ベイビィ・オン・ザ・ソファ ソファに五歳児がひっくり返っている。比喩だ。もちろん。オレの知り合いに五歳児なんかいない。
だがしかし、五歳児みたいな男はいる。何人も。オレも含めみんな五歳児。したいことをして、したくないことは断固としてしない。楽しいことだけしていたい子供みたいな大人ども、あるいは大人みたいな子供たち。
その中で唯一五歳児じゃなかった男、大体十二歳児くらいの敬一くんが、今は五歳児になってソファに転がって、オレの公式グッズのもちもちレイメイくんクッションをでかい両手で捻り潰している。やめろよ。かわいそうだろ。
「敬一くんなんか飲む?」
「泡」
遠慮のかけらもない。敬一くんが泡といえばそれはシャンパンだ。フレッシュできっちり酸味のあるシャルドネ系がお好みで、クリュッグの長期熟成のやつとかはそんなに好きじゃない。飲み飽きた由。二十六歳にして贅沢な舌だ。
オレはあんまり酒を飲まない。酒よりエナドリの方がキマるので。でもうちには常に適当なブラン・ド・ブランが少なくとも一本、ストックしてある。
なぜならこうして敬一くんが飲むから。
グラスはフルートじゃなくて白ワイン用の適当なやつ。ざぶざぶ注いで渡してやると、ようやくかわいそうなレイメイくんクッションを手放して、一息に煽る。そんな飲み方する酒じゃないんだけどな。
でもまあ、敬一くんがしたいようにすればいい。
敬一くんはそのまま手酌で三杯飲み干し、それから空いたグラスを逆さに指に引っ掛けたまま、ソファの上に膝を抱えて座り込んだ。
オレはソファが十分見える位置に椅子を動かして腰を下ろした。こういう時の敬一くんは、傍に座るのもソファで向かい合うのも不正解。オレからは見えるけど敬一くんからはオレがしっかりは見えない、そういう位置にいるのが正しい。オレを見ろよとちょっとムカつくけど、それが敬一くんの大事な大事な臆病さだから許している。見られるのはいいけど見るのは怖いのだ、この男の子は。
見るのを怖がっていてはどこへも行けないけれど、見るのが怖いと素直に示して、見なくても安全なのだと分かりやすい信頼を向けられるのは、オレの嗜虐心と庇護欲をくすぐる。この部屋にいる間、オレの前にいる間は、敬一くんはどこにも行くつもりがないのだ。だから見るのを怖がり、見たくないと示す。オレに守護天使みたいに頼りきってるし、ここが安全な場所だと信じきっている。
なんて愚かで愛らしい生き物だろう。しかもそれを、敬一くんは分かってやっているのだ。オレがそんな風に思うことも、こういう振る舞いがよくないことも、全部分かっていてやっているのだ。分かっていて、オレに甘え、ここを塒にしている。
オレじゃなかったら人生狂わされてるところだ、本当に。
敬一くんがオレにこうしてべたべたに甘えることを覚えたのは、解任戦の例の一戦が終わってからだった。オレも敬一くんも本気で、相手を叩き潰すつもりで戦った。とても楽しいゲームだった。そこには憎しみも嫌悪もなく、ただ闘争心と高揚だけがあった。混じり気のない闘志と、殺意と、相手を食ってやろうという貪欲な意志があった。
結果はさておき、オレも敬一くんも、あの試合で少し変わった。それは晨くんたちからも分かる部分でもそうだし、オレと敬一くんの間でしか通じ合えない部分でもそうだった。そして敬一くんは、オレに甘えることを覚えた。
そもそも敬一くんは頼ったり甘えたりするのが苦手だ。教えを乞うことはできる。自分より優れた人間に、手助けを願うことはできる。でもそれは自分が前に進むための努力の一環であり、対価を前提としているものだ。教師と生徒、先輩と後輩。そこに引かれた線。
子供が親に願うような、「できないからやって」を敬一くんは良しとしない。その発想がない。
でもオレには頼りきって甘える。あの一戦で、手を取り合って死の淵を覗いてから、敬一くんはオレに取り繕うことを止めた。他の人間がいるところではいつも通りだけど、オレと敬一くんしかいない場所では、敬一くんはオレなんかいないみたいに扱い、あるいはオレをなんでも言うことを聞く召使いみたいに扱って、ふてくされ、わがままを言い、拗ね散らかしてぶーたれる。
敬一くんは初めて正面から自分と殺し合ってくれた友達を、そういう風に自分の内側へ入れてしまったのだ。
一方のオレもそんな敬一くんがかわいくて仕方なくなってしまったので、ごく自然にその変化を受け入れた。敬一くんはオレの前では気難しい猫みたいなもの。オレが年上だったのも良かったのだろう。年上で、ギャンブルが自分より強くて、でもちゃんと真っ向から殺し合った、対等な友達。だから敬一くんはオレにこんな風に甘えるようになった。オレを信頼して、委ねきって、べたべたに甘えて、それでも何にも変わらないと信じるようになった。そんなもの、絆されずにいられるわけがない。オレは案外そういうのに弱い。
それに、オレも誰かを打算なく無条件に甘やかすことに、なんとも言えない楽しみを見出していた。
だから今日も敬一くんはうちに突然やってきて、勝手にソファにひっくり返って、ごろごろもぞもぞした挙句に、こうして人の家のシャンパンをがぶがぶ飲んでいる。
「で、今日はどうしたんだ」
敬一くんは指先のグラスをぶらぶら揺らしながらぷいと顔を背ける。言いたくない、のポーズ。でもこれは本当にただのポーズなので、促してやるのが正解。まあ大体の見当はついてるけど。
「なんかあった? 仕事? 家? それとも」
オレはちょっと笑って、確信を持って言う。
「礼二くん?」
敬一くんはふすっと鼻から不満げな息を漏らして、顔を背けたまま抱えた膝に頬杖をつく。
敬一くんと礼二くんが付き合い始めたのは、解任戦より前のことだ。人の心が分からない礼二くんが、分からないなりに敬一くんのことを大事に思って、執着して、それを恋だと結論づけて、お付き合いに至った。その後ユミピコのせいで——おかげで人間心理への見解を改め理解を深めた礼二くんは、自分の精神状態もきっちり把握し、改めて敬一くんにズブズブに惚れている。見てるこっちが恥ずかしくなるくらい相思相愛のお熱いカップルだ。
でも二人は結構正反対だから、噛み合わないこともしょっちゅうある。
これまでは噛み合わなくても敬一くんが合わせたり、飲み込んだりしてなんとかなっていた。どうしても拗れそうな時は外野のオレたち、つまりオレや晨くんやユミピコや、場合によっては行員たちが面白半分に首を突っ込んでいた。
でもそれは結局、敬一くんの努力の上で成り立っていた関係なのだ。もちろん礼二くんが引いたり、合わせたりしている場面もあるだろう。でも礼二くんはそれを合理的な判断だと考え、不満に思ったりもやもやしたりはしないから、感情的にはフラットだ。それに本人が納得できなかったら絶対に引かないし。
敬一くんは多少納得できなくても仕方ないかと引き、礼二くんのためならと我慢する。だから結局敬一くんが礼二くんに合わせることが多いし、感情的にも負担が多いのは敬一くんということになる。そもそも礼二くんの方がぐいぐいくるタイプだし、敬一くんは受け身のタイプだし。
世のカップルにはよくある話なのだろうが、問題は向こうが礼二くんでこっちが敬一くんだというところ。二人とも尋常じゃない自我の強さだから——これはギャンブラーなんか誰でもそうだろうけど——時々めちゃめちゃに拗れる。
そして以前なら鬱々と自分の中で受け止めていただろう敬一くんには、今やオレがいるのだ。甘え倒して曝け出して雑に扱っていい、優しくて頼れる友達のレイメイが。
「敬一くーん?」
そうして根気良く待っていると、やがて敬一くんはぽつぽつと事情を話し出す。半分惚気みたいな、でも本人にとってはすごく重たくて大事な話。
オレはうんうんと聞いてやって、意見を求められればオレならこう、と答えてやる。その答えは敬一くんが求めているものではないし、礼二くんの答えとも違う。敬一くんにとってアドバイスになるようなものじゃない。でも敬一くんはオレの答えを聞いて、また静かにじっと考え、そのうちきちんと答えを出す。
こんなの、礼二くんとやればいいのだ、本当は。二人のことなんだから、二人で話し合って擦り合わせて、そうして解決すればいいことなのだ。でも敬一くんにはそれができない。礼二くんは恋人だから。恋人は、敬一くんにとっては自分の外側にいるものだから。
端的に言うと、敬一くんは恋人にはかっこつけたいのだ。
礼二くんにはオレに見せるような甘えだとか駄々だとかわがままだとか、そういうものを敬一くんは見せられない。毛玉だらけの部屋着のスウェットによだれの跡をくっつけた寝起き姿じゃなくて、顔を洗って髪をセットしてシャツにウエストコートにスラックスときっちり装った姿じゃないと、敬一くんは礼二くんに会えないのだ。それは彼のプライドでもあるし、保身でもある。まあ、人間、好きな人にはかっこつけておきたいものだろう。オレはいつでもオレだから分かんないけど。
だから敬一くんはいつも、ここへ突然やってきて、シャンパンを飲み、オレを見ずにオレと話し、オレに散々礼二くんの文句を言う。つまみが食べたいと言って勝手にオレの駄菓子を出し、ソファに寝転がったままむしゃむしゃ食べる。
そしてひとしきり甘え倒して、場合によってはそのままソファで一晩眠って、翌朝すっきりした顔で帰っていく。詫びはない。気が向けば朝食を作ってくれることはあるし、ありがとうぐらいは言うけど。敬一くんは自分がそうすること、オレがそれを受け入れることを当然だと思っているから。
オレは「じゃあね」と敬一くんを見送って、大抵それから礼二くんの鬼電履歴に「帰ったよ〜」とメッセージを返す。それくらいはする。礼二くんからは晨くん作の名状しがたいスタンプがひとつ返ってくる。
今日も敬一くんは残り少ないシャンパンをちびちび舐めるように飲みながら、ぶすくれた顔で「腹減った」と言う。オレはスマホでUberを眺めながら「作る? デリバる?」と聞く。敬一くんはオレを振り向き、「作って」とねだる。もうオレを見たくない時間は終わったらしい。オレはかわいい敬一くんのために、滅多にやらない料理をする。といってもパスタを茹でて出来合いのソースをかけるくらいだけど。
敬一くんはそんな料理とも言えない料理をうまそうに食べた。敬一くんが作るものより全然美味しくないのに、また作って、と言って笑う。オレも任せとけよ、と笑う。
深夜、動画の編集をするオレの後ろで、敬一くんはタオルケットにくるまってすやすや眠った。オレが今度出す動画にテロップをつけて、撮ってきた素材を切り貼りしている同じ部屋で、すこやかな寝息を立てて寝ている。オレに油断しきった生きもの。かわいくてわがままな敬一くん。
視界の端で、スマホにメッセージアプリの通知がぽこんとポップする。
送り主は礼二くん。『獅子神に結婚を申し込もうと考えているが、あなたはどう思う』。
オレは後ろを振り返って、だらけた猫のような寝姿をしばらく眺める。
それから礼二くんに君らの結婚観は相当違うから先にそこ擦り合わせといた方がいいよ、と返す。円満家庭出身の礼二くんと崩壊家庭出身の敬一くんでは、結婚というものの捉え方に、愛し合う二人のゴールと損益分岐点がシビアな共同事業くらいの差があるはずだ。揉めた時敬一くんが駆け込むのは絶対にオレのところなので、先に少し手助けをしておく。
もちろん駆け込んでくれて全然構わないし、この役割を他の誰かに譲るつもりは全くないが(それが例え礼二くんでも、晨くんでも)、かわいそうでかわいい敬一くんの悩みの種を無闇に増やすこともない。
礼二くんから返事は返ってこない。
オレはPCの電源を落とし、立ち上がって眠る敬一くんを見下ろす。
結婚。結婚かあ。
「娘を嫁に出す親ってこんな気持ちなのかな……」
親でもないし、娘でもないけど。
だが結局、結婚しようが同棲しようが、敬一くんがこんな風に甘えて頼るのはオレだけだ。オレは敬一くんの頼れるおにいちゃんを降りるつもりはない。
結婚話がうまくいってもいかなくても、敬一くんはこれから大変だろう。
敬一くんにもう一枚タオルケットをかけてやって、オレはその肉の薄い耳に囁いた。
「おやすみ、敬一くん」
まだ当分、オレの甘えたでわがままな五歳児でいてくれよな。
電気を消した部屋の中、敬一くんの子供のような寝顔に、オレはまた少し笑った。