猫も雨天に夢を見る.
ここ最近、家に居着き始めた黒猫。
僕が仕事から帰る時間を見計らったかのようにアパートの扉の前で待っているその黒猫は、夕方頃に僕が階段を上がってくるのを見つけると足元へやってきて一つも鳴くことなく目だけで訴える。
中に、入れろと。
扉を開ければ家主である僕を先導するように悠然と室内へ入り、すっかりお気に入りになったらしいソファの隅を我が物顔で陣取る。寝ようとしたところで毛布をめくるとベッドの真ん中へやってきて僕のことをお構い無しに伸びて寝ることもあった。すっかり自分の家のように振る舞ってはいるし夜寝ていると枕元へ来ることもあるのだが、何故か彼は、朝には忽然と姿を消している。
初日こそご飯を食べて満足したのだろう、飼い主の元へ帰ったのだろうと思ったが、その日もまた前日の時のように、僕が帰宅すると玄関の前に行儀よく座って彼は僕を待っていた。
扉を開ければまたおれの家だと言わんばかりにソファを陣取り、朝には姿を消す。そして夕方には玄関の前。
そうした日々を繰り返してかれこれ一週間、彼との奇妙な同居生活は続いている。
「君。このアパートはね。ペット禁止なのだよ」
いつものように彼を迎え入れ、ソファで丸まった彼を脇を抱え膝に乗せ、目線を合わせて伝えてみたが。
「まぁ、聞いちゃいないだろうね」
まぁ、相手は猫だ。人間の気苦労など知ってか知らずか彼は低く唸り欠伸をした。
黒猫と言ったが左耳付近の毛一帯は赤く、変わった模様をしていた。はじめは怪我で出血でもしているのではないかと思い病院へ連れていったが異常はなく、頭部に怪我の痕跡があるわけでもない。首には擦り切れかけてボロボロの包帯を巻いていたが、やはり怪我はしていなかった。交換しようとしたが物凄い剣幕で威嚇するためそのままにしている。獣医いわく、幼い頃についただろう切り傷の痕が残っていたらしい。
食欲は旺盛だが、じゃれたり走り回ることは無く、あまり鳴く事もない。そのお陰で近隣に猫を住まわせていることがバレずに済んでいるのは助かった。
人と暮らす猫ほどよく鳴くという話は聞いたことがあるし、元から野良猫の可能性も高いだろう。
「とはいえ、そろそろ隠すのも限界だね。人を住まわせるのとは訳が違う。さて、どうしたものかな」
二駅先の大学に赴任するタイミングで住み始めて4年目の木造アパートは単身用の1DK。猫一匹増えたところで生活に支障は出ていない。大家が一階に住んでいる訳でもないし、近隣住民との交流も無いに等しい。おかげで発覚に繋がりそうな要素はほぼ無く、隠そうと思えば隠せ通せる環境ではあった。
とはいえ、当面は引越しの予定もないのに飼い続ける訳にも行かない。
どうしたものか。野良猫だと言うなら、追い出してしまえば話は早いのだろうがそもそも勝手にいなくなっても最終的にはここへ帰ってきている以上、どこかに放してもここへ帰ってくる可能性はある。この部屋を住み家だと思ってしまっているならそれも問題だ。
「……明日は休みだし、君を見てくれた獣医に相談してみようか。飼い主探しの手がかりがあるかもしれないよ」
明日のことは明日考えよう。独り言同然の言葉をかけて読みかけの本を一冊床から拾い上げる。そのままの足で寝室へ向かうと、ソファから飛び降りて彼は僕の足元へやってきた。進行方向を塞ぐように座り、しっぽを強めにパタパタと左右に揺らし、ジッと僕を見上げている。赤と黒の中間のような深い瞳が、心做しか少し不機嫌に見えた。
「ええと、猫くん。どうかしたかね?」
猫なんて飼ったことがないし生き物に詳しい訳でもないが、不機嫌そうだなということは何となく感じる。しかし何を訴えかけられているのかはまるで見当がつかず狼狽えていると、ふいと顔を逸らして我先にとベッドへ向かい、彼はまたも僕の枕を陣取った。
「やれやれ、困ったことになったねえ」
コソコソと猫を部屋に招き入れている罪悪感や、飼い主探しを含めたこの先への不安から来る心労もそうだが、困っているのは何より愛着が湧き始めている事だ。一週間も寝食を共にすれば自ずとそうなることは予想出来たが、我ながら驚く。こんなにも情が湧くものかと。
「名前なんてつけてしまったらきっと最後なのだろうね。……君に名前はあるのかね?」
律儀に僕の頭一つ分を残して枕で丸まる猫は、僕の悩みなんて露ほども知らない素振りで寝息を立てていた。
────翌朝。
激しく窓を打ち付ける雨の音に起こされた。ゆっくりと覚醒していく意識の遠くに、雷の音も聞こえる。時計を見遣ると、ぼやけた視界でだいたい5時頃だということがわかった。 枕元に、猫の気配はない。一度足に乗って寝ていたこともあったがその気配もない。また出ていってしまっただろうか。
「雨の日は外出が面倒だな……」
まだ意識は覚醒しきらず、目の奥や肩の辺りに疲労感も残っている。病院の事は起きてから考えようと決めて寝返りを打ったところでハッとした。
これまで通り、朝になって彼がこの家から姿を消しているのであれば、朝から行く病院に行く必要が無くなってしまう。
夜いつものように帰ってくるとしたらそれから連れていけばいいかな。まず帰ってくるのだろうか。いつもこの時間はどこで何をしているのだろう。
こんな雨風の中、どこへ行ってしまったのだろう。
そうして目まぐるしく考えを巡らせている内に眠気は遠のいていく。と同時に、不安が追いかけてきた。
ソファの隅で丸くなる見慣れた姿を思い出した時、ちょうど雷の音が重なり衝動的に立ち上がる。
あぁだめだ、すっかり情が移っている。探しに行こうとベッドを下り、眼鏡をかけた。
カーテンを締め切って暗い寝室を後にしたまさにその時、キッチンの方向から物音と気配がした。
「ん?」
反射的に寝室の引き戸を背に身を隠す。怪談も、創作としてのホラーも、本を通して慣れ親しんできたつもりだ。それに僕は超常現象の類は信じない質だが、いざこの身に降りかかるとなると流石に背筋が凍る。
心臓の音が少しづつ大きくなるのを感じながら、視線だけを何とかキッチンの方へ向ける。電気が点いていないせいでほとんどの情報が視認できない。しかし人影はその場から動かず、何かを物色しているような様子もないことはわかった。
「泥棒ではないのかな。だとしたらやっぱり心霊現象だろうか。この家が事故物件だという話は聞いたことがないけど」
独り言を呟くのは癖でもあるが自身との会話で平静を保つためだ。無意識的に口数は増える。
そうしている内に、キッチンの人影がこちらへ向かって歩き出した。引き戸に背中を張り付け、様子を伺う。
ぎし、といつもより大袈裟に耳に響く板の間を踏む音は、僕の直ぐ後ろで止まった。明らかな人の気配に、幽霊も足音がするのかな。鼓動の早さや息の荒さに反し、この期に及んで僕はまた呑気な事を呟いた。
「ひぜん」
僕の背後に立つその人影は、低い声でそれだけ言った。
「……はい?」
想定していたどれとも違う相手の出方に呆気にとられて振り返ると、僕より背が低く小柄な少年が、鋭い目付きで僕を睨み上げている。
「ひ、ぜ、ん。」
「ええと……ひぜん?」
「そう。」
何が、と聞くより先にその風貌が目に入る。曇天で薄暗い中でも日が昇り始めた室内は僅かにだが明るくなり、その姿は先程よりはっきりと認識できた。
赤と黒の髪の毛、首に巻いたボロボロの包帯。暗い赤色の瞳。心当たりはある。心当たりはあるが。
「ええと……ひぜん、というのは」
「名前。昨日あんた聞いただろ。名前はあるのかって」
現実味がまるでないまま、心当たりが少しずつ鮮明になっていく。僕が昨日名前を尋ねたのは居候の猫に対してであってこの少年に対してでは無いのだが、居候の猫によく似た風貌の少年は自らを「ひぜん」と名乗っている。
あらゆる雑念を無視して何も余計なことは考えずに答えを導き出すならば、答えはひとつだ。
この少年が、その猫だということ。
理解は追いつかないが、追いつこうが追いつかまいが事実は目の前にある。彼が居候の猫なのだとしたら、ここにいることも、僕の質問に答えたことも、猫と彼の風貌がそっくりなことも全て説明がつくのだ。経緯を含めてそれ以外のことは一つも説明がつかないが。
「どうしてそんな姿になっているのかね?」
「……人」
「人?」
「人を住まわせるのとは違うって。……あんた言ってたから」
さっきまでの殺気立った目線とは打って変わって、不安そうに瞳が揺れている。バツが悪そうに肩を落として、僕との会話に言葉を選んでいる様子が窺えた。目頭に少し力を込めて細めたような表情が今にも泣きそうに見え、考えなければいけない非現実的な現象への考察は一度置いておいて、尋ねた。
「君はその、ここに住みたいのかね?」
「人なら、ここに住めるってことじゃねーの?」
「うーん」
そういうことでは無いのだけど、と言いかけて飲み込んだ。
「住みたいのだということはわかったよ。とりあえず、ご飯でも食べようか」
たまたま居着いてしまっただけの野良猫の飼い主探しで始まるはずだった一日は、想定していたものとは180度違うものになってしまった。あまりにも平凡な表現だが、まだ夢の中にいる感覚だ。
どこから来たのか。なぜ人の姿になったのか。空想の世界のような出来事にまだ頭は混乱している。その証拠に手も声も僅かに震えているし、口数も多い。
少なくとも、今は事実として起こってしまったことに整合性を求める段階ではなさそうだった。
「君がここに住む方法は、それからゆっくり考えることにするよ」
この家にいる理由を得るために人の姿になったと言うこの少年と、これからどう生活をしていけばいいか。当然ながら追い出したり、どこかへ預けるなんて選択肢はとうの昔に消えている。彼がここに現れた理由を否定することになるからだ。
昨日までの悩みが可愛く思えるほどの重圧。これきりにしようと心に決めて、僕は天井に向かって大きく背伸びののち、一度だけ大きくため息を吐いた。
「……ふぅ。では、ひぜんくん」
「ん。」
「ひぜんくん」
彼が名乗った名前を、頭の中に置いていく。僕が名前をつぶやく度、ひぜんと名乗ったその少年は無言のままコクコクと頷く。すっかりと、殺気や物悲しさは消え、どこか人懐っこそうな柔らかい表情に変わったように見えた。
「さて。ではひぜんくん。僕は南海朝尊。近くの私大で図書館の事務員をしている。まぁこれは、覚えなくていいかな。先のことはこれから考えるとして……とりあえず、これからよろしく頼むよ」
「ん、よろしく」
名前を呼んだ時よりも更に強く頷くその表情はやや明るい。
お気に入りの定位置となったソファへ向かう彼が、見えない筈のしっぽを機嫌良さげに揺らしたのが見えた気がした。