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    asatokiru

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    asatokiru

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    溶ける犬歯 そういえば、人間には犬歯というものが生えていたのだった。さすが肉を食いちぎるための歯だ、実際立派に尖っているのだな。
     絡められるがままにぐるりと舌を動かして、成歩堂の犬歯に触れたとき、そう思った。

    「っグ」

     少し息苦しくなってきた。息継ぎを試みたのだが、変に力んでしまったようで間抜けに喉が鳴る。構わず成歩堂は私の口蓋を舐めるので、仕方なく、なんとなく、舌を絡めてみる。
     どこか遠い出来事のような気がしている。舌と舌が触れる感触も、粘着質な水音も、頬に添えられた手のひらの熱さも、固く瞑った瞼のすぐ向こうに成歩堂がいるのも、現在進行形の事実のはずなのに。全ての刺激が脳にたどり着いた上で、未処理のまま宙吊りになっている。圧され気味の上体を支える両腕の痺れと、手のひらに感じるソファカバーの感触だけがリアルだ。端的に言って、「口内の粘膜を擦り合わせる」以上の何かを感じられない。
     この行為が世に言う「ディープキス」であることも、それには快感を伴うということも理解している。啄むような口付けの後、成歩堂から「くち、開けて」と囁かれたときも「これから、ディープキスというのをやるのだ」と予見できた。しかし、結果はどうだ。洋画で目にするアレは、甘やかな声を漏らし、快楽に身をよじるアレは誇張表現だったのか。
     裏切りたくない。何が正しい? どうすれば、きちんとできる?

    「ッ、あ」

     すっかり思案に没頭していたようで、不意に酸欠が訪れる。腕から力が抜けて、あわや背中からソファに墜落——といったところで成歩堂に支えられた。

    「ゴメン、大丈夫?」

     目が合う。
     が、その丸い瞳に見透かされる訳にはいかないので、直ちに顔を逸らした。
    恐らく、私はいま酷く白けた面構えをしている。顔を伏せていれば、恥じらいに染る頬を隠すいじらしい振る舞いにでも映るかもしれない。
     支える腕に優しくソファに横たえられる。

    「すまない」

     ああ、しまったと思った。謝罪の言葉につられて、隠すつもりだった後ろめたさが語尾に滲んだ。成歩堂は、私の感情の機微に聡い。

    「御剣?」

     案の定、心配と焦りの色を帯びた声が降ってくる。
     「大丈夫だ」と薄く笑うべきだったのに。彼と交際をはじめて以来、言葉選びを誤ってばかりである。言葉だけではない。声色、表情、距離感。関節ひとつ分指先を近づけることすら私には上手く出来ない。一挙一動をぎこちなく吟味して、それなのに、いや寧ろそのゆえなのか間違える。
     ソファの背もたれが額に触れる。近すぎて焦点は合わない。年季が入っているためか、ひび割れがあるのがぼんやりと見える。

    「ごめん、みつるぎ」
    「なぜ、キミが」

     謝るのだ、と乾いた笑みと共に吐き出そうとした言葉が、成歩堂によって制される。

    「だって、御剣。きもちよくなかったんだろ」

     あからさまに動揺してしまう。背筋が引き攣った瞬間も、きっと捉えられている。

    「そのようなことはない」

     硬いトーンで、肩越しにそう返した。この男に全て看破されているのだとしても、そう返す他なかった。

    「私が悪いだけだ」
    「いや、どうして……」
    「私がダメなのだ」
    「だから、お前のどこが悪いっていうんだよ」
    「それは」

     一般的に、こういった場において口付けに悦べないのは裏切りで、かといって演技をしてしまうのも不義理にあたるのだろう。性的な意味を孕んだ接触に嫌悪感を抱いているわけではいないし、成歩堂のことだって勿論好ましく思っている。この事態の原因は私にあるのだ。
     口篭っていると、成歩堂は長く息を吐いた。一層居た堪れなくなり、肩を縮める。
     外から車の走り過ぎる音が聞こえる。さーっ、さーっ、と。夜の音だ。

    「じゃあ、悪い」

     と言い切った声は、場違いに拗ねたような響きだった。———納得のいかない子どもが「もういい」とだけ言って不機嫌を引きずるときのあの、響き。
     違和感を抱いて顔を上げると、成歩堂は真っ赤な顔をしていた。額に右手を押し当てて、落ち着かない瞳で私を見下ろしている。

    「御剣も悪い。でもぼくが悪い」
     
     私から謝りはしても、成歩堂から謝られるのは釈然としない。不思議そうにしている私を一瞥して、成歩堂はさらに忌々しそうに眉を歪める。

    「がっついちゃったんだよ」

     「ちくしょう」が語尾につきそうな語調で言い捨てると、よく動く表情筋を両手で覆った。

    「それは、その。どういった意味だろうか」

     成歩堂は荒れてはいるが、その矛先は私にではなく、成歩堂自身に向かっている。それだけはわかった。予想外の展開で呆気に取られていたが、焦ったさが勝ってきて、肘掛を後ろ手に掴んで身を起こす。
     成歩堂はくぐもった声で応える。

    「……御剣に触れられるのが嬉しくて。お前の様子も顧みずに、夢中になってキスしてしまったってこと。いい大人がだよ。ああ、ホントにもう」

     恥ずかしい、と。
     指の隙間から、小さくそう聞こえた。
     
    「そう、か」

     成歩堂の言葉を反芻する。嬉しい。恥ずかしい。その度に心臓が脈博って、血の通う心地がする。
     私だってそうだった。カウンター席で肩が触れれば近くに居ることを許されたような気がして、手土産を奪われ空いた手を無言で取られた帰路は彼との関係の変化を実感して、嬉しかった。しかし、いつのまにか正しい反応を探って、演ってみせることばかりに躍起になって。
     気持ちをありのまま開示するのは、難しい。それを成歩堂はしてくれた。
     ならば繕ってばかりいないで、彼に報いたい。水底に閃く小石を見つけたときのように、そんな気持ちを拾い上げた瞬間。今日はじめて、ひとりでに、素直な言葉が零れた。

    「私も同じだ。それで、緊張してしまった」

     成歩堂の中指がぴくっと跳ねる。ややあって、表情を覆い隠していた指が躊躇いがちに解かれる。落ち着いてはいるものの、頬に紅の名残があった。私は、今まさに熱を耳先まで拡げる様を晒しているわけだが。

    「御剣はなにもかもはじめてだ」

     「だから仕方がないだろ」と暗に庇ってくれている。
     そう、私にとっては恋愛的なものとして位置づけられる全ての行為が未知だ。恋人がいたことがなければ、懸想した相手もいなかった。正直なところ、成歩堂への好意的な感情が世間一般でいうところの恋愛感情に合致するのか否か、私には判らないし、成歩堂から向けられているそれに関しても同様である。だからこそ、コレを恋愛と呼ぶと決めたからには、きちんとキスを成立させて、証明せねばならなかった。

    「その顔だよ」
    「んぐ」

     急に成歩堂に頬を包まれ、いつの間にか落ちていた視線ごと引き上げられる。

    「強いていうなら、その顔をするのがよくないよ、御剣は」

     不貞腐れたように言って、私の口角のあたりをぐりぐりと指圧する。グゥと唸って抗ったら「いい顔になった」と満足げに手を離された。彼もまた普段のさっぱりとした顔に戻っている。

    「……私はどのような顔をしていたのだ」
    「きちんと、正しく、適切にやらなくてはいけない、って義務感に満ちた顔」

     成歩堂は歯痒そうに片方の眦を歪ませる。

    「結局、そんな顔をさせたぼくが悪いと思うよ」
    「キミが全ての責任を負う道理はないだろう」

     すぐさま言い返すと、肩をさすって宥められた。

    「ごめんごめん。そうだった、撤回します。ぼくも御剣も悪いんだったね」
    「なんだね、その言い方は」

     それでは私が駄々を捏ねているみたいではないか。先程からどっちが悪いだの、子どもっぽいやり取りをしているのは事実だが。
     眉根を寄せた私を軽い調子で躱わすと、成歩堂はどかっとソファに座り直した。

    「じゃあ、これを機に言わせてもらうけどさ。御剣は真面目すぎ」

     ものものしく人差し指を突きつけてくるので、刷り込みで反論の構えをとってしまったが、「真面目すぎ」とはおそらく先ほどの「義務感」と同様、正しい振る舞いに専心してしまう私の悪癖を指しているのだろう。ならば、何も言えまい。

    「う、ム」
    「自分のせいにしすぎ。ひとりで抱え込んで、その上抱えきれなくなったら逃げようとするのが、悪い」

     私のことを「悪い」と言い切ったその口が、たおやかに弧を描く。
     柔らかく瞑目するから、いやに丁重に眼を使うと思ったが———次に顕になった眼はこの上なく優しかった。
     その眼は余すことなく私を映そうとしている。
     映した私を、大事に、深い青が包んでいる。

    「解った?」

     ただ頷いた。
     ああ。ここまでされれば、私にも解った。彼は「悪い」ところも含めた私を、それでも愛している。そして、きっと私が正解に惑って俯いていた間も、ずっとこの眼をしていたのだ。
     見つめ合った、動けもしない。
     彼にとっては自明の心持ちがようやっと伝わったのかもしれないが、私にとっては冬の日に桜吹雪に襲われるようなファンタジックな邂逅だ。しかし、一方で腑に落ちている。ずっとこれがほしかったような気もしている。
     わたしの心境を察してか、とうとう想いの全貌が伝わったが故の照れ隠しなのか、成歩堂は不自然に調子よく喋る。

    「まあ、ぼくはちょっとばっかりニブいのがよくないよね」

     むしろ、日頃は気がつきすぎていると思う。この数ヶ月、度々暗澹たる気分に足を取られたが、彼に隠し通せたことはついぞない。どこからともなく現れて、世話を焼くなり、逆に我儘を言うなりして闇を霧散させた。決して鈍感なのではない。正しくは。

    「気持ちが高ぶると、視野狭窄に陥る」
    「悪く言えば、そういうこと。いや、悪く言うべき文脈なのか、今。もっと悪く言ってくれてもいいよ」

     私だって、成歩堂を見てきた。目を逸らしてきた手前、「余すことなく」とは胸を張って言えないけれど。成歩堂の悪いところを知っている。知っていて、選んでいる。

    「なにかにつけて、思い込みが激しい」
    「そうそう」
    「変なところで頑固」
    「その通り」
    「しつこい」
    「よくご存知で。光栄だよ」
    「たわけ」

     得意げなのが、可笑しい。
     でも確かに、欠点を並び立てるほどに愛の告白を繰り返しているみたいだった。

    「だって嬉しいんだもん。付き合いはじめてからずっと。嬉しくて、気が焦って」

     先程までの己を思い出したのか、情けない溜息を漏らす。本当に私に夢中で余裕を失っていたのだとしたら、可愛らしいものではないかと思う。

    「キミを信じきれずにいて、すまなかった」

     「謝るな」とは言われなかった。
     成歩堂は少しの間私を眺めてから、気持ちを切り替えるように伸びをする。

    「よし」

     突然ソファに寝転ぶと、大きく腕を拡げる。来い、ということらしい。

    「コッチおいで」
    「しかし、重いぞ」

     背丈もあるし、人より筋肉質な自覚がある。

    「いいから」

     渋っていると、成歩堂は腕を小さく揺らして催促してくる。根負けして、彼の胸に身を預ける形で伏せる。

    「ぐえっ、おもたい」
    「だから言ったのだ」

     かなり慎重に体重を落としたつもりだったが、無様な呻き声が聞こえてきた。直ちに身を浮かせたが、背に腕が回って、再度抱き込まれてしまう。

    「おい」

     身を捩ると、あやすようにぽんぽんと背中を叩かれた。「目、閉じて」と頭上から穏やかな声がする。もう抵抗しても仕方がないので大人しく従う。妙に安心にした気分にはなるが———このまま寝かしつけようとでもいうのか?
     私の考えていることを感じ取ったのだろう。成歩堂が小さく笑ったのが、呼吸の音で分かった。

    「大丈夫だから。ぼくの手だけに集中して。自分のことは忘れて。ぼくがいる。それだけだよ」

     成歩堂は、ひそやかに囁く。どこに触れているか、どんな感触か、温度はどうか。それだけ。 
     ———いいだろう。
     手のひらが背に触れる、繰り返し。
     皮膚がたぶん私よりも硬い。
     肉感よりも、骨っぽさを感じる。
     シャツ越しにも熱が伝わってくる。
     密着しているから、当然、暑い。
     腰を抱いていた片腕が離れて、指先が首筋に添えられる。かすめるような距離で、親指が顎のラインをなぞる。少しくすぐったい。頸動脈のあたりを一貫したリズムで触れる指がある。
     首筋に神経が集中していることを、自覚した。
     にわかに成歩堂の気配が大きく動いて———耳のすぐそばで濡れた唇の音がした。いやに頭に残響する。首筋に唇を落とされたのだと分かった。
     吸われた皮膚の下に痺れが走るような感覚がして、甘い? 触覚が、甘い。舌先にチョコレートが触れたときに似ている。繰り返されるうち、痺れが広がり、成歩堂が触れたところだけが皮膚であるかのように錯覚する。さっきより皮膚がしっとりしている気がする。私の方だろうか。境目が曖昧だ。
     唇に口付けを落とされる。やわらかい。唇を押し付けられるたび、頸のあたりまでぞわりとする。何故。瞼の裏では、じわりと瞳に膜が張っている。
     ずっと私は。彼にどう思われるかを気にしていたけれど、与えられるもの注がれるものに注目してみれば、それで感覚がいっぱいいっぱいではないか。
     どこに触れているか、どんな感触か、温度はどうか。わからなくなってきた。
     今にもこの身を手放してしまいそうで、否応なしに力の籠った手の甲を成歩堂の指がすうっと撫でる。指が伝ったところから、力が抜ける。私はもう溶けている。
     くらっとして唇が解けた瞬間、舌が入り込む。熱い。絡められるがままにぐるりと舌を動かすと、歯に擦れた。これは、犬歯だ。
     知らず知らず、薄く目を開けてしまった。
     滲んだ視野が、徐々に像を結んで。成歩堂が見える。
     彼は酷く幸せそうな顔をしていて。

    「ッ、あ」

     もう犬歯の感触は分からなかった。

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