来年もまだこの手を握っているんだろうか東京に来る前からずっと気になっていた男がいる。上手いだけではなく、曲者で、状況の隅から隅まで考えて野球をするやつだ。一緒に野球をしたら面白いやろうな。記録映像で感じた直感はその後も裏切られず、高校の練習試合でも、甲子園をかけた試合でも変わらなかった。変わらないどころか強まるばかりだ。だのに、そいつとは結局、大学生の今に至るまで同じチームになることはなかった。
選手としての関心はいつしか個人としての関心となり、先輩後輩なので友達というのは変なのだけど、なんらかのツレになりたい気持ちが抑えられず、結果的に暇があれば連絡をして外に連れ出すようになった。野球関係なく繋がりたいといっても、結局は野球馬鹿二人がやることといえば野球くらいしかなく、出かける先といえば観戦観戦バッセン筋トレ分析会となるのが殆どだった。ついでに飯を食って帰るのが定番だ。まあなんだ。他のことをしようとしたって、例えば、そう、水族館に行くって考えてみたところで俺だってうまくイメージできないんだから今のままでいいんだろう。イルカを見た要がどんな顔でなんと言うのか興味がないわけではないのだけれど。
夏のある日、珍しく要の方から連絡があった。お互い、夏の大会は終わったところだったので、分析会でもしたいのかと思いながらメッセージを開いた。
「一緒に花火に行きませんか」
行かないわけがない。
当日、集合場所に着くと、要と複数の男女が会話していた。
なんや、二人きりやないんか。
奥の方を見れば、見覚えのある顔が何人かいる。あいつの大学の野球部員だ。向こうは向こうで俺に気がついたらしく、あからさまにがっかりした顔を見せた。可愛い女子を期待していたんだろう。すまんな、ムカつく野郎が来てしもて。まあ、よろしく頼むわ。
男どもはライバルである俺を遠巻きにしていたが、女子は野球に興味がないらしい。なんやかやと気軽に話しかけてきた。花火の後に何をするのかは知らないが、こういう時に女子に嫌われると面倒なことしか起こらない。適当に愛想を振りまきつつ、うまいこと情報を聞き出そうと会話を続けた。まあ、それも、歩き出すまで。適当に女性陣を撒き、要を探す。
都内有数の花火大会だった。人波は果てしなく、四方八方どこを見渡しても人しか見えなかった。花火のいいところは空が見えれば、目当てのものが見えるところだが、周囲の人ごみに埋もれてしまうと辛いかもしれない。平均身長から言えば決して低い方ではない自分でも視界はぎりぎりだ。
要を探すとすぐ先の人と人の隙間でふわふわの茶髪が揺れていた。
追いつかないと。
咄嗟に手を掴む。少し汗ばんだ豆だらけの硬い手に触れたのは、そういえば初めてかもしれない。掴んでもよかったんだろうか。不安と疑問が頭をよぎったが、要は振りほどくこともなく、むしろ軽く握り返してきた。
まあ、はぐれたら困るしな。しばらく繋いでおくか。
わあ……!
花火大会が始まり、周囲で一斉に歓声が上がる。
「ここ、離れませんか?」
「え?」
「俺たちだけいなくても分からないはずなんで」
そう言って要は俺の手を引いた。
なにがどうして、とは思ったが、この際、意味なんてどうでもいい。集団をふたりだけで抜け出すことに胸が高鳴る。人々の流れに逆らい、今までと別の方向に進む。逆走に近いので、要と離れないようしっかりと手を繋いだ。硬く、厚く、豆だらけの捕手の手を。はあ、俺の球も捕ってくれへんかな。
埃っぽいの河原を進む。砂埃には慣れている。むしろ球場を思い出してテンションが上がる。普段と違うのは、人のにおい、汗のかおり、化粧のにおいや、香水のかおり、脂っこい食べ物の濃い匂いや、お菓子の甘い香り、あらゆる匂いが混ざって自分の鼻をくすぐることだった。野球とは無関係の場所で、要と手を繋いで歩いているのは、夢のようで現実感がなかった。
「この辺でいいですかね」
人が減り、花火からは少し遠くなったが、息がしやすい川沿いに出た。橋をひとつふたつ過ぎると観覧客は急に少なくなる。ぽん……ぽん……と可愛い打ち上げ音と共に小さな花火が遠くに見えた。
要はぽんやりと花火を眺めていた。
俺も何も言わず、隣で花火を眺め続けた。
橋の上を車が通るたびに、ライトがこいつの顔を照らしては陰を作った。鼻の横に影ができ、意外に高い鼻が際立ってみえる。同時に目元のほくろも照らされては影に消えた。今まで涙ほくろの何がいいのかよく分からなかったが、追えば消える気まぐれ具合が、いやらしいような気がしてきた。求めれば隠れ、諦めると現れる、愉快な小鬼のような要のほくろが嫌いじゃない。
「あの、」
「ん?」
「桐島さんと花火を見るのは初めてです」
困惑したように眉間に皺をよせ、要はこちらを見上げた。
言いたいのはこれではないと分かっていたが、その言い方が面白くて笑い出しそうになる。ぐっと腹に力を込めて耐え、そっと微笑むにとどめた。
「ほな、来年も花火見よか。二回目も三回目もよろしくな。」
そう答えると、要はぐっと握る手を強めた。
来年もまだこの手を握っているんだろうか。
遠くでぽんぽんと花火が光って消える。まだ、夏だ。
これから秋になり、大会があり、冬になって年が変わり、オフシーズンを超えて学年が上がる。次の夏までが遠すぎる。そう思うと無性に今に拘りたくなった。
「なあ、キスしてもええかな」
要は無言で俯いたまま、地面を見つめていた。俺は要のうなじを眺めながら、花火が爆ぜるぽんぽんという音を聞いていた。俺の手を掴む要の手は徐々に強くなる。少し汗ばんでいるが、こいつの緊張を共有していると思うと、むしろ嬉しくなった。そんな風に考える時点で、もう俺はだめなんだろう。降参だ。
「分かりました」
硬い声で答えた要がこちらを見上げる。緊張のせいなのか瞳が潤んでいる。つい可愛いと思ってしまうから、早く次の動作に移った方がいい。考え出すと、ろくでもないことばかりが頭の中を駆け巡る。
そもそも、勢いで「したい」などと口走ってしまったものの、キスなんてしたことがない。
どうしよう。
戸惑いながらもよく見ると、要の眉間にはまだ皺が残っていた。「分かった」というぐらいなのだから嫌ではないのだろうが、緊張しているのだろうか。
それなら、と俺は眉間に口づけた。汗のにおいがして、こいつに触れていることを嫌というほど思い知らされた。ああ、やっぱり、口にすればよかったかな。
「きりしまさん」
「なに?」
「キスしてもいいですか?」
もちろんようこそ喜んで!と叫びそうになったが、ぐっと飲み込み、「大丈夫」とだけ呟く。そうか、俺とキスしたいって思ってるんかそうなんか。
驚きと興奮で同じことばかりがぐるぐるふわふわと頭を覆う。
そうしているうちに要の体温が近づいた。肌にかかる要の鼻息がくすぐったく、温かい。もうこれだけで気持ちよくて、体の全部でこいつのことが好きになってしまいそうだった。
初めての唇は、やわらかく、儚く、甘かった。
頭の後ろでぱちぱちと、大きな花火がはじけて消える音がした。
高校の時からずっと気になっている先輩がいる。先輩といっても小手指の選手ではなく、もちろん宝谷の先輩でもない。ライバル校のエースだった。まだ主人の方が安定していた高一の頃に知り合い、研究しているうちに、気にかけるようになった。器用で、賢く、勝つための最適解を泥くさく探るわりに、余裕ぶって敵に笑いかける態度が腹立たしいのに面白かった。配球も、ある程度投手自身が組み立てているようにも思えた。気が強い。そしてやはり戦略的だ。難しい相手だったが、研究対象としては最高だった。距離を保って観察するつもりだったのに。
その人は会うたび話しかけてきた。しかも球を捕ってくれという。見かけによらず馬鹿なのか。それとも、からかわれているのか。だとしたら腹立つな。
彼はなぜか俺に連絡をよこし続け、俺はなぜかその連絡に返事をし続け、大学でライバルとなった後も、その関係は続き、いつしか自主練を一緒にする仲になった。なぜだろう。断れないのだどうしても。行くとそれなりに興味深い話もできるし、練習も進む。最新の野球理論にも詳しいから愉快だし。飯を食ってもなんだか美味い。どうでもいいお笑いのネタも正直楽しかった。だからといって、あまり追及してはいけない気がしていた。
夏のある日、部の先輩に頼まれた。次の試合でなんでも言うことをきくからお願いをきいてくれと言う。試合の内容にプライベートを絡めるのは不当だと感じたが、先輩のあまりの必死さに、何か理由があるかもしれないと思い頷いた。
「よかった!どうしても女子と花火に行きたいのに頭数が集まらなくて!要なら顔もいいから女子ウケはいいし、真面目だから絶対横取りもされないし、お前にきてほしかったんだよな!」
馬鹿らしい。
でも、人形みたいなのっぺりとした顔をしていた先輩が、明るい表情で俺を見ているのを感じると、もう断ることはできなかった。
「お前、誰か友達連れてこいよ。できれば綺麗な子」
綺麗な、と言われたところで彼の顔が思い浮かんだのはなぜだろう。
当日、集合場所に来た彼は一瞬、無表情になったが、すぐにいつもの胡散臭い笑顔になった。人当たり良く目を細めているのに、奥の奥では相手の弱点を探り続けており隙がない。
ほんの一瞬だったが硬い表情を見せたことで、誘ったのは失敗だったかと後悔し、こちらも身を固くしたが、彼はすぐにグループに溶け込んで女子に軽口をたたいていた。黒髪の子に話しかけたと思えば、ショートカットの子に冗談を言い、背の低い子が後ろから来た男にぶつかりそうになるのを助けていた。なんだ。緊張じゃなくて、興奮だったのか。女子が多くて、気持ちが上がっただけなのか。
「桐島さん、今日は突然すみません」
「謝らんといて。お誘いありがとうございます。めちゃ嬉しいし」
にこりと笑った顔は、先ほどよりも柔らかい雰囲気だったが、気のせいかもしれない。この人の、人誑し術にはまっているのかも。
思えば、球場以外の場所で多人数の中のひとりとして桐島さんに会うのは初めてだった。今まではふたりきりで自主練や検討会をしていたから、一般人といる姿が新鮮だ。おおむね、想像通りの器用さで、初対面の人々とのコミュニケーションを乗りこなしてた。…………………まあ、器用だよな。
桐島くん、と女性の声が聞こえ、呼ばれた人はまたしても巧妙に笑顔を貼り付け、振り向いた。本当に器用だ。
今日の幹事の先輩が歩き出したので、全員がぞろぞろと後につく。とんでもない人波の中、人を掻き分けて歩くだけでも一苦労だ。次々と迫りくる他人にぶつからないよう注意して歩く。集中しないと転びそうになるのに、後ろで女子と笑いながら歩いている人が気になって仕方がない。はぐれずに、真っ直ぐ進めているんだろうか。
きゅ。突然、手を掴まれ、振りほどきかけてすぐに気がつく。デカくて硬くて分厚いのに、よく手入れされた手は投手の手だ。俺を掴んだ瞬間は痛いくらいの力強さだったのに、すぐに適度な圧に調整する器用さもよく知っているものだった。そうか、これが桐島さんの手か。はぐれないよう、握り返す。いつの間にか、女性陣は幹事のいる前方に移動していた。
わあ……!
花火大会が始まり、周囲で一斉に歓声が上がる。
真上で輝く火花は確かに美しかったが、目線には人々の頭がずらりと並んでいるのが、どうしても気になった。そのうえ、風のない夜の蒸し暑さと人いきれで空気が澱み、息もうまくできない。隣の人を横目で窺えば、涼しい顔で夜空を見上げていた。花火の光で照らされる目尻の曲線が美しい。そう思った直後に辺りは暗くなり、この人の顔は陰になる。もうちょっと見たかったな、と思えば、周囲で「おお」と歓声があがり、辺りは花火の輝きでまだらに光る。
すごい。すごいけどやっぱり暑い。
「ここ、離れませんか?」
「え?」
「俺たちだけいなくても分からないはずなんで」
考えるあより先に言葉が出た。ここを離れたい一心で口から言葉が滑り出す。
いやもう、花火なんてどうでもいいから、早くこの人とふたりになりたかった。暑いから。
だからだろうか、握っている手も、ずっと熱い。
ふたつ先の橋の下まで歩くと、人混みはかなり緩和され、息はしやすくなった。
改めて遠くの花火を見る。隣の人がどうなっているか、横目で窺うと、彼は花火を見つめながら髪をかきあげているところだった。普段は見えない右目がちらりと現れ、消える。見てはいけないものを見てしまったような気がして、どきどきとする。
どうしよう。
なにか言わなきゃ。
花火は依然、打ち上げられ続けている。小さく光り、ポンポンと小さな音がする。昔、近所で見た地域の花火大会みたいな小さな軽い音。
友達と花火を見るのって久しぶりです。
そう言いかけて気がついた。この人って友達なんだろうか?
部の先輩が女性と花火に行くから頭数を揃えたいといって人集めを指示したのが発端だ。
思いついて誘ったものの、関係性を表す言葉が見つからない。先輩か?
先輩と花火を見るのって久しぶりです。
いやしかし、同じ学校の先輩後輩になったことはない。
野球の繋がりがある先輩と花火を見るのは初めです。
か?
正確だが、日本語として、なんか変だし本当にそれでいいんだろうか。
なんだ?
なんなんだこの人。
桐島ってなんなんだ?
いやちょっと待て。
俺、ずっと黙ってるけど、これでいいのか?
「あの、」
「ん?」
「桐島さんと花火を見るのは初めてです」
無理やり捻り出した会話の拙さに愕然とする。嘘ではないが、正解でもない。
この人が俺のなんなのか。
高校時代に研究するうちに興味をもち、そのうち心のどこかで反発するようになった。だというのに話しかけられれば応じてしまう。野球に関する話題も豊富で話は尽きず、世間話も詳しくて面白かった。かと思えば見通したようなことや、嫌味を言うので腹が立って仕方がない。なんなんだなんなんだなんなんだ。
「ほな、来年も花火見よか。二回目も三回目もよろしくな。」
ほらきた、俺の変な話にも百点満点の正解を叩き出しやがって。腹立つな!
腹立ち紛れに繋いでいた手を強く握った。
大きく硬く、それでいてよく手入れされた投手の手。
来年もまだこの手を握っているんだろうか。
遠くでぽんぽんと花火が光って消える。
隣の人は相変わらずぼんやりと空を眺めている。時々、空いた手で髪をかき上げる。そのたびに、普段見えない右目が現れては消えていくことに、どぎまぎしていた。人の顔にそわそわするなんて、初めてだ。
「なあ、キスしてもええかな」
唐突に彼は告げた。
なぜ自分なんだろう。
女性にそつのない対応をすると思っていたが、男も女も関係なく声をかけてくるんだろうか。コミュ力ってそういうことなんだろうか。
脇の下に汗が滲む。暑さのせいじゃないことは、自分でもよく分かっている。どうしよう、馬鹿にするなと怒った方が良いんだろうか。
迷いながらも、彼の手を振りほどけない自分がいた。デカくて硬くて分厚いのに、よく手入れされた手は投手の手。離したくないと思う時点で、俺はもう駄目なんだろう。この人が誰彼かまわずキスを誘うような人だとしても、もう離せないのだから仕方ない。それなら、こちらに引き寄せるしかない。
「分かりました」
さりげなく答えたつもりなのに、声が硬い。この人を見通すくらいちゃんと見つめたいのに、視界が霞む。どうしよう。思ったよりも緊張している。
周囲が暗い。彼の顔が近づいたせいだと気づき、緊張が増す。思わず目を閉じたところで、眉間に柔らかくあたたかいものを感じた。緊張をほぐすあたたかさだ。
これだよな。状況を瞬時に捉え、相手を読んでその場の最適解を導く判断力。人はこれを優しさと呼ぶんだろう。俺は、その判断力が好きだ。
「きりしまさん」
「なに?」
「キスしてもいいですか?」
少しだけ息をのんだ彼は、すぐに落ち着いた声で「大丈夫」と答えた。落ち着いたその声音が、好きだなと思う。感情って、名前を付けると止まらなくなるんだということに気がつき、恥ずかしくなった。
ゆっくりと彼に顔を寄せ、できるだけそっと唇に触れた。この人が、どれだけ沢山の人と同じ行為をしていても、俺にとっては初めてだから、失敗しないように丁寧に。
初めての唇は、やわらかく、甘かった。
頭の後ろでぱちぱちと、大きな花火がはじけて消える音がした。
〆