ランサーが帰宅したのは、食事も入浴も、歯磨きまですっかり終えてしまって、いよいよもう寝てしまおうという頃だった。
玄関ドアの開く音を耳ざとく拾ったセタンタが、ピクンと顎を跳ね上げリビングを飛び出す。アーチャーはその獣めいたしぐさに笑いを堪えながら、セタンタを追って一緒にランサーを出迎えた。
はしゃぐ息子に纏わりつかれ、苦労しながら靴を脱ぐランサーから、鞄と土産らしき紙袋を受け取ってやる。ランサーはひょいとセタンタを抱き上げてしまうと、疲れを感じさせない軽い足取りで廊下を進んだ。
「いい子にしてたか?」
「うん」
「アーチャー怒らせてねぇか?」
「うん」
「……なんだ、ずいぶん眠そうだな」
時刻はようやく夕方から夜へ移ろうという頃だが、それにしては問いかけに返る声がぼやけていると気付いたらしい。ランサーがセタンタを抱えなおし、彼の幼少期にそっくりな顔をのぞきこむ。するとセタンタは小さくあくびをしながら、やはり眠気の滲む声で答えた。
「ん、今日、いつもよりアーチャーが遊んでくれた」
「…そうかね?」
内心の動揺を押し殺し、努めて平静な声を作る。
たしかに、幼稚園から帰ってきて、いつも通りおとなしく気に入りの動画を見ていたセタンタを誘い、庭で「戦いごっこ」に付き合いはした。そのために少しだけ、仕事を早く切り上げもしたが。
まさか、子供に悟らせるほど違いが顕著だっただろうか。
「ふぅん?」
ぞく、と腰が震えた。ランサーの、明らかに何かを含む声。たった一言に。
気づかぬふりで、ダイニングの椅子に荷物を置き、キッチンに入る。ランサーは食事を摂ってから帰宅すると事前に連絡を寄越していた。冷蔵庫をあけ、少し迷って水出しの紅茶をグラスに準備する。
「セタ、眠いならもう寝ちまえ。アーチャーが絵本読んでくれるから」
「やだ、ランサーと寝るぅ」
「明日、朝からみっちり遊んでやるから。……オレも充電しとかねぇとだろ?」
「んんー……わかった」
ぎゅう、と首にかじりつく細い腕をタップしながら、ランサーが優しくセタンタを諭す。次の休みには絶対に父とプール遊びをするのだとはりきっていたセタンタは、眠気もあるのだろう、存外素直にうなずき、アーチャーに向かって両手をのべた。
テーブルにグラスを置き、ランサーの腕から小さな体を預かる。
セタンタのほとんどまぶたの落ちかかったまろい頬にランサーがキスを贈った。
「おやすみ、セタンタ」
「おやすみ、ランサー」
アーチャーの肩越しにセタンタが手を振り、その小さな頭をことりと首筋に懐かせた。
ランサーがジャケットを脱ぎ、タイを弛める衣擦れ。フローリングを踏む足音。グラスと氷のぶつかる軽やかな音。アーチャーは全身でリビングの気配を探りながら、セタンタを抱いて階段をあがった。
セタンタはわずかな移動の間にほとんど眠ってしまっていた。ベッドにおろした瞬間こそむずがっていたが、額にかかる前髪を梳きながら頭を撫でるうちに、すうすうと規則正しい寝息が聞こえはじめる。あどけない寝顔を飽きもせずじっと見つめる。
艷やかな青い髪も、今は隠れて見えない瞳の苛烈さも、整った目鼻の配置も、まるきり父親に生き写しのセタンタだが、ランサー曰く性格はアーチャーにそっくりだという。
誰からも頼られ、頼られれば断れず、自身の労を惜しまず世話を焼く。一度決めた目標は達成するまで曲げないし、何度失敗しても果敢に挑もうとする。アーチャーにしてみれば、面倒見の良さも諦めの悪さもランサー譲りではないかと思うのだが、「全然ちげぇよ」という彼の言葉の真意はよくわからない。おおかた、自分はアーチャーほど八方美人でも往生際が悪くもないとかなんとか、そういうことを言いたいのだろうが。
ついさっきランサーが口づけたのと同じ場所にキスを落とし、立ち上がる。枕元のライトを落として、静かに子供部屋を後にした。
リビングにランサーは居なかった。おそらく風呂を使っている。空になったグラスが水切りの上に伏せられているのを横目に、ダイニングチェアの紙袋をあらためる。中には、一般にはなかなか出回ることのない出張先の銘酒が二本入っていた。ひとまずストッカーに収納してから、鞄を手に取る。
案の定、ランサーは浴室に居るようだった。ランドリーの奥から聞こえるシャワーの音を背に、ランサーが書斎として使っている部屋に入る。
ランサーの書斎には、机の他にソファベッドと小型の冷蔵庫が置かれている。冷蔵庫の中身はほとんどが酒と水、あとはつまみとゼリー飲料が少し。ある程度の数が残っていることは昼間確認していた。この部屋と、廊下を挟んで集中しているサニタリーというコンパクトなエリアだけでおおよその寝起きが完結するようになっているのは、二人が生活を共にする前からのランサーの意向だ。深夜や明け方の対応を要求される仕事の前後で、すぐに休めるようになっている。
主寝室は二階にあり、普段の二人はそこで就寝する。だが、子供部屋の隣のその部屋は、眠る以外のことをするには致命的に向いていなかった。つまりは、セックスだ。ランサーが神妙な顔で自身の書斎を使うことを提案してきたのは、セタンタが産まれた後、何度かの夜を経てのことだった。曰く、声を噛むのも小さな物音にいちいちビクつくのも、セックスのスパイスとしては悪くないが、本気で怯える相手を甚振るような抱き方はしたくない、という。ランサーの仕事場に性の匂いを持ち込むことにはそれなりの抵抗もあったが、とはいえ寝室ではアーチャーが集中できなかったのも確かだ。さらに言えば性交渉の一切を断つというのはなおさら選択しがたく、結果としてアーチャーはランサーの申し出を受け入れた。
以来、二人の夜は専らこの書斎で営まれている。
デスクチェアに鞄を置き、スーツのかかったハンガーに手をかける。肩の位置やスラックスの折り目を手直ししながらほこりを落とし、一緒にかかっていたタイをクロゼットにしまう。
アーチャーはそこでふと手を止めた。タオルを出しておくべきだろうかと考え、だが、と思い直す。あまりにふしだらではあるまいか。これがローションやゴムならば、いわば必需品だからだと言いきれる。肌を合わせようと思えば、絶対になくてはならないもの。それらはストックも含め、ソファベッドの脇のチェストにしまわれている。では、タオルは? 一度や二度ならず、精を、あるいは他の何かを撒き散らして、初めて必要になるものだろう。つまりは、前後不覚になるまで何度でも抱き合いたいのだと、自らの浅ましい欲を曝け出すようで。
「あるだけ全部出しとけよ」
不意に背中から声がかかり、クロゼットの扉を掴んだままの手を強張らせる。益体もないことを考え込むあまり、部屋のドアが開く気配すらとらえられなかったことを悔やみながら振り返る。
「干乾びるまで搾り取ってやる」
「っ、……は、」
ボクサーパンツだけを身に着けた裸体。白い胸を伝う水滴に視線が吸い寄せられ、そのまま目を離せなくなる。きちんと下着を着ろ、髪を乾かせ、いやせめて拭いてこい。頭の中を小言が埋め尽くすが、どれひとつとして言葉にならない。肩の上で雑にまとめられた青い髪から、また一筋水が滴った。ランサーの裸の胸を、見事に隆起した腹筋の溝を伝って、一度へそに溜まり、再び垂れてボクサーパンツのゴムを濡らす。視線は、さらにその下へ。前立てを押し上げるどころの話ではない。硬く血を集めたペニスが、くっきりと、細部までその形を浮き上がらせていた。
じゅわ、と口の中に唾液があふれる。瞳が、下腹が潤み、ほどける。
「ら、さ、」
「セタは寝たんだろ?」
一歩、二歩、距離を詰めながら問われて、だが返事は声にならず、ただこくこくと顎を頷かせた。首にまわされ、素肌に直接触れた腕の熱さに息を呑む。
「いっぱい遊んで、疲れて……朝までぐっすりだ」
「あ……あぅ、う、ぅ、」
低く、熱く、掠れた声が直接頭蓋の奥に吹き込まれる。がくがくと膝が笑い、思わずランサーの肩に縋り付く。
「明日、な。朝からセタの相手はオレがする。お前は、ゆっくり寝てていい」
だから、いくら乱れても、何度イってもいいし、声が涸れても、立てなくなってもいい。
毒のようなランサーの声が、アーチャーの脳を溶かし、揺らし、ぐちゃぐちゃとかき混ぜる。つま先から髪の一本一本までもが、今夜、これから与えられる快楽の深さを予感して歓喜する。
「……っ、ア、ら……ぁ、あ、……っ」
「たっぷり、充電、しような」
最後に見たのは、ぐる、と喉奥で獰猛に笑った男の、瞳の赤。