3あの日、ツバキさんが「一緒にいよう」って言ってくれたあの日から、あそこは俺にとって本当の帰る場所になった。
ツバキさん。高原で出会った不思議な人。本人曰く、異世界から来たらしい。初めは異世界というものがよくわからなかったけど、なんとなく、本当になんとなくだけど、この人は嘘をついていないっていう確信があった。根拠を聞かれたら、悔しいかな、答えを用意できる自信がない。そう思った自分の心に従った。ただ、それだけだった。
年齢は多分、俺より上。顔が少し幼いから正確な年齢はわからないけど、それをツバキさんに言ったら「女の年齢をやたらと聞くもんじゃないよ」と言われてしまったのでそれ以来聞くことはしていない。
ツバキさんは、普通に優しくて、普通にお節介で、それなりに正義感もあるし、かと思いきや大人しそうな顔に似合わず気が強く、時たま言葉の豪速球が飛んでくるのだからびっくりする。怒らせるとその豪速球が遺憾無く発揮されるから、死ぬほど怖い。よく笑い、人並みに悪ふざけもする、良くも悪くも、きっと、俺が思ってる以上に、本当に普通の女の人。
俺が知るツバキという人は、そんな人だった。
そんなツバキさんにはきょうだいがたくさんいるらしい。だからか、よく俺を子供扱いする。子供扱い、というか、弟扱い、というか。
別にそれが嫌だとか、そういうことは思っていない。むしろそれがどこか心地よく、きっと、俺に姉さんがいたらこんな感じなのかなって。
ツバキさんになら甘えてもいいって、この人ならきっと俺の我儘も許してくれるってわかってるから、俺は年甲斐もなく彼女に甘えてしまうのだ。
回生の祠で目覚めて、言われるがままハイラルを旅するようになって、まだほんの少しではあるけど記憶を取り戻して、でも全部じゃないからやっぱりわからないことの方が断然多い。
100年前の俺は、今の俺にとってはそうであったかもしれない過去の思い出の一つに過ぎない。過去の俺のことを聞く度に、今の俺とは何もかもがかけ離れていて、その差に戸惑う。かつての俺を知る人たちは今の俺に100年前の英傑の俺を重ね、俺が厄災ガノンを討伐することは、ゼルダ姫を救うことは当然であると、口でははっきりと言わないが言外にそう言われているのがわかってしまう。
だからこそ、100年前の俺を知らないからってのもあるのだろうけど、それでも、退魔の騎士でも勇者でも英傑でもない、俺をただの、他の誰でもないただのリンクとして、時に弟のように接してくれるツバキさんの傍が、泣きたくなるくらいひどく心地のいい、どうしようもなく俺にとっての帰りたい場所なのだ。
もう少しもしない内に茜空が常闇の帳に飲まれる頃、俺は四日ぶりにハテノ村へ帰ってきた。
本当はもっと早く戻ってくるつもりだったけど、ゲルドでの用事が思いのほか長引いてしまったのだ。
外に出歩いてる人は疎ら。時折すれ違う顔見知りの村人たちに挨拶をしながらあの人が待つ家へと急ぐ。歩きから早歩き、そして、屋根がちらりと見えたあたりから気付けば駆け足に変わる。もうすぐツバキさんが待つ家に着くと思うと自然に口角が上がったところで、ふと気付く。家に明かりがついていなかった。
「いつもこの時間なら帰ってるのに…」
ツバキさんにもらった合鍵をドアに差し込み、がちゃりと回す。「ツバキさん?」しん、と静まり返った暗い部屋の中に俺の声だけが虚しく木霊した。
いつもなら、ドアを開けたと同時に料理の匂いがする。いつもなら、ドアを開けた音に気付いたツバキさんが「おかえり」って声をかけてくれる。いつもなら、いつもなら、いつもなら。いつの間にか俺の中で当たり前になっていた"いつもなら"がない今日に違和感と物足りなさと、そして、ほんの少しの不安。
もしかしたら、仕事が終わってなくてまだトンプー亭にいるのかもしれない。胸の奥底にほんのり燻る焦燥感に気付かないふりをして、一通りの荷物や武器を置いて再び外に繰り出す。
さっきまで空の端っこに申し訳程度にいた茜色がすっかり夜に飲まれてしまっている。外を歩く人はもういない。それぞれの家の中から家族団欒の声がうっすらと聞こえてくるだけ。それだけのことなのに、妙に物寂しさを感じながら一人、トンプー亭へと続く夜道を歩く。
遠目からでもわかる、トンプー亭の煌々とした明かり。近くまで来たところでよくやく気付く。今日は珍しく賑わっているようだった。
「あら、リンクくん。いらっしゃい」
そぉっとドアを開けたのにも関わらず、いの一番に開閉に気付いたツキミさんはさすがというかなんというか。こっそり覗くだけのつもりだったのに、こうも見事にバレてしまえばその意味はない。ため息を一つ。開けたドアの隙間から素早く身を滑り込ませた。
「珍しく人が多いですね」
いつもは日に一人か二人程度が滞在するだけだったのに、今日は客が五人もいる。食堂のようにもなってる共有スペースでテーブルを囲った五人は、酒が入っているのだろう、顔を赤くしながら各々喋り倒している。「珍しくは余計だっての」じろり、とツキミさんに横目で睨まれて、肩を竦めてみせた。
「ツバキよね。ごめんね、本当ならもう帰ってもらう時間だったんだけど、間際に五人も来たから手伝ってもらってたのよ。そしたらさぁ…」
はぁ、と不機嫌を隠そうともせずに息を吐くツキミさんが睨め付ける方向に目を向ける。そこには、すっかり出来上がった男に腕を掴まれ、今にも舌打ちを飛ばしそうな形相のツバキさんがいた。
「あの人、ツバキを気に入ったのか知らないけど、さっきからずーーっとあんな感じで延々と喋り続けてんの。ツバキ自身、仕事中だからまだグーパン出てないけど、まぁ、時間の問題よね」
「帰らせてあげたいんだけどねぇ…」心底でかいため息を吐きながら言うツキミさんの言葉が、あまり頭に入ってこなかった。
今まで特に何も思わなかったのは、俺自身がその場面に遭遇することがあまりなかったからか、それとも、ツバキさんにそういう風に接する人が、あるいはそういう目で見る人がこの村にいなかったからか。腹の奥底からなんとなくもやりとした黒いものが燻ったような気がした。
「(嫌だなぁ…)」
呆然とした。少なくとも、そう思ってしまってる自分がいることに。
ツバキさんが色んな人と関わりを持つことは喜ばしいことのはずなのに。何に対しての嫌だ、なのだろう。多分これは、そう、きっとあれだ。姉のように慕う人を友達に取られたような、母親を兄弟に独占された時のような、なんかきっと、そういうあれなのだ。
「ツバキさん」
なんて、頭の中でつらつらと並べたものの、気付いたら、するり、と背後からツバキさんの腹に片腕を回し、髪に頬を寄せていた。もう片方の手でさりげなくツバキさんの腕を握りこんだ男の腕を剥がし、きゅ、と俺より幾ばくか小さい体を抱き込んだ。
「びっ……くりした…リンクくんか…誰かと思った」
「そうだよ。ツバキさんの大好きなリンクくんでした」
「今なんかよくわからないことが聞こえた気がするんだけど」
「気のせいじゃない?」
「…そういうことにしとく」
「そうして。…家に帰っても明かりがついてなかったから、心配した」
「迎えに来てくれてんだ。ごめんね、もう少し早く帰れる予定だったんだけど…」
「君、急に何?てか、誰?今こっちがツバキちゃんと喋ってたのに、横槍入れるとか野暮すぎ」
困ったように俺の頭を撫でてくれるツバキさんの優しい手を甘受していると、さっきまでツバキさんの腕を掴んでいた男が俺に気付き、睨みつけてきた。横槍野暮なのはどっちだよ。
「急も何も、この人の帰りが遅かったから迎えに来ただけですが」
「はぁ?」
「俺の家族を迎えに来た。それだけですよ」
それ以上の有無を言わせないようまだ食い下がってくる男を一瞥すれば、さっきまで酒で赤くしていた顔をさっと青ざめさせ、そそくさと仲間の輪の中へ戻って行った。なんだそりゃ。
まぁでも、ツバキさんが怪我とかしてなくてよかった。掴まれてた手首は少し赤くなってるけど、冷やせば大丈夫そうだ。
今までツバキさんがあいつに悪絡みされて帰れなかったのなら、解放された今、特に仕事が残ってなければ連れて帰っても問題はないだろうか。
ツキミさんに二、三程言葉を交わし、無事にツバキさんの帰宅許可をもらったので彼女の荷物を持ってトンプー亭を出る。帰り際に「やるねぇリンクくん。でも、すんごい顔してたね」とツキミさんに言われ、疑問符を飛ばしていると「無自覚か〜」となんだか微笑ましい顔で見送られてしまった。
「リンクくん」
いつの間にか、すっかり月が登りきっていた。本当だったら、今頃ツバキさんが作ってくれたご飯を食べ終わって、一緒に食器を片付けたり、ゆっくり話をしたりしてのんびり過ごしてる時間だったのに。
「おーい、リンクくーん」
全く、あいつのせいでとんだ時間を食ってしまった。
ツバキさんの手を引いてさっきの男への恨みつらみを胸中で吐きながら歩いてると、不意に背後から押し殺すような笑い声が聞こえた。それが聞こえたと同時に、自分でもわかるくらいぶす、と唇を尖らせながら振り返る。手で口元を押さえて笑いを堪えるツバキさんが、肩を震わせて笑っていた。全然堪えれてないし。
「…何」
「ふッ…ふふふ…ッ、いや、なんでもない…ふふッ」
「そんだけ笑っててなんでもないはないでしょ」
「ん、そうだね。…ふッ」
「もー!笑いすぎ!」
いつまで経っても笑い続けるツバキさんからそっぽを向く。「ごめんって」なんて言うけど、顔はまだ笑ってる。いつもそうだ。
「心配しなくとも、さっきの人は君が思ってるようなものじゃないよ」
「……なんのこと?」
「わかりやすいな。…きっと私の丸い耳が物珍しかったから絡んできただけだよ」
滲む涙を指で拭いながら「君も案外子供っぽいところもあるんだね」なんて言う。そうだよ、俺は周りが思ってる以上に子供だし、あなたの前ではよりそれが顕著になるんだよ。知らないだろ。
「…悪い?」
「いいや、むしろ安心した」
ようやく笑いが収まったのか、目尻を柔らかくさせたツバキさんがまた俺の頭を撫でる。
ほら、すぐそうやって俺を甘やかす。俺の我儘を簡単に許してしまう。あなたのその優しさが俺をつけあがらせてるなんて、きっと夢にも思ってないんだろう。
でも、例えそれをあなたが知ったとしても、変わらずあなたは俺を許してくれるんだろうな。
「私のこと、家族って言ってくれてありがとう」
ゆらゆら、俺が握り込む手を揺らしながらツバキさんは小さく笑う。
俺は、ツバキさんと家族になりたいのだろうか。それとも、家族でありたいのだろうか。正直、わからない。言葉は似てるが、意味はまるっきり違う。でも、俺がツバキさんのことを家族のように思ってることは本心だ。
黙りこくった俺の顔を不思議そうに覗き込んでくるツバキさんに、なりを潜めていた言いようのない感情がもたげそうになって、蓋をした。
「おなか、すいてる?」
「…すいてる」
「じゃあ、帰ったらご飯の準備しようか」
「料理鍋使ったら便利だよ」
「そうなんだけど、便利ってわかってても、やっぱり一から料理を作るのが好きなんだよね。リンクくんは私の料理、好きじゃない?」
「その聞き方はずるい…わかってるくせに」
「まぁね」
今度は声をあげてツバキさんは笑った。「手伝ってね」そう言うツバキさんの手を、肯定する代わりに軽く引いて足早に歩く。
家の明かりがつくまで、あともう少し。腹の底に燻るものも、今だけは知らないふりをしていたい。まだこのまま、もう少しこの人の小さな手の温もりを感じていたいのだ。