必ずの部分を強めて繰り返した。
「うん、よろしくね?」
レインの返答に満足したのか、フィンは普段通りの柔らかな笑顔を浮かべて頷いていた。
フィンはレインがマッシュとの時間を持てるよう積極的に応援して協力もしてくれていたが、今回の件はまた話が別だったらしい。フィンにとってもマッシュは大事な存在であるのだと再認識させられたし、レインにとって一番怒らせてはいけないのはフィンだと痛感させられた。
だが、要はフィンに連絡を怠らなければいいのだと、そこさえ間違わなければ心強い味方だと前向きに考えようと思う。
本当に、マッシュが誑し込む人間は、実の弟を含めて厄介極まりないと、痛む胃を抑えてレインは寮を出た。
◆願う未来への足がかり(フィン視点)
気づけば、マッシュくん失踪事件(仮)から六日。
兄が三〇二号室へマッシュくんのローブを届けに来た日から五日が経っていた。
その数日間は、主に課題に追われ、気づいたらそれだけの日数が経っていた、が正しいのかもしれない。
この提出が出来ていないと単位が足りなくなるという、二年次までに詰め込む必要があるらしい内容を補完する為の課題が山のように出されていたのだ。
そして、普段の課題ですら血反吐を吐きながら、時に逃げ出そうとするあのマッシュくんが「みんなと、最後まで学校生活送りたいから⋯」なんて、健気な理由で逃げずに机に向かい頑張っていたのだから、そんな言葉と姿に心打たれない者がいるはずもなく、みんなが付きっきりで教えていた。
涙目で「わからない⋯⋯」と見つめられた時に、脊髄反射的にヒントではなく答えを教えそうになる仲間を諌めるためにどつき合いになる⋯⋯本当に忙しく、他所ごとを考える暇も余裕もない数日間だった。
そんな課題の山を自習時間と放課後をフルに使い、何とか終わらせた現在は各々が自由に放課後を過ごしている。
普段なら当たり前のように一部屋に集まって団欒することが多いが、今日ばかりはこの数日できていなかった事を消化する為にそれぞれが別行動をしていた。
マッシュくんは寮に着いてすぐ「シュークリーム作ってくる」と調理室に行ってしまったので、今は返却期限の近い治癒魔法が多く載る魔法書を開いていたのだが⋯⋯どうにも集中できず、本は早々に表紙が天井を向く状態になっている。
この数日間の労力と緊張から解放され、完全に気が抜けてしまい、他に何かする事はあったっけ?と考えた時にふと思い浮かんだのが兄の事だった。
思い出すのは兄がローブを届けに来た日の事。
冷静になっている今よくよく考えてみたら、兄が来た日、あまりにむしゃくしゃした気持ちを抑えきれず、兄に対して八つ当たりしてしまったなと少しばかり反省していた。
だが、やはり兄も悪い⋯⋯と、思ってはいる。
僕たちがマッシュくんを常に気にかけている事をよく知っている兄は、普段であればマッシュくんが一人で行動しているのを見かけた時には「マッシュが○○に一人でいるが、お前は知っているのか?」と連絡をくれるのが当たり前になっていたし、また見かけた時には連絡をしてくれる約束だってしていたのだ。
それが、あの日は無かった。
事情を聞けば、緊急事態だったために最初は連絡するような余裕がなかった事はわかる。
しかし、だ⋯⋯ある程度落ち着いてからも連絡してこなかったところから察するに、他のことに気を取られていて連絡すること自体が頭から抜け落ちていたなと⋯⋯。
もっと率直に言うなら、「浮かれていて、気が回らなくなっていたんだろう?」と、そう勘づいてしまったら歯止めがきかなくなっていた。
兄はマッシュくんに絶賛片想いしている。
片想いだと思うのはマッシュくんの方の気持ちが不明瞭で確信が持てないから。
でも、僕から見てもマッシュくんは兄にとても好意的だし、ドットくんたちにも「先輩後輩の距離にしては近すぎんだろ」と言われているくらいだから、ワンチャン両想いもあるのでは?そんな風に個人的には思っている。
兄の恋の成就を応援している身としては、ワンチャンではなく確証が欲しいところだが⋯⋯。
いや、今の論点はそこではなかった⋯⋯。
あの日、兄は片思いの相手であるマシュくんを初めて部屋の中に招くことができた事になる。
その出来事自体は事故のようなもので、最初こそそれどころでは無かっただろうが、落ち着いて冷静になった時に絶対に浮かれ、起こっている事実を噛み締めていたのではないかと思っている。
思春期の男なら誰しも浮かれてしまう状況だからね。
好きな子が自分の部屋にいるなんて、浮かれない方がどうかしてる。
だが、それとこれとは話が別だ。
僕たちがどれだけマッシュくんを大事に想っていて、どれだけ心配したと思っている。
そんな怒りをぶつけたし、釘も刺しておいたので同じ轍は踏まないはずだと自分を納得させ、あの時は何とかその気持ちを収めるに至った。
そうして冷静に考え直した今、「兄にも責任はあるが、少しやりすぎてしまったかもしれない」と思い始めていた。
ただでさえ強めの忠告をした後に、兄は丸五日マッシュくんに会えていない。
どんなに忙しくても一目会いたいが為だけに、一日置きくらいの頻度で「フィンはいるか?」やら、みんなへの差し入れと称してマッシュくんの好物のシュークリームを持って部屋を訪ねて来たりしていた。
日常風景と言ってもおかしくないそれらは、この数日、「今忙しいんで」と部屋の前で全て門前払いされていた。マッシュくんと言葉を交わすどころか、一目見ることも叶わないまま⋯。
マッシュくんが気を散らさないためとはいえ、それだけの日数を強制的に会えなくなると知っていたら、同情からもう少しだけ優しくできたかもしれないのにと、そんな後悔もあった。
日を増すごとに見送る背中の哀愁が色濃くなっている事を知っているので、ここら辺で飴を与えてやらねばそろそろ精神に異常をきたしてしまうかもしれない、そんな心配もしてる。
マッシュくんも「ウサ吉くん元気にしてるかな?」と気にしていたようなので、ここらが丁度いいタイミングかもしれない。
後でそれとなく、ウサ吉くんの様子見のために兄さまの部屋へ行ってみたら?と進言してみようかと考えていたら、マッシュくんの机の方からパサッと軽いものが落ちる音がして視線がそっちに向く。
さっきまで何も無かった机の上に、生真面目な字でレインの名が綴られたメッセージカードがそこにあった。
マッシュくんが机に向かうのなんて一日通してだって一回かそこらあればいい方で、僕に連絡してくれた方が話が早いだろうと呆れそうになったが、そういう事じゃないのかと兄の想いを汲んでしまえば何とも言い難い気持ちになる。
合理的で迅速な対応を好む兄が、わざわざ魔法が使えないマッシュくんでも使用が可能な方法で、時間がかかる事を承知の上で、誰かを介す事なく直接やり取りをしたがっている⋯⋯いじらしいと思えばいいのか、協力関係にある実の弟にすら思うところがあるのかと勘繰ればいいのか複雑でしかない。
ただ、回りくどい行動しかしてこなかった兄が寄越したのだから、何かあったのか、やっと行動に移す気になったかのどちらかである事は確かだ。
それなら、その後押しをしてやるのが今の自分の役割だろうと、マッシュ宛に届いたメッセージカードを手に調理室へと向かった。
調理室の扉の前まで来ると、マッシュの自作シュークリームの歌が聞こえてきて、彼の機嫌がいいことがわかる。
あれだけ大変だった課題から解放され、好きなものを作っているのだから当たり前かと、自嘲気味に笑うと扉を開けて中を覗き込む。
丁度シュー生地が焼き上がったところだったのか、マッシュは綺麗に膨らんだシュー生地を満足そうに眺め、粗熱を取る用の網へと焼いたシュー生地を移しているところだった。
全ての工程を無視して、それこそ材料の概念だって覆してシュークリームを作り出すこともできるのに、一つ一つの工程を丁寧に積み重ねて作るのを楽しんでいる姿は大変に微笑ましい。
「中のクリームはどうしようか?」と悩む平和な光景をもう少し見ていたいような気もするが、それでは話が進まないので「楽しんでるところにごめんね!」と心中で謝り声をかけた。
「マッシュくん、今ちょっといいかな?」
「あれ?フィンくん。どうしたの?」
「さっき、兄さまからマッシュくん宛にカードが届いたから渡しに来た」
これね、とカードを顔の高さまで上げて見せると「カード?」と呟きながら、物珍しいものを見るようにしながら近づいてきた。
これが何?と不思議そうに見つめてくるマッシュに、小さい頃に何度か兄とやり取りするために使っていた記憶を辿りながら説明する。
「メッセージカードみたいなものかな。手紙ほど長くない簡単な用事を伝えたい時に使うんだよ。二つ折りの上部が相手への要件を書く場所で、下の部分に貰った相手が返事を記入して名前欄に署名すると差出人の所に戻るようになってるの」
「そんなのあったんだ⋯地味に便利?なような、そうじゃないような⋯?見たことないよね⋯⋯」
「これは、お互いに面識がないと使えないけど、魔法が使えなくても使用できるんだよ。魔法が使えればもっと手っ取り早く済む方法に頼っちゃうから、魔法に困った事ない人は知らないんじゃないかな?そもそも、マイナーグッズみたいな所があるから、まあ、知らない人も多いのかも⋯⋯?」
僕も実際に使われてるのは久しぶりに見た。
魔力が安定しきっていない時の連絡手段が限られていた幼少期のほんの僅かな期間、兄が寄越してくれたという記憶を懐かしみながら「はい」と手渡す。
魔法が使えなくてもの部分をさりげなく強調しておいたけど、どうだろう?マッシュくんに兄の意図は伝わっているだろうか?
二つ折りのカードを開けて内容を確認しているマッシュを観察していると、悲しそうに目を細めるので、よくない知らせの方だったのかと心配になる。
「ウサ吉くんが、ここ何日か食欲不振だって」
「それは⋯兄さま気が気じゃないだろうね⋯」
「やっぱり、よくないことだよね?」
「うん⋯⋯それも、なんだけど⋯⋯確か、前に紹介してくれた時に、ウサ吉くんは食いしん坊って言ってたような気がするから、そんな子の食欲不振ってなると、ちょっとね⋯⋯」
「そっか、それで⋯」
「他にも何か書いてある?」
「うん、明日の放課後空いてたら様子を見に来て欲しいって」
「マッシュくんが行けば、ウサ吉くんの不調も本人から聞けるもんね?⋯明日は特に予定は無かったと思うけど、どうするの?」
形ばかりの確認をとってみたが、何だかんだ困っている人を放っておけないこの親友の答えなんて分かりきっていた。
兄がこの学校で過ごせる残りの時間はそう長くはないから、それなら、せめて想い人のマッシュと過ごせる時間は確保してやらねば!と思ってはいたし、兄の元に送り出す目標も達成できそうだが、内容があまり喜べそうにないなと複雑な表情を浮かべるしかない。
「うん。カードが届いてなくても行こうかなって思ってたし、手土産にシュークリーム持って行こうかなって、今作ってたから」
フィンは何度か瞬きを繰り返し、胸中でマッシュの言葉を反芻すると、言葉の意味を噛み締めた。
⋯⋯行こうと思っていた?兄への手土産まで準備して?あのマッシュくんが?自発的に??
これは、もしかしてワンチャンあるのでは?と、じわじわ湧く可能性への喜びに浸っていたら、「レインくん喜んでくれるかな?」と言うマッシュ。
「好きな人から貰えるものを喜ばないはずがない」なんてフィンが不用意に言うわけにはいかないので、言いたい気持ちをグッと堪え、首が捥げそうな勢いで何度も頷き返した。
「⋯⋯っ!!きっと兄さまも喜ぶと思うよ!⋯僕も何か手伝えることある?」
「うーん⋯手伝い⋯⋯」
彼の得意分野のシュークリーム作りで手伝えることなんてないよなぁと、思っていたのだが、マッシュは一度焼き上がったばかりのシュー生地と手元のカードと視線を行き来させると、少し照れたようにフィンの袖をクイっと引いて「フィンくんは⋯⋯レインくんが好きな味って、何かわかる?」と聞いてくる。
(なんだろう、このあざと可愛い生き物は⋯?)
普段、級友たちの前では見たことのない表情を見せるマッシュが珍しく、観察するのに忙しくて返事をするのを忘れてしまっていた。
それをどうとったのか、反応の薄いフィンに、わたわたと慌てふためきながら言い訳するみたいに「あげるなら、喜んで貰えた方が僕も嬉しいから、できたら、教えて欲しい⋯んだけど⋯⋯」と尻すぼみになっていく言葉に、正直ニヤけたくて仕方がなかった。
兄の好みに合わせようとしてくれているその事実も、マッシュの中の大事の括りの中にちゃんと兄がいるとわかる言動にも嬉しさが込み上げる。
(兄さま好みの味のシュークリームを兄さまの為に作りたいって、これ兄さまの完全片想いってわけじゃなさそうだよね!?ワンチャンあるよね!?マッシュくんに自覚は無いっぽいけども!!)
自分の推しを眺め続けられる未来が転がり込んできそうな足がかりをみすみす手放すわけには行かない。
これは、大事な親友のためにも朧げな幼い頃の記憶も総動員して協力せねばなるまいと、フィンは気合いを入れた。
「最近の好みは正直わからないんだけど⋯」
「うん、それでもいい」
「昔はね⋯⋯」と話し出せば、真剣に頷いて聞いてくれるマッシュに心が温かくなる。
相談を一番にして貰える事も、話すことを真剣に聞いて貰える事も⋯⋯決して当たり前では無いこのポジションばかりは親友の特権として、これからだってマッシュが許してくれる限り存分に活用させて貰おうと思う。
割合的には兄の為半分、自分の癒し半分ではあるが。
最終的なおいしい所は兄に譲ってあげるけど、これは僕だけの特権で誰にも譲ることなんてできない。
大切な家族にだって譲れないのだ。
クリーム作りは、兄の昔好きだった味と今好きそうな味などを考察しながら作ることになったが、昔話を交えての共同作業はとても楽しかった。
出来上がったものの中で特に出来のいい三個を個包装しているマッシュの姿を眺めながら、他のものを皿に盛り付ける。
「こっちは食後のデザート用?」
「そうしようかな。みんな食べてくれるかな?」
「そりゃもう、喜んで」
「そっか⋯」
「そうだよ」
みんな、マッシュくんと団欒するの楽しみにしてるんだからと続けようとしたした言葉は、声に出る前に勢いよく開いた扉の音に遮られた。
開いた扉の前には、レモン、ドット、ランスの三人の姿があった。
「マッシュくーん!夕ご飯の時間ですよー!食べに行きましょう!!」
「お前ら部屋に居ないから探しただろうが⋯⋯」
「ほら、さっさと行かないと席探すの大変になるんだから急げよ」
一気に賑やかになった空間に、マッシュと一瞬顔を見合わせた。
部屋にいないのによく見つけたなと感心したが、元々何箇所かの当たりを付けて、部屋じゃないなら次は調理室と行動パターンを読まれていたのかもしれない。
ドットだけは別の場所も探したようだが⋯⋯。
打ち合わせや約束をしていなくても、みんな最終的にマッシュのところに集まってしまうのが何だかおかしくて、フィンは笑いながら「行こっか」と促し、いつもの五人で食堂へと向かった。
◆ウサギは寂しいと不調を訴える
マッシュはレインの部屋の前まで来て、一度深く息を吸って吐き出した。
そっと、そっと⋯⋯と自分に言い聞かせ、力加減を間違わないように扉をノックをする。
一呼吸分挟んでしまいはしたが、この約一年で身につけた力加減に、僕も成長したなとしみじみ思う。
扉の開閉ともなれば話は変わってくるが、ノックなら壊さない確率が格段に上がった事を誇らしく感じていた。
「レインくん、いますか?」
扉の前から声をかけると、中からバタバタと騒がしい音と「コラ、待て!」と慌てているレインの声が聞こえる。
どうかしたのかと、一歩近づくと扉がわずかに開き、勢い良く飛び出してきた一羽のウサギがマッシュの足にビタンッと張り付いた。
『マッシュー!なんで全然会いに来てくれなかったの!?ボク待ってたのに!』
(えっと、僕の名前を呼んでいるって事はこの子はウサ吉くんでいいんだよね?)
「ウサ吉くん?だよね?」
『うん!そうだよ!』
「ごめんね、なかなか来れなくて⋯ちょっと、ここ何日かは課題に追われてて⋯⋯」
『?カダイ?』
「えっと⋯ごめん、気にしないで。とにかく、忙しかったんだ⋯⋯」
『?そっかぁ⋯⋯』
納得したかどうかはわからないが、期待の眼差しで見上げてくるウサ吉を抱き上げればすりすりと腕に懐いてきた。
パッと見た感じではあるが、不調らしさが感じられない事に一先ず安堵する。
「突然呼び出して悪いな」
声のした方を見れば、前に会った時よりも疲れた様子のレインがいた。
マッシュの腕に抱かれたウサ吉を見ながら、すまなそうに詫びるレインに気にしないで欲しいと首を振る。
「いえ、もともと今日は来てみようかなって思ってたんで、先に誘ってくれて嬉しかったです」
マッシュの返答が予想外のものだったのか、レインは意外そうに目を見開きはしたが、それは一瞬の事ですぐにいつもと同じ状態に戻り、そうかと一言返す。
そんなレインへと、ウサ吉を抱えながら用意してたシュークリームを差し出した。
「手土産のシュークリームをどうぞ。フィンくんに聞いてレインくんでも好きそうな味のを一緒に作ったんで」
「フィンと⋯そうか、ありがたく貰おう。⋯⋯中で話そうか」
「そうですね。ウサ吉くん、見た感じは元気そうですけど⋯⋯」
「それも、ちゃんと話す。とりあえず座ってくれ」
ドアを支え「入れ」と促す声に一言お礼を言って、室内に入ると前回と同じ場所へと座った。
抱えていたウサ吉を膝の上に下ろせば、ウサ吉はマッシュへ身体をすり寄せるのに忙しそうにしている。
夢中になって楽しそうにしてるのを邪魔してしまうのも可哀想かなと、飽きるまで好きにさることにしてマッシュはレインへと向き直った。
そのレインはというと、ウサ吉を見つめながら複雑そうに眉間に皺を寄せているが、それがどういった意味合いの含まれたものなのかはわからない。
「それで、ウサ吉くんが食欲不振と言うのは⋯」
話を振れば、「あぁ」と気を取り直してくれたのか、マッシュへとレインの視線が戻される。
「そいつは他の子たちより食いしん坊なんだが⋯本来なら他の子の1.5倍くらい食べてたのが突然、他の兎と同程度にまで落ちたんだ」
「突然ですか?」
「正確には、お前が帰った後からだ。必要最低限には食べてるからな⋯⋯食欲不振とまではいかないんだろうが、気になってな」
まぁ、確かに見た感じの変化は無いし、話した感じも元気そうだった。
でも、僕と会った後と言うのは気になる。
「僕⋯?何かしてしまいましたか?」
僅かに滲んだ不安をレインは感じ取ってくれたのか、「違う」と短く否定した。
数秒、言いづらそうにした後、おそらくだが⋯と続けた。
「会いたかったんだろうな」
「僕に?」
「他に誰がいる?」
「それは、そうなんですが⋯⋯実感がないというか、ピンとこないといいますか⋯⋯」
レインは当たり前だろみたいな顔をしているが、マッシュには今までにそんな経験がないからこそ、実感も湧かなければ理解するのも難しい。
「俺が、兎の体調管理に気を配ってるのを知ってるから、どんな行動をとれば俺がお前を呼ぶか考えたんだろうな。明らかな体調不良では病院に直行になる。体調の維持に必要な栄養は摂った上で、疑問に思わせる程度に止めれば、またお前が来てくれると思ったんだろ」
そんな事があるものなのかと疑問に思ってしまう。
確かに前回や今の様子を見ていて、懐いてくれているのだと気づくのには十分すぎる好意を示されているのはわかるが、だとしても、まだほんの数時間程度の付き合いしかないのに?と。
「そうなの?」
満遍なくマーキングという名のスリスリを終えて満足そうにしているウサ吉に尋ねると、一応は全体の話も聞いていたのか、『ごめんなさい⋯』と返ってくる。
『でもね、最初はそれもあったんだけど⋯マッシュ、ぜんぜん会いに来てくれなくて⋯寂しいなって思ってたら、いつもよりお腹空かなくなってて⋯』
しょんぼりと項垂れる小さな姿には哀愁が漂っていて、こんな姿を見てしまえば、誰もがなんとかしてあげたい気持ちに駆られると思う。
マッシュもその一人だった。
「もし、定期的に会いに来るって言ったら、寂しいの無くなりそう?」
『ホント?会いにきてくれる?』
反応を見るに、ウサ吉くんの方は解決策がありそうそうだ。
それなら、後は君のご主人様に確認をとって許可が貰えれば、きっと叶えてあげられるだろう。
「レインくん、数日に一回、夕食前か後の少しだけウサ吉くんに会いに来ても良いですか?それで、ウサ吉くんの不調も無くなりそうなんですが⋯」
「前に、いつでも来ていいと言っただろ?もし気になるなら、予定の空いてない日は連絡しよう。だから、その日意外は好きに来るといい」
「ありがとうございます」
「こっちこそ、ウサ吉の我が儘に付き合わせて悪いな⋯⋯」
「いえ、会えるのは僕も嬉しいので。ちなみにですが⋯⋯今、ウサ吉くんにおやつとかあげられたりしますか?」
不安が和らいだ今ならもうちょっと食べてくれるかもしれない。
今日の夕飯はさっき食べたばかりらしいので、そこまでお腹も空いてはいないかもしれないし、本人に不調がないのなら問題はないのだろうけれど。
どうだろう?とレインに視線で投げかけてみると、大丈夫だと頷いてくれた。
「待ってろ」
それだけを言うと、レインはさっと立ち上がり別室へと消えてしまう。
数分程で、リンゴとニンジンをドライチップスにしたものと小松菜とレタスを少しだけ皿に入れて持ってきてくれた。
レインへお礼を言って受け取ると、試しにニンジンのドライチップスをウサ吉の前に差し出してみる。
「食べる?」
気を引くようにちょいちょいっと目の前で揺らすと、ウサ吉は手元とマッシュの顔をチラッと確認してコクンと頷いた。
『⋯マッシュがくれるなら、食べる』
差し出されたニンジンチップスをもそもそと食べ始め、咀嚼が終わると、もっととねだられる。
じゃあ、と次にレタスを差し出すと、またもそもそと口を動かすウサ吉を見て安心した。
「食べたな⋯⋯」
「はい、食べてくれましたね」
試しにと、レインもリンゴのチップスを差し出してみたが、それにはプイッと顔を背けてしまった。
苦い顔で、持っていたものをマッシュにスライドさせて持たせると、それには自分からもそもそ食べ始める姿に盛大に顔を顰めた。
「い⋯⋯」
「⋯⋯う〜ん?レインくんは、ウサ吉くんとケンカでもしたんですか?」
「ケンカなんてしてない。見解の相違があっただけだ」
「?」
「お前は知らなくていい」
「まあ、よくわからないんでいいんですけど⋯⋯。ウサ吉くん。また、こうしに来るから、レインくんをあんまり心配させないであげてね?」
『⋯⋯わかった⋯⋯』
返事までに若干の間があったような気もするが、ウサ吉くんはいい子なのできっと約束を守ってくれるはずだ。
ちょっとギクシャクしてしまうような事があったらしいが、元は仲の良い関係だったのだから元の関係値に戻るのもそうかからないだろうし、食欲が減退していた原因も対策も何とかなったと思う。
(これで、レインくんの心配や負担も減るはずだから、一安心、かな?)
◆追われ、想われ、気づくと外堀は埋まっていた
それからは大体、二日に一度のペースで、夕食前か就寝前に三十分ほどウサ吉へ会いに行き、おやつをあげながらレインとも世間話をする、そんな時間が設けられていた。
それが三度目にもなった頃、マッシュはレインのある変化を心配していた。
「レインくん、ちゃんと休めてますか?一週間前より顔色が悪いですよ」
「大丈夫だから、気にするな」
一週間前までは、ただ疲れているといった感じだけだったのが、今日は目元に薄らと隈まで作っているのだから、気にならないはずがないのに⋯。
だんだんと疲労の色が濃くなっていくレインが心配だった。
「僕が来る頻度を減らせば、もう少し休める時間が増えますか?」
「なぜそうなる?」
「僕が帰った後も、いつもお仕事してるって聞きました。⋯だから、ウサ吉くんに説明しましょう?落ち着くまでは来るの控えますから、しっかり休んで下さい」
ただでさえ忙しいレインに、自分が訪問する事でさらに負担をかけてしまっているのだとしたら、そんなのは許せない。
ウサ吉くんだって説明すればきっとわかってくれる。
今はお腹いっぱいでマッシュの膝の上で心地良さそうな寝息を立てているから、起きた時にでも説明をすればいい。
なのに、レインは頷いてはてはくれなかった。
「必要ない」
「⋯どうしてですか?」
「お前に会えたほうが、疲れなんて忘れられる」
普段と同じ声音、同じトーンで言われた内容がマッシュの耳を素通りしようとする。
僕と会ってる方が疲れが忘れられる⋯?未だかつてそんな事を言われた事はない。
「そ、れは⋯気のせいなのでは?」
そう、気のせい。もしくは気の迷い。
だってレインくんは、とてつもなくお疲れなんだから。
ついポロッと、思ってもみない事を口走ってしまうような状態に違いない。
イヤイヤと首を振り、それはないと否定するマッシュに、レインは軽く首を捻ってとんでもない事を口走りはじめる。
「そうか?好きなヤツに会えて嬉しくない人間はいないだろう?」
また、内容が耳を素通りしようとするし、今度はさっきよりも通り過ぎる勢いが増した気もする。そもそも、脳が言われた内容を拾おうとするどころか、受信拒否状態なのだ。あまりに理解が及ばなすぎて。
そのせいで、ぜんっぜん頭に入ってくる気がしなかった。
(レインくんは、なんて?えっと⋯⋯?)
「す、き⋯?」
「そうだ」
「誰が、誰を⋯⋯?」
「俺が、お前を」
「レインくんが?⋯⋯僕を⋯⋯」
「あぁ、納得したか?」
なるほど、わからん。
そうか、疲れ過ぎてて普段は言わないことまで言ってしまう心理状態になってるのかもしれない。
そんな人を不安にさせてはいけない。僕だってレインくんにはお世話になってるし、よく差し入れをくれるから好きだ。
だったら、ちゃんと言って安心させてあげよう。
「僕も、レインくんが好きですよ」
マッシュの返答にバッと向けられたレインの顔が、続けられた「フィンくん達と一緒で」のセリフに盛大に歪めたれた。疲れのせいか、ただでさえ強面になっていたのに、レインの眉間の皺が凄いことになっている。
明らかに納得していないといった雰囲気を出すレインに、何か間違っただろうかとマッシュは首を傾げた。
「⋯お前は⋯俺やフィン達に向ける好きが一緒だとでも思ってんのか?」
「好きは好きでしょう?種類なんてあるんですか?みんな大好きだし、大事だし、違いなんてわかりません」
それはマッシュの本音だった。
みんな大事で大好きで、そこにどんな違いがあるのかなんて知らない。
区別の付けようがない。
でも、レインはその答えが不服なようで、眉間の皺がまた一本深く刻まれてしまった。
「本当にそう思うのか?⋯なら、俺の質問に答えてみろ」
突然、何を言い出すのかと言いたいが、いかんせん訴えようとした先にある顔が恐い。
答えなければ後が怖そうと思えば、自然と頷いてしまっていた。
「外で俺を見つけた時に決まって駆け寄って来るが、フィン達にも同じか?」
えっ⋯とマッシュは固まってしまう。なぜそんな質問をしてくるのだろうと。
だが、答えると頷いてしまっていたので、素直に言葉に従って考えてみた。
フィンくんたちはいつもちゃんと待っていてくれるから、走って追いかける必要はない。
でもレインくんは⋯。
いや、レインくんだって呼んで気づけば待っていてくれると思う。
でも、自分は彼の姿が見えると駆け出してしまってはいないか?
⋯⋯だって、早くレインくんの側に行きたい⋯⋯。
どう伝えれば良いのかと迷う声はやや掠れてしまった。
「⋯ち、がいます。レインくんの側まで早くいきたくて⋯その⋯」
「わかった。次だ。俺が渡したものは使っているか?使う時に俺のことは思い出すか?」
これも、どんな意図があって聞くのかと疑問に思うが、答えろと訴えかけてくる目力に抗えなかった。
レインがシュークリーム以外でくれる事があるのはハンカチやタオルといった日常使いしやすいものが半分。
ちょっとした置き物だったり小物入れだったりと、その時に必要になりそうなものをくれたりするのがもう半分。
そのどれもにワンポイント程度のウサギ柄があって、物自体というよりもウサギの部分を見ると、ついレインを連想してしまう。
これも、言わないといけないのだろうか⋯。
迷った末にレインを見ても、早くしろとその瞳は無常に細められるだけ。
「⋯⋯ハンカチは、いつも持ち歩いてます。一週間日替わりで持てるくらいに貰ってますし⋯もの、というよりウサギさん関連はレインくんを思い出しますけど、あの、これって⋯」
「よし、次だ」
レインは全然話を聞いてくれないし、答えながら徐々に得体の知れない恥ずかしさが込み上げてくる。
少しだけでいい、待って欲しいのにレインは次と急かして来る。
「前に、俺に渡す為のシュークリームをフィンと作ってくれてただろ?その時、お前は何を考えて作ってた?」
(何を?何って、そんなの⋯)
「レインくんが喜んでくれたら良いなって⋯でも、レインくんが何を好きかとか僕知らなくて、フィンくんが教えてくれて、一緒に考えてくれて⋯。だから、次からはちゃんとレインくんの好きなもの作れるかなって⋯⋯」
そこまで言って、あれ?と思う。
自分は誰か一人のためだけにそんな律儀な事をする人間だっただろうか?と。
複数人で食べるにしたって、何種類か用意して食べたい人が食べられるものを食べれば良い、そんなふうに思っていたし、たぶんそうしてきた。
誰かにあげるにしても、カスタードなら外れはしないし嫌いな人もそういないだろうと、そう思ってスタンダードなものを渡していたはずだ。
なのに、レインくんはどうして違うのだろうか?
何で彼を見つけるとつい駆け寄ってしまうのか、レインくんがくれた物以外でもウサギというだけでレインくんの顔が浮かんでしまうのはなぜ?
彼だけの為のシュークリームを用意したいと思うのはなぜ?
あれ?と尚も考えを巡らせる程、彼だけが周りと少しだけ違う所に居る気がする。
大切で大事の中の、さらに、その奥。
特別
そんな言葉が浮かんだ瞬間、ブワッと熱が込み上げてきて顔が熱くて仕方がなくなる。
きっと目も当てられないほどに真っ赤になっている。
その様子をつぶさに眺めていただろうに、レインは容赦が無かった。
「これで最後だ。今、俺と一緒にいて感じてるものと、フィン達といる時に感じてるものは一緒か?」
同じなはずがない。
もうわかっているだろう。確信していて言っている。
それを自覚させる為に、わざとあんな問答をさせたクセに。強要してきたクセに。
なけなしの意地で睨みつけたのに、「やっと、自覚したな?」と返り討ちにあってしまった。
「レインくんはずるい⋯」
やっとの思いで絞り出した声に、やたらと嬉しそうにするのはやめてほしい。
もう、限界だ。
もう、これ以上の恥ずかしさなんて無いだろうと思っていた。
なのに⋯。
「そうだな、俺だけ言わないのも卑怯だな、よく聞いておけよ?」
「は?何を⋯⋯」
一度しか言わないからな?なんて、弾んだ声で宣うのは何事か?
それに、そんな事はお願いしていない。
言わなくても良い、と紡ぎたかった声は喉奥に絡まって出て来ず、そんなマッシュの事情にレインは考慮などしてくれなかった。
「走り寄って来るお前が可愛くて仕方なくて、いつも抱きしめたくなる衝動を堪えてた」
知らなかっただろう?と言いながら、レインの手が、すぐ近くにあったマッシュの手を捕まえた。
手を重ね、握り取られると、小指と薬指の間、薬指から中指の間、と順を追ってレインの指がするりと滑り込んでくる。
思わずじっと見つめてしまったその行動に、あぁ、逃がしてくれる気はないんだと、そう思った。
(指を絡めて握るのはやめて欲しい。ねえ、レインくんお願いだから⋯⋯)
言いたいのに、僅かに開けた口は無意味に熱い息を吐き出すだけで使い物になりそうもない。
「お前に渡すもの、どれなら常に持ち歩いてくれるだろうか、使ってもらえるかと考えて作ってたんだが、持ち歩いててくれて何よりだ」
「ぅ〜⋯⋯」
「ちゃんと俺のこと意識できてたんだな?えらいぞ」
「っ⋯⋯!?」
この男は、どれだけ上から目線な物言いをすれば気が済むのか。
なのに、否定できない。自覚してしまったから、その通りなのだろうと認めてしまう自分も、こんな傲慢な褒め言葉にすら胸を締め付ける何かを感じてしまう自分も、イヤなのにイヤじゃない矛盾した感情がせめぎ合っている。
マッシュの葛藤など知るはずもないレインが、絡めた手ごと縮めてくる距離に上手く息ができなくなって、すごく、苦しい。
(近い近い近い⋯顔が、あげられない⋯⋯)
きっと、みっともない顔になってしまっている。
顔はこれ以上ないくらいに熱く、視界がだんだんとぼやけて見えて、なんで?、どうして?、と混乱ばかりが胸中を占めては胸を際限なく苦しく軋ませる。
「シュークリーム、わざわざフィンに俺の好みを聞いて、考えて作ってくれたんだろう?作りながら楽しそうにしてたって聞いて、その場に居られないのが残念でならなかったが⋯想像しただけで愛しさで胸がいっぱいになった」
「はっ!?ぇっ⋯⋯??」
(フィンくん⋯!!なんて事をレインくんに教えてるの!それに、レインくんはそんな事言う人じゃ無かったでしょう?)
「それで、今さっきようやく自覚したようで、耳も顔も真っ赤にしてる可愛いお前が目の前にいて、俺の心臓もどうにかなりそうなんだが⋯どうしてくれる?」
絡め取られていた手にキュッと力が込められ、レインから伝わる掌の熱さがその言葉の裏付けのようだった。
(どうしてくれる?今すぐどうにかなりそうなのはこっちの方ですよ!)
ただでさえ人よりも少ないマッシュのキャパはとっくに許容量を超えていたが、レインの理不尽な発言に一瞬だけ戻った理性で、憤慨する気持ちをぶつけてやろうと眼前の顔をキッと睨みつけようと顔を上げ、直後に後悔した。
(見るんじゃなかった⋯)
愛しくてたまらないと訴える瞳と、穏やかな表情で少しだけ上がった口角。
笑顔と言うには足りないのに、普段の彼とギャップがあり過ぎて心臓が痛いほどに鼓動を打つ。
本当に、どうにかなりそうなのは僕の方じゃないか⋯。
「やっと、こっちを見たな?それで、俺たちは晴れて両想いになったわけだが、これからは⋯」
「りょう、おもい⋯」、声に出さずになぞった言葉には現実味がなかった。
僕とレインくんが?両想い?
好き同士だったとしてどうなる?
その先なんてあるの?これからって何??
お願いだから、ちょっとだけでいいから、待って⋯⋯。
「恋人でいいな?」
マッシュのささやかな願いは虚しくも潰えてしまった。
辛うじて確認の体を保ってはいたが、これは確定事項なのだと、否定などさせない、拒絶は許さないとレインの瞳が細められる。
獲物に狙いを定めた肉食獣のような瞳に射すくめられ、背筋が粟立った。
ただ、悔しいのが、震える感情の一部分は未知への恐怖などではではなく、歓喜であると気づいてしまったことだろうか。
レインへと向かう感情への答えは、もっと穏やかなものだと思っていたのに。
もっと、優しさに包まれていて、知ったとしてもいつもと同じまま、あるいはいつもより少しだけ温かい空気が流れるだけ⋯そんなものだと思っていたのに。
キミはなんて酷い人だろう。
逃げ道なんて残してくれてない。
混乱したままの頭では言語中枢は仕事をしてくれず、声は音にならないまま喉奥で縺れてしまう。
もう、それで良い。関係性は、レインくんがそれが良いというならそれで構わないから、だから、考えを整理する時間が欲しい。
レインの言葉に頷いてしまえば、その猶予が貰えると、そんな希望的観測だけで頷いてしまった。
(恋人?恋人って何するの⋯?今までと何が違うの?)
頷きはしたけれど、その関係の事をマッシュはよく知らない。
ドットがあれだけ騒ぎ立て、レモンが夢を語るように恋を語るのだから、悪いモノではないはず⋯⋯マッシュにはそんな認識でしかなかった。
どうしたらいい?何をしたらいい?そんな迷いが表情にでていたと思う。
迷い子のような気分で滲む視界にレインを捉えれば、彼が息をのんだのがわかった。
(レインくんは今、何を考えているのだろう?どう、したの?)
今まではレインが詰めてきていた距離を、今度は繋がれた手を引かれて少しだけマッシュが寄る形になる。
マッシュの体制が崩れてしまった事で、膝の上で寝ていたウサ吉がバランスを崩し、ソファにポテッと軽い音と共に落ちてしまったのだが、マッシュは勿論、レインにも気づく余裕は無かった。
「あ、の⋯近いです⋯」
「近付かないとできないからな?」
「で、き⋯?なに、を⋯」
もう、頭が働かないのにこれ以上に何があるというのか。
ただでさえ近い距離が、どんどん縮まっていく。
このままだとぶつかってしまうのに?どうしよう⋯。
お互いの鼻先が触れ、マッシュが耐えきれずにギュッと目を閉じたその時だった。
『こんの、ケダモノがぁあああ!!』
と、やたらと威勢の良いウサ吉の声が上がり、「ヴッ」とレインの呻き声を聞いたのと、繋がれていた手が離れたのはほぼ同時だったように思う。
マッシュがそっと目を開ければ、まず、みぞおち辺りを抑えるレインが目に入った。
続いて、視線を下へと落とすと、レインと対峙するようにして鼻息を荒げ、苛ついていますと態度で示すように足をバッシンバッシンにソファに叩きつけているウサ吉がいた。
「ウサ吉⋯お前⋯」と地を這いそうな声で呻いている事から、ウサ吉がレインへと蹴りの一つでも見舞ったのだろうか?
それも、無防備になっていた所になかなかの威力の蹴りが入ったと見える。
状況が飲み込めてはいないが、とりあえず繋がれていた手も離れたし、レインとの距離が確保できた事にホッとした。
さっきまで、破裂するんじゃないかと心配になるくらいに心臓が早鐘を打っていて苦しかったから、これでやっと落ち着けると。
「起こしちゃってごめんね?レインくんを止めてくれてありがとう。助かったよ」
『マッシュ⋯⋯もっと危機感もって』
「?何か危なかった?あっ、膝から落としちゃったもんね?痛くなかった?」
『ちがう⋯⋯⋯⋯』
マッシュの言葉に、ウサ吉は、この人とても危ういのでは?と不安になってしまった。
自分がとても危ない状況に置かれていた事を理解していない。
それなら、ボクがなんとかしないと、とウサ吉は思った。
その為に、まずは伝えなくてはいけない。
『マッシュ、ボクのことじゃないよ。あのね、ご主人に気をつけて⋯発情期のオスみたいな匂いがするから⋯』
ウサ吉は、マッシュが想像したような落とされ理不尽に起こされたから怒っているわけでも、レインとマッシュがキスしそうになってたから止めた訳でもなかった。
人間式のキスはウサギであるウサ吉にとって特別な意味を持っていない。
なら、なぜ過剰とも言える反応をしたのか?
それは、レインに対して発情期に感じられる特有の匂いに近いものを嗅ぎ取り、マッシュが危ない!と思ったからだった。
危険を知らせるよりも動いた方が早いと、全身全霊で主人のみぞおちへと後ろ蹴りを決めた判断は正しかったのだとマッシュの反応で確信していた。
「はつ、じょうき⋯?」
耳馴染みのない言葉に、マッシュは首を捻った。
未だ痛むみぞおちを撫でながら、持ち直したレインがマッシュの呟きを拾ったのか、言葉の意味と辻褄が合いそうなもの同士をつなぎ合わせたのだろう発言をする。
「⋯?兎たちの発情期の管理はしてるから、大丈夫な筈だが⋯?」
「いえ、ウサ吉くんや他のウサギさんでは無くてですね⋯⋯」
「なら、なんだ?」
「ウサ吉くんは、レインくんがそうだって言ってるんですが⋯⋯」
それで、はつじょうきってなんですか?と問おうとレインを見たのに、レインは目を逸らしたままこちらを見ようとしない。
「あの、レインくん?」
「⋯なんだ」
返事は返してくれるのに、やはりこちらをチラとも見ようとしない。
ウサ吉を見れば、レインへと剣呑な目を向けている。
レインくんはなぜ目を逸らしたまま教えてくれないのだろう。そんなに都合の悪い言葉なのだろうか?
「はつじょうき、とは?」
『マッシュ、今日はもう帰って、ご主人弟に聞いてみるといいよ』
「フィンくんに?」
『そう』
フィンの名前を出したら、ビクッと肩を震わせてレインがマッシュを見る。
フィンくんの名前には反応するのか、とは思ったが、それよりもウサ吉に言われ時間の方が気になった。
時計を見れば18時を少し過ぎていて、確かに帰った方が良さそうだと、提案してくれたウサ吉に「時間もなさそうだから、そうするね」と頷いてみせる。
「じゃあ、時間も時間なので、そろそろ僕は帰ります」
「待て、マッシュ、フィンには⋯」
マッシュが一言断りを入れて立ち上がると、レインが慌てた様子で何か言おうとしたのだが、レインの前に依然と対峙しているウサ吉がバシンッと足を踏み鳴らしそれを遮った。
『マッシュ、行って』
毅然とした態度でレインを睨み、ウサ吉がマッシュへと投げかけた言葉はとても漢気に溢れている。今のウサ吉は守るべきものができた漢の背中をしていて、とても頼もしく感じ、ここを任せても大丈夫、そんな安心感があった。
「うん、じゃあ、また」
そう言って、ウサ吉にだけ次の約束を口にすると、できるだけレインの事を見ないふりでやり過ごして部屋を出た。
何となく、レインの顔を見るのが気まずくて、見てしまったらまた鼓動が騒がしくなってしまいそうで、必死に意識を別方向へと逸らすのが大変だったと、詰めていた息を吐き出した。
見慣れつつある廊下をゆっくりと歩き出したが、不意に「ウサ吉くんが起きてなかったらどうなってたんだろう?」と考え、その直前までのレインとのやり取りがフラッシュバックした途端、マッシュは弾かれるように駆け出していた。
考えないようにと思うほどに、思い出してしまうのはレインの部屋での出来事ばかり。
手を握られ、やたらと小っ恥ずかしい言葉を並べ立てられてしまったし、随分と顔を近づけられて気恥ずかしい思いもさせられた⋯⋯。
あれは、何がしたかったのかと思うと同時に、どこかで⋯いや、何かで見たようなそんな既視感があるような気がして、あまり物覚えの良くない自覚のある頭で考えてみた。
鼻先が触れるよりももっと顔が近づく行為を、どこかで見たような気がしたが、どこだっただろう?
確か前に、レモンちゃんが好きだと言っていた少女漫画?で、恋仲になった二人がするっていうキ⋯⋯⋯⋯。
そこまで考え、マッシュの思考は停止した。
あれ?もしかして、あれが?そう?レインくん、僕に、キスしようとしてた⋯⋯??
答えに辿り着いてしまった途端に足からカクンと力が抜けて、壁に背を預けてズルズルと崩れ落ちるようにその場に座り込んでしまった。
階段を滑り落ちるように駆け降りていた所で、自分の部屋のある三階はもう視界に入っていたというのに、もう一歩だって歩けそうにない。
思い出しながら熱くなっていた頬が、それ以外の顔や首をも巻き込んで赤く染め上げていく。
一度は落ち着いていた筈の熱が、最初以上の勢いで込み上げてきて火照る顔が熱くてたまらない。
こんな風になってしまうのも初めてで、どうしたら良いのかわからないまま膝を抱え、誰にも見られたくない顔を強く膝に押し付けた。
(どうしよう⋯次にレインくんに会った時にどんな顔をすればいいんだろう⋯?)
「レインくんの顔、もう見れない⋯」
こんな消え入りそうな情けない声を誰にも聞かれていない事だけが救いだった。
その状態でどれだけ時間が経ったのかわからないが、階段へと近づいてくる軽い足音が聞こえた。
今から来るどこの誰かも知らない人、上か下のどちらに行くのかはわからないけれど、どうか僕のことは空気と思って見なかった事にしてほしい。
膝をギュッと抱え直し、最大限体を縮ませて何とも後ろ向きなお願いを胸中でしてしまう。
階段の入り口に差し掛かった靴音がピタリと止まったのが分かり、この世は無情⋯⋯なんて思っていたが、捨てる神あれば拾う神もいるらしい。
「マッシュくん?だよね?」
聞こえてきた声は、この一年間で誰よりも近くで聞いていた、一緒にいるだけで安心できる同室の友人であり、親友のものだった。
きっと、もう夕飯の時間が間近で、なかなか帰ってこないマッシュを呼ぶためにレインの部屋まで行こうとしていたんだと思う。
縋るような気持ちで顔を上げ、いつも助けてくれる友人に「フィンくん⋯フィンくん⋯⋯どおしよぉ⋯⋯」と弱々しく溢せば、ひどく慌てた様子でフィンが駆け寄ってきた。
「えっ!?マッシュくん?どっ、どうしたの!?怪我した?どこか具合悪い?」
「強いて言うなら、胸が痛い⋯⋯」
「胸!?えっ?もしかして心臓!?痛いって、病気!!?」
「そうじゃないと思うけど⋯⋯」
「本当に?検査してもらった方が良くない?何なら、セコンズ(バタフライ・サニタテムズ)してみる?」
マッシュの一言一句に過剰に慌てて心配してくれるフィンの姿に、多少の申し訳なさを感じながらもマッシュはひどく安堵した。
どんなに考えても一人では解決の糸口など見つけられそうになかったし、一度痛みだした胸の鈍痛はいつまでもジクジクとしたまま消えてくれないしで、困って弱り果てていたのだ。
そんなときにフィンが現れたのだから、今のマッシュにとって救いの神と相違なかった。
「フィンくん、ごめん」と一言謝り、細い身体に抱きつく。
今は、安心できる何かに縋り付きたくて、それはフィン以上の適役は考えられなくて、言葉と同時に身体は動いてしまっていた。
「えっ?本当にどうしたの?」
「少しだけこうさせて。そうしたら、落ち着ける気がする⋯⋯」
「う〜ん?よくわからないけど、僕でいいならマッシュくんの気の済むまで、いくらでも付き合うよ」
「ごめん⋯ありがとう、フィンくん」
「うん。落ち着いたら、話、聞かせてね?」
突然の事に驚いただろうに、どこまでも優しい対応をしてくれる友人に、うんと頷き返し、全身から力を抜いて友人の肩に頭を預ける。
きっと、もう大丈夫。フィンくんなら、きっと良いアドバイスをくれるから。
そう思えば、一人で抱えて蹲っていた時よりもずっと心が軽くなっていた。
後日談へ続く