② 自分自身を信じてみるだけでいい。きっと生きる道が見えてくる side SAMATOKI
夢を見た。夢だと分かったのは自分自身を見つめていたからだ。ロッキングチェアに腰かけて、酒とタバコを手にしながら、まるで映画鑑賞をする様に、自分自身を眺める。
映し出されるのはあまり思い出したくないシーンばかりだ。母親が自殺した日、妹に惨状を見せないように必死に誤魔化した。
ずっと信じていた相棒から突然一方的に決別の言葉を突きつけられた日。泣きじゃくる後輩を窘めながら自分も一人部屋で静かに涙を流した。
目をかけていた後輩から、大切なものを奪われそうになった日。信頼が怒りと憎悪へ変貌した。
そしてずっと大切にしていたものが、すっかり変わった姿で目の前に現れた日……
生まれてからずっと世界はクソッタレだ。人生は平等じゃない。学ぼうとしなくてもその現実は嫌という程刷り込まれた。お陰でむこう二十五年。人生の八割は怒りが占めている気がする。改めて冷静に過去を眺めていると、本当に酷いなといっそ笑えてくる。どうせゴミみたいな世界だ。もういっそこのまま夢に浸かっていようか?
……などとらしくない事を考えた所で目が覚めた。
スマホを確認する。朝七時、恐ろしく健康的な時間帯だ。珈琲を入れるためにリビングルームへ向かう。
「あれ?お兄ちゃんもう起きたの?」
その姿を見て頭が真っ白になる。まだ夢の続きだろうか。
「合歓……?」
大切な妹が、あの日冷たい目をして出ていった妹が、当たり前のように朝食の準備をしている。
「どうしたのお兄ちゃん?」
「合歓、なんで……」
「なんでって、昨日の夜帰るって言ったじゃない。忘れてた?」
「そうじゃなくてよ……」
「珍しく早く寝てたもんね。疲れてた?」
「いや昨日は何も……」
何も無い、と言いかけてはっとする。昨日は「何も無かった」。町内会の手伝いをして行きつけの店でチャーハンを食べて、酒を飲んで寝た。昨日だけではない。一昨日も、一週間前も、最近はずっと「何も無い」。少なくとも、日常茶飯事だった暴力沙汰に巻き込まれた覚えがないのだ。
目の前の妹を見る。不思議そうな顔をして、こちらを見ている、それこそ目に入れても痛くない妹である。そういえば、近頃は定期的に帰ってくる様になった。
「何も無い」が当たり前になって、妹がいる生活。そんな、ずっと求めていた生活なのに、違和感を覚えた。思わず合歓のことを抱きしめる。
「わ!ちょっと、お兄ちゃん!?」
体温が伝わる。夢にしてはリアルだった。ならば、これは現実か。いや、この際どちらでも良い。ずっと求めていたものが手に入ったのだ。もうしばらく、このままでいたい。
「本当にどうしたのお兄ちゃん?もう、苦しいってば」
「あ、ああ、すまねぇ」
はっとして手を解く。合歓は少し照れくさそうにしながら、左馬刻へ微笑んだ。
「もう、まだ寝惚けてるの?でも、お兄ちゃんが平和に暮らせてそうで良かった。総理大臣としては市民の平和が一番ですからね」
「は?総理大臣?」
思わず聞き返してしまった。合歓が総理大臣?だって総理といえばあの……と、東方天乙統女の顔を思い浮かべた所で思い出した。それは二年前の話だ。現在の新生言の葉党党首、内閣総理大臣は碧棺合歓、目の前にいる左馬刻の妹である。
平和を望み、正しき政治を望んだ彼女の手によって、言の葉党の内部腐敗は取り除かれ、中王区の壁は取り払われた。
完全に国から武力は根絶され、残ったのは自衛のための組織と、ライセンス制となったヒプノシスマイクのみだ。正しく力を使えるもののみが、争いではなく平和のために力を使う世界。そんな理想を合歓はおよそ一年で達成してみせた。
左馬刻はそんな妹を誇らしく思いながらも、自らの手で理想を実現できなかったことへの歯がゆさを抱いている。合歓からは「お兄ちゃんたちが助けてくれたから実現できた」と言われてはいるが、それでも兄として、それ以前に一人の男として不甲斐なさを感じずにはいられらない。
そもそも「中王区」はまだ残っているのだ。通常のディビジョンとそれ程差はなくなったとはいえ、左馬刻の当初の目的は完全には達成されなかった。とはいえ、やはり大切な妹が笑って暮らしている世界は、以前よりはマシだと思えるようになった。
朝食の鯖の塩焼きに箸を入れながら、他愛の無い話に花を咲かせる。と言っても、ほとんど喋っているのは合歓で、左馬刻は嬉しそうに生返事を返すだけだが。
「というわけで、今日は買い物付き合ってもらうからね」
「つかよぉ、合歓。お前いつも思うんだが、仮にも国のトップだろうが。護衛とか付いてなくて文句言われねぇのか」
「護衛の人ならいるよ」
「は?どこに」
「ここに」
そう言って、合歓は左馬刻を指さした。
「何かあっても守ってくれるでしょ?お兄ちゃん」
「おう、たりめぇだ」
照れくさそうにそっぽを向きながら笑顔の妹へ返事を返す。立場が変わっても合歓は合歓だった。
「まあ、実際のところ、言の葉党のSPが少し離れたところから見張ってくれてるんだけどね」
「は!?」
今もこの食事風景を監視されているということだろうか。左馬刻は急に不機嫌になり、立ち上がるとカーテンを閉めた。
「ちょっとお兄ちゃん?」
「んなもん必要ねーだろ。俺様がいりゃ十分だ」
「そうは言ってもねぇ」
「つか人様のプライベート勝手に覗いてんじゃねぇよ」
左馬刻はチッと舌打ちをして、席へどかっと座り込むと米と鯖をかき込んで、また席を立ち上がると部屋へ戻ってしまった。
合歓はぽかんと、呆気にとられた様子で部屋の外を眺めるしかなかった。しかし、またすぐにガチャりと扉が開いて左馬刻が顔を出して
「おい」
と一声かけ、
「九時な」
と、ぶっきらぼうに呟いてまた部屋へ戻って行った。
***
町へ繰り出すと、沢山の人から声をかけられた。
「あ!左馬刻さんだ!この前はありがとう!」
「おう」
「左馬刻さーん、って今日は妹さんも一緒なんだね」
「おう」
「左馬刻!妹さんに迷惑かけるんじゃないぞ!」
「うっせ」
一応変装はするが、さすがに兄妹で歩くと目立つ。首相がこうして歩いていても普通に声を掛けられる状況が異常ではあるが、合歓にとってはこれが心地よいらしい。危機感の薄い妹を守らねばと、左馬刻は気が気ではなかった。タバコに火を付けようとすると合歓からライターを取り上げられた。
「おい」
「お兄ちゃん、タバコは体に悪いからやめてって言ってるよね」
「いやでもな、合歓」
「あと路上喫煙は禁止よ」
「……おう」
家の中だと流石に妹に煙を吸わせる訳にはいかないので控えていたのだが、外に出れば大丈夫だと思っていた。珍しく朝から一本も吸っていない。ヤニ切れを起こす前にどうにか合歓の目を盗んで吸わなくては。
そんなことを左馬刻が考えていると、合歓はアパレルショップの前で立ち止まった。
「お兄ちゃん、ここのお店見ていい?」
「おう」
合歓は左馬刻の返事を確認すると、店頭に並んでいるマネキンを眺め、その隣に陳列された服を手に取った。「今のうちに軽く吸ってくるか」と、左馬刻が後ずさりした時、突然横から男がぶつかってきた。
「おい、気ぃつけろや」
左馬刻がドスを効かせた声で注意するも、男は左馬刻へ目もくれずそのまま走り去ってしまった。
「んだあいつ……」
「どうしたのお兄ちゃん?」
「いや、なんでもねぇ。気にすん「あいつを捕まえて!!ひったくりよ!!」」
左馬刻の言葉を遮って、女性の叫びが聞こえた。
「ちっ……あのカメムシ野郎……」
瞬間、左馬刻は先程走り去って行った男の方へ走り出した。
「ちょっ、お兄ちゃん」
「合歓はそこで待ってろ」
言うが早いか、あっと言う間に合歓の視線から外れる。
さて、幸いにも男はまだあまり遠くまで行っていなかったようだ。疲労か油断か、先程より少し速度が落ちている。
「おいゴミ虫!待ちやがれ」
怒声を上げながら追いかける左馬刻に気がついた男は、先程より速度を上げた。しかし、距離を離せたのもつかの間、あっと言う間に左馬刻に取り押さえられてしまう。
「クソっ……離せ」
「離せっつわれて離す馬鹿がどこにいんだあぁ?」
男がもがき続けると、不意に、男が深く被っていた帽子が地面に落ちた。
「……っ、お前は……」
「は?……ってカシラ……じゃねぇ、碧棺左馬刻」
左馬刻が取り押さえていた男は、火貂組の左馬刻の舎弟の一人だった。
「てめぇ何つまんねぇことしてんだすり潰して犬の餌にすんぞ」
普通の人間であれば、縮み上がりそこで観念し、大人しくなるはずだった。大抵の舎弟もそうだ。この男も、そんなありふれた一人だったはずだ。しかし、なにやら様子が違った。
「うるせぇ!昔のアンタならつゆ知らず、裏切り者が何言っても怖くねぇんだよ!!」
「裏切りだ……?」
左馬刻にとって地雷の様な言葉だ。幾度となく経験してきた。だが自分がそれを犯すなど、有り得ない。あってはならない。
「てめぇもう一回言ってみろ」
舎弟の胸ぐらを掴んで凄む。しかし威圧に屈する事無く、舎弟は反抗的な態度をとった。
「何度だって言ってやる。この裏切り者が」
「……ってめぇ」
拳を握り振りかぶる。しかしその手を後ろから掴まれて振り下ろすことはできなかった。
「はいストップストップストップ」
聞き馴染みのある高音へ、左馬刻は舎弟を睨みつけながら抵抗する。
「離せ銃兎」
「離せと言われて離すバカがどこにいますか。お前がやりすぎる前に、そちらの馬鹿を引き渡してもらいますよ」
そう言って、銃兎が左馬刻の手を離すと、左馬刻も行き場を失った拳を解いて、同時に舎弟の胸元も離した。
「お兄ちゃん!」
合歓が駆け寄ってきたが、左馬刻はそれどころでは無かった。「裏切り者」その言葉が重く左馬刻の胸へ突き刺さる。そしてその言葉はそのまま、ずっと考えない様にしていた事実を、左馬刻の胸の奥から、抉り出した。
「火貂組はどうなった?」
思い返そうとすると、頭痛がする。しかしその記憶は、確かに頭の奥へと焼き付いていた。
火貂組は解体された。いや、火貂組だけではない。国に在る全ての暴力団組織が解体された。他ならぬ、左馬刻が最も愛する妹の手によって。
内閣総理大臣、碧棺合歓は平和な世界を望んだ。そこには争いや暴力があってはならない。まず初めに行ったのは、内部腐敗の是正、そして次に行ったのは暴力団組織の解体であった。
戦後の不安定な時期、警察も政府も頼れない可能性がある中で、止むを得ず、反社会組織へ頼らざるを得ない状況も少なからずあったのだろう。火貂組などはその代表的な例だ。反社会勢力でありながら、それこそ碧棺左馬刻は地域住民から信頼されている。
しかし、戦争はもう起こらない、起こさせない。政府も警察も正しい姿へと導いた。そうなれば、むしろ暴力を生業とする組織は、合歓の理想の体現には不必要な存在、というよりもあってはならない存在なのだ。薬物や違法マイクなどが世に出回るのも、主に暴力団組織が発端だ。それならば、そんな組織は解体してしまうに越したことはない。もちろん、例外はなかった。とはいえ、火貂組は薬物の取引はご法度、違法マイクの取引も行っていなかった。更に地域住民からの信頼も厚く、若頭である碧棺左馬刻にはディビジョンラップバトルでの功績もあった。これらを加味して、情状酌量の余地有りとされた火貂組には選択肢が与えられた。
「組を自主的に解散すれば、属する組員には補償金と更生の機会を与える」
火貂組組長、火貂退紅はこれを拒否。自らはかつての特別刑務所へ収監される事を受け入れた。幹部や反抗した組員も刑務所へ収監。逃げ延びた組員は消息をたち、そのまま火貂組は崩壊を遂げた。
それではなぜ、碧棺左馬刻は今もこうして表立って活動できているのか。
答えは、組を裏切ったからだ。
火貂組解体の一日前、合歓が自分の前に現れた。話をした。それぞれが目指す理想について。そして左馬刻は、合歓の理想を受け入れた。それが組を裏切ることとなっても。
この記憶は紛れもなく事実だ。しかし、なぜ当時自分がその様な行動をとったのか、今の左馬刻には理解できなかった。まるで自分が自分じゃないような感覚だ。頭痛がする。
それでも一度は取ってしまった行動だ。過去を取り消すことはできない。
「お兄ちゃん……?」
頭を抱える兄を合歓は心配そうに見つめる。
「合歓、頼みがある」
「何……?」
「オヤジに会わせてくれ」
「それは……許可できない」
「頼む……」
「駄目。貴方が元火貂組若頭である以上、組の復活をする危険を少しでも孕んでいる以上、それを許可することはできない」
先程まで、無邪気に買い物を楽しんでいた、どこにでもいる普通の少女の目が、国を治める党首の目へと変わった。しかしすぐにまた一人の少女の目に戻る。
「ねぇ、お兄ちゃん、今日はもう帰ろう」
「悪ぃ……少し一人にさせてくれ」
「お兄ちゃん!」
よろけて立ち去る兄を追いかけようとした合歓を、銃兎が止めた。先程のひったくり犯を既に引き渡してきたらしい。
「失礼、行政観察局副局長殿……いえ、今は内閣総理大臣でしたね」
「合歓で結構です。入間巡査部長……いえ、入間警部補」
「おや、私の階級まで覚えていただいていたとは」
「もちろんです、実兄の仲間の方ですから。入間さん」
「はい」
「兄をお願いしてもよろしいですか。これはただの碧棺合歓として、お願いです」
「ええ、もちろんですよ。合歓さん」
そうして銃兎は左馬刻を追いかけた。
左馬刻は港のかつてコンテナヤードのあった場所でタバコを吹かしていた。違法取引現場を作らないため、見晴らしの悪いコンテナヤードなども解体の対象となった。今では絶好の散歩コースとなっている。そんな場所で黄昏てタバコを吸う男はいかにもミスマッチな風景であった。
「ったく、逃げ足の早いやつだな」
「何しに来た」
不機嫌そうに銃兎の事を睨みつける。銃兎もタバコを取りだし、火をつける。
「これはこれは、随分な挨拶じゃないか?」
「一人にしろって言ったはずだ。うさちゃんの耳は飾りか?」
「俺に当たるな。まあ、軽口が叩けるなら大丈夫だな」
「ちっ」
心が折れている訳では無い。ただ、自分のとった行動が不可解なだけだ。考えるのは苦手だった。だから話す必要がある。他の誰でもだめだ。誰でもない、自分が裏切る事になった本人と。火貂退紅と。
「銃兎、お前特別刑務所の場所分かるよな?」
「無茶言うな。警備を厚くする場所が限られたせいで以前よりセキュリティが強固になってる」
「頼む」
ここまでしおらしい左馬刻を見たのはいつ以来だったか。どうもこの左馬刻相手では調子が狂う。
「はぁ……三分だけだ。三分だけならなんとか。それ以上は無理です」
「おぅ。充分だ」
***
銃兎の車で警視庁へ。そして特別刑務所のある中王区の施設へと向かう。施設入口の警備員が二人に気が付くと声をかけた。銃兎は自身のエンブレムを掲げて淡々と名乗った。
「ヨコハマ署組織犯罪対策部警部補入間銃兎です。
火貂組幹部の残党を確保しましたので引渡しに参りました」
「失礼、連絡は何も受けていませんが?」
「おや、連絡が滞っていた様ですね。こちら内閣総理大臣からの許可書となります」
「総理から?」
警備員は訝しみながら許可書へ目を通す。そこには間違いなく、碧棺合歓のサインと捺印があった。
「確かに総理のものですね。しかし、上へ確認を取りますので、少し待っていただけますか?」
「そうしたいのは山々ですがね、こちらも忙しいもので。一度コイツを豚箱へ連れて行っても?この中ほど安全な場所は無いでしょう」
「しかし……」
「おや、信じられませんか?お言葉ですが、こうしている間にこのクズがここから逃げ出そうとしたらどうします?手錠のみの状態で警察官一人が手網を握っている、この状況ほど危ういものがないのは想像に容易いと思いますが?」
警備員は若い言の葉党党員であった。最近配属されたのだろう。銃兎の脅しに怯えた顔をしている。
「し、失礼致しました。どうぞ中へ」
「ご理解頂き、何よりです。ほら、とっとと歩け」
「クソっ……後で覚えとけよ……」
中へ入り、二人きりになっても会話はない。中へ簡単に入れたのは、たまたまこの時間帯の配置が若い党員だという事を知っていたからだ。あの様な偽物の書類、普通なら一瞬でバレる。あの警備員が上へ確認を取れば、取らなくても監視カメラからすぐに情報が行って警報がなるだろう。持って三分だ。だから少しでもバレる時間を遅らせるために余計な会話はしなかった。
「ここだ」
ある監獄の前で急に銃兎は立ち止まった。
「今更何しにきやがった」
低く響く、しわがれた、しかしかつての威光はそのままのドスの効いた声。
火貂組元組長、火貂退紅だ。思っていたよりも元気そうな姿に少し安堵する。
「オヤジ……」
「はっ、今のてめぇにそう呼ばれると虫唾が走る。何しにきやがった。とっとと失せろ」
「話に来た」
左馬刻が檻を隔てて床に座り込む。
「なんで組を解体しなかった」
単刀直入に聞く。無粋な質問だと分かっていながら、聞かずにはいられなかった。
「はっ……ははははは」
火貂退紅は鼻から笑いを漏らす。しかし突然笑いを止めると激昂し、檻へ手をかけた。
「んなもん誇り以外に何がある。俺は腐っても組織の人間だ。そこでしか生きられない奴らがいることを知ってる。てめぇも、んな事は重々承知だと思ってたが俺の目は節穴だったみてぇだな。二度は言わねぇ。失せろ。そんでその面二度と見せんな」
突如、監獄内でサイレンが鳴る。どうやら不法侵入がバレたらしい。
「左馬刻、逃げるぞ」
「……」
「左馬刻!」
「……おう。……オヤジ」
「なんだ」
「悪かった」
火貂退紅は答えなかった。左馬刻は隠し通路へ、銃兎はそのまま入口へと向かった。
「そこでしか生きられない人間がいる」
そんな事、親からごめんなさいを習うよりも先に知ってしまった。そうでなければ愚連隊など率いない。自分もとっくにそっち側だったのに、切望した妹が笑って暮らせる世界に、浮き足立っていたとでも言うのか。
隠し通路は下水道と繋がっていた。下水道の通路の一角に明かりを見つけた。誰かがいる様だ。耳をそばだてる。そこにいたのは、かつて共にしのぎを削った舎弟たちだった。元々チンピラ風情だったが、今は更にスス汚れている。それでも談笑している。表の世界では不貞腐れるしかない、影で生きるものたち。左馬刻はその姿を見て静かに決意を固めた。
***
家へもどると、置き手紙があった。合歓からだ。そこには、しっかりご飯を食べること、タバコと酒は程々にすること、そして、今の碧棺左馬刻が間違っていないことが書かれていた。
「おふくろかよ……」
思わず頬を緩ませる。最近自慢の妹はますます、尊敬する母親に似てきた。もう、あの時の、ただ守ってやるだけの妹では無いのだ。
「悪ぃ合歓。でも、悪い様にはしねぇ。お前を泣かせることは絶対にしねぇから」
そう呟いて、左馬刻は今の仲間たちに電話をかけた。
***
中王区外れの元倉庫街、ヨコハマの三人は集まっていた。
「銃兎、理鶯、本当にいいんだな?」
「くどいんだよ」
「問題ない」
作戦の決行日、今一度左馬刻は銃兎と理鶯へ声をかける。警察官である銃兎は元より、今は理鶯も自衛官、国の人間だ。今から行うのはほぼクーデターと遜色ない。火貂退紅と元火貂組組員を刑務所から解放する。そして、火貂組を復活させる。もちろん、今まで通り表立って活動することはできないだろう。しかし、下水道に隠れて生きている様な、日影でしか生きられない人間は、はみ出しものは、どんなに平和な世界が実現しても、必ず存在するのだ。そして左馬刻は、既にそちら側の人間だ。
あの後、もう一度だけ合歓と話すことができた。互いの理想について話し合った。今度は、相入れることはできなかった。思えば二年前、既に確認しあっていたのだ。お互いが敵として立ちはだかっても、それを覚悟の上で戦い続けると。それすら忘れて妹の理想を全肯定した。大馬鹿者は自分だ。過去は取り戻せない、しかし未来は多少なりとも変えられる。どこまで行っても世界は不平等だ。ならば、とことん足掻いてやろうじゃないか。そしてクソッタレな世界が、自分の手で少しはマシな世界に変えられたら、その時は左馬刻の勝ちだ。今日がその一歩目だ。例え躓いても、何度でも踏み出してやろう。隣にいるふざけた仲間たちと共に。
「てめぇら行くぞ」
一歩目を踏み出した瞬間、奈落へ落ちる感覚がして、ハッとすると見知った天井が目に入った。
「左馬刻、起きたか」
「おう」
理鶯から水を手渡される。コップのひんやりとした完食が伝わる。今度こそ現実の様だ。
左馬刻は水を飲み干し、先程まで見ていた夢を思い返す。
酷い夢の内容に思わず笑いだす。そんな左馬刻の様子に、理鶯も釣られて口角を上げる。
「酷ぇ夢だった」
「うん。そうだな」
俺たちに裏切りは無しだ。MTCだけの話では無い。もう左馬刻には人との繋がりで雁字搦めになっている。それでもそれらを全て拾って、理想を体現する。それがどんなに地獄だろうと。だってこの世界はクソッタレなのだから。