タオル「おまえさ、髪くらい乾かせよ」
「……うム」
リビングに戻ると、濡れ髪のままソファに鎮座する御剣の姿があった。襟足から雫が滴り、うなじを伝う。
「それ、急ぎ?」
「……まあな」
ぼくが二番風呂をいただいている間に乾かそうとしなかったのは、どうやらお手元の書類のためらしい。現に、声をかけても惚けた相槌が返ってくるだけだ。背を向けられているから分からないけれど、文字列を追う眉間には皺が寄っていることだろう。
「ちゃんと乾かさないとカゼ引くぞ」
「ああ」
「聞いてる?」
「聞いている」
「ならさっさとやれって」
「あと、少し」
「……」
面白くない。ぼくが来てるってのに仕事かよ、この堅物は。
意地でもこっちに意識を向けさせたくなって、首にかけてきたタオルで御剣の色素の薄い髪を覆う。そして、そのままわしわしと掻き乱してやった。
「わっ、やめたまえ、資料が読めない」
「ぼくは読むなって言ってるんだよ」
御剣はいよいよ辛抱ならんとばかりに振り返り、上目遣いで睨みつけてくる。そう、睨むならぼくにしときゃいい。
ぼくは御剣の眼光に怯むことなく、その手から書類をかっさらい、御剣の手の届かない、テーブルの端っこのところに放り投げた。
しかし、御剣はそいつを追って、ソファを移動する。そして再び紙面に齧り付いてしまった。
一瞬気分が良かったのに。今日の御剣はやたらに諦めが悪い。
「おまえなあ」
「本当にあと少しなのだ」
「読み終わってもああだこうだ考え込んで、どうせ時間がかかるんだ。目に見えてる」
「キリが悪いと気持ちが悪い」
「分からないでもないけど、ただでさえおまえ冷えやすいんだから」
「今年はカゼを引いていない」
「それこそぼくのおかげだろ」
「そうだが」
「開き直りやがって。ああ、もう」
埒が明かない。御剣の頭頂部に間抜けに放りっぱなしのタオルを引っ掴む。
「おい、なにを」
御剣が視線を上げるが、構わず勢い任せにぐしゃぐしゃにする——のではなく、髪の根元を丁重に包み込んだ。一切の摩擦を与えぬよう、ぽんぽん、と軽く叩きながら水分を拭う。
要するに、ぼくの降参だ。
勝手にお仕事とじゃれあっていればいい。それはそれとして気が済まないから、ぼくも勝手にさせてもらう。
御剣は束の間ぽかんとしていたが、ぼくが折れたということをすぐに理解したようだ。というのも、ソファに凭れかかって、当然のように頭を預けてきたのである。「存分に拭きたまえ」とでもいうように。そして、次の瞬間には険しい表情で文字列をなぞっていた。
分かってはいる。御剣は自身の望みが妨げられない限り、ぼくの好きなようにやらせる。
気高き《検事》ではいられないプライベートの時間に気落ちする隙を与えぬよう、あちらこちらに連れ回した。薬やら酒やらで夜をやり過ごす不健康な生活習慣を正すべく何度も泊まらせ、泊まり込んだ。不安に取り憑かれると、自らの両手で酸素を絶ち、生への欲求を叩き起す悪癖も、その両手を包んでやめさせた。ついでに楽しいときは楽しい、苦しいときは苦しいと素直に気持ちを口に出すように教え込んだ。その結果、こんな関係にまで行き着いたわけだが。
それにしたってなんというか、ここのところの御剣はぼくに世話されることに躊躇がない。
根本を中心にタオルを揉み込んでいたのを、毛先の方へ移っていく。御剣の家のタオルはやたらに柔らかで、触れるたびふわりと柔軟剤が香る。花の香りに心惹かれたことはないし、香水を始めとした香料自体が正直好きにはなれないのだが、こいつの家の香り、というか体臭と混ざると不思議と気持ちが安らぐのだから参ってしまう。そして、この優しい肌触りは最新式洗濯機の力量ゆえ、厚みはそもそものモノの良さゆえだろうか。いつからあるのかも覚えていない貰い物のタオルを使い古しているぼくとは大違いだ。ウチに泊まって、粗末なタオルを手に取るとき、こいつは何を思っているんだろう。ふと気になったから、遠回しに尋ねてみる。
「御剣んちのタオルってどこのなの」
「これは……。高菱屋の担当の方に選んでもらっているから、よく覚えていない」
「やっぱり天才検事様は違うな」
「質の良い生活ためには必要な投資だ。倹約を心がけつつ、使うべきところに使うべきなのだよ」
「そうなんですかねえ」
生活能力皆無なくせして、生活の質を語るな。少し前まで肝心の生活習慣が「健康で文化的な最低限度」に達していなかったじゃないか。
「なんだ、欲しいのか」
「……まあ、そんなとこ。いつもこんなフワフワを使っているおまえが、ぼくんちのタオルによく耐えられるなあって」
「あのガサガサには、あのガサガサなりの良いところがある」
「バカにしてる?」
「ちがう」
キッパリと否定される。ガサガサとか言われるのはさすがに遺憾だ。それなりに洗剤と柔軟剤にはこだわっているし。安いやつの中からだけど。
悪口でも冗談でもないなら、本気で「ガサガサなりの良いところ」があるというのだろう。無言で先を促すと、御剣はようやく役目を終えたらしい紙束をトントンと整えながら口を開いた。
「アレに身を包むと、成歩堂の家にいる、と実感できる。だからだろうか、妙に落ち着くのだ」
タオルをなぞる指先がぴくっと狼狽えた。
ぼくの家は、御剣にとって心安らげる場である。
あまりにも事も無げに言いやがったけれど、そうか。それはまあ、よかった。そう仕向けたんだし。
客観的に見て、ぼくの御剣への思い入れは並々ならぬものなのだろう。でもそれはお世辞にも愛とか情とかいうお行儀の良いものではなく、強いて言い表すなら執着だった。御剣自身を傷つけてでも、おまえとぼくとの全てをなかったことにさせるわけにはいかない。面倒だから傷つけてないだけだった。都合がいいから愛にしただけだった。
「まあ、キミの家でもこんなふうに髪をやってくれるというのなら、数枚譲っても構わない。キミ自身はガサガサのトゲトゲのくせして、髪の扱いは丁寧だ」
振り返り、いつものしたり顔で人差し指を突きつけてくる。
命令口調、勝ち誇ったつもりかもしれないけれど、ぼくからすればただ甘えられているだけだよ。
おかしいのは、それが嬉しいってこと。
法廷では未だ苛烈で、華麗なこの男が、無防備に寄っかかって頭を差し出してくる。甘え方を教え込んだのは自分であるという優越感——だけならば今まで通りだったのに、最近どうにも胸がいっぱいだ。干からびた心に水を与えど満ちることはなく、常に焦燥感に駆られていたはずなのに。
きっとぼくは今、迷子のこどものような表情をしている。それじゃあ情けないから、眉をひそめ、努めて不機嫌そうにする。
「……おまえのせいで随分のひとの世話が上手くなったよ」
「私は以前より出来ることが減った」
胸中で波打つ熱を逃がすために皮肉を吐いたのに、また想定外のことを言われて、いよいよ冷静さを保てない。こいつ、わざとぼくを揺さぶっている。いい加減、白黒はっきりさせるために。
御剣は、知らず知らずタオルを握りしめていたぼくの右手を両の手で包み、自身のパジャマの襟元の方へと引き寄せる。それからぼくの瞳をまっすぐに仰ぎ見て。
「誰かさんが甘やかしてくれるからな」
眉を歪ませたいつもの下手くそな微笑みには、おなじみの眼光がなく、やたらに隙だらけだ。防壁を取り払ったゆえに視界も澄んでいるのだろう。ぼくの思惑は全部見透かされている、と感じる。嫌になるほど清廉で、律儀で、赤裸々な眼が「どうなんだ」と質すものだから、額に汗が滲んだ。
なのに、ぼくの右手を包む、御剣の手のひらの力強さと温もりは「だとしても構わないから」と念じているようで。もう、ぼくには何と言ったらいいか分からない。十余年の末に劇薬と化した執着を開示するべきなのか。それに、とうとうしっぽを掴まれたこの日溜まりの思いは、まだ正体も知らないから告げようもない。いや、適切な言葉を用意できなくたって、言葉にした方がいいんだ。分かっている。じゃないと、ぼくらは何度でもすれ違う。
だから、必死に言葉をを探したのに、体裁を整える前に心が身体をつき動かして。気づけば、御剣を抱きしめて、その唇に口付けていた。
「髪を乾かすのではなかったのか」
首筋に、微笑んだ吐息を感じた。背に腕が回され、抱き返された。
それでようやく、見つかった。
「何度だってお姫様みたいに乾かしてやるよ。タオル、いただくからさ」
今では不本意ながら、おまえをくるむなら、温かく、柔らかいものを選びたい。そして、それを伝えたい。すなわち。
「ぼく、おまえを愛してるんだ」
「はは、だろうな」