命にふさわしい まだ寝ていていいよ、と桑名が言った。
薄く目を開けると、寝間着の浴衣のままの桑名が半身を起こして、松井の額髪をゆるく撫でていた。
障子窓越しに白々と差し込む朝陽の加減から、皆が起き出すまでには間があるけれど、そろそろ桑名が畑に出る頃合いだとわかる。
もう行くのか、と言いかけて、喉が引っかかって乾いた咳が出た。桑名が枕元に置いてあった水差しから湯呑みに水を注いで渡してくれる。半分ほど飲んで、「ありがとう」と湯呑みを返したけれど、その声はまだ掠れていた。
「ごめんね、昨日は」
起こした上体を抱えられてもう一度布団に横になった。心配そうな桑名の表情を見て、首を傾げる。
「松井昨日、最後は…その、気絶しちゃったでしょ?」
そう言われて、確かに昨日、コトを終えた記憶がないな、と思う。ぼんやりするのは、まだ眠いからというだけではなく、全身がけだるい重さを纏っているからであるようだ。
記憶を遡ってみる。
昨日は、…そう、出陣先の青野原で苦戦して、重傷者が出た。小夜左文字だ。彼はこの本丸の中でも極になったのが早く、戦場では最も頼りになる刀の一振りだ。自分をはじめ、未だ修業に出られない刀たちよりも練度の高い短刀は、その機動の速さで難敵を易々とあっという間に片付けてゆく。そのことに頼りすぎていたかもしれない。倒し切れなかった敵大太刀の一撃を受けて吹っ飛んだ小夜は、血を流しながらひゅうひゅうと喉を鳴らして、それでも殺意に目をぎらぎらと激らせていた。
もちろんこの本丸では重傷行軍などしない。部隊長の山姥切国広の判断ですぐに帰還して、小夜を背負って手入れ部屋に運んだのは松井だった。小夜の棒切れのように細い身体よりも、敵でも己でもない、小夜の血で赤く染まった緑色のコートの方が、耐え難く重く感じた。
短刀の手入れ時間は短いから、夜が明けるまでには全快するはずだ。松井自身も軽傷を受けたが、それも短時間の手入れで既に完治していた。
取り立てて何の問題もない、いつものこと。これが闘う刀の日常ではある。
それでも、血を流す仲間を、とりわけ、見かけの幼い小さな刀が傷つくのを見るのは辛かった。
酷く揺さぶられる。松井江という刀の在り方や、来し方や、此処に励起された意味や、そういった、自分の芯のようなものが。
小夜が松井にとって、細川で馴染みの、親しみを感じる短刀だったから、余計にそうだったのかもしれない。
夜半、手入れ部屋から自室に戻って、黙って浴衣に着替えていると、既に二組敷かれていた布団の上で、胡座をかいて本を読んでいた桑名が顔を上げてこちらを見た。
「お疲れ様。今日は、苦戦したみたいだね」
「…ああ」
言葉少なに答える。
「少し前、小夜さんがここに来て、松井にお礼を伝えて欲しいって」
「…小夜が?」
「主が札を使ってくれて、松井より早く手入れが終わったんだって。もう大丈夫だから、心配しないでください、ってさ」
「…そうか、良かった」
ほう、と安堵の息を吐いたところで、桑名が手を広げて、「おいで」と言った。
「よっぽど心配そうな顔してたんだねぇ。松井は優しいから」
「……違う、僕のは優しさなんかじゃ」
「うん、大丈夫、わかってる。でも僕は、松井は優しいと思うよ。…だけど」
躊躇ってその場に立ち尽くす松井を待たずに、桑名は布団から立ち上がると、姿見の前の松井を後ろから羽のようにふわりと抱いた。
「あんまり優しいと、擦り減っちゃうでしょ」
結びかけだった帯紐を、後ろから回された手がきゅっと蝶結びにして、次の瞬間、軽々と身体を持ち上げられた。
「だからさ、」
あまり他人に気を遣いすぎない方がいい、とか、一人で抱え込むな、とか、そんな、顕現して以来誰彼からとなく受けた忠告の言葉がまた掛けられるのを予想して、松井は桑名に抱きかかえられながら目を伏せた。
しかし、壊れ物のように布団の上に降ろされて、両腕の囲いの中で仰向けになった松井を見下ろした桑名が口にしたのは、全く違う言葉だった。
「だから、そのぶん僕が松井に優しくするね。あ、…ひどくして、っていうのは、今日はなしにして欲しいなぁ」
優しくする、という言葉の通りに、桑名の抱き方は途方もなく優しかった。苦痛のひとかけらもなく丁寧に丁寧に慣らされて、奥の奥までとろとろに蕩かされて、慈しむように何度も耳元で名前を呼ばれながら達した。
二回目を強請ったのは松井のほうからだった。
薄い被膜越しの桑名のものがずるりと抜け出ていったあとの喪失感に耐え兼ねて、もう一回、今度は避妊具なしで抱いて欲しい、とゴムを外している桑名の背中に覆い被さった。
「でも松井、今日は疲れたでしょ」
と渋る桑名に、
「優しくしてくれるって言ったのは桑名だろう、桑名のを僕の中に注いでくれ、このままじゃ、空っぽのお腹が心許なくて眠れない」
と半ば脅すように縋りついて、駄目押しに「お願い…」と上目遣いで見上げた。桑名はひとつため息を吐いて、「わかった」と応じた。
再び肉を開いて押し入ってきた、隔てるもののない桑名の熱は、松井の身体を狂喜させた。貪欲に飲み込もうとする内壁のうねりに逆らわず奥を穿つ腰に脚を絡めて、くわな、もっと、もっと、とほとんど譫言のようにあられもない声を上げて、その肩に噛み付いた。「あんまり煽らんで」と困ったように眉間に皺を寄せながらも、桑名は求めるままに与えてくれた。
注いでくれ、と強いたのは松井なのに、それを身体の奥に受け取ったあとの記憶がない。
昨夜と同じ、もしくは昨夜よりもなお優しい桑名の声に触発されるように、松井はぺたりと滑らかな自分の下腹を撫でた。そこには、意味をなすものは、何もなかった。あんなに念入りに耕して貰ったのに。
衝動的に桑名の腕を掴んだ。ふわふわと寝惚けていると思っていた松井の思いのほか強い力に驚いた桑名が、「どうしたの松井」と気遣わしげに尋ねる。
「いかないで」
絞り出された声の必死な響きにまた驚く。
松井は桑名の顔を見ずに下を向いたまま、掠れた声で歯を食いしばるように言った。
「畑に行かないでほしい、桑名が命を循環させていると思うのがつらい。……僕は桑名がいくら種を蒔いてくれても命をつくれないのに」
桑名は呆気に取られたように前髪の下の目を瞬かせた。
「何をそんなに怖がってるの」
強く掴まれた腕を、拒絶と受け取られないように、慎重にそっと解いて指を絡める。
「…何もかもが怖いんだよ」
過去も、業も、人の身も、生も、幸せだと思ってしまうことも、何もかも全てが、堪らなく怖くなるときがある。
そう言って松井は桑名の胸に顔を押し付けた。そして、ほんのしばらくの沈黙ののち、すぐに顔を上げる。
「…すまない、忘れてくれ」
吹っ切るように桑名の胸をとん、と押し返すと、桑名はその青白い手を取って暖めるように両手で包んだ。
「たとえ命そのものをつくれなくても、僕たちの間に、何も生まれない訳じゃないよ。きっと」
松井が訝しげに顔を上げる。
「……これは、僕からの『提案』、なんだけど」
考え考えゆっくりと紡がれる言葉に、首を傾げながら続きを待つ。
「何が生まれるか、僕と、試してみようか」
「何を?」
「ひとの身で、ふたりでできること、なんでもぜーんぶだよぉ」
のんびりと明るい声に、思わず笑みが零れた。結構すごいことを言われているような気がするけれど、桑名の口調には、まるで次の休みの計画でも話しているみたいに屈託がない。
「…一緒に野菜を育てよう、とか、言うんじゃないだろうね」
そんな子供騙しには騙されないぞ、と言いたげに、松井はわざとらしく横目で桑名を睨む。桑名は、もちろんそれもいいけどさ、と笑った。
「ゆっくり考えようよ。僕たちには、いくらでも時間があるんだから」
ほんとのひとよりも、永い永い時間がね、桑名はそう言って、そして、両手の中の松井の手の甲に、ちゅ、と軽い音を立てて口付けた。
「…ふ、まるで、求婚されているみたいだ」
松井が泣き笑いのようにくしゃりと表情を崩す。
「『みたい』、じゃないよぉ」
前髪の奥で、黄金色が確かにきらりと光った。
「松井知ってた? 提案って、英語では『ぷろぽーず』って言うんだって」
不意に真面目な顔に戻って、桑名は真っ直ぐに松井の目を見た。
「僕と生きよう」
咄嗟に返事ができなくて、ぽかんと口を開けて固まってしまった松井の頭を、桑名はぽんぽんと撫でた。そして、悪戯っぽく松井を布団に押し倒す。
「今日は畑に行かないけど、明日からは一緒に行こうね、松井」
松井は覆い被さってくるひなたの匂いのする首筋に、ゆっくりと腕を回した。
「…優しくすると、言ったくせに」
精一杯の憎まれ口は口付けの甘さに飲み込まれて、言いそびれた『提案』の答えは、その碧い目の中にもう浮かんでいた。