「誕生日、おめでとう」『村雨、八月二十七日って空いてたりするか』
恋人の声を聞いた途端、村雨礼二はいざという時の切り札に確保していた上司の弱みを、ここで行使することを決めた。空いた片手で猛然と上司にビジネスチャットを打ちながら、頭の中では担当の患者とそのタスクについて素早くチェックをかける。どうしても村雨でなければならない仕事はないはずだ。あのネタをちらつかせれば上司は確実に休みを寄越すだろう。
「休みは取れる。どうした」
『即答だな』
「偶然ここのところ手が空いていてな」
嘘だった。所属する医局もいわゆる「バイト」先も相応に多忙だ。だがそれを彼に悟らせるつもりはさらさらなかった。
村雨がここまで即座に恋人の―――獅子神敬一の、願いとも言えないような言葉に応えたのは、彼の声になにか特別なものを感じたからだった。不安でも、歓喜でもない。怒りでもなく、愉楽でもない。ただどこか尋常でなく、特別なもの。絶対に逃してはならないなにか。ほとんど第六感のようなものだが、村雨はそういった感覚を重視する性質(たち)だった。
村雨をもってしても、言語化できない無意識下の感覚は存在する。大概の外部入力情報は自覚的に処理分析し言語化できる村雨でも、特に人間の感情やその表出の分野においては、未知の機序が多い。なにか分からないが気になるもの。理由は説明できないが頭に引っかかって離れないもの。そういった物事を無視するのは悪手だと、村雨は経験的に知っている。
村雨が今、電話越しの獅子神の声に感じたのもその一つだった。
『お医者様の手が空いてることなんてあんのかよ』
「世の中が平和でいいことだろうが」
『うーん…まあいいや。それなら八月二十七日、悪いけど付き合ってくんねえ?』
「構わないが、何かあるのか?」
『ちょっと出かけるんだけどさ、まあその付き添いっていうか』
獅子神が言葉を濁したので、村雨はそれ以上踏み込むことを止めた。
獅子神はその後、当日は車で迎えに行くからと、時間の約束だけして電話を切った。
上司から入る着信を全て拒否し―――多少焦らす方が交渉(おどし)の成功率が上がる―――村雨は机の上のカレンダーを眺めた。
八月二十七日。
獅子神敬一の誕生日だった。
その年の一月六日、村雨は獅子神を兄一家に引き合わせた。
その日は村雨の誕生日で、前々から甥姪に兄宅で村雨の誕生日会をするから来いと厳命されていた。獅子神との交際が始まったのは誕生日会の話が持ち上がったあとだったので、村雨はまず甥と姪に、次に兄と義姉に誕生日会に恋人を連れて行ってもよいかお伺いを立てた。これは結果として兄弟の両親を含む村雨家一同に大きな衝撃を与えることになったのだが―――「あの」礼二に恋人ができたという一点において―――、実際の顔合わせは至極和やかに済んだ。
あなたも共に行くのだと告げるまで、獅子神は随分あれこれと気を揉み鬱々としていたようだったが、混乱している間に家を連れ出してしまえば肚が据わったようで、運転する村雨に命じて某百貨店に立ち寄らせ、誕生日会の段取りについてあれこれ村雨に確認しながら猛然と手土産を買い込んだ。
ついでに紳士服売り場を一周りしながら五分でスマートカジュアルめいたジャケットとシャツをワンセット買い込み、その場で着替えて戻ってきた。村雨としてはいつものニットとスラックスで問題ないと思っていたのだが、本人からすると恋人の家族に初めて会うのにあれはねえだろ、ということであるらしかった。とはいえ既製品のシャツとジャケットでは彼の鍛えられた上半身をつつむにはいささか力不足で、村雨は獅子神がお辞儀した瞬間にボタンが弾け飛ばないかはらはらする羽目になったのだった。
ともあれ普段の柄の悪さをすっかり塗り隠し、好青年の皮を被った獅子神は、兄一家にすっかり気に入られた。甥と姪にもやたら懐かれたものだから、村雨はしばしば彼らの間に割って入り、獅子神に白い目を向けられた。
兄と義姉は来年の誕生日会もぜひ来るように、いや雛祭りも七夕もクリスマスも来るように、と獅子神に言い募り、村雨にもそのように厳命した。獅子神は予想外の歓待に戸惑っていたが、はにかむようにして頷いた。
帰りの車の中で、獅子神はぽつりぽつりと彼の子供時代について語った。断片的な情報から想像していた通り―――そしてあの刑事たちの言った通り―――獅子神の生育環境は厳しいものだった。
オレは誕生日を祝ってもらったことがないから、と獅子神は助手席で凪いだ目をして言った。今日本物の、家族の誕生日のお祝いってやつを見られてよかった。お前が楽しそうに、幸せそうに祝われてるのを見られてよかった。オレはオレの誕生日が好きじゃねえから。八月二十七日が来る度に、惨めな気持ちになるから。
村雨はただ、そうかと言って頷いた。
そして頭の中のカレンダーに八月二十七日を恋人の誕生日として登録し、彼が誕生日を好いていないことを、少しだけ残念な気分で追記した。
あれからもう、半年以上が経っている。
獅子神が好きではないと言った彼自身の誕生日に、彼は村雨を連れ出そうとしている。
村雨はふと引き出しを開けると、その中に隠すように置かれた小箱を眺め、それから頭を振って上司からのしつこい着信に指をスライドさせた。
休みはあっさりと取ることができた。上司はあれ以来、陰に陽に村雨の顔色を窺っている。彼の弱み―――外科部長の入り婿である彼が、少々よろしくない筋から借金を重ねて某行の銀行賭博に足を突っ込んでいること―――については他言しないと約束したはずだが、元々村雨に対し理不尽に強く当たっていたせいで、信じ切ることができないでいるらしい。自業自得だと切り捨てて、村雨は何事もなかったかのように勤務を続けている。
イントラネットのスケジュールを見た同僚が、あれえと素っ頓狂な声を上げて村雨を振り返った。
「村雨先生、有給ですか? 珍しいね」
「ああ、恋人の誕生日なので」
「へー!」
人のいい同僚は目を丸くして驚いたあと、じゃあその日は僕が頑張らないとかなと笑った。
「村雨先生、なんかサプライズとか考えてるの? 恋人さんに」
「いや、あちらが私をどこかに連れ出すつもりのようで。……サプライズ、というか、プレゼントを考えていないわけではないんですが」
「村雨先生がそういう言い方をするってことは、もう何かしら準備が済んでるってことだ」
やたらと人間の機微に敏い同僚は、こんな時にまでその察しの良さを発揮して、村雨の渋い顔を覗き込む。
「うまくいくといいですねえ、サプライズ」
「……失敗したら報告します」
ええ、なんで、成功したら教えてよ、お祝いするから、と、同僚はまるで「サプライズ」の中身を知っているような顔でまた笑った。
八月二十七日は夏の終わりらしく、どうにも不安定な天気の一日だった。雲が多いが晴れ間が覗くこともあり、また突然遠くで雷鳴が響き、驟雨の降ることもある。
その晴れ間のいっときに、獅子神は村雨を迎えに来た。
いつものスポーツカーではなく、小ぢんまりとコンパクトなクーパーにもたれた獅子神は、どこか落ち着かない様子だった。
「今日は車を変えたんだな」
「あー、まあ。これから行くとこ、でかい車は取り回しがきついから」
そうか、とひとつ頷いて、村雨は助手席に滑り込んだ。獅子神もやや窮屈そうに運転席に座り、エンジンを掛けながら言った。
「どこ行くかとか、聞かねえんだ?」
「聞かない。あなたが連れて行きたいところに連れて行くがいい。どこへでもついていくし、文句は言わない。好きにしろ」
「めっずらし……どういう風の吹き回しだよ、お医者様」
村雨は今日はあなたの誕生日だからな、と口を開きかけて閉じ、肩をすくめて「人生にはサプライズが必要だと同僚にアドバイスされた」とだけ言った。
獅子神はハハ、なんだそれ、と声を上げて笑い、今どき珍しくキーを捻ってエンジンを掛けた。
車が止まったのは、都心を離れた小さな住宅街だった。建売らしいよく似た戸建てが並び、公園では子供たちが水鉄砲を持ってはしゃいでいる。
住宅の様子を見るに、開発からそれなりに時間が経った新興住宅地らしいが、まだ住人は減っていないようだ。
獅子神はコインパーキングに車を駐め、村雨をいざなって歩き出した。
彼は何も言わない。村雨もただ黙ってその横に並んで歩いていた。
しばらく住宅街の中を行くと、獅子神はある一軒の前で立ち止まった。なんの変哲もない、今どきの戸建てだ。周りの家々よりもやや新しいように見える。
表札に書かれているのは知らない名前だった。
獅子神は黙ってその家を眺めたあと、独り言のように口を開いた。
「ここに昔、うちが建ってたんだ。……オレの生まれた家が」
その目は凪いでいた。懐かしむでも、嫌悪するでもなく、ただ事実を確認しているような声で、獅子神は続けた。
「オレが中学出た頃に焼けて、その後は縁起悪いからってしばらく駐車場になってたんだけど、五、六年前に他所の人が買って家建てたらしい。オレの元の家とは全然似てなくて、まあいい家なんじゃねえかな」
「そうか」
「気弱そうな親父さんと、よく笑うお袋さんと、やかましい兄妹が住んでる。家の外からじゃ家族のことなんか分かりゃしねえけど、多分幸せな一家だよ」
うちとは違って、と獅子神は呟いて、それから眩しそうに目を細めて踵を返した。
黙って歩く彼が次に訪れたのは、少し入り組んだ道を進んだ先にある大きな公園だった。様々な遊具が据え付けられていて、そのどれもに子供たちが群がって歓声を上げている。獅子神は自動販売機で水を買い、村雨には缶コーヒーを投げてよこした。
木陰のベンチに腰を下ろし、村雨は滑り台を立って駆け下りようとする子供と、それを止めようとする子供の大騒ぎを眺めながら口を開いた。
「あなたもここで遊んだのか」
「どっちかっつーと、隠れてたかな。ここ、今はこんなに子供がいるけど、昔は全然誰も寄り付かなかったんだ。もっと周りに木も多くて薄暗くて、おばけが出るとかいう噂もあった。ていうか、オレが物心付く前にここで引ったくりからの強盗殺人があったとかで、親たちが子供をここへは来させなかったんだよな。だからちょうどよかった。親がキレ散らかしてどうにもならねえ時とか、家にいたら殴られそうな時とか、闇金の連中が押しかけてきた時とか、よくここでやり過ごしてた。ほら、あそこ、あの遊具見えるか」
獅子神が指さした先には、象を模したドーム型の遊具があった。
「あの象の腹の中、夏でもひんやりしてて居心地がいいんだ。……毎年この日は、あの象の腹の中にいることが多かった気がする」
獅子神は飲みかけのペットボトルを持ったまま立ち上がった。忙しなくて悪いな、と言いながら、公園を抜けて少し大きな通りへ出る。
二、三度曲がって坂道を登ると、小学校が見えた。
あんまり近づくと面倒だから、と獅子神はそこで足を止める。ペットボトルの尻で校舎を指して獅子神は言った。
「あれ、オレが通ってた小学校。いい先生もいたし、クソみたいな教師もいた。いい同級生もいたし、ろくな死に方しねえだろうなってガキもいた。オレは給食を食いに通ってたようなもんだった。他に楽しいことの記憶はあんまない。でも勉強はしてた。いい子になればきっと他の家の両親みたいに、オレを、……」
村雨が手を握ると、獅子神はぎゅっと握り返した。体温の高い獅子神とは思えないほど冷たい指だった。
「―――行こう」
村雨が手を引くと、獅子神は大人しくついてきた。
すぐに指はほどかれて、村雨がそれを惜しく思う暇もなく、獅子神はまた先立って歩き始めた。少し古い家並みの続く通りに入り、一軒の日本家屋の前で足を止める。売家の札がかかっていた。
「ここに婆さんが住んでたんだ。いくつだったんだろうな……とにかく、オレが初めて会った時にはもう婆さんだったし、最後に会った時も婆さんだった。小一か、小二の頃だったかな。上級生に意地の悪いのがいて、上履きをこの家に投げ込まれた。オレはどうしていいか分からなくて、この家の前に突っ立ってた。そうしたら婆さんが出てきて、上履きを返してくれた。それから時々話をするようになった。つっても、全部で十回もなかったと思う。でも婆さんは、オレに勉強しろって教えてくれた。どうにかしたいなら、とにかく勉強しておけって。その時は分からなかったけど、オレは婆さんの言う通りに勉強を続けた。親がそんなことじゃ振り向いてくれないのが分かってからも、婆さんの言葉を思い出して勉強を止めなかった。婆さんが言ってたことが理解できたのは家が焼けてからだ。婆さんのお陰でオレはなんとか生き延びられた。オレに生き延び方を教えてくれた一人だ」
「その方は、今は」
村雨がそっと尋ねると、獅子神は首を振った。
「大人になって金もできてから、いっぺん思い切って会いに来たことがあった。でもその時にはもう婆さんはここにはいなかった。それっきりだ」
「そうか」
獅子神はまた歩き出す。
古い家並みをしばらく行くと、商店街が現れた。シャッターの下りた店も多いが、寂れたというには活気の残った通りだった。
獅子神が立ち止まったのは、真新しいパステル調の看板がかかった洋菓子店の前だった。
獅子神は懐かしそうにその店を眺めた。
「ここ、最近リニューアルしたばっかなんだと。昔はもっとなんつうか、時代がかった店構えでさ、ガラス窓の向こうにいるのも鬼瓦みて―な顔したおっさんで、鬼のケーキ屋さんとか呼ばれてた。そういう絵本か児童書があったんだったかな。でもこの、鬼のケーキ屋さんはこの辺じゃ一番うまいケーキ屋だった、らしい。オレの同級生は誕生日が来ると、ここでケーキを買ってもらうのがお楽しみで、誕生日会に呼ばれる友達連中も誕生日ケーキが鬼のケーキ屋さんのだって分かるとやたらはしゃいでた。オレはいっぺんも呼ばれたことがないし、買ってもらえるはずもなかったから、全部聞いた話だけど」
獅子神は店の奥を指さした。
「あそこ、ケースの右端のところ、見えるか。その日引き取りの誕生日ケーキはあそこに並べるんだよ。なんとかちゃんおめでとう、ってプレートのついたやつが、日によっちゃ三つも四つも並んでた。オレは……オレは、毎年この日が来ると、わざと遠回りして鬼のケーキ屋さんの前を通って帰った。もしかしたらママが、パパが、それともオレの知らない親切な誰かが、オレのための誕生日ケーキを鬼のケーキ屋さんにお願いしてくれてるんじゃないかって。ケースの右端に、オレのためのケーキがあるんじゃないかって……」
家が焼けてここを出ていくまで止められなかったよ、と獅子神は自嘲するように笑った。
「村雨」
獅子神は今日始めてまっすぐに村雨を見つめて言った。
「正月に、お前の誕生日パーティに呼んでもらったよな。ありがとう。オレ、あれが生まれて初めて呼ばれた友達の誕生日会だったんだ。すごく嬉しかったし、幸せだった。お前が年を取ったことを家族に祝われてるのが、めちゃめちゃ幸せだった。でもごめん。オレには同じものを返せない。今日一日で分かったろ。オレにはなんにもない。お前みたいに、祝ってくれた誰かに幸せを返してやることができない。祝ってもらう価値がないんだ」
村雨が反射的に口を開く前に、獅子神は眉を下げて泣き出しそうな顔で笑って言った。
「でも、……それでもさあ、村雨、オレにケーキ、買ってくんねえかなあ」
獅子神のまなじりからぽろりと涙が一粒こぼれた。
その笑顔がたまらなく愛しくて、村雨は腕を伸ばして彼を抱きしめ、こぼれた雫を唇で吸った。
馬鹿な男だ。物の道理を何も分かっていない、愚鈍な男だ。村雨が嫌だと言うはずがないことぐらい、分かっているだろうに。―――いや、分かっていても、分かっているからこそ、怖ろしかったのかもしれない。子供の頃の焼け付くような憧憬と惨めさと切望を村雨に晒して、その傷を埋めてくれとねだるのが、答えが分かっているからこそ、彼には怖かったのだろう。
村雨は抱きとめた肩がゆっくり湿っていくのを感じながら、丸まった背中を撫でて囁いた。
「けいいちくんおめでとうのプレートもつける。文句は受け付けない」
「……うん」
「特別な誕生日ケーキは予約しないと難しいだろうが、ホールケーキがショーケースにあるのが見えている。あれにプレートを乗せる。八号のようだがどうせ真経津たちも呼べば来る。ちょうどいいサイズだろう。今日はあなたもなんでも食べろ。彼らにも誕生日に食べたいものを持ち寄らせる」
「うん……」
「獅子神」
村雨は車においてきた鞄の中の小箱を思いながら、獅子神の額にゆっくりキスをして言った。
「誕生日、おめでとう」
「うん……!」
ギャンブラーたちに一部行員まで巻き込んだどんちゃん騒ぎの挙げ句、村雨が差し出した小箱の中の指輪に、獅子神が再び号泣するのは、まだもう少し先のことだった。