君の瞳に恋はしない 〜a later story〜 つい先日まで、街中がクリスマスに浮かれていたというのに、過ぎてしまえば世は一気に正月ムードだ。シメナワ、カドマツ、カガミモチ。キャスターは今しがた覚えたばかりの単語を口にしつつ、興味深そうにきょろきょろと辺りを見渡している。直後、冷たい空気が鼻先をくすぐり、彼はくしゅんとひとつ、くしゃみをした。
「うー、さみぃさみぃ。昨日ここに落ちてきたときは暑いくらいだったってのに、今日はまたさっみぃなぁ」
身を縮めながら、ダウンのポケットに手を突っ込む元・死神は、鼻の頭を赤く染めている。本来ならばアーチャーの「卒業式」になるはずだったクリスマスまで、人ならざるものだった彼は、久しぶりの痺れるような寒さをどのように感じているのだろうか。
「寒いなら先に帰っていてもいいぞ。正月準備の買い出しくらい、私一人でもできる。家の場所は覚えているだろう? あちらの世界から落ちてきたときに、全部すっ飛んでいなければの話だが」
小さく鼻をすすりながら、キャスターはアーチャーの手を握りしめた。僅かにむっとした表情を浮かべて、だ。邪魔だと言われているような気分になったのだろうかと、アーチャーは横目でキャスターを見ながら、握りしめた手に力を込めた。
「キャスター。君は、死神をクビになって……その身を人間に戻されて間もないんだ。この寒暖差は、三十年近く人間をやっている私でも堪える。折角の正月、風邪を引いて過ごしたくはないだろう? ……少なくとも……私は、そうなのだが」
「アーチャー」
二人分の吐息が白く濁る。死神時代のキャスターには見られなかった現象だ。本当に人間になってしまったのだなと思うと、嬉しいような、申し訳ないような。
「わかったよ。そういや今日はこの後雪も降るって言ってたしな。先に戻るわ。何か、家でやっておくこととかあるか?」
「……そうだな。やはり、寒い日には君の淹れたジンジャーティーが飲みたい。お茶の準備を頼めるだろうか」
ぱっと、キャスターの顔が明るく綻ぶ。人間になってからこっち、死期の迫った人間の魂を刈り取るという仕事から解放されたせいか、彼の仕草や表情は、いくらか幼くなったように思えた。任せとけ! と胸を張るキャスターに微笑んで見せると、アーチャーは冬空の下、ひとり商店街に向かって歩き始めた。
◆
「たでーまぁ」
合鍵でアーチャーの家のドアを開けると、キャスターは新しく買ってもらったスニーカーをきちんと揃えて、冷えた室内へと歩を進めた。手洗いうがいは絶対だぞ、と、人間としての心得を叩き込まれたおかげで、一番に向かう先は洗面所だ。それからエアコンのスイッチをオンにして、アーチャーのベッドの横に、気に入りのふかふかの布団を敷いた。
死神時代は全く寒さを感じなかった体が震えている。身をかき抱くようにして布団の中に潜り込むと、柔らかな毛布の温もりが体を包み込んでいった。
「はぁ……あったけぇ……」
エアコンの温風が適度に部屋を暖め始めると、ふかふかの枕に沈んだ頭は、そのまま眠ることを選びそうになる。この瞬間がとてつもなく心地いいことは、人間にならなければわからなかったに違いない。うとうとと眠りに落ちかけたキャスターの脳裏に、アーチャーの言葉が蘇ったのはその瞬間だった。
『お茶の準備を頼めるだろうか』
目を大きく見開くと、途端に思考がクリアになる。新規契約したばかりのスマホを手に取って、メッセージアプリを開いてみたが、アーチャーからの連絡はない。まめな彼だ、帰路に着くときにはメッセージを寄越すだろう。
「ハーブティーの用意は、もうちょい後でいいか。でもこのままふかふかの中にいたら、絶対寝過ごしちまうしな……」
名残惜しそうにふかふかの中から這い出し、寝室を後にする。腹減ったなぁ、と独りごちながら冷蔵庫を開けようとしたその時、ふとある物がキャスターの目に留まった。
一度濡れてしまった跡があるが、その後再び引き伸ばしたらしい。懐かしく、温かく、そしてほんの少し胸が痛いような、そんな不思議な感覚を覚え、キャスターは「それ」の四方を留めていたマグネットを外した。
「……やりたいことリスト。あいつ、捨ててなかったのか、これ」
キャスターにもう一度会いたい。
君と一緒に、もう少しだけ生きてみたい。
「予想外も予想外だったが、結果的に叶っちまったんだなぁ、これ」
ふ、と柔らかな笑みを浮かべながら、アーチャーの手で綴られた文字をなぞってみる。リストの最後に書かれたこの二行は、叶うことのない願いだったはずなのだが、アーチャーの祈りと、キャスターの覚悟とが、とんでもない奇跡を引き起こしてしまった。
「ったく。初めて会った日は大鎌で喉を掻き切れなんて言ってたアーチャーが、よくぞここまで、ってな。……変わったな、あいつ」
大きな紙を用意したおかげで、リストの下にはまだ空きがある。テーブルの上にリストを置くと、キャスターはふむ、と考え込んだ。
死神という職はクビになってしまったし、こうして再び人間として生きることを強いられているのは罰以外の何ものでもないのだが、今のキャスターにはアーチャーがいる。二人でなら何をしても、胸も腹もいっぱいになる。そのきっかけを作ることになったのが、この『やりたいことリスト』だったのだ。
「やりたいこと、……か」
◆
「……で。猫さんカフェ、年内営業最終日に滑り込みというわけか」
「おう! ……へへ、このふわふわをもふもふするのが、オレのささやかな夢だったんだよなぁ……」
十二月三十日、午前九時。この年の瀬に、開店と同時に猫カフェに駆け込む物好きもそうはいまい。アーチャーは呆れたような顔つきで、しかし満更でもなさそうに、自分の膝上でゴロゴロと喉を鳴らす猫の背を撫でている。
「やりたいことリスト、あれ、まだ生きてんだろ? てっきり処分されてるとばかり思ってたもんだからな、意外だったが……。おぉ、なんだなんだ猫! お前もオレがいいのかぁ! よっしゃこっち来い! なでなでしてやる!」
「はぁ……。確かに生きてはいるがな、まさか突然、『猫カフェリベンジ! ふわふわをもふもふしたい!』などと書かれているとは思わんだろう……」
人間に擬態した死神時代のキャスターと、アーチャーはこの店に一度足を運んでいる。その時の結果はキャスターにとって散々なものだった。恐らくキャスターの正体を見抜いていた猫たちは、彼が猫に触れようとすると、毛を逆立て尻尾を膨らませ、思い切り威嚇して見せたのだ。しょぼ……と萎れてしまったキャスターは、その後ゲームセンターでゲットした、ふわふわの猫のぬいぐるみを可愛がっていた。相当ショックだったのだろう。
「可愛いなぁお前ら! よーしよしよし、撫でてやるからな! 順番だ順番!」
「……キャスター……」
「ふふふ、へへへ……ふわっふわだなぁ……。あったかいし、手触り抜群だし……これを求めてたんだよオレは」
「…………」
ちくり。
満面の笑みを浮かべながら猫を撫でるキャスターの姿が、僅かな痛みとなってアーチャーの胸に刺さった。
馬鹿な。相手は猫さんだぞ。そう言い聞かせても、小さな棘は抜けてくれない。むしろ痛みは息苦しさに姿を変え、アーチャーに襲いかかる。
膝上で大人しくしていた白猫も、撫でる手を止めてしまったアーチャーからキャスターに鞍替えしてしまった。以前とは打って変わって人気者となったキャスターは、嬉しそうを通り越してデレデレだ。
「ん? アーチャー?」
「リベンジ成功だな。大人気じゃないか。おめでとう、キャスター」
「え? お? ……おう?」
「悪いが、昨日の買い忘れを思い出した。先に出るから、君は最後まで楽しんでくるといい。……ふわふわをもふもふしたいという『やりたいこと』は、これで叶ったな、キャスター」
努めて笑顔を張り付けた表情は、キャスターの目にどう映っていただろうか。彼は馬鹿ではない。それどころか人の心の動きにはとても聡いのだ。
それでも自分を引き止めてくれなかったキャスターに、何故と問うことはできなかった。自分から言い出して、何故も何もあったものではないだろう。
アーチャーは自分の分の代金を支払うと、雪のちらつく中、足早に外に飛び出していった。
◆
「……ただいま」
結果として、アーチャーの手に握られていたのは、ドアを開けるために取り出したキーケースのみだった。買い忘れがあるなどと咄嗟についた嘘も、キャスターには見抜かれていたかもしれない。バレないように、何か適当なものを見繕って買って来ればよかったのだろうが、そんなものを探す気力もなく。粉雪の舞い始めた空の下、気付けばアーチャーは自宅のあるマンション前に立ち尽くしていた。
手洗いうがいは絶対だと言った手前だ。先に帰宅しているはずのキャスターを探す前に、アーチャーは足音を消しつつ洗面所へと向かった。ハンドソープで手を洗えば、心の淡いぬくもりまでもが流れ落ちていく。タオルで手を拭い、ひとつため息をつくと、アーチャーは冷蔵庫のドアを見遣った。初めの頃と比べ随分と使い込まれた、いつものリストがそこにある。
「……猫さんにまで嫉妬とは、私も随分と狭量な男だ。キャスターはただ、死神だった頃の無念を晴らしたかっただけなの……に……」
──どくん。
心音が、全身を殴りつけるような感覚を覚え、アーチャーは目を見開いた。そういえば、明かりをつけるのを忘れていたなと、漸く思い出す。薄暗い中だ、もしかすると見間違いなのかもしれない。……いや、でも。
「……アーチャー、を」
リストの一番下にあるのは、猫カフェリベンジの文言であるはずだ。だが、その下に今、……確かにもう一つ、書き足されていたのを見たような。
部屋の明かりをつけようと、恐る恐る壁に手を伸ばす。視線はリストから動かない、動かせない。はぁ、と浅い息を吐き出して、震える指先でスイッチを押そうとしたとき。
「『やりたいことリスト』」
「!」
「……アーチャー。お前を、抱きたい」
背後から、するりと両腕を滑らせて、キャスターはアーチャーをそっと抱きしめていた。まだ着替えを持ち合わせていなかったせいで、アーチャーの手持ちのニットを着ているのだが、少しサイズが大きかったらしい。手首を緩く覆っている袖口が、なんだか少しおかしかった。
「……き、……キャス、ター」
「アーチャー。なんでお前さ、ふわふわの毛玉にまで妬いてんだよ」
「む、毛玉ではない、猫さんだ」
「何かそれ前にも聞いたな」
つうかそこじゃねぇし。耳元で囁かれれば、ぶわりと体が総毛立つ。無意識のうちにぶかぶかの袖口を握りしめながら、アーチャーは小さく息を吐いた。あれだけ冷えていたはずの体が、熱をもって疼いている。
「あの夜……卒業式前夜、お前との最後になるはずだった夜。……冷たかっただろ、オレの身体」
背後から抱きしめる手に力がこもる。キャスターの体温も、心音も、密着した身体を通して伝わる。あの夜と似ていて、何もかもが違う、今。
「死神をクビになって、罰としてお前と同じ人間まで堕とされた。でもな、そのおかげで、お前と同じように感じることができるんだ。痛みも、熱も、快感も……今ならお前と分け合うことができるんだよ、アーチャー」
キャスターの呼吸音が、浅くなっていくのを感じる。あの夜は、ただ離れたくなくて、繋ぎ止めていたくて、必死に身を寄せ合っていた。痛いとか、気持ちいいとか、そんなことを感じる余裕もなかった。
それでも充分に幸せだった。
満たされていた。
明日、命の灯が消えてしまってもいいとすら思える程に。
「答えを。……アーチャー」
だから、今は随分と、欲張りになってしまったのだと思う。
抱いて欲しい。
彼の体温を、命の鼓動を、一番近くで感じていたい。
「キャスター、私は……」
◆
何気なく時計を見ると、あと三十分で日付けが変わろうかという時刻になっている。ふかふかの布団の主は、アーチャーのベッドの上で、静かに寝息を立てていた。
「明日は大晦日か。キャスターと出会ったのがひと月と少し前。……本当なら今頃私の魂は、あるべき場所へ還っていたはずだったんだな」
窓の外は雪だ。卒業式の前夜と同じ、ふわりふわりと舞う雪を、アーチャーは穏やかな目で追っている。そのまま視線をベッドへと落とし、未だ眠ったままのキャスターの髪を指で梳いた。さらさらと指の間を流れ落ちていく心地良さに、先程までの行為を重ねて、アーチャーはぽつりと零した。
「……きもち、よかったな」
愛することも愛されることも、自分にはできないと思っていたし、しようとも毛頭思わなかったのに。抱きしめられる心地良さ、傍にいてくれる安心感。本当の意味でそれを知ったのは、きっとキャスターに出会ってからだ。
一緒にはしゃいで、馬鹿をやって、笑って、泣いて。人間以上に人間らしい死神……否、今は人間だけれども。彼となら、たとえリストに綴らなくとも、やりたいことは溢れていくに違いない。
「……キャス、」
「……気持ちよかったかぁ、そうかそうかぁ。ま、元ハイスペック死神キャスター様にかかりゃあこれくらい、ってな!」
「なッ!? いつから起きていたんだ、この破廉恥死神!!」
ニヤニヤと笑みを浮かべたキャスターが、いつの間にかアーチャーを見上げている。顔から炎を噴き出したアーチャーは、反射的にキャスターの頬をギリギリと抓った。
「いでででで! イテェ! お前が言ったんだろうがよ、よかったって! ……ったく、相変わらず面倒くせぇヤツだな。それにもう死神じゃねぇし、オレ」
「わかっている! そしてそこじゃない! そこじゃなくて……そこじゃ……、うわ!?」
もごもごと口ごもってしまったアーチャーの手を引くと、キャスターはアーチャーを腕の中に閉じ込めた。そうしてわしゃわしゃと白い髪を撫でると、額にひとつ、口付けを落としてみせる。
「……おい、私は猫さんじゃないぞ。わしゃわしゃするな」
「んなことわかってるっての。猫にキスする趣味ねぇし、オレはお前の」
「うるさい、それ以上言ったら床で寝てもらうからな。ふかふかの布団も猫さんのぬいぐるみも没収だ」
「なんでだよ! まだ何も言ってねぇだろ!?」
抗議の言葉を右から左へ受け流すと、アーチャーはキャスターの胸にそっと耳を当てた。とくん、とくんと、生きていることを証明するかのように、確かな鼓動が伝わってくる。人である証。彼が人間の世界に堕とされてしまったことを、嫌でも思い知らされる。
「……キャスター」
「謝りたかった、なんて言うなよ?」
心の奥を見透かされたのではなかろうかと、アーチャーはキャスターを見上げた。顔に書いてあったからな、と笑いながら、キャスターは続ける。
「言ったはずだぜ。お前には、もっとたくさんのものを見て欲しいって。もっと笑って、もっと怒って、これでもかってくらい泣けばいい。そう思ったら、体が勝手に動いてただけだ」
「キャスター……」
「オレにはもう、オレたちの卒業式がいつ来るかなんてわからない。数十年後かもしれないし、明日かもしれない。だからこそ、それまでに胸も腹もいっぱいにしておくんだ。その日がいつ来ても、ああ、オレの人生最高だったって、そう思えるようにな」
そう言うと、キャスターはナイトテーブルに置いてあった「やりたいことリスト」を手に取った。更新されたばかりの一文に目をやったアーチャーは、今更何をそこまでという程に、顔を茹で上がらせている。
「ほれ、次はお前が書く番だ」
「え? ……え?」
「オレばっか書くのはフェアじゃねぇしな。ほら、何でもいいから。今のお前なら、簡単に出てくるだろ。『やりたいこと』」
「……そう、だな」
やりたいことリスト
キャスターにもう一度会いたい
君と一緒に、もう少しだけ生きてみたい
猫カフェリベンジ! ふわふわをもふもふしたい!
アーチャーを抱きたい
「……やはり最後の一文が、直接的すぎはしないか……」
「あ? いいじゃねぇか別に。ほれ、その下! 書いた書いた!」
「わかったわかった。そう急かさないでくれ」
ペンを持ち、苦笑いを浮かべると、アーチャーはさらさらと文字を綴っていく。興味深そうにそれを眺めていたキャスターは、書き上がった一文を見るや、顔を綻ばせたのだった。
「アーチャーお前……あの泣き虫の死にたがりが、立派になってよぉ……」
「泣き虫になった覚えはない。……というか、ちょっと泣いてるのは君の方ではないか……?」
やりたいことリスト
卒業式のその日まで。
辛くても悲しくても、キャスターと共に歩んでいきたい
しんしんと、音もなく舞い散る夜の雪。
訪れるはずのなかった今年最後の一日が、静かに始まろうとしていた。