静かな日々の階段を「これから皆さんには、ちょっと殺し合いをして貰います」
目を覚ましたそこは、見知らぬ広い板張りの部屋だった。最初の印象は、あれ、ここは演練場かな、僕は演練中に重傷を受けて意識を失いでもしたのだろうか、というものだった。
しかし、そうではないということにも直ぐに気付いた。演練ならば自分達の本丸からは六振りの刃選で事足りるのに、此処にはどうやら、僕達の本丸の刀、全員が居る。ぼんやりと座り込んでいる者、状況を把握しようと立ち上がりかけてふらつく者、まだ意識がなくて俯せになったまま動かない者。これは異常な事態だと、その光景は告げていた。そして、演練相手となるべき他本丸の刀らしき姿は、どこにも見えない。
混乱しながらきょろきょろと近くを確認すると、斜め後ろに桑名が倒れているのが目に入った。
「桑名、くわな起きて」
にじり寄って肩を揺さぶる。立ち上がろうとしたのだけれど、膝に力が入らなかった。桑名を揺さぶっている自分の腕の振動が頭に響いて目眩がする。
「…まつい?」
桑名が目を擦りながら上体を起こす。「…あれ、松井、顔色悪くない? 大丈夫?」起きるなりそう言って覗き込んでくるから、このおかしな状況の中、桑名だけはいつも通りの桑名のようで、安堵のあまり力が抜けそうになった。
「桑名、何か変なんだ…。ここ、僕達の本丸じゃない。皆、多分薬か何かで眠らされてここに集められたんだ」
桑名は訝しげに辺りを見回した。
「…何処かの本丸みたいだね。手合わせのための道場に見える。でも、長いこと使われていないみたい」
確かに、壁には刀掛けがあって木刀が並んでいる。でも自分達の本丸の道場と決定的に違う…だって此処は随分と荒れて床板には艶がなく、窓は汚れで曇って外も見えず、まるで打ち捨てられて長い長い時間が経ったような…。
「放棄された本丸…?」
桑名が呟く。
その時だった。何処からともなく、無機質な音声が響き渡ったのは。
「殺し合い…?」
まだ目眩の余韻が残っていて、俄に言葉の意味が理解出来ない。周囲の刀達も、ほとんどが目を覚まして身体を起こしはしたものの、誰もが混乱した様子で表情を硬くしている。「ちょっと、どーゆーこと!?」と声を上げたのは加州だ。今にも泣き出しそうな五虎退を囲んで、短刀達が不安げに肩を寄せ合って座っている。その後ろで一期一振が彼らを守るように油断なく気を配っている。苛ついたように立ち上がって出入口らしき扉に手を掛けてこじ開けようとしているのは同田貫と肥前か。黙って正座して空を睨んでいる石切丸と、その背後で背筋を伸ばして立っている青江。無表情のまま周囲を警戒しているらしい五月雨と、不安げな表情で彼に寄り添っている村雲。「何かの『どっきり』でしょうか?」という籠手切の囁き声に、眉間に皺を寄せた豊前が「いや、そうは思えねーな」と返す。
「殺し合い」という言葉が僕達の間に波紋を広げ、それが浸透していくのを充分に堪能するような時間を置いてから、再び謎の声が話し始めた。どうも既視感があると思ったら、これは、そう、政府からの「入電」に似ていた。
「声」の告げた内容はこうだ。
此処は「放棄された世界」の「とある本丸」であること。ここから許可なく脱出することは不可能であること。
時間遡行軍との戦いのために無秩序に増やされた本丸と野放図に際限なく励起された刀剣男士が、世界の均衡を崩してしまっているということ。そこで、時の政府は「BR法」を可決、施行し、「バトルロワイヤル」による刀剣男士の「淘汰」が行われることが決まったということ。
政府により無作為に選ばれた本丸は、放棄された世界の無人の本丸を舞台として、最後の一振りになるまで殺し合わなければならない。最後まで残った一振だけが、莫大な報酬とともに政府の監査官として召し上げられ、生涯保証される。
タイムリミットは三日間。三日を過ぎてなお残った刃数が一振りに絞られていなければ、その時点でゲームオーバーとなり、全員が破壊されるということ。
刀剣男士たる所以の刀は予め全て没収されており、このゲームにおいては使えないということ。武器はこのチュートリアルの後、一振ごとにランダムで配布されるということ。
一方的に告げられた内容は、もちろん承服できるものではなかった。道場に「巫山戯るな」「誰がやるか」と怒号が響き渡り、姿の見えない声の主に対する罵倒が口々に叫ばれた。しかし、声はこう続けた。「このバトルロワイヤルに参加しない選択をする者が一振でも存在した場合、この場で全員が刀解されます」と。
「松井、僕だよ」
見知らぬ本丸の畑の片隅に建てられた、ボロボロのトタン屋根の小屋の中で身を潜めていると、桑名がそっと忍び込んできた。僕達はしばらくの間、黙ってただ強く抱き合った。
放送により、籤で呼ばれた順に武器の支給を受けて部屋を出て行くよう指示された僕達は、畑で落ち合うことを約束した。「この本丸にもかつて僕が居たなら、きっと畑には僕の農具小屋があるはずだから、そこで」と桑名が言ったのだ。その言葉の通り、先に部屋を出ることになった僕が向かった先には、皆で使う内番の道具が納められた納屋とは別の、小さなプレハブ小屋があった。そこは見慣れた自分達の本丸のものとは違うのに、紛れもなく桑名の気配に満ちていて、一人で居ても桑名に守られているような気がしていた。
とにかく無事に合流できたことを喜びつつ、支給された袋の中を確認する。それぞれの刀によって袋の大きさが違ったのは、入っている武器の差によるものであろうと予想はしていた。
桑名がひっくり返した袋から出てきたものは、簡単な食料と筆記用具、ブロック分けが記入されたこの本丸の地図、それから…鎌。
「これが僕の武器かぁ…」
畑で使い慣れたもので良かった、と言いながら複雑そうな表情をしているのは、武器としてはかなり貧弱なものを割り当てられたこと以上に、農具を武器として使うことに抵抗があるからなのだろう。
僕も同じように袋を開ける。桑名と同じ支給品の他に、最後に袋から出てきたのは、
「ロザリオ…?」
銀の長い鎖の先に掌に収まるほどの大きさの十字架のついたそれを見た途端、頭の中が真っ赤になって、くらりと視界が揺れた。
「松井!」
次の瞬間、僕は桑名に抱き止められていた。
「…使わなくていいよ。こんなの」
静かに怒りを滲ませた声で桑名は言った。
「ここには、肥料も農薬もある。だから、作ろうと思えば爆薬も毒も手に入る。園芸鋏も、鉈だってあるしね。身を守るには充分だ」
桑名が僕を支えて、木箱に畳んだ毛布を敷いただけの簡素な腰掛けに座らせてくれた。同じものがもう一つあって、桑名もそこに腰を下ろす。
「でも、本丸の仲間と殺し合いをするなんて、馬鹿げてる。きっと何か、方法があるよ。皆で助かる方法が。僕は誰も殺したりしない。松井もそんなことしなくていい」
そう言って、桑名は僕の頬に手を伸ばした。その指先は、いつも通り少し荒れていて硬くて、でも暖かかった。僕は、厚い前髪の向こうの彼の目を真っ直ぐに見つめながらゆっくりと頷いた。
小屋の奥に小さな流しが作り付けられていて、そこに色違いのマグカップが二つ伏せられているのが見えて、それだけで、この本丸の僕達も恋仲だったのだと解った。彼らは、何処に行ってしまったのだろう。かつてこの本丸に居た皆も、降って沸いたような殺し合いに巻き込まれた果てに誰も居なくなってしまったのだろうか。ならば、此処に居た桑名と僕も、殺し合ったのだろうか。それとも。
「大丈夫、松井のことは、絶対に僕が守るよ」
そう言って、桑名は鎌を腰のベルトに挟んだ。だから心配しないで、と言うみたいに笑うから、僕もぎこちなく微笑み返した。
「じゃあ、桑名のことは、僕が守る」
戦の中で折れるなら本望だと思っていた。僕の血で業を贖えるのならば、それこそが望むところだと。
それなのに、今はこんなにも桑名と生きていたいと思うなんて、あまりにも虫が良すぎるだろうか。
「生き残ろう、皆で。でも、もしもそれが叶わないとしても、僕達は最期まで一緒にいよう」
僕は言って、桑名の手を取って、誓うようにそこに口付けた。
けれど、心の奥底では、その誓いが嘘になるかも知れないことも解っていた。桑名といたい。桑名と生きたい。でも、本当に、本当にどうしようもなく最後のときがきたら。
たとえ僕の全ての血とこの身を捧げたとしても、桑名のことだけは、絶対に死なせはしない。
僕は震える指先で摘み上げたロザリオの先の十字架を掌の中に握り込んで、その銀色の鎖を首から下げた。