月が綺麗ですねいつもの場所でミサイルは足を止めた。立ち止まったまま、辺りの草を鼻で弄るミサイルのリードをいつも通りに木にくくる。
リードは手放したが、反対側の手は離さない。手を繋いだまま、ふたりで土手を降りていく。自分がよろけると、真夜さんが二の腕を掴んで支えてくれた。正直なところ、掴まれた箇所が少しだけ痛かったのだけど、これはこの人が焦って手を差し出したからだと分かっている。咄嗟の判断で手加減できる人ではないところが好きだなと思ったが、黙っていた。伝えたら、二人とも照れ隠しで走り出してスカイツリーまで行ってしまう気がする。
手を繋ぎ直し、橋の下まで歩いた。わざわざ手を繋ぎ直したのはちょっと恥ずかしかったかな、とか、ミサイルがこの場所で待たされることが分かっているのって結構恥ずかしいな、とか思いながらいつもの場所にたどり着いた。
座っても大丈夫なブロックがあるから、散歩の途中でここに立ち寄る。座ってもいいんだけど、今日は立ったまま背に腕を回した。そう、座ってもいいからとか、つい神様に言い訳しちゃうけど、橋の下なら抱き合っても何をしても、バレないからここにくるのに。なんで言い訳したくなるんだろう。誰にも言わない二人の秘密だから、神様にしか分からないのに。
「んっっふふっ」
カツっという歯がぶつかる音がして、真夜さんが笑った。唇はくっついているから、口端から音が漏れてくすぐったい。自分も笑いそうになって、今度は唇を噛みそうになった。あっぶない……。
人目を避けたこの場所でキスするようになってはや一月。キス自体はもっと前からしているのに、オレたちは一向に上達しない。上手いキスが何かはここで説明できないけれど、ムードとか作るもんじゃないのかな。少なくとも歯を歯をぶつけたりしないはず。たぶん、がっつきすぎなんだと思う。どちらが、とかじゃなくてお互いに。
「んっ……ふ……」
ぴったりと唇を合わせると、どちらともなく鼻から甘ったるい息が漏れた。背中に添えられていた彼の腕が静かに動き、オレの頭をそっと支えた。キスの時はこうしていつも頭を支えてくれる。大きくて硬い手が好きだった。ちょっとだけ、この人が握るボールの気持ちになれる。
ちゅる……。
ゆっくりと彼の舌が入ってきた。迎え入れてねっとり絡めて、ってするらしい。けど、実はよく分からない。だって、自分の中に入ってきた真夜さんの一部と自分の一部を重ね合わせるだけでいっぱいいっぱいになる。緊張も、気持ちも、体の方も。
真夜さんは、あたたかくて、ぬるっとしていて、柔らかかった。柔らかいって気持ちいいんだなって感じると、すごくドキドキして、それ以上なにも考えられなくなる。どきどきどきどき、自分の鼓動がうるさくなって、頭を支える真夜さんの手が熱くなって、時間も上下も分からなくなったところで、真夜さんは頭から手を離す。同時に唇も離れる。唇に感じる、すうっとした空気で頭が冷える。落ち着くのが、さみしいような、安心なような、不思議な気分。
終わった時に、真夜さんが手の甲で唇を拭く仕草が好きだった。気取ったりしないで、いつも自然なままでいるのが好きなんだなって思えるから。
今日はいつもより真夜さんの顔がよく見える。自分がじろじろ眺めすぎなのかと思ったけれど、よく見たら辺り一帯が明るく、河原の草と石までよく見えた。月が出ているとこんなに明るいものなんだ。
太陽とは違う光の下で見る真夜さんの顔は少しだけ白く、目は黒でも茶色でもなく月夜の夜空のような紺色だった。こういう時に「月が綺麗ですね」と言ったら、この人はなんて言うんだろう?
「月、すごいな」
真夜さんは何気なく呟いた。ずれたことを考えていたオレは急に現実に引き戻される。
「え?あ?はい?」
「見えないのか?」
「見えます見えます見えます」
月みたいに綺麗な人が見えますとは言えなくて、代わりにそっと彼の手を握った。きゅっと握り返された圧に気持ちが上がる。やっぱり好きだな。
「帰るか」
彼は俺のひたいに軽く口を寄せ、土手に向かって手を引いた。チュッという音はしなかったけど、すごく柔らかかった気がした。
さあ、ミサイルのところに戻らないと。
〆