劣情を宿した男 ――何をされるかわかっていた筈なのに、体はピクリとも動かなかった。
いつもの喧嘩。いつもの取っ組み合い。胸倉を掴まれたのを感じた途端、咄嗟に文次郎も留三郎のそれを掴んだ事は覚えている。空いていた片手に力を込め、整った顔立ちの男の頬へと、それを喰らわせてやろうと拳を作ったことも鮮明だった。だが、留三郎の闘志に燃えているであろう瞳を見つめた瞬間、文次郎の本能は警鐘を鳴らす。
闘志と共に見えるのは、別の色が紛れ込んだそれ。普段はこの男の奥深くに眠っているというのに、今では文次郎の目にもはっきりと映りこんでしまい、嫌でも自覚してしまう。
――色欲に似た、熱を孕んだ瞳。
この男の眼から時々チラつくその色に、文次郎は気付いていた。日々の喧嘩や勝負の時、己を真っすぐ見据えている際に現れる淡い劣情。じりじりと文次郎の身を焦がし、その上、心にさえ軽く火傷を負わせようとしてくる熱烈な視線に気付かない訳がない。だが、いくらその色を垣間見たとしても、文次郎は一度も指摘することはなかった。嫌な眼だと思いながらも、ましてやこの男の感情を知りながらも、文次郎は気付かないふりをした。いずれは忍びとなる身。道を違える身。更には男同士であり、犬猿の間柄だ。この男から向けられた感情を知ったところで、文次郎にはどうすることもできない。
――それなのに、なぜ俺は……動けなかったのだろう。
普段は淡く揺れる欲に塗れたそれが、あまりにも色濃く見えたからだろうか。その色に驚きながらも、ゆっくりと近付いてくる男の顔が、あまりにも必死だったからだろうか。この男が何をしようとしているのか明確にわかっていた筈なのに、まるでその瞳に魅せられ、引き込まれてしまったかのように動けなかった。
――動け、動け……っ。この手を振り払え。振り払わないと……っ。
「っ……ん、ぅ」
そう何度も頭の中で命じた念は、到頭最後まで文次郎の手足に行き届くことはなかった。
徐に近付いてきた唇が己のものと触れてしまえば、微かな接触でも体はビクッと跳ね上がり、留三郎の唇の感触に全神経を集中させてしまう。まるで、留三郎の温もりを体が覚えたがっているかのような感覚に、文次郎は動揺を隠せない。
一度ゆっくりと離され、文句を告げる間もなくまた重なる。唇同士が柔く触れているだけだというのに、脳までも痺れて蕩けてしまいそうな感触。体がピクピクと震え出し、その指先が留三郎の胸元へと皺を寄せる。このまま突き飛ばしてしまえば良い筈なのに、全く力が入らない。やめろ、と歯を立ててしまえば楽だとわかっているのに、体は縄で縛られているかのように動く気配はなく、どこまでも留三郎の柔く熱い感触を、敏感に感じ取ってしまうばかりだった。
やっと離れていった時には、文次郎の思考は覚束なくなっていた。呼吸が足りていないのか、くらくらと眩暈さえ覚える。そのせいか、言葉を発することも億劫だった。
なにしやがる、と強く睨みつけてやりたいのに、その言葉ですらも出てこない。それもそうである。この男が何をしようとしていたのかなんて、全てわかっていたのだから。
「――なんで、振り払わなかった?」
沈黙を破ったのは留三郎の方だった。先程まで喧嘩をして煩く騒いでいた口が嘘のように、今は静かに言葉を紡いでいる。見てはならぬというのに留三郎の瞳を再度捉えてしまえば、まだあの色が薄まっていないことに気付き、文次郎は密かに狼狽した。
「っ……体が、動かなかっただけだ」
「何をされるのかわかっていただろう。どうして逃げなかった」
「だ、だから言っているだろうが。体が……っ」
「文次郎――」
胸倉を掴まれていた手が頬へと伸び、言い訳を考えようと彷徨っていた瞳を無理矢理この男の元へと引き戻される。欲に濡れた瞳のままだというのに、その表情はひどく不安げで、その想いが文次郎にまで伝染した。
「……嫌だったか?」
「そ、んなの……っ、嫌に決まってんだろうが」
「そんな顔をしておいてよく言う……」
「なん、だと……?」
「ずっと隠していくつもりだったのに、お前がそんな眼をするから俺は……」
留三郎が何を言っているのか、文次郎には理解ができなかった。ぐるぐると煮え滾る視界と脳が邪魔をして冷静な思考が回らない。
――それではまるで、俺が留三郎と口を吸いたがっていたようではないか。それだけではない。それだけではなくて、まるで俺が……――
「お前もさっさと俺が好きだって認めろよ」
「っ……!?」
留三郎の言葉を呑み込んだ途端、心臓がビクッと大きく跳ね上がり、ドッと勢いを増して鳴り響いた気がした。この反応はまるで、正鵠を射られたような――隠し通してきたものに直接触れられてしまった時のような、そんな反応に酷似している。
――そんなことは、有り得ない。こいつが勝手に俺の事が好きなだけで……俺は別にこいつのことなんか……っ。
文次郎の反論を塞き止めるように、留三郎が腕を回してきた。ギュッと抱き寄せられてしまえば、心が、体が、勝手に歓喜に酔いしれる。文次郎の知らないところで、自身の身体が勝手な反応を示してしまう。
「は、離せっ……! 違う……っ、何を勘違いしていやがる! 俺はお前のことなんか少しも――」
「俺を振り払えない理由をちゃんと説明できるのか?」
「だから、ただ……」
「ただ……?」
「……体が、動かなかっただけだと、何度も言ってるだろう」
「……強情」
「嘘じゃない」
「体が動かなくなるくらい、俺のことが好きなのか?」
「っ、違う」
「俺を見ただけで劣情を忍ばせるほど、お前の瞳は素直なのに?」
留三郎の這うような言葉を聞いた途端、文次郎はハッとした。
この男と同じ瞳を自分は晒していたというのか。あんなにもわかりやすく、あんなにも熱い瞳を自身の知らぬ間に留三郎に浴びせていたというのか。
そんな事はない、と必死で否定をする自身がいる反面、訳のわからぬ熱が顔に集中するのを感じてしまい、なんともいえない羞恥の念に襲われる。
「動けないなら丁度いい。俺の都合の良いように捉えるぞ」
何を勝手なことを――と文句を吐きたいのに、唇をまた奪われてしまえば、それももう叶わない。
こんな事をされているのに、なぜか体は動かないままだ。動けないのなら一層のこと、開き直ってこの男を味わってしまえば良いのだろうか。留三郎の視線に絡めとられてしまえばしまうほど、体から力が抜けていってしまうのだから。
――俺もお前と同じだなんて、断固として認めない。認めはしないが、今だけは……。
振り払えない腕を言い訳に、今だけは留三郎の腕の中に収まって、与え続けられる熱情をひたすらに受け入れることとする。
互いの熱だけが確かなものとなり、重なり合った二人の影がその想いに比例するかのように色濃く揺れた。