あなたに囀るセイレーン「獅子神」
「村雨……」
村雨は熱っぽい目でオレを見つめた。オレはちくちくとした罪悪感を感じながら、夢見心地で村雨の熱い手がオレの肩を掴むのをただ甘受した。
「あなたが好きだ」
——ああ、ああ、うまく行った! オレは頬を赤く染めてこくこくと拙く頷いた。村雨は焦れた素振りでオレの頬を撫で、懇願するように言った。
「言ってくれ。獅子神。あなたの言葉で」
「オレ、オレも好きだ。村雨のことが好きだ。あ、愛してるんだ」
すると村雨はぱっと輝くように笑った。細く筋張った腕がオレの背中に周り、きつくオレを抱きしめる。
蕩けてしまいそうな気持ちでオレはおずおずと村雨を抱き返す。腕の力がいっそう強くなって、オレは村雨の耳元にまた「好きだ」と囁いた。
「あなたは私のものだ。いつまでも、私と一緒に生きてほしい」
「うん、うん……」
幸せだった。こんなに幸せだと思ったのは初めてだった。村雨がオレを自分のものだと言っている。村雨がオレを愛していると言っている。
オレは村雨に愛されている。
例えそれがまやかしだとしても、その時のオレは構わなかったのだ。
1.
人間の設計図であるところのゲノムには、過去に交雑したさまざまな人類種の痕跡があちこちに残っている。古ゲノム学の曰(のたまわ)く、ネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝情報は現生人類のDNAにくっきりとその足跡を残しているとのことで、それはオレたちの先祖の冒険と友好——以外にも交配が発生する可能性は当然あるが、ここはひとつ希望を持って性善説に立ちたい——を証明している。
ホモ・サピエンスはありとあらゆる他種を取り込み、抱え込んで、このすばらしき遺伝情報のごった煮を作り上げ、ここまで生き延びた。
要はそういう話なのだ。
オレの家には窓のない防音室が一つある。地下へ続く隠し戸からたっぷり二階分階段を下り、二重に施錠された扉を開けた先にある、天井の高い、がらんどうの広間だ。床は掃除のしやすさを優先して大理石風の塩ビシート。幾度かの失敗の後、壁にはぐるりとクッション材を張り巡らせた。水回りは部屋の短辺に剥き出しのまままとめている。他には壁の高い位置に数本渡し木をしただけのだだっぴろいその空間を、オレは「籠」と呼んでいる。
籠はオレの秘密の箱庭で、安息の場所であり、止まり木でもある——文字通り。
従業員たちを帰宅させたあと、オレはのたのたと階段を下って籠に入った。手探りに電灯のスイッチを入れると、蝋燭の灯りに似た柔らかな光が部屋の中を照らす。照明と連動した空調が即座に温度と湿度を整え出した。
オレは籠に入ると後ろ手に扉を閉め、重い体を引きずるようにして部屋の中央へ進む。最初は中央がいいことはとうの昔に学んでいた。
オレはとうとう痺れの出始めた指でニットを脱ぐ。インナーのTシャツが背中に引っかかるのに舌打ちし、乱暴に引っ張ると、引っかかったそこがぴりと痛んで、余計に苛立つ。堪え性のないオレが悪いが、どうにももう時間がない。半ば蹴るようにしてスラックスを脱ぎ、靴下と下着も脱ぎ捨てる。全裸で部屋の真ん中にうずくまる間抜けな姿を滑稽に思う余裕はなかった。床に肘を突き、歯を食いしばって俯くと、汗がぽたぽたと滴った。
はあ、と大きく息を吐いた時、それは始まる。
猛烈な違和感と掻痒感が全身を覆い、すぐにその中から針で刺すような小さな痛みが生まれる。痛みは背中と腰から下に集中してゆき、やがて呼吸が整う頃には、オレはヒトではなくなっている。
のろのろと体を起こすと鉤爪(・・)が床を叩く。背中を伸ばすと反射のように翼(・)が伸びて、思わず二、三度羽ばたいてしまう。踵の付け根を曲げ伸ばしして具合を確かめ、オレは自分の体を見下ろした。
腰から下を覆う金混じりの青い羽毛。大きな鉤爪のついた太い脚と、長く伸びる尾羽。肩甲骨の辺りから翼と化した腕。
オレはセイレーンだ。少なくとも、部分的には。
セイレーン、と聞いたら、ほとんどの人間は美しい女の顔をした人魚を想像するだろう。だが本来セイレーンは女の顔を持つ怪鳥を指した。歴史のどこかで伝承がごっちゃになり、いつしかセイレーンは魅力的な美しい女の上半身に魚の下半身をくっつけた、海の魔物になったのだ。もしかしたら元々別の名前で呼ばれていた人魚種に、セイレーンという名を付け替えたのかもしれない。
オレは原種の方だ。
ヒト——ホモ・サピエンス・サピエンスは太古の昔から多様な競合種族を吸収してきた。その中には旧人類だけでなく、オレの祖先のような怪物もいた。要するに、現代では妖精だとか妖怪だとか、あるいは端的にモンスターだとか言われるような種族のことだ。ケンタウロスや吸血鬼に各種夢魔、巨人、人魚、ラミアー、アラクネ、竜人、それに鬼や天狗をはじめとした妖怪類。ヒトとは異なる、獣と神秘の間に生きたヒト型種族。今では純粋種はほとんど絶滅しているらしいが、その遺伝子は——それがデオキシリボ核酸で構成されたそれなのか、あるいはヒトの魂とでもいったものに付随する情報なのかは分からないが——かつて交配したヒトの子孫の中に残っている。
そして稀に発現するのだ。オレのように。
オレの混じりものは半人半鳥、原種のセイレーンで、普段は問題なくヒトの形をとっているが、おおよそ月に二度程度、特に満月や新月の頃にはどうしてもヒトでないものが疼いて、どうにも我慢ができなくなる。
子供の頃はまだ平気だった。時々鳥になる夢を見たし、疲れ果てた時には下肢にまばらな羽毛が現れたが、友達のいなかったオレは皆そんなものなんだと思っていた。完全に「変身」することもなかった。
だがやがて思春期を迎えると、オレの体は一気に祖先の形質に傾いた。初めて完全に変身したのもこの頃だ。オレは自分が純粋なホモ・サピエンス・サピエンスではないことを、その時初めて知った。
最初は混乱したし、絶望した。一度変身してしまうと、元に戻るまでどこかに隠れてじっとうずくまっていることしかできないが、セイレーンとなった体は大きすぎて隠れるには向かないし、動き回りたくて仕方がなくなる。疼く翼を縮こめて狭い押し入れや浴室に閉じこもるのは辛かった。自分が人間ではないことを、まとも(・・・)ではないことを突きつけられて、平気でいられるはずがなかった。
両親はオレがセイレーンであることを知っていた、のだと思う。当然羽は抜け落ちるし、うっかり鉤爪の跡を残してしまったこともある。そもそもそう大きくもない家の中で、息子が異形と化していることに、全く気づかないわけはない。だが彼らは何も言わなかった。オレをいつもの蔑むような目で見るだけだった。もしかすると、彼らのどちらかもまた、セイレーンだったのかもしれない。
両親はオレの異形を攻撃しなかったが、助力もまたしなかった。オレは一人で自分の中の化け物と格闘し、何度か翼を切り落とそうとしてみたり、下半身の羽毛をむしってみたりしたが、結局それらは徒労に終わった。オレは何をしてもオレのまま、セイレーンの化け物のままだった。
オレが自分について詳しく知ったのは、家を出てからだった。中学を出たてのオレは夜の街でいくつも仕事を掛け持ちしながら、主にはクラブや風俗店の黒服として働いた。背が高く骨の太い体格と、生まれつきの金髪が、オレを年齢よりもずっと年上に見せてくれた。そして単純に、中卒の家なしが働けるのも、一人暮らしできるだけの金額を稼げるのも、夜の街しかなかったのだ。
オレが当時働いていたあるクラブのキャストに、エキドナがいた。蝮の女。下半身が蛇体の、オレと同じ異形の生き物だ。彼女はオレの腕に生えた羽毛を見て、オレが半人半鳥だと見抜いた。そしてオレに、オレや彼女のような先祖返り——異形の形質を顕にした、異形とヒトとの子孫たちのことを、彼女はそう呼んだ——のことを教えてくれた。
彼女によれば、オレたちは自分で思うより沢山いる。夜の街には特に多いが、ヒトはそのことを知らない。彼女はオレをセイレーンだと同定し、自分はエキドナだと打ち明けてくれたが、それ以外にも様々な種族の末裔がこの世界には溢れているのだと教えてくれた。先祖返りは大抵太陽よりも月の満ち欠けと密接したバイオリズムを持っていて、一ヶ月のうち数日は異形に引っ張られてしまう。そういう時は思い切り解放してやるのがいい。都会には大抵先祖返りのコミュニティがあって、そこに繋がれば様々な便宜を図ってもらえるのだとか。
そして何より大事なこと、として、彼女は真剣な顔でオレに言った。先祖返りの持つ異形の形質は、異形の姿をとっていない時でも発現することがある、と。
彼女が危惧していたのは、セイレーンとしてのオレの能力のことだった。セイレーンの歌声には誘惑と魅了のちからがある。セイレーンの歌に込められた魅了は他のどの種よりも強いのだそうだ。
昔、彼女のいた店で、セイレーンの女が戯れに歌った。カラオケイベントか何かだったのだそうだ。いたずら心を起こしたそのセイレーンは、マイクを持って力を乗せ、妙なる調べを囀った。その結果、店にいた客もスタッフも、男も女も、似たような力を持つ先祖返り以外の全ての人間が、彼女に泥のような恋をした。後はお察しの通り、だ。軽率なセイレーンは店を辞め、逃げるように街を去った。それでも未だに一部の人間はそのセイレーンを探しているらしい。
オレが歌えば、同じようなことが起きると彼女は危惧していた。普通に歌う分には問題ない。だが誰かを思って、あるいは誰かを誘惑しようとして歌えば、それはヒトなら誰にも逆らえない魅了の魔法になる。例えオレが未変身でヒト型をとっていても、オレがセイレーンとして歌えば、囀りの届く限りのヒトはみな、男も女も、子供も老人も、オレに夢中になるしかない。
だから彼女にこのことを聞いて以来、オレは一度も人前で歌ったことはない。
ヒトを誘惑するのも、執着されるのも御免だった。愛だの恋だの、そんなものに興味はない。オレはどうしようもなくセイレーンで、月に二度、新月と満月の頃に訪れる変身の欲求を満たすために自宅の地下に「籠」を作ったし、そこで自由に羽ばたき時には囀りもするが、その歌を誰かに向けたいと思ったことはない。
——なかった。
あの日、村雨と出会うまでは。
村雨礼二は不思議な男だった。奇妙な美しさと繊細さ、異様なほどの正確さが、味わい深い醜さと豪胆さ、信じられないような適当さと同居している。そして彼は、とてつもなく強かった。
オレは最初彼を恐れ、それからその数分後には、彼に恋をしていた。
認めよう。一目惚れだ。あの元気のいい髪から覗く猫のような吊り目と細く高い鼻筋、薄くて小さな唇に、オレは転がり落ちるように惚れ込んだ。垂直落下だ。フリーフォール。タチが悪いったらない。
村雨のことが好きだった。彼に触れたかったし、触れられたかった。彼の皺一つないシャツの下の肉体を想像して身悶えた夜は数えきれないほどだったし、そのうちの結構な割合で、彼に組み敷かれる妄想で自慰もした。村雨に愛されたい。彼に好きだと言ってほしい。口付けてほしい。口付けたい。
そしていつも我に返る。村雨がオレを愛することなどない。オレは村雨に愛されない。
以前、何かの折に聞いたのだ。村雨の好みのタイプは容姿端麗で、自己研鑽を怠らず、細やかな気遣いのできる愛情深いひとだと。あまりの共通点のなさにオレは絶望した。思い出すたびに今でも沈んだ気持ちになる。自己研鑽を怠らない、だけならかろうじてまだ可能性があるが、他は全くオレには当てはまらない。それに多分村雨はヘテロだろう。好みのタイプでも、恋愛対象の性でもないのなら、選択肢に入れてもらえる可能性は限りなく低い。
オレはこんなに村雨のことが好きなのに、村雨は決してオレを好きになってはくれない。どんなに恋焦がれても、彼は振り向いてはくれない。
きっといつか村雨は結婚するだろう。彼は案外、人間的な幸せを大事にするひとだから、いい相手が現れたら順当に交際して、求婚して、結婚するに違いない。オレはきっと結婚式に呼ばれる。村雨には友人と呼べる人間が少ないから。他の三人よりも拳一つ分くらい彼と親しい自覚はあるので、もしかするとスピーチも任されるかもしれない。村雨自身は式にもスピーチにも全く思い入れはないだろうが、それが相手や家族を喜ばせるならそうするだろう。そしてオレはへらへら笑ってご祝儀を出し、あの村雨先生が結婚するとはなあと祝いの言葉を述べ、二次会でお前らもいい人いねえのかよと叶と天堂に絡む。そしてべろべろに酔っ払って家に帰り、空っぽの部屋にただいまを言い、うずくまって朝まで泣くのだ。得られなかった男を恨んで、手に入れられなかった己を憎んで。
好きなのに、好きになってもらえないのは、こんなに苦しい。
それでも最初は、オレはただ村雨に恋焦がれているだけだった。
ギャンブラー連中と連んで遊び回る村雨の横顔に胸を高鳴らせ、タッグマッチで手ずから鍛えられてますます惚れ直し、オレはただ純粋に片恋の味を噛み締めていた。
村雨にオレの気持ちがバレていないはずがないと思っていたが、何も言われないのをいいことに、黙認されていると考えることにしていた。実際のところ、多分彼はどうでも良かったんだろう。実害がなければ放置するのは、時々見せる彼の怠惰な一面の表れのようで、どうにも複雑な気持ちだったが、面と向かって断罪されないだけマシというものだった。
それはそのまま、オレの気持ちでは彼を動かすことはできないという残酷な事実を突きつけていたのだったが。
「籠」の天井は十メートルほどの高さがある。体の大きなオレにとっては自由に飛び回れる空間とはいかないが、羽ばたき、多少飛ぶことくらいはできる。
変身したオレは窮屈だった体を伸ばすように大きく翼を動かし、天井近くに渡した止まり木まで飛び上がった。この体の作り——ヒトの胴体に下半身が猛禽、腕の代わりに巨大な翼——では飛ぶことは到底できないはずだというのが先祖返り仲間の学者が述べた解剖学的な所見だったが、現実にはオレはこうして飛ぶことができている。やはり先祖返りは単なる半獣ではなく、何かしらの神秘に基づく生き物なのだろう。
止まり木の上で翼を広げ、よく振って毛繕いをする。本物の鳥なら嘴で手入れをするところなのだろうが、セイレーンには嘴がないので、こうしてばさばさ振りまくるしかない。中途半端なヒト型種族の欠点だ。
オレはそのまま爪を止まり木に引っ掛けてぐるんとぶら下がる。広げたままの翼をだらんと垂らすと背伸びをしているようで気持ちがいい。逆さまになった天地の中で、オレはまた村雨のことを考えていた。
ここのところ、どうにも村雨を手に入れたくて仕方がない。片恋に満足していたはずだったのに。それ以上進む道はないのだからと、納得していたはずだったのに。そんなのは高望みで、ありえない未来だと分かっているのに、それでも村雨に愛され共にあることを望んでしまってしょうがない。多分冬の終わりが近いからだろう。セイレーンはおおむね年を越し寒さの緩み出す頃から繁殖期に入る。要は発情しているのだ。
そう、理屈は分かっている。季節のせい。繁殖期のせい。遺伝子と動物的本能のせい。ただその衝動が、抑えきれないだけで。
オレは逆さまになったまま、セイレーンの声帯を開いて囀った。ヒトの可聴音域ではゆったりとした甘いメロディをヴォカリーズで歌っているようにしか聞こえないだろうが、セイレーンやその近種には誘惑と求愛がこれでもかと詰まっていることが分かるはずだ。セイレーンの囀りは本能的なものだが、そこにどんな誘惑を乗せるかはある程度当人の意思でコントロールできる。
村雨を思って歌うオレの囀りは、当然求愛だった。
愛されたい。愛してほしい。オレを選んでほしい。そしてずっと、オレのそばを離れないでほしい。
醜い欲望を美しいメロディに乗せて、オレは喉が枯れるまで、籠の中で囀り続けた。
2.
だがオレは結局、耐えきれなかった。
きっかけは、ある日彼が美しい女性と歩いているのを見かけたことだった。
古い喫茶店でぼんやりとコーヒーを飲んでいると、窓の外、道路の向こう側を村雨が歩いていた。あ、と立ち上がりかけて、その隣に小柄な女性が寄り添っていることに気づき、オレはさあっと自分の顔から血の気がひくのを感じた。
村雨は笑っていた。柔らかく、愛おしそうな顔で。
オレは固まったまま、村雨が視界から消えるまで見送って、それからソファにどさりと腰を下ろして俯いた。
コーヒーの茶色い水面に、ひどく醜い顔をした男が映っている。
村雨に愛されない、歯牙にもかけてもらえない男の歪んだ顔が映っている。
オレは村雨に囀ることを決めた。
セイレーンの歌声はヒトを魅了する。セイレーンが意志を持って囀れば、相手は声の主に誘惑され、まるでずっと昔から心底愛していたように感情と記憶の一部を書き換えられる。それはヒトが使う洗脳や催眠とも似て、しかしずっと強力な神秘の系譜のちからだ。ヒトを死地に追い込み、捕食されることすら喜んで受け入れさせる死の歌声。
オレはそれを、村雨に向けた。
「獅子神?」
料理を作りすぎたから食いに来い、と呼ばれてやってきたにもかかわらず、姿を見せない家主に、村雨は辺りを見回し怪訝そうに声を上げた。
「こっちだよ」
オレはキッチン収納の影から顔を出して言った。村雨は余計に訝しげな顔をしてこちらに歩いてくる。
「あなた、そんなところで一体何を、」
「あ、そこで止まって」
「は?」
眉を顰めつつ、村雨は素直に立ち止まった。
リビングダイニングの中央やや奥寄り。この部屋の構造上、そこが一番、音が集中する。
オレは大きく息を吸い、収納の影から渾身の力で村雨に「囀った」。
「あなた何を」
言いかけた村雨がそこで目を見開いて絶句した。その表情はすぐに紗がかかったようにぼんやりと虚になる。
囀りが届いたのだ。
ありったけの愛と誘惑を込めて、オレは村雨に歌う。
歌詞はない。メロディも即興。ただ母音だけで、感情を溶かし込んで、そこにある村雨の魂を絡め取り引き寄せるように歌い続ける。
囀るセイレーンは基本的に男女問わずソプラノだ。オレもそう。生まれながらに天性のソプラニスタで、原始的な技巧を全て持ち合わせている。高く伸びやかな旋律から短く跳ねるような装飾的な歌声へ、そしてまた柔らかく包み込むようなメロディへ。
好きだ。
愛している。
オレを好きになって。
オレを好きだって言って。
愛してるって言って。
一緒にいて。
お願い。
誘惑と求愛と懇願の囀りは、やがて長くビブラートの尾を引いて終息する。
どう、だっただろうか。うまくいっただろうか。村雨に、オレの歌は届いただろうか。——村雨は、オレを好きになってくれただろうか。
オレは恐る恐る物陰から歩み出て、村雨の様子を窺った。
村雨は夢見るような目でオレを見つめた。
そしてオレの肩を掴み、言ったのだ。
「獅子神、あなたが好きだ」
と。
オレの囀りは、果たして見事に村雨をとらえた。
あの日から村雨はオレに恋をしている。オレに愛を囁き、情熱的に手を握り、甘く口付ける。オレは有頂天だった。
村雨の態度の変化はあからさまで、他の連中にもオレたちがそういう関係になったことはすぐに露見した。というか、村雨が隠しもしなかったのだ。あの連中相手に隠し通そうなんていう気概はなかったが、まさか目の前で頬にキスをされるとは思わなかった。真経津は手を叩いて大喜びし、叶は爆笑してひっくり返り、天堂はこいつ正気かとドン引きしていた(なお、後からドン引きしたのは人前、それも親しく連んでいた友達グループの前で内部カップル誕生を堂々と暴露するふてぶてしさに対してであって、関係自体にどうこうというわけではないと丁寧なフォローがあった。天堂のこういうところがオレは好きだ)。
村雨は素晴らしい恋人だった。オレを尊重し、言葉を尽くし、スキンシップを欠かさない。オレをこの世で一番価値のある宝物のように扱ってくれるし、そう口にもしてくれる。
村雨の恋人でいることに、オレは毎日天にも昇る心地だった。好きな相手に認めてもらえること、愛してもらえることが、こんなに嬉しく幸せなことだとは、オレは想像もしていなかった。
そんなある日のことだった。
「獅子神」
と、並んでソファに腰掛けた村雨は言う。デカフェのコーヒーを飲みながら映画を見ていたはずが、いつの間にか彼の目は甘くオレを見つめている。
オレは頬を染めて彼を見つめ返す。
村雨はちゅ、とオレの赤い頬に口付けて、優しく微笑む。
「あなたは美しいな」
「……褒めても何も出ないぞ」
「この間はチョコレートが出てきたが」
「あれは真経津が置いていったやつで」
「おや、そうだったか? てっきりあなたが私のために買い置いた、私の好きなブランドの、好きなシリーズの新作だったかと」
「分かってんならストレートに言えや!!」
ぷい、と顔を背けると、今度は耳に唇が落とされる。くすくすという小さな笑い声も。それがくすぐったくて、オレは余計に意固地になってむくれる。村雨はなだめるようにオレの肩を抱いて笑った。
「すまない、からかいすぎたな。だがあなたが美しいのは本当だ。容姿だけの話ではない。あなたの努力を惜しまない姿勢が好きだ。気遣いの上手なところが好きだ。……あなた自身のことも同じくらい気遣ってほしいと思わないこともないが。あなたは美しい、あなたの人生の全てを含めて。あなたのような美しい恋人を持つことができて、私は幸せだ」
「……オレも、お前が恋人で、嬉しいよ」
村雨がオレを褒める言葉に、胸のどこかが小さく痛む。
オレは全然そんな人間じゃない。村雨の言うそれは、オレが囀りで植え付けたものだ。村雨の幻想でしかない。
オレは確かに村雨に愛されている。
けれどそれは、村雨が愛したい、愛せる「オレ」であって、本当のオレ自身ではないのだ。
本当の獅子神敬一ではないのだ。
村雨が愛しているのは、虚像の「オレ」でしかない。
だけど仕方ないんだ。
こうでもしないと、オレは村雨に好きになってもらうことなんて、できないんだから。
3.
オレはその日から、眠る村雨に囀るようになった。
最初はひと月に一度。それから半月に一度。それが週に一度になり、共寝する日は毎日囀るようになるまで、そう長くはかからなかった。
セイレーンの歌は強力な魅了の力を持っている。ほとんど呪いのようなもので、一度歌えば、半永久的にその効力は続く。
かつて繁華街の高級クラブで、いたずら心を起こしたセイレーンの女が、マイクを持って力を乗せ、万人への誘惑を囀ったことがあった。その結果、店にいた客もスタッフも、男も女も、似たような力を持つ先祖返り以外の全ての人間が、彼女に泥のような恋をした。後は言うまでもない。軽率なセイレーンは店をやめ、逃げるように街を去った。もう何年も前のことだが、それでも未だに一部の人間はそのセイレーンを探しているらしい。
それほどオレたちの歌にはちからがある。オレは村雨を魅惑して捕らえたのだから、もう彼に囀る必要はない。何年、何十年も経って魅了の効力が薄れてきたならまだしも、囀ったのはついこの間のことだし、彼はいつもオレを愛していると言ってくれている。十二分に魅了は効果を発揮している。
だがそれでも囀らずにはいられなかった。
不安だったのだ。
村雨が愛しているのはオレじゃない。オレの顔をした幻想だ。いつか現実と彼の愛する幻想の間に齟齬ができて、オレを拒絶する日が来るかもしれない。愛した男ではないと。
それがオレは怖かった。
「村雨、もう寝たか……?」
返事はない。狂瀾と快楽に満ちたひとときのあと、枕に顔を埋め、どこかあどけない顔をして眠る村雨を見つめて、オレは小さく息を吸って囀った。愛してくれ、好きでいてくれ、捨てないでくれと焦げ付くような願いを込めて。
囀りは重ねがけしても大して意味はない。
それでも、村雨の愛に、村雨の見る幻想に、ほころびの一つも生まれないように、オレはひたすら歌うことしかできなかった。
「あなた、私が起きているときには歌ってくれないのか?」
村雨の言葉にオレは肩を強ばらせた。ざあと音を立てて血の気が引いていく。オレは皿を洗いながら、できるだけ軽く聞こえるようにとぼけた。もちろん、バレているだろうが。
「ア? 歌? なに?」
「とぼけるにしても下手すぎる。私が眠ったあと、時々歌っているだろう。夢うつつで、朧げにしか覚えていないが」
「寝ぼけてたんじゃねえの? 歌ったりしねえよ、オレ。歌ヘタだもん」
「あなたは謙遜が過ぎるな」
村雨はオレがあくまで白を切るつもりだと悟ると、肩をすくめてそれ以上の追求はしなかった。
オレは冷や汗で背中を湿らせたまま、黙って皿洗いの続きをした。
大丈夫だ。バレていない。村雨が気づいたのは彼が寝入った後にオレが歌っているらしい、ということだけで、それだけなら問題ないはずだ。恋人に子守唄を歌うことくらい、ヒトだってする。オレが彼を惑わし続けるために歌っていることは、ヒトである彼には分からないはずだった。
だがどうして彼はオレの歌を覚えているんだろう。セイレーンの囀りはそれを耳にした記憶そのものを対象者から消す。歌を聞いたから誘惑された、という因果を悟らせないため、歌を聞かなければいいという対抗策を生じさせないために、オレたちはギリシャ神話の時代からそう進化した。セイレーンの囀りを聞いた人間は、歌を聞いたことを忘れ、ただ純粋に相手に惹かれたのだと誤認するはずなのだ。
だが村雨は夢うつつとは言えオレが歌ったことを覚えている。
(——もしかして、耐性ができかけてるのか……?)
オレは手を拭きながら奥歯を噛み締めた。
普通、セイレーンは同じ相手に何度も囀ることはない。セイレーンの囀りは、あくまで狩りの道具だからだ。だがオレは、この短期間に数えきれないほど幾度も村雨に囀っている。
そのせいで、彼に囀りへの耐性ができているのだとしたら。
いつか彼への囀りが効果を無くす日が来るのだとしたら。
どんなに囀っても、彼が正気に返ってしまう日が来るのだとしたら。
(村雨がオレを、好きじゃなくなる日が来るんだとしたら、……)
目の前が真っ暗になって、オレはシンクの縁を掴んで震えそうになる足を支えることしかできなかった。
オレはそれから毎日悪夢を見た。
内容はいつも同じだった。村雨がオレを捨てる夢。
夢の中で村雨はいつものようにオレに愛を囁く。オレは嬉しくなって村雨の背に腕を回す。オレも好き、と言いかけたところで、村雨は突然オレを強く突き放す。わけが分からなくてきょとんと見つめると、村雨は顔いっぱいに嫌悪を浮かべてオレを蔑む目で睨みつける。そして言うのだ。「私はなぜこんな男と恋人などになったんだ? 意味が分からない。まるで洗脳でもされていたみたいだ」と。村雨は踵を返して去っていき、こちらを一度も振り返らない。オレは凍りついたまま、そこから一歩も動けない。
目覚めるとオレはいつも泣いていた。
オレの異変は当然すぐに村雨の知るところとなって、随分心配された。隣で眠っている「恋人」が毎朝泣きじゃくりながら目覚めるのだから、情の深い村雨にはきついだろう。オレは村雨の家を訪れることを止め、彼と眠ることを止めた。
真経津たちにも随分心配された。天堂は村雨と何かあったなら聞くが、と優しく尋ねてくれたが、オレが悪いんだ、としか言えなかった。そうだ。オレが悪い。何もかも。
村雨はオレが突然距離を置こうとしていることに驚き、傷ついて、そして怒っているようだった。ようだった、と伝聞調なのは、オレが村雨に会わなくなったからだ。共に眠ることを止め、囀ることを止めたら、彼に会うのが急に怖くなった。今顔を合わせたら、その途端に魅了が解けるのではないかと思った。そうでなくても、一緒にいるうちにいつか「洗脳」が解けて、夢の中の村雨と同じ顔で、同じことを言うのではないかという恐怖が、どうしても頭を離れなかった。
そうだ。オレがしたのは洗脳なのだ。囀りは誘惑で、魅了で、セイレーンの先祖返りに生まれついたオレの本能的な能力の一つではあるけれど、それを愛した人に使って、彼の意志をねじ曲げてオレを愛させたのだから、それは洗脳なのだった。
オレは何も知らない村雨を騙して、洗脳して、オレと恋愛ごっこをさせていた。
オレが村雨としてきたのは、恋愛なんかじゃない。暴力だった。
村雨のことが本当に好きなら、囀るべきじゃなかった。あの日、あの喫茶店で、村雨が美しい女性と肩を並べて歩いているのを見たとき、オレがするべきだったのはただの告白で、囀りではなかった。村雨を歪めてオレを愛させるんじゃなく、ただお前を愛していると告げて、オレと付き合ってほしいと請うことだった。その結果がどうなっても、ただ受け入れることだった。
オレは最初から間違っていたのだ。
他の三人とも会わなくなって、どれくらい経つだろう。最後に仕事とギャンブル以外で外出したのがいつだったか、もう思い出せない。何をする気にもなれず、ベッドの中でぼんやりと丸まっていると、ふとスマートフォンが震えた。メッセージが一通。差出人は村雨だった。
『会いたい』
ただそう書かれていた。オレはそのシンプルさに笑って、それからぼろぼろ泣いた。もういい加減、村雨を解放してやらなきゃならない。オレの欲望に付き合わせてしまった彼を、元の人生に戻してやらなきゃならない。どんなに怖くても、永遠に目を逸らしてはいられないのだから。
『オレも』
そう返して、それから明日十時にオレの家で、と続けて送って、電源を切った。
これで全部最後なんだと思うと、涙がこぼれて止まらなかった。
4.
久しぶりに会う村雨は、どこかやつれた顔をしていた。目の下のクマはいつもより濃く、頬も少し痩けたようだった。
「説明を」
村雨は怒りを押し殺した声でそう言った。
オレはそれにへらりと笑って、シャツを脱いだ。目を丸くする村雨の前でボトムと下着も脱ぎ、大きく息を吐いてオレは変身した。
腕が翼になり、脚は羽毛に覆われ、つま先は鉤爪になる。背中を伸ばし、幾度か羽ばたく。
未練がましく翼が顔を覆い、オレを審判の目から隠そうとする。オレはいつだって臆病で卑怯だ。
断頭台に首を差し出すような気持ちで、オレは自分を抱くようにしていた翼を背に戻す。
村雨の向こうの窓ガラスに異形の獣が映っている。オレの顔をした妖鳥が。
すっかりセイレーンになったオレは、呆然とした村雨に泣き笑いのような表情を向けた。
「オレ、化け物なんだ」
オレはそれから、今までの全てを説明した。オレが先祖返りと呼ばれる混じりものであること。セイレーンの血を引いていること。こうしてヒトでないものに変身することができること。そして、歌声で、ヒトを魅了することができること。
「オレが馬鹿だったんだ。お前のことがどうしても好きで、でもお前はオレのことなんか好きになってくれないだろうから、お前に囀った。セイレーンの歌を歌って、お前にオレを愛させようとした。お前の意志を無視して、オレと恋愛ごっこさせた。最低なことをしたって分かってる。本当にごめん。謝って済む話じゃねえのは分かってるけど——……」
「待て。待ってくれ」
村雨は片手で顔を覆って呻くように言った。オレは口をつぐんで、彼の様子を窺った。
「大丈夫か? 吐くならそこに洗面器用意してあるけど」
「なんで洗面器なんか……いやそうじゃない」
洗面器を用意したのは、オレみたいな化け物を目にしたら気分が悪くなるだろうという予想からだった。村雨は少し潔癖なところがあるから、その辺に戻したら後で気にするかもしれないと思ったのだ。だが村雨は絶望したような顔でオレを見ると、洗面器に手を伸ばすことなく、なぜか着ていたジャケットのボタンを外し始めた。
「えっ」
「いいから黙って見ていろ」
村雨はするすると服を脱ぎ捨てると、大きく息を吐いた。
さっきのオレと、ちょうど同じように。
「あ」
思わず声を漏らしたオレの前で、村雨は変身(・・)した。
腕は翼に。脚は鳥に。長い尾羽と、鉤爪を添えて。
真っ黒な羽毛にところどころ灰桜色の羽が光っている。脚はオレのそれより細く、鉤爪は長くて太い。大きな猛禽類の翼が二度、三度と羽ばたく。
最後に一つ身震いをして、村雨は剣呑な目でオレを睨んだ。
「分かったか?」
「え、あ、……村雨?」
村雨は完全にブチ切れた顔で言った。
「私はハルピュイアだ。あなたの近種。先祖のどこかでセイレーンとも交雑しているから、魅了への耐性は高い。要するに、私にあなたの囀りは効かない」
「え、……え?」
「私はな、獅子神」
村雨はこれ以上ないほどにっこりと笑った。
「あなたに惚れていた。一目惚れだ。あなたが同種であることはすぐに分かった。同じハルピュイアか、少なくともセイレーンであるはずだと確信していた。先祖返りとヒトの番は何かと障害が多いが、同種同士なら話は早い。真経津たちを牽制して、あなたの奴隷にもそれとなく匂わせ、外堀を埋めて、そろそろ交際を申し込んでもいい頃だと思っていたところで、あなたは私に囀った。私はな、天にも昇る心地だったさ。あなたが同種である私に、ありったけの求愛と誘惑と懇願を込めてセイレーンの歌を歌ったのだから、番になることを望まれているのだと思った。その後もあなたはよく愛を請う歌を歌っていたから、もっと深く、比翼の鳥のように愛し合おうと言われているのだと思っていた。それがまさか、な」
「むらさめ……?」
「あなたが私が同種であることを知らなかったとはなあ。私を誘惑して、無理に恋人にさせたと思い込んでいたとは知らなかったなあ。あなたに私の愛が少しも伝わっていなかったとはなあ」
村雨の鉤爪がみしみしと音を立てていた。床にがっちりと食い込んでいる。ハルピュイアはセイレーンより力が強いのだ。
オレはじりじりと迫り来る村雨に圧されて、いつの間にか壁際に追い詰められていた。
額に青筋を立てた村雨は、腹の底の冷えるような笑顔で言った。
「あなたには少し、教育が必要なようだ」
「きょ、きょういく」
「安心しろ。私は医者だ。妖鳥の解剖学にも知見がある。……ああ、あの女性のことを気にしているのか? あれは兄の妻だ。彼女は私の初恋の相手の話をよく聞きたがってな。無論あなたのことだが」
「ま、待て待て待て待て」
「私がどれだけあなたを愛しているか、尾羽の先まで叩き込んでやろう」
「ま、……わあああああ!!」
——オレは半人半鳥の姿でもセックスができることを生まれて初めて知ったし、魅了にかからないはずの村雨がどれだけオレを愛しているかも、その日初めて知ったのだった。
<終>