身体検査アドラー・ホフマンは、薄暗いシャンデリアの光に照らされながら、うんざりとした表情を隠そうともせずに首元の緩んだタートルネックを引っ張った。豪奢な食卓の周囲には、財団の上層部と、神秘学家と集まり、白い手袋をはめた手でワイングラスを傾けながら優雅に談笑している。
「人間と神秘学家の交流会」──表向きの名目はそうだったが、実態はどう見ても違った。
彼の隣には、やたらと距離を詰めてくる神秘学家が座り、含み笑いを浮かべながら興味深げに彼を観察している。その視線は、学術的興味というよりも、人体実験の被験者を値踏みする研究者のそれに近い。
「やっと姿を見せたな、エニグマ君。こうして直接言葉を交わせるのは実に光栄だ。」
テーブルの向こう側から、財団の高官がにこやかに話しかける。だが、その目の奥には別の意図が潜んでいるのがありありと見て取れた。
アドラーは、肩にかかるボサボサのウルフヘアーを無造作にかき上げ、吐き捨てるように言う。
「そりゃどうも。俺としては、こういう場にはできれば一生関わりたくなかったがな。」
「それは残念だ。だが、今日の食会は君のような人間と、我々神秘学家との理解を深めるための貴重な機会だ。是非、楽しんでいってくれたまえ。」
その言葉に、周囲の神秘学家たちがくすくすと笑う。
アドラーは、思わず隣の席を一瞥する──いない。
普段なら、こういう場にはウルリッヒも一緒にいるはずだった。犬猿の仲とはいえ、少なくともウルリッヒがいれば、こういう厄介な状況にはならなかったかもしれない。しかし、今日は彼の姿がどこにもない。
「クソが……」
小さく悪態をついたが、誰も気に留めなかった。代わりに、向かいの神秘学家が、彼の手元のワイングラスを指で示す。
「飲まないのか?」
「禁酒中でね。」
「いやいや、これは特別なワインだよ。君のような人間でも楽しめるように作られた。」
それが何かの伏線であることは、考えるまでもなく分かっていた。しかし、こういう場では無理に断るより、一口だけでも飲んだほうが面倒にならない。アドラーは眉をひそめながらグラスを持ち、一口だけ口をつけた。
──甘い。
そして、妙に重たい後味が舌の上に残る。
「……何を入れた。」
彼は低く問い詰めたが、神秘学家たちはただ笑うだけだった。
次の瞬間、足元がぐらつく。視界が歪み、音が遠のく。アドラーは立ち上がろうとしたが、身体が鉛のように重く、力が入らない。
──クソ、やられたか……
最後に聞こえたのは、誰かの微かな囁き声だった。
§
「さて……観察を始めようか。」
目覚めた先
意識がぼんやりと浮上してくる。
アドラーはゆっくりと目を開けた。天井は無機質な白。周囲の空間は静かで、冷たい。手首と足首に妙な違和感を覚え、目線を落とすと、金属製の拘束具がしっかりと固定されていた。
──最悪だ。
彼は眉を寄せ、喉の奥で低く唸った。
「目が覚めたかい?」
目の前には、数人の神秘学家たちが立っていた。彼らは白衣を身にまとい、手袋をはめ、興味津々といった様子で彼を見つめている。その視線は、まるで新しい標本を前にした研究者そのものだった。
「……何のつもりだ。こんな事をして研究センターが黙ってるわけが無い。」
「君は珍しい存在だ。通常、人間と神秘学家は根本的な構造が違う。しかし、君はただの人間なのに、我々の知識に匹敵する知性を持っている……これは非常に興味深い。」
アドラーは鋭い視線を向けたが、神秘学家たちは怯むどころか笑みを深める。
「筋肉の構造は……ふむ、普通の人間とそう変わらないな。」
「神経の反応はどうだろう?」
「話を——ッ!」
誰かが彼の腕に何かを押し当てる。次の瞬間、皮膚の下にチリチリと焼けるような痛みが走った。
「……ッ!?」
痛みを堪える彼を見て、神秘学家たちは面白そうに笑った。
「なるほど。やはり、痛覚の伝達速度が微妙に違う。」
「それに、代謝機能の調整も興味深い。神秘学家とは違う形でエネルギーを使っているようだ。」
アドラーは歯を食いしばった。こうして好き勝手に弄ばれるのは耐え難い。だが、今の彼には反撃手段がない。
ウルリッヒがいれば──
しかし、彼はいない。
アドラーは深く息を吐き、朦朧とする意識の中で静かに決意した。
──次に目が覚めたら、全員後悔させてやる。
§
視界がぼやける。
意識ははっきりしているはずなのに、まるで霧の中をさまよっているような感覚だった。
──くそ……何を飲まされた……?
アドラーは鈍く動く思考で状況を整理しようとするが、思うように体が動かない。喉の奥が妙に熱く、息をするたびにじんわりと火照るような感覚があった。
「ふむ、だいぶ回ってきたようだね。」
すぐそばで、誰かがくすりと笑う声がした。柔らかく、どこか楽しげな響きだった。
「では、さっそく観察を続けようか。」
顎を持ち上げられる。薬のせいで力が抜けた状態のまま、自然と口が開いてしまった。無理やりというより、勝手にそうなってしまうのが悔しかった。
「口腔内の構造は……ふむ、人間としては標準的かな?」
指先が唇の内側をなぞる。ひんやりとした感触が歯列を辿り、上顎へと滑り込んでくる。喉の奥に向かってゆっくりと押し込まれ、思わずアドラーの舌が逃げるように動いた。
「おや、まだ反応する余裕があるようだ。」
指先が舌の裏側をなぞる。じんわりとした熱が広がり、薬の影響で過敏になった粘膜が微かに震えた。
「舌の筋肉はしっかりしているね。発音の癖が出やすい部分だから、興味深い。ドイツ語訛りの影響かな。」
喉の奥を確かめるように、指がさらに押し込まれる。アドラーの喉がひくりと震え、無意識に飲み込む動きをする。
「……っ、……は…ぁ」
声にならない息が漏れる。まるで自分の意思ではなく、身体が勝手に反応しているような感覚だった。
「嚥下反射も正常だ。少し過敏なくらいかな?」
唇の端を軽く引かれ、口角の動きを確かめられる。指先が滑るように移動し、歯の裏側を丹念に撫でる。薬のせいか、いつもよりも粘膜の感覚が鋭く、些細な刺激にも過剰に反応してしまうのが自分でも分かった。
「歯列も綺麗に並んでいる。噛み合わせは……ふむ、上下のバランスがいいな。」
指が唇を押し広げるようにして、口の中の奥深くまで観察される。歯茎の形状まで丁寧に指でなぞられ、アドラーはうっすらと眉を寄せた。
──気持ち悪い。けど、妙に熱い。
口内の粘膜がじわりと熱を持ち、異様なほど敏感になっているのが分かる。喉の奥に指が軽く触れるたびに、無意識に喉が収縮し、浅い息が漏れた。
「やっぱり、人間の構造は面白いね。」
くすっと笑う声がした。
喉の奥をなぞる冷たい指がゆっくりと引かれていく。口の中の粘膜は薬のせいか異様に敏感になっていて、僅かな刺激にも過剰に反応してしまっているのが自分でもわかった。唾液がわずかに絡み、ひんやりとした感触が消える。
「ふむ……よく反応するね。」
耳元で小さく呟かれる。その声には妙な満足感が滲んでいて、アドラーは思わず眉を寄せた。
──ふざけるな。
しかし、体に力が入らない。拒絶しようとする意思はあるのに、薬の影響か、四肢にまとわりつくような重さがある。指一本動かすのさえ億劫で、もどかしさが募るばかりだった。
「さて、それじゃあ次は……」
衣擦れの音がしたかと思うと、服の裾に手がかけられた。
「っ……!」
さっと冷気が肌に触れる。瞬間、アドラーの背筋が微かに震えた。
「おや、思ったよりもずいぶん白い肌をしているんだね。」
コートの下に着ていたゆるいタートルネックがまくり上げられると、腹部があらわになる。普段は布地の下に隠されていた部分が無防備に晒される感覚に、アドラーは強い違和感を覚えた。
「ほう……皮膚が薄いな。」
指先がそっと腹部をなぞる。薬のせいか、普段よりも肌の感覚が過敏になっているのが分かった。くすぐったいような、しかしそれだけでは済まない違和感が背中を走る。
「押したら、どうなるかな?」
次の瞬間、指が腹部にゆっくりと押し込まれる。
「っ……」
思わず浅く息を呑んだ。皮膚が薄いせいか、わずかな圧力にもすぐに反応してしまう。軽く押されただけで、そこがじわりと赤みを帯びるのが自分でもわかった。
「ふむ、少し強めに押しただけで跡がつく。……感覚は?」
問いかけに答えたくないという反発心があったが、喉が強張って声にならない。腹部に添えられた手はそのまま、指がゆっくりと動き始める。
「筋肉の付き方は……思ったよりも柔らかいね。だが、ちゃんと芯はある。長く引きこもっていたとは思えないな。」
指先が腹筋のラインを辿るようになぞる。くすぐったさと妙な不快感が入り混じった感覚が体の奥を揺さぶる。
「しかし、腰が随分細い。」
手が脇腹に移動し、親指と他の指で軽くつまむように測られる。
「……やめろ。」
やっとの思いで声を絞り出したが、それを無視するように指がゆっくりと腹の中央に戻る。
「この薄さ、骨の形がはっきり分かるな……」
言葉とともに、今度はもう少し強めに押し込まれる。鈍い圧迫感が広がり、喉の奥で浅い息が絡まる。
──早く終われ。
思考の中で何度もそう繰り返す。しかし、検査はまだ続いていた。
腹部をなぞる指先が、じわじわと温度を持ちはじめている。初めは冷たかったそれが、触れ続けるうちに微かにぬくもりを帯び、皮膚をじんわりと刺激してくるのがわかった。
「……クソが、お前ら全員まとめて治安維持当局に——ッ!!」
息を呑みながら抗議の声を漏らしたが、無視される。指が腹筋の中央を這うように動くたび、こそばゆさと不快感が入り混じり、喉の奥で反射的に声が震えた。
「ふふ、敏感だな。そんなに力は入れていないはずだが?」
嘲弄するような声とともに、指先が腹の中心を円を描くようになぞる。軽い刺激にすぎないはずなのに、皮膚の薄い部分がダイレクトに感覚を拾い上げてしまい、反応を抑えきれない。
「……っ、やめ……っ!」
思わず身体をよじらせるが、力の抜けた四肢では思うように抵抗できない。腹部を押さえつけるように添えられた手の感触が妙に強く感じられる。
「このあたりは……特に薄いな。」
指が脇腹のあたりをなぞる。くすぐったさに耐えきれず、アドラーはびくりと肩を跳ねさせた。
「ふむ、反応が顕著だ。」
興味深げに呟きながら、親指が腹筋の間をゆっくり押し込んでくる。そこは特に皮膚が薄く、骨の感触がすぐに伝わるほどだった。圧迫される感覚と、それに伴うじんわりとした熱が不快感とともに広がる。
「っ、あ……!」
思わず短い声が漏れる。恥ずかしさに歯を食いしばるが、どうにもならない。
「やはり、ここは敏感なようだな。もう少し詳しく……」
そう言って、指がさらに深く押し込まれる。じわりと食い込む圧力に、内臓がわずかに持ち上がるような感覚がした。
「っ、ぐ……!」
不快感とくすぐったさが入り混じり、喉の奥で息が絡まる。強く押された部分がじんわりと赤く染まり、わずかに熱を帯びていく。
「ほう……触れ続けると温かくなってくるな。」
皮膚の奥にじんわりと広がる熱が、時間が経つにつれてはっきりしてきた。押された部分はうっすらと血が巡り、そこだけが異様に意識されてしまう。
「肌が薄いから、こうして少し力を加えただけで反応が顕著に出る。」
指先がすっと腹の下部に移動し、軽く押し上げるような動きをする。
「……っ、く、そ……!」
思わず奥歯を噛み締めるが、耐えれば耐えるほど、皮膚の敏感さが際立ってしまう。くすぐったさと圧迫感のせいで、息が詰まりそうだった。
「ほら、こんなに赤くなっている。」
嘲弄するような声とともに、指が赤く染まった部分をなぞる。そのたびに肌が小さく震え、押された箇所がじんわりと熱を持っていく。
§
不意に、長い前髪が指先によって持ち上げられた。視界が急に開け、目の前の人物と真正面から目が合う。アドラーは反射的に顔を背けようとしたが、動きは鈍く、逃れることができなかった。
「ふむ……」
低い声が漏れる。観察するような目つきが、顔の細部をじっくりとなぞるように動いた。
「肌が薄いな……いや、透き通るようと言うべきか。」
額の生え際から頬へと、視線がなぞるように動いていく。アドラーの肌は血の気が少なく、どこか儚げな印象を与える。だが、ただ白いだけではない。微細な血管が薄皮の下を流れ、その繊細さを際立たせていた。
「……っ、見るな……」
不快感に眉をひそめるが、相手は構わず観察を続ける。
「まつ毛が長いな。伏せれば影ができるほどだ。」
そう言われるまでもなく、アドラーのまつ毛は黒く、濃く、そして長い。まぶたの上でふわりと揺れ、落ちる影がかすかに頬を撫でる。
「そして、この目……」
指が顎に添えられ、軽く持ち上げられる。視線を交わしたくなくてそらそうとしたが、顎を固定されてしまい逃げ場がない。
「ヘーゼル……いや、光の加減で色が変わるな。」
アドラーの瞳は、ヘーゼルアイと呼ばれるものだった。茶色と緑が混じり合い、光を受ける角度によって印象が変わる。強い光の下では黄金のように輝き、陰ると琥珀のような深みを増す。
「……あまり人と目を合わせるのは得意ではないようだ。」
呟く声がやけに近い。アドラーは唇を噛んで視線を逸らした。今すぐにでも顔を背けたいのに、指がかるく顎を押さえて、それを許さない。
「怒った顔もなかなか悪くないな。」
嘲弄するような言葉に、さらに眉を寄せる。だが、それすらも面白がるように相手は観察を続ける。
長い前髪が下ろされるまでの数秒が、ひどく長く感じられた。
§
数分か、それとも数時間か。
ようやく検査が終わった。
感覚が曖昧になっていく。最初は耐えようとしていたが、次第に瞼は重くなり、思考も霞み、浮遊するような意識の中で、誰かの声だけが遠くから響いていた。
「誰か、記憶処理ポーションを持ってきてくれ。」
それは、命令口調ではなかった。淡々と、けれど確信を持って発せられた声。まるで長い手続きを終え、次の段階へ移ることが既に決定されているかのような響きだった。
「今日のことは、悪い夢だ。」
夢。
そうか、これが夢なら、目覚めた時には何も残らないのだろうか。しかしながら、奇妙なまで腹部が熱い。
意識の奥深くで、何かが警鐘を鳴らしていた。まるで溺れかけた体が本能的に水面を求めるように、記憶の断片が必死に繋がろうとする。しかし、まぶたは閉じかけ、思考の糸は断ち切られ、世界はぼやけ、冷たく沈んでいく。
「エニグマ、すべてを忘れて、また明日から共に善良な協力関係を築こうじゃないか。」
名を呼ばれた。
良好な協力関係——?
言葉の意味を理解しようとするが、頭の中で霧が広がる。何かがこぼれ落ちていくような感覚。過去の出来事、交わした言葉、感じた感情……それらが水に溶けるように曖昧になっていく。
「……忘れる……?」
誰の声かも分からない、かすれた呟きが自分の口からこぼれた。
かすかな記憶が疼く。
何か、大切なものを失おうとしている。
けれど、それが何なのか、思い出せない。
部屋の片隅で、ガラス瓶の蓋が開かれる音がした。ほのかに甘い香りが漂う。鼻をつく鋭い薬草の匂いと、仄かに混ざる苦み。その香りを吸い込むたび、意識はさらに深く沈んでいく。
思考が霧散する。
ああ、これで——
ようやく、解放される。