罠「――おい、文次郎!」
い組の部屋の扉を勢いよく開け放ち、否応なしに部屋へと入ってきた男を見やれば、その男がどれほど怒り狂っているかなど、仙蔵は嫌でも把握した。
そこには用具委員会委員長の男が眉間に皺を寄せ、吊り上がった三白眼をより一層鋭くさせながら同室を睨んでいる。
「正門付近の塀が破損していた! お前が壊したんだろう!」
その言葉を聞いてしまえば、突然現れた男が何を怒っているのか、仙蔵は容易に想像がついてしまう。
文次郎は、うまくいかないことがあれば所構わず頭突きをする男だ。その光景を仙蔵は何度見てきたか知らない。先程行われた授業で実力を発揮できなかった文次郎が、己の不甲斐なさに苛立って悪癖なそれを披露してもおかしくはない。よくあることだと話を片付けてしまいたいところだが、用具委員会からしたらそうはいかないのだろう。当の本人の胸倉を掴んでは、目を爛々とさせている。
「いきなり部屋に入ってきたかと思えば、言いがかりか! 俺がやったという証拠はないだろう!」
「いいや! あの形、大きさ、与えられた衝撃の角度からして、お前の頭突きに間違いない! 今までどれほどお前が壊してきた塀を直してきたと思ってんだ!」
嘘でも吐いて免れようとした文次郎は、あっと言う間に留三郎に事実を見破られてしまい、微かに動揺している。もっとうまい言い訳を考えておけば良いものを、詰めが甘い奴だと溜息を吐く他ない。尤も、何故そうしなかったのかの見当も仙蔵はついているのだが――。
「まったく……騒々しいぞ」
同室として、一応口は挟む。文次郎の部屋でもあるが、ここは仙蔵の部屋でもあるのだ。そして、きっと今の今まで文次郎のことしか目に入っていなかったであろう男を、少しでも冷静にさせてやる為に、仙蔵は聞こえるようにもう一度盛大に息を吐く。だが、それを掻き消すかのように、留三郎は声を張り上げるのを止めようとはしなかった。
「これが苛立たずにはいられるか仙蔵! 塀を壊したのは明らかにこいつだというのに、それを俺が許すとでも思っているのか!」
お前の為を思って言っているのだが――などとは留三郎には言ってやらない。留三郎がこちらに視線を寄越してからというもの、文次郎の目が仙蔵に言うのだ。
――要らぬことは言うなよ、と。
こんな面倒なことに口出しをするつもりなど毛頭ないというのに、文次郎は仙蔵に目だけで釘を刺してくる。全く以て、傍迷惑な奴らだと思わざるを得ない。
「……そうだな。それならば存分にお前の怒りとやらを文次郎にぶつけると良い。私はお前たちの邪魔にならぬよう、風呂にでも入ってくるとしよう」
まるで面倒事から逃げるように腰を上げれば、あからさまな視線とかち合った。その瞳を見た瞬間、シュッ、シュンと音がする。
い組だけで使っている矢羽音だ。留三郎には聞かれたくない内容が、仙蔵だけに伝えられる。
『悪いが、ゆっくり帰って来てくれ』
こんな事を文次郎が言っているのだと知ったら、留三郎はどう反応するのだろう。
全てこの男の掌の上だということに気付きもしないで、己の中に芽生えてしまった怒りを発散させることに今は重きを置いてしまっている。
文次郎が本気で塀のことを誤魔化したいというのなら、もっと都合の良い言い訳を何通りも考えていた筈だ。留三郎に納得させるような理由をいくつも考えられる筈なのだ。なのに、それをしなかったということは、それ自体が罠なのだろう。
留三郎は誘き寄せられたのだ。この男に。そして、喧嘩になるように仕向けられた。この部屋に滞在させる為に。
仙蔵はそれらを全て悟ってしまうほど、文次郎の中に確かに存在する想いを知っている。そして、与えられる張本人はそれには全く気付いていない。
面倒極まりない。もっと素直に留三郎への好意を伝えてくれていたのなら、こんなことに巻き込まれなくて済むというものだ。増して、「文次郎からは誘ってくれないんだ。……色々と」などという見当違いな相談など、受けることなどないというのに。
『暫くは戻らん』
それだけ矢羽音で伝えれば、あとは文次郎が好きにするだろう。誘き寄せた獲物を煮るなり焼くなり、何なりと。
これでまた暫くは雨が降るのだろうと思うだけで、火器火薬を得意とする自分にとっては不都合な時間が訪れる訳だが、それでも尚、あの二人に協力してやろうという気になるのだから、不思議なものだと仙蔵は思う。
鮮やかに色づいた夕焼けが姿を消し、次第に雲行きが怪しくなっていく。その光景をやれやれと見届けながらも、仙蔵はゆっくりとした足取りで風呂場へと向かうのだった。