ひとくち、いいですか? 鼻先で鳥の串焼きが揺れている。鳥肉の油の香ばしい香りと、香草の爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。まだ湯気を上げている肉の表面の、てりてりとした焼き色が視覚にもおいしそうだ。これがセレストの好物であることを、目の前の二人は知っている筈であった。
(これは、私が食べてもいいのかしら……?)
セレストはちらっと視線を前にやった。
「ギャメル~、ひとくちくれよ」
「自分で買えよな。それくらいの小遣いは持ってきてんだろ」
「手が塞がっちまってるんだよ。見りゃ分かんだろ」
マンドランが、両手に抱えきれないほどのリンゴの入った紙袋を、これ見よがしに大事そうに持ち直す。ギャメルがひょいっと片眉を上げるのが、彼の肩越しにも分かった。
「そんなに欲張って買うからだぜ。自分で持ち切れる分だけにしろよな。だいたいお前は昔っからそうだ……」
目の前の男たちは、やくたいもない言い争いをしているが、それは祭りの賑やかな喧噪にまぎれてとても楽し気に聞こえた。
アレインの戴冠式は、グランコリヌ城下町を挙げての大賑わいだった。町の大通りには様々な屋台が軒を連ね、頭上には色とりどりの飾りがひらめく。周囲からは、甘い綿菓子の匂いや、どこかから漂う香辛料の刺激的な香りが混じり合い、祭りの活気を伝えていた。商人たちの呼び声、はしゃいで駆け回る子供たちの笑い声が、気持ちを浮き立たせる。
「うまいリンゴだったんだよ。妹さん、元気になったんだろ?また前みたいに、三人で食おうぜ」
「たく、しかたねえな。ひとくちだけだぜ」
どこか甘えた風のマンドランに、早々にギャメルが折れた。いかにも仕方なさそうな口ぶりだが、その表情は言葉と裏腹にずいぶん機嫌が良さそうだ。
ギャメルが左手に持つ完熟蜜リンゴのリンゴ飴に、マンドランが顔を寄せて行儀悪くかぶりついた。
(いいなあ)
その言葉は、水中からあぶくが浮かぶように胸の中に浮かんできた。
二人の様子は、いかにも仲が良さそうに見えた。
なるほどグリフォンが相手でも、手ずから食べ物を食べるというのは、親愛の表現である。人間が相手でも、きっとそれが成立するのかもしれない。
(お友達なら、きっとこのくらいは当たり前なんですね!)
それなら、私とギャメルさんは、そろそろそれが許されても良い間柄なのではないだろうか?
セレストは内心でふんす!と鼻を鳴らすと、マンドランを見習い、思い切ってあぐりと串の先にかじりついたのだった。
(おいしい!)
爽やかな香草の香りが鼻を抜け、まだ温かい鳥の脂の甘みが、口の中に広がる。思わずうっとりと目を閉じていた。
不意に周りの音が遠ざかったような気がして、不思議に思って目を開けると、目の前のギャメルが凍り付いたように動きを止めている。
(……またやってしまった!)
口の中から味が消える。代わりに、じんわりと苦い後悔の味が広がった。
昔から、人付き合いが下手な自覚があった。親しくしようと思うと近付きすぎて気味悪がられる。そうかと思えば、今度は距離を置きすぎて、冷たいと人が離れていくのだ。その度に、自分はまた、間違ったのだろうかと、忸怩たる思いをしてきた。
今度こそ、ギャメルさんたちとは、もっと自然な距離で、心を通わせたいと思っていたのに。また、失敗してしまったのだろうか。
(きっと、まだ、近すぎたんだ)
首をすくめて、ギャメルとマンドランを上目遣いに見上げる
白い顔をいっそう青ざめさせたギャメルと目があった 。硬直した顔の中で、そこだけがせわしなくキョロキョロと動き回っていた目が、串を握る自身の手を見やり、肉の欠けた串の先端を見やり、次いでセレストの唇に視線が触れる。唇は鳥の油でてらてらとしていた。急にそれが恥ずかしく思えて、思わず舌で舐め取る。
その瞬間、ギャメルが熱いものに触れたかのように、がばっと顔ごと目をそらした。心臓がきゅっとすくむ。
人の食べ物を食べたりなんかして、意地汚かっただろうか?それとも、はしたなかっただろうか?
でも、マンドランさんは、それを許されているのに。
たらり、リンゴ飴の蜜がギャメルの腕に垂れるのが視界のはしに映った。急いで顔を寄せたマンドランが、犬のように舌を出して、べろりとそれを舐める。
ぎゃあ!と、ギャメルが素っ頓狂な悲鳴を上げた。凍り付いた時間が溶ける。リンゴ飴と鳥串とで両手の塞がっているギャメルが、げしっ!とマンドランのむこうずねを蹴飛ばした。
「お前のせいで、セレスト嬢が変なこと覚えちまったじゃねえか!」
「だってよー、零れちまったら、もったいねえじゃねえか」
「そこじゃねえよ!」
いつになく大声を出すギャメルの声が、耳を素通りしていく。
「お二人が仲良さそうで、うらやましくって……」
ぽつりと落ちた自分の声が、思ったより寂しそうに響いたことに、セレストは自分で少しびっくりした。短い沈黙が落ちた。ギャメルとマンドランが顔を見合わせる。その間、わずか数秒。しかしセレストには、それが永遠のように長く感じられた。
「そういう時はさ、いきなりかじりつくんじゃなくて、先に言うことがあるだろ?」
マンドランがそう言って片目をつぶって見せる。そうだ。先ほど、マンドランさんはなんと言っていたっけ?
「その……」
知らず、両手がスカートを握りしめていた。次の一言を口に出すには、少し勇気が必要だった。初めてグリフォンの背にまたがった時と同じだ。えいや!と心の中で拳を握る。きっと、その先にはちょっと素敵な景色が見えるはずだ。
「ひとくち、いいですか?」
ギャメルが右手に鳥の串焼き、左手にリンゴ飴を持ったまま、小さく呻いて天を仰いだ。彼は少しの間、視線をさまよわせた後、観念したように小さく頷いた。
「……いいぜ」
ギャメルがぎこちない動作で串を差し出す。食べやすいように角度を付けて差し出された鳥串に、食べる前から、心がふわっと軽くなる心地がした。
思い切って一口食べると、口の中で広がる肉汁の旨味と、香草の爽やかさが渾然一体となり、光の粒がぱっと舞ったようだった。
差し出された串から一口食べた鳥肉は、最初の一口よりも、もっとずっと美味しい気がした。
了