若ショー×長プリ 少し荒れた金髪を眺めながら石階を登っている。マントが帆のように翻り、腰当ての揺れを見た。重い布が持ち上げるほどの風が吹いてきたならば頂上は近い。
花咲き乱れる遺跡の階段を登り切ると、ようやく水平線が見えるようになる。街を見下ろした安堵感は毎回新鮮である。空の青がはっきりとしてきたが、まだぼやけた穏やかな時間だ。夏の清々しい風が心地よい。
彼は探索帰りにも関わらず背筋を伸ばし、長い金髪をなびかせ闊歩する。この青年になりたての横顔は遠くを見ている。長く重たいマントも、いくらか傷がついた鎧も、貴き身分をしっかりと象徴していた。潮風で膨らんだ金髪は期待するほど触り心地は良くない。
街の中心部へと降るにつれ、人の往来は増えていく。いたる所で仕事が始まりだしている。我々は顔馴染みの店で集めた素材を売り、必要な物品を買う。
それから宿へ帰る道の途中でまた、朝食がわりに丸いサンドイッチを購入した。つつがなく宿に着く。
長期宿泊しているこの宿は冒険者を相手にしている。我ら以外の利用客も当然ながらいる。ただ、ほとんどのギルドはわずかばかり先刻に出立しているようであった。
我らも5人でギルドを組んだ冒険者だ。この街ではよく見かける人種だろう。
ここ、海都には世界樹と呼ばれる巨木が生えており、その根元には大穴が空いている。大穴は遺跡とも呼べる構造物でできており、迷宮のように入り組くみ、下へ下へと降ることができる。この街にはかつて人智を超越した技術があったが、今は大穴の底に沈んでしまったという。冒険者は皆この伝説に魅入られて集った者たちだ。憧れの程度に差はあれど、皆が地下迷宮に夢を見ている。
気高き我が主人が率いる我々のギルドは、この街で結成してからまだ日が浅い。主人がこの海都に到着してからひと月すぎたくらいだろうか。しかし主人と私の出会いは3年ほど前に遡る。
我ら2人は一年経たないほどの前までも、別の地で冒険者として活躍していた。この街と同じように世界樹が生えた島があり、それを目当てにした人々を乗せた飛行艇の都市があったのだ。
彼はその飛空挺が世界樹へ発つ前、搭乗のための停泊場に1人きりでいた。金髪を生えそろし鎧で着飾っていた。そんな見た目麗しくも虚栄を張る彼に声をかけられたのが始まりだった。
それから時を経て、彼の強さと弱さに惚れた。今でもこうして追いかけて側にいる。
宿の広間を借りて作戦会議と情報共有を行う。そのあとはそれぞれ割り振られた部屋へと戻る。私は主人と同じ部屋に泊まる。同じ部屋に泊まるのは1年以上前からも変えていない。
部屋の中は質素である。風がよく通る造りで、常夏の島ならではの建築なのだろう。外の朝日が明るくなると清潔感が一層増す。サービスの飲み水は程よく冷たくて美味しい。
彼が鎧を脱ぎ始め、それを手伝う。遺跡を出てからようやく鎧を脱がせることができた。
鎧の汚れを落としている彼に水を飲ませ、さらに柔らかい濡布巾を渡す。怪訝な顔をされたが、無下にはできないといった様子で彼は顔を拭う。そして一息ついた。
だがまだ体の方は拭えていないので、インナーを剥いで拭いてやる必要がある。便所に行くと伝えれば短い相槌が返ってきた。
宣言通り便所に向かい用を足し、給湯室では湯を作る。持ってきていた容器に入れて部屋に戻る。
案の定、同室人はまだ鎧を磨いていた。そんな彼を引きずり立たせ、ベッドに座ってもらい服を脱がせる。
相手は自分に「好きなことをしていろ」と言っただけあってされるがままだ。従順でいてくれるお陰で、何をするにしてもやりやすい。
前の街ではちょっかいをかけるたびに難癖をつけられたものだ。そのときのほうが積極的に頼み事をされていた。以前の方が楽であったと思う。
下着を除いて全ての服を取り去った。それでも彼は恥じらう訳でもなくどこかを見ていた。だがもともとこの人は、別に同性同士ならば気にしないという質ではない。以前の隊でも彼自ら鎧を脱ぐ手伝いをさせることはあったが、自身の体を洗わせることはなかった。
熱い風呂ほどの湯に布を浸す。水気を多く残すように絞り、首から拭いていく。彼はわずかに体を固くさせた。しかるべきところにできたアザは健康的でよい。
拭きにくいところもきっちり隅々まで念入りに拭きあげる。四肢の指先の爪もしっかり拭う。髪の毛も櫛を通しながら拭いて粉塵を落とす。
作業が終われば少しツヤが戻った彼が出来上がった。
脱がせた服は着られる前に残り湯につける。舌打ちが聞こえた。元気も少し戻ったようだ。
洗濯物と着替えを持って再び部屋を出る。洗い場で彼の服と一緒に自分の服も洗い、自分自身も洗ってしまう。汚れを水で洗い流すと気分が晴れる。清潔な服を着て髭を剃り、伸ばしっぱなしの髪の毛をどうにかまとめれば小綺麗な市民だろう。
今日この部屋に入るのは3回目だ。室内の彼は予備の服を着ていた。リネンのブラウスに地味な色のズボンにシンプルなブーツ。今の私と同じような格好だ。少し気落ちしたが、逆にこれはこれで良いとも思う。彼が今着ているブラウスは、洗ってきたインナーよりも光を通す。柔らかい布が体に沿って垂れるのが悩ましい。
窓を開けて、サッシの上に備え付けられている干し竿に服をかける。通り雨が降るかもしれないが、昼の強い日差しならまたすぐに乾くだろう。
鎧を磨き終わった彼は机で何やら書き物をしている。グラス2つに水を注ぎ、今朝買ったサンドイッチを持ってくる。机の空きスペースにそれらの飲食物を置き、椅子をつけて座ってみせる。
彼はこちらをみてくれた。
「オウミ様、飯まだですよね?食いましょう」
「今回の探索分をまとめてから食べる。先に食べていろ」
「水は飲んでください」
「飲んでいる」
彼はまた視線を紙に戻して筆を動かす。急かして気を圧迫させるのもかわいそうなので水を飲む。早速結露しており、掴んだ手が濡れる。
紙にはえらく整った美しい文字が淡々と綴られていく。彼、オウミ様は、誰が読むわけでもないのであろう文章を読みやすく書いている。少し落ち着きがないのは俺にこうやって注視されているからだ。
筆先の金属と紙が擦れる音、動きを眺めていれば時間はあっという間に過ぎた。オウミ様はやっと書き物に満足したようだ。出来立ての紙を机隅に置いて、水をお召しになる。グラスの底にはすっかり水溜りができていた。水をもう一度足してやればそれも空になる。馬鹿である。
サンドイッチの包みを剥くと、丸くて白いさっぱりしたパンに魚の揚げ物がはさまっている。それに葉っぱと、何らかしらの香味も隠れて挟まっているのだろう。
相手が食べ始めたのを確認してから、こちらも一口齧る。揚げ物は青魚だ。酸っぱく甘辛いタレと馴染みない草の香りがなじむ。
このくらいのサンドイッチなら4口、3口、いや2口で平らげられたと思う。毎日探索をしている生真面目な冒険者にこの量は少ない。でも今日はあえてこの量にした。
オウミ様は丸くて厚いサンドイッチを食べづらそうに齧っていた。猫みたいだ。
「オウミ様、今日は丸一日休みなので街歩きしません?どこもかしこも観光エリアで楽しいですよ」
「いや結構だ。これからの作戦を見直す。階が進んで今までの戦い方が効かない魔物も出てきた」
「でもそれは1日のどこかで済ませられますし、なんならさっき皆と作戦会議もやりましたよ」
「指揮する俺が考えなければならないこともある」
「でも1日も使わないでしょう」
「残りの時間は寝て日頃の疲れを取る」
「そんなの逆に疲れますよお」
彼はこちらを睨むだけで何も返さない。そしてまたサンドイッチを齧り始める。こういう反抗的な態度は非常に可愛らしい。自分もサンドイッチの残りをゆっくり食べる。
そうしてお互いが少量の朝食を食べ終える。太陽の光が強くなってきたが、まだまだ朝だ。今日の計画は午前中に街を歩き、昼飯を食べて宿に戻る。日が落ちて涼しくなったら、また少し港などを歩いてもいいかもしれない。
「出られそうですか?怠いなら俺が背負いますけど」
「出かけないと言ったはずだ。1人で楽しんでこい」
いかにも興味がないという様子で、オウミ様は筆に手を伸ばす。その手が届く前に掴んでしまえば、彼は眉間に皺を寄せた。猫は手を掴まれるのが嫌いである。
そういえば、猫というのはたまに意固地になって椅子の上にへばりつくのだ。だが持ち上げてしまえば大したこともない。
「では持ち上げますねー」
「おい、貴様。や、やめろっ」
立ち上がってオウミ様に抱きつき、素早く膝裏に腕を差し込んで一気に持ち上げる。香水をつけたのか。
一応彼も成人男性並の体格なので、暴れられると逃しかねない。しかし持ち上げられて不安定になったのが怖かったらしく、逆にしがみつかれる。
鎧を着ていないオウミ様は横抱きでも余裕で持ち上げられる。おんぶならば1日中運び回っても疲れない。
「下せ。鎧も着ずに外出など、はしたない」
心を落ち着けたオウミ様がこちらに目を合わせてきた。かわいい。少し霞んだ青い瞳は綺麗だ。それを縁取る湿った上下の瞼も美しい曲線を描いている。しかしすぐに目は伏せられる。
顔も合わせない彼を、ここから背中に抱きつかせたい。どうやっていこうか。
「オウミ様、おんぶされてください。このまま俺の背中に回れますか?」
「今すぐ手を離せばよかろう。そうすれば俺の滑稽な姿が見れる。お前はそういうのが好きであったよな」
「まるで人を悪人みたいに!ひどいですオウミ様…じゃあ今日はオウミ様がおんぶされてくれるまで俺動きません!俺が漏らしたり腕が使い物にならなくなったら、オウミ様のせいですからね」
そう言い切れば、彼はさらに顔を伏せて思案する様子を見せる。しばらくして小声で下せ、と言うので椅子に下ろしてやれば、部屋を出ていく。
彼がここで書き仕事を続けるのであればかけるつもりであったし、今みたいに逃げられたとしても水溜りは作るつもりでいた。この状況は苦しくもない。
胸いっぱいに息を吸い込んで、分かりやすい香水の匂いを嗅ぐ。倹約家の彼らしい。もっと奥ゆかしく大らかな香りの方が彼には似合うと思う。例えば、といってすぐには出てこないものである。採取物で何かいい香りがするものはなかっただろうか。どうでもよくなってきた。彼にはどんな匂いだって似合うだろう。
しかし暇だ。暇つぶしはさせてほしい。先程出来上がった文章を読むくらいなら“動かない”の範疇かと思い、手を伸ばす。
紙はちょうどここからだとギリギリ手が届かない位置に置かれている。小癪である。足を一歩も動かさずにとらなければ約束を破ることになってしまう。忠臣としてそんなことは避けたい。
そんな感じで四苦八苦し、やっと紙に手が届いたところでドアノブが回る。なんとオウミ様が戻ってきた。心なしか顔まわりが一段と綺麗になっている。
「手洗いに行っていた。こんなところで失禁されては我がギルドの信頼は崩れ去る。準備をしてやったのだ。妙なことはもう口走るな」
「んじゃオウミ様、俺の背中にしがみついてください」
オウミ様は澄ました顔のまま、私の死角の方に回る。背後から肩に手を乗せられると毛が粟立つ。
「おい、しゃがめ」
しっとりとした音の余韻に浸りつつ脚を折る。彼と私は同じ背丈だ。膝まづくと背中にわずかな重みと温かいものが触れ、首に腕が回された。差し出した腕に脚が引っ掛けられるとさらに密着具合は増す。骨と肉が当たる。香りが強い。
ゆっくり立ち上がり、確かな重みを味わう。位置を調節するために軽く跳ねて彼を持ち上げる。短い息の漏れに全身の血流の勢いがさらに強くなるが、今は耐えなければこの後の予定が狂ってしまう。今日ばかりはそうしたくない。
「オウミ様の重みが俺のエネルギーに変わっていく!」
「そうか」
「ちゃんと掴まっててくださいよ。俺が疲れちゃうので」
「ああ」
彼の太腿に挟まれながら部屋の鍵と財布その他小物を回収し、太腿に挟まれながら戸締りをして、太腿に挟まれながら部屋から出る。
一瞬また部屋に戻ろうかと思ったが、強い意志で街へと向かう。この程度の誘惑などを振り払えなければ、この腰回りと背中の感触を味わうことはできないのである。
「あ、浜焼き。あっちの屋台は団子ですね」
「おい、いつまで背負っているつもりだ。明日の探索に支障が出る」
「海鮮丼もいいですよね。うどんもいいな〜」
オウミ様をおぶってのデートは、実はこれが初めてだ。この街でのデートも初めてだった。以前の街でも観光を兼ねたデートはあまりしなかった。
目移りするのは食事どころばかりだ。海に囲まれたこの街は漁も行っているらしく、海産物を扱う店は多い。酒場でもよく海の幸が提供される。
ただし今食事をしてしまうとオウミ様を連れ歩く口実がなくなる。以前の街から一度自分の国に帰った彼は、輪をかけて遊ばなくなってしまった。なので目的を済ませた後は宿に帰りたがって落ち込むかもしれない。
そこで1つ思いつく。俺はオウミ様の髪の毛の触り心地をどうにかしたかったのだ。彼の髪の毛は前の方がまだ整っていた。今でも群衆の中では整っている方かもしれないが、この人は王族であり、何より俺の雇い主である。やはり雇われるなら頭2つ3つは飛び出ていてもらわなければ困る。
では早速横目に見えた土産屋に寄ることにする。貝殻や船の模型、異国風を模った木刀などを扱っている、いかにも安っぽい観光者向けの店だ。きっと今の初々しい私たちにピッタリの場所だ。びんつけ油などを取り扱っている店は後でいい。
店に近づく。鮮やかな二枚貝の片割れが縄で連結されている。紫、赤、橙、黄と虹のように並べられた貝殻のうち、黄色が彼の髪色に似ている。
「オウミ様、鮮やかな貝殻です。オウミ様に似合いそう」
「そうか」
しかし貝殻は俺の趣味ではない。貝売り場の近くに束で提げてある、色とりどりの紐に括り付けられた液体入りの小瓶の方がよほどいい。
あれの中身はシャボン玉液が入っている。丈夫にした洗剤に空気を吹き込むことで泡の玉を飛ばすことができる娯楽品だ。一度買ったことがあるのだが、人の家の屋根の上で吹くと気持ちが良い。
「シャボン玉液入りのネックレスですよ」
「ああ」
いつかオウミ様と一緒に吹けたら楽しいと思う。彼にも登りやすい屋根を見つけないとならない。
それからさらに視線を横にやると、いわゆる東洋かぶれの龍がガラス球を抱えた細工が並んでいた。龍は鉄製だろうか。渋く燻されているが、意匠のせいか安っぽい。
「ガラス玉を抱えた龍のアクセです」
「そうだな」
「オウミ様、もしかしてこういうのはお好きでない?」
「いや、庶民の土産物などは興味深い。ましてやここは様々な文化が入り混じる場所だったと聞く。取り入れられたものかどのように受け入れられ変容したかを体感できるのは貴重ではないか」
「はあ」
確かに背中越しに彼が首を振る動きは伝っていたかもしれない。互いに楽しんでいるなら良かった。彼がこうして得て集めたものは、果たしてどのくらい大切にされるのだろう。
土産屋を一通り見て後にする。そんな感じで気になる店を冷やかしつつ進む。
おぶられているオウミ様はそれはもう嫌そうにしていた。文句を言われることはないが、体同士の密着度が低い。
別に俺たちはそこまで注目を集めているわけではない。冒険者がひっきりなしにやってくるこの街はいろんな奇抜な者等がいるので、おんぶされる若者などさほど珍しいの部類にはならない。なんか脚でも怪我をしているのだ、と思われるくらいだ。
目を惹くのだとすれば、オウミ様の美しいおかんばせとかだろう。冷やかし先の店で聞こえるこちらへの言及の声は、オウミ様の顔面への賞賛が多い。
オウミ様は囁き合いのネタにされるたびに顔を俯かせるらしく、首の後ろがくすぐったくなる。いろんな種類の息遣いも聞こえる。舌打ちもはっきりと聞こえる。おんぶとは本当に良い体位だ。
だが流石にこの常夏の島で体を引っ付けつっけるのは暑い。何もしていなくても昼間は暑いのだ。もうそろそろ油を探しに行こう。
そして歩けども步けども、髪の毛に使えそうな油は見つからない。そもそもそういう類のものはどこで取り扱っているのかを知らない。オウミ様も知らなかった。
道行く人に訊ねれば、油は薬局にあると教えてもらった。それから寄り道を重ね、どうにか薬局に辿り着くことができた。
薬局は居住区画の坂をある程度登った場所に構えられており、妙に見晴らしがいい。海が広く見え、何隻かの船と遠くの島々が見える。
店自体は薬局と言われつつも、日用品を揃えたほとんど雑貨屋のような品揃えであった。使い込まれた店だ。手入れされた木の下で近所の人々が談笑などをするのだろう。
日はだいぶ高くなった。背中の布も水浸しになっている。店のそばに生えている木の陰に入る。
「オウミ様、もしかして暑かったですか?」
「別にそこまでではない」
「喉の渇きは?」
「平気だ」
「オウミ様の自己申告めっちゃ信用なんねえ〜。諺にできますよ。じゃあこのラムネも買いましょう」
「店内にはいるのか?ならば俺はここで待っている」
店のドアは開け放たれていたが、入り口と店内は広くない。オウミ様は降りようとして、勝手に脚を地面に伸ばした。擦れないか?という疑問の後に彼はすぐに隙間を作った。なるほど、それに免じて背負い直すのは見送ってやることにする。
「じゃあちゃんと待っててくださいよ。あなたが1人で帰ったら、私はこの街で1番人目に触れる所で体の水分を抜いて死にます」
「待っている。安心して行ってこい」
オウミ様が妙な姿勢をとるので体勢がきつい。まず彼を下す。背中が涼しい。
店の木は幹の上に枝を広げる種類のものであるらしく、さらにちゃんと剪定されているので木陰に入りやすい。オウミ様にはここで涼んでいてもらうことにする。水平線が似合う人だ。
「手を出せ。サイダーの分の金だ」
「奢りっすか。あざっす」
硬貨を握りしめると人肌に温かい。冷や水に晒してあったラムネ2つを取り、店内に進む。
目当ての油はすぐに見つかった。黄色い液体の油だ。種類もさほど多くなかったので1番値段が高いものを選ぶ。容量が1番大きいから1番高いらしい。
支払いを済ませて、外で待機している彼にラムネを渡す。自分も瓶を開けて飲む。
キンと冷たい液体は程よく甘く、一気にあおりたくなる。しかし気泡が弾ける強い刺激がそれを抑える。そのくらいがいいのかもしれない。
オウミ様も瓶に一口つけては離すのを繰り返していた。
「もう一本買いますか?」
「いや、俺の分はいらん。お前が飲みたいなら買ってこい」
ラムネの瓶を片手に持つオウミ様は背景の海も合わさって涼しげな雰囲気だ。しかし彼が俺の背中で何度も唾を飲んでいたことは知っている。
日差しも真上から降り注いでいる。今立っている場所は木陰ではあるが、鮮やかな景色は今の彼には強すぎる。
喉の渇きを癒すなら、冷たすぎない水がよい。炒り麦から作る茶もいい。
「じゃあもうそろそろ飯食いますかね。どんなのがいいですか?」
「その辺りで売っている蕎麦かパンでよい。お前は他のところで食え」
尋ねてみれば即座に返された。彼は普段から茶色のパンを齧っている。たまに野菜を生のまま齧っていることもあるが、これもまた薄寂しいのであった。
「天ぷら蕎麦とかいいですよね。前行った店が良かったんでそこにしましょう」
「そうか。しっかり羽を伸ばしてくるんだな」
飲み干したラムネの瓶を返却する。それからまだラムネを飲み終えていないオウミ様の後ろに回り、髪の毛を優しく掴む。拳の小指側に流れる毛先はススキの穂を思い起こさせる。
髪の毛に使う油のことを教えてくれたのは、同じギルドに所属しているモンクの女性であった。彼女は非常に艶めいた黒髪を伸ばしている。
目の前で揺れる毛束がもし絹糸ほどに滑らかになったとして、それはどのくらい喜ばしいことなのだろう。そういえばもとより俺は、そこまで艶やかな彼の髪の毛は知らないのだった。
オウミ様がラムネを飲み終えたら、今度は手を引いて並んで歩く。互いの腕を交差させて指の股に指を絡めると、抗議の視線が向けられる。しかし彼がこちらに目を遣ったのは一瞬で、すぐに景色へと離れていった。
繁華街に戻ると、先ほどの道とは打って変わってたくさんの人が往来している。日照っているのに結構なことである。オウミ様は長い髪で顔を隠すように俯いていた。彼が罪人に見えないように、なるべく寄り添って歩いてあげる。
宿の方に戻るように道をしばらく歩けば蕎麦屋に到着する。ここはやたらと馴染み深い雰囲気の店だ。懐かしい気持ちになって立ち寄ったのが初来店だったか。
開店したばかりで中に客はまだいない。オウミ様と仲睦まじく店に入ったからか、窓際の景色の良い席に通される。
正方形の卓に備えつけられた2つの椅子にそれぞれ座る。この店は冷たい茶をサービスで提供してくれる。オウミ様は早速茶碗を空にしていた。
「天ぷら蕎麦2丁お願いします」
勝手に注文を決めるとオウミ様は何か言いたげに口を開ける。でも何も言わなかった。
「いい席ですねえ」
「そうだな」
「庶民の観察とか捗りますね!」
「そういう、いや。他に適した所はもっとある」
「冗談ですってば。そういえばコレ、油を買ったんです。オウミ様もこれでツヤツヤですよ」
また相手からの返事は返ってこない。今度のオウミ様は妙なものを食べてしまったかのような顔をしていた。
「髪触られるの別に平気でしたよね」
「か、髪?髪に塗るのか。あ、ああ、なるほど。聞いたことはある」
「どこに塗るんだと思ったんですか?」
前のめりになって訊いてみると、オウミ様は思っていたよりも異常に身をすくめた。興が覚める。
距離を戻して油の瓶を掌に転がす。瓶には商品の名前と作り手の連絡先が載っている。油の正体はカメリアとかいう、何かの植物の種の油らしい。
「わ、るかったな。せっかくの好意を勘違いをして」
「はあ」
「あとで試してみよ」
「よく考えたら俺これの使い方知らないんですよね。超貴族のオウミ様は知らないんですか?」
「その手のものはリュウスイが詳しいのではないか?彼女は身だしなみもしっかり整えている」
「リュウスイさんですか」
リュウスイさんこそが黒髪のモンクの女性である。
「オウミ様、最近あんまり俺の名前を呼びませんね」
「そうか」
「はい」
何も考えていなさそうなオウミ様の返事が癇に障る。
「だが何の問題もなかろう。探索の時はしっかり個人に伝わるように指示出しもしているはずだ」
「問題大有りですけど。俺の心がトキメキません」
「ならば他の面子にお前の名前を呼ばせる。特に好みの奴がいるなら言え」
「じゃあオウミ様で」
「そうか。ふむ、そうだな、定期的に名を呼べばいいか?」
「どんな?1時間ごとに声掛けしてくれるとかですか?」
「時計みたいだ」
ここでオウミ様は半笑いを浮かべる。笑うところはもっと他にあったはずだろう。
言葉は呑気に続けられる。
「だが致し方ないだろう。今の俺はお前の名前を呼んでいないらしいではないか。常に目に入るところにメモでもしておけば忘れぬだろう」
「舐めてるんですか?」
「い」
いえ、と小さな声が落ちる。叱られた子供だ。矮小でみっともないので腹が立つ。
「そんなふうに呼ばれて喜ぶ人間がいると思っているんですか?」
「も、ああ、至らなかった。では、その、毎度呼ぶときに呼ぼう。これならばどうだ」
オウミ様は上手く取り繕った。ただしそれは言葉の使い回しだけだ。目はあちこちを泳ぎ、首も落ち着きなく下を向いたり上を向いたりする。おそらく机の下に隠れた手も忙しなく指を遊ばせているのだろう。
「それなら今すぐにでもできますね。是非やってください。ね」
「今」
「はい。簡単でしょう」
ただ発音するだけだ。こちらの名前を忘れていなければ言葉を使い始めた幼子にもできる。
なのにオウミ様は口を開閉させるだけで無言のままだった。目をまん丸に見開いて俺の向こうのさらに向こうを見ていた。
そんな時、美味しそうな匂いが鼻を掠めた。多分海老天の匂いだ。ここは蕎麦屋なのである。
別にこの場所でこんな顔をさせるつもりはなかった。飯が不味くなってしまう。天ぷら蕎麦のために彼をどうにかして直さなくてはならない。非常に怠いが、たまたま店の中に人気がないのは幸だった。
卓の下にオウミ様の手はあるはずだ。卓の下から腕を伸ばせば、やはりあった。想像通りに固く組み合った彼の両手を、こちらの両掌で包む。オウミ様は驚いて盛大に跳ねた。立ち上がらなくて正解だった。
優しく拳を揉んで害意がないことを伝える。両手が開いてきたら、こちらの手と繋ぐように誘導する。掌には水がついていた。
両手とも繋いで、オウミ様の顔を見る。卓のどこかを見ている。ここまできたなら動いても大丈夫そうだ。
手を繋いだまま己の体を中腰で移動させ、彼の隣に行く。寄り添い、抱きつき、少し椅子の座面をケツでもらう。布越しの肌がだんだん暑くなる。
「オウミ様、ごめん。意地悪しちゃいました」
穏やかな声であやしながら抱きしめていれば、無言の彼も少しづつ体を柔らかくしていた。呼吸も落ち着いてきていた。真夏の湿気が人肌のように感じられる。暑い。でもこれをしばらく続けなければならない。
淡い金色の髪に顔を埋めると少し癖のある匂いだ。頬擦りをして深追いをする。肩が少し竦められたが、それも少しづつ開かれていく。空いたところにまた頭を侵入させ、もっと奥を目指す。
「天ぷら蕎麦でございます」
卓の上に豪華な食事を乗せた盆が2つ置かれた。ざる蕎麦と天ぷらの盛り合わせだ。2回り年上の店員のお姉さんがごゆっくり、と去っていく。麦茶のおかわりも置いていってくれてらしい。
そして額を殴られる。オウミ様がこちらを見ていた。
「どうしました?」
「離れんか、馬鹿者」
オウミ様の眼差しは結構冷たかった。元気になってくれたらしい。
元の席に戻って空の碗に汁を注ぎ、蕎麦を啜る。コシがある麺には穀物の香ばしさがある。2箸目は先程つけ忘れた汁に浸して啜る。汁の塩気が体に染みる。カツオと煮立った酒の風味だ。
天ぷらはやはりエビが定番だと思う。実は天ぷらは地元では食べたことがない。汁に浸してからざくりと噛むのが好きだ。ぷりぷりした身から旨みが伝わってくる。じゃくじゃくした歯応えが良い。天ぷらはどうやって作っているのかよくわからない謎の食べ物である。
オウミ様は茶碗に汁を注いで箸を持つところまでは進んだらしい。早く食べればいいのに、何かを迷っている。
「まだ気が滅入ってますか」
「貴様。いや、そうだの。後で俺が支払う」
「そんなくだらないこと考えてるなら早く食べてください。特に天ぷらは揚げたてが美味いんですから」
「あ、ああ」
オウミ様も1番掴みやすかったのであろうエビをつまみ、まるで俺の食べ方に習うように汁に浸して齧った。上品に口を閉じて、小さく口を動かしている。嚥下した。そしてこちらを見て嫌そうな顔をする。何もかも完璧なのであった。
「なにかおかしいか」
「いいでしょ」
「フム。かなりのものだな」
オウミ様は頷く。すぐに2口目にいった。次はギルドメンバー全員で来ようと思った。
蕎麦屋から出たらまたオウミ様を背負う。
もちろん彼は自らの脚で歩きたがった。昼飯代を全てこちらに支払われたのもやたらと気にしている。だがこちらも背負いたい。
そんな言い合いを通行人に見守られながら続けて、背負わられなければならない空気に負けたオウミ様は無事に背中に張り付いてくれた。おんぶで歓声が上がり拍手が起きる。さすがは我が主人である。
蕎麦屋から宿まではそれなりに歩く近さだ。太陽は今が1番高いところにある。おんぶ慣れしてきたオウミ様はぺったりと力を抜いている。
「蕎麦美味しかったですね」
「また俺を背負うことはなかっただろう。下せ」
「ここまできたら俺はオウミ様を運び切らねばなりません。これは俺に課せられた使命なのです」
「その使命からすぐに解放してやれるが」
背中にある無気力な体がさらに力を抜いた。ずり落ちる重さに己の神経が咄嗟に反応する。慌てて重心を前に持っていき、なんとか彼を背中の上に留めておくことができた。
弾力のある丸い玉が落ちて割れる、架空の記憶が何度も再生される。
「オウミ様〜、腕の力抜かないで。俺じゃなきゃ落としてましたよ。もう二度とやらないでください」
最後の一言が思ったよりも低くなった。それに反応したのかは知らないが、オウミ様は再びこちらに身を預けた。
「だが、最近のお前は辛そうだ。こんなことしていないで休め。そのための時間だったんだ」
「いや脈絡なさすぎです。俺がなんですって?」
「前の方が、楽しそうにしていただろ」
頭の近くの囁き声は本来ならば心地よいはずだが、今だに心臓が騒ぎ止まず堪能できない。
なのにオウミ様は多分まどろんでいた。しがみつく力が弱くなり、その分こちらの負担が増える。彼を落とさないようになるべく胴体を前傾させる。
彼が眠気に襲われるのは当然であった。探索から帰ってきてまだ寝ていないのだ。そんな状態で日差しに焼かれて更に疲弊し、先程昼食をとったことで、腹は消化の必要に迫られた。ついに体が悲鳴を上げ出したのである。
背中で寝てくれるのは結構なことだが、重さや姿勢がきつい。鎧が無いだけ軽く済んでいるのが幸いである。やはりこれくらいの迷惑さがなければ張り倒し甲斐がない。
オウミ様は傍若無人に振る舞うのがよく似合う。出会いたての彼は絵に描いたような我儘な良家の息子だった。歩きながら昔のことを思い出してみる。
彼に抱いた第一印象はあまり良いものではなかったと思う。顔は良いのに高圧的でとにかくマウントを取ろうとしてくる。初めてかけられた言葉も、「蛮人とは珍しい。島流にでもあったのか?どんな罪を犯したか言ってみろ」だったはずた。
なぜ覚えているかというと、声の方に向けただけの横目でも分かるほどの美しい人が立っていたからだ。息を呑むとはこういうことなのか。光差す島に立つ天人なのかと思った。
先ほどの言葉はこの方が発したものか。同じセリフをもう一度言ってほしいと頼み、急いでまたまた持っていた紙幣に書きつけた。天人は怪訝そうな顔をしていた。第一印象は非常に良かった。人生で一番の好印象だった。
満足して立ち去ろうとすると、その天人みたいな人は慌てた様子で引き留めてきた。雇ってやるから子分になれという。もちろん喜んで引き受けた。この顔面を側で見ていられる権利を得られるなんて素晴らしいことである。
それから一緒に街を歩いてみたり、節約のために同じ部屋に泊まったりした。天人もどきは何かにつけてこちらをけなす。色々な嫌味が伸びやかな声で澱みなく唱えられるので、純粋にその技量に尊敬した。
彼は自らを王族だと言った。この場が自分の国の中というわけでもないのに、私以外の人に対しても高圧的な態度で挑みにいく。しかもマントと鎧で身を固めているので派手派手しく、大道芸人と間違われることもあった。一応雇われの身として、彼は王族の何かだと訂正してやると、なぜか怒られた。王子だ!と言われた。天人ではなかったらしい。
こんなにも元気いっぱいの彼だが、実のところかなりの小心者でもあった
あれは私が彼をオウミ様と呼ぶようなったくらいのころか。オウミ様はとある建物の影に佇むようになった。真剣な顔でなにかを観察しているようだったが、何をしているのか聞いても答えてくれなかった。
後ろに立っているだけなのはつまらなかったので、自由行動の許可をもらい暇を潰した。傍目から見るオウミ様はやはりなかなか目立つ。人目を引く服装をしている上に、なにより単純に隠れるのが下手くそで逆に浮いていた。
そんなことをオウミ様は数日間も続けたので、ちょっとした名物になっていた。本人にそのことを伝えると誇らしげにしていた。王族たる者、いかなる場所であっても己の存在を人々に知らしめて威厳を主張するのである。
まさかこの時の彼が、パンの値段を知るために狙いをつけた店を観察していたとは誰も気付かなかった。俺も気付かなかった。オウミ様はこの頃から忍耐力が凄まじいのだ。
王子であることを誇りに思っているオウミ様は、いつも私の前でつんのめる勢いで闊歩した。たいていは明日の食料の買い出しのための行進である。風にそよぐ金髪はひよこの毛色にも見えなくない。
彼にそれとなく年を訪ねたときに5つ下だということを知った。成人はとうに済ませている、などとほざいていたが、多分彼の国の成人年齢は14歳とかなんだろう。自己申告の年齢は20だったが、実際はそれよりも低いと思う。
光を通す金の髪の毛は突然下に落ちる。彼はつんのめりすぎて転けることもあるのだった。急いで駆け寄り、大袈裟なセリフを言いながら支え起こす。
この時の彼は悔しさに顔を歪ませている。たまらず口角が上ると、煌めく瞳が鋭く向けられた。怯むことなくこの俺を睨み続ける、この海色の目が好きだ。
波止場から今日も飛空艇が飛んでいく。機械の轟音にオウミ様は少し体を竦ませた。このちっぽけな王子がどんな行く末を辿るのか、見届けてみたいと思った。
無事に出会いの街から発ち、初めて世界樹というものを目の当たりにした。世界を冠するだけあって島を覆い尽くさんばかりの巨木である。オウミ様も目を開いて見入っていた。あの地が彼が1人で遣わされた、運試しの場所なのだ。
私達は飛空挺上の都市で2人のベテラン冒険者と1人の新米占い師と出会い、ギルドを結成した。声かけはほとんどオウミ様の突っかかりであった。こういうところは本当にさすがとしか言いようがない。
初めての世界樹は確かに危険な場所であった。こんなに動物共から狙われまくるとは思わなかった。生き物がやたらと人に対して攻撃的である。私がオウミ様に声をかけられ雇われたのは、この世界樹に挑むため傭兵としてだったのだ。なんかそんなことも最初に言われていた気がする。
合法的に刀を振れるのは良いが、周りにもしっかり気を配らないと一撃をかまされた時に動けなくなってしまう。相手は攻撃的な上に力も知恵もあるらしい。常に死が側に潜んでいる。
オウミ様はこんな場所でどう振る舞ったかというと、意外にも真面目に探索に取り組んでいた。モンスター共に逃げ腰にならず立ち向かう。
彼が行うのはほとんどが命令であったが、勉強はしてきたのかそこまで的外れなことは言われなかった。ベテラン組の言葉にも偉そうな口ぶりで返事をするものの、素直に受け入れて彼らにならっていた。
ついでにオウミ様は先輩から言われたことを自分なりに解釈して、言われていないことまで行動する様子も見せていた。オウミ様は凡人ではあるが、馬鹿というほどではなかったようだ。
ただしオウミ節自体は健在である。戦う相手はその土地に棲まう動物共だというのに、他の動物に襲われていれば助けたがるし、罠にかかった動物も逃してやりたいとか言い出す。ベテラン組は特に呆れた顔をしていた。
言葉遣いもいまだに独特で、とにかく自分以外を貶まないと落ち着かないようであった。
こんなに元気であれば叩き甲斐もあるというものだ。彼が得意げに何かを唱えている時に、拳で頭を殴ってやる。衝撃によろめいて呆然とし、状況を飲み込むとこちらに怒りの表情で向かってくる。そこにもう一回。さらにもう一回。米神やら眼孔やらに打撃を食らったオウミ様は怒声をあげた。胴を蹴って転ばせて、馬乗りでもっと殴る。オウミ様は顔を庇って耐える。もっと違う方法で全身を叩きつけられ、痛みに耐えられなくなっても彼の瞳から光は消えなかった。
オウミ様はとても丈夫だ。本当に彼は人間ではなく、天界から人の世に降りてきた聖なるものなのかもしれない。
初めて怒らせた日以降も何度も殴り、たまに寝台の上でも殴る。あまりに丈夫なのでたまに刀も使ってみたりしたが、こちらはやりすぎるとさすがに死にそうになっていた。鋼は苦手なのだろうか。
でもたまには愛を囁くだけの期間も設けて機嫌を取ることも忘れない。拳と愛を切り替える瞬間はオウミ様は猛烈に怒るが、慣らしてしまえは従順になる。母親に甘える子猫のようにみぃ、と鳴いて縋り付いてくるのである。
昼間の順調な探索の疲れを癒すのに彼は最適である。元気で見苦しくない彼は何をしても楽しい。付き合わされる面倒臭さはあるが、それは楽しみのための対価だろうから仕方なく払わなくてはならない。
さて、世界樹の生える島というのは本当に広い。実はこの島はいくつかの島々が集まってなる諸島であった。小さな島に探索すべき場所がいくつもある。一応この時の我々は世界樹に眠る秘宝を探していたので、手掛かりになりそうなところは片っ端から調査を行った。
言葉の「片っ端」というのはこんなに短いのに、実際の片隅の端からとなると非常に面倒くさいことこの上ない。何があるかわからない遺跡や何もない森、何も無い林、何もない草原、ともなるとやる気が湧かない。
しかも先導してくるのはあのオウミ様である。ひよっこのけして有能ではない威張り屋の王子の命令で、こんなあからさまに何もないところを歩かされているのだと思うと腹が立ってくる。
宿でも必死に紙に羽筆を走らせて、いかにも使命を背負っていますという顔をする。時間がないのであればもっと的確に情報を集めて探索場所の候補を絞るべきだ。あれは勤勉とかではなくただの馬鹿だ。
とりあえず机から引っぺがし、寝台まで運んで今日の鬱憤を晴らす。終わっていない今日のノルマは俺の気が済んでからでもできるはずだろう。
今日はどっちにしようか。最近はどちらも飽きてきた。探索は思っていたよりも果てが無かった。後何回こいつを抱けばいいんだろう。このわざとらしく偉そうな口上も聞き飽きてきた。彼のこの顔も飽きてきた。睨みつけてくる瞳の星にも興味はすでに無い。
オウミ様はほっといてもうるさい。構うのをやめてみただけでもギャアギャアとうるさい。従者ならどうのこうの、などと言っているらしい。俺はただの傭兵だ。あまりに煩わしいので殴ってやれば少し静かになった。まあ、たまに抱いてやっているのだから、寂しさはそれで紛らわしてほしい。
探索は相変わらず順調であった。オウミ様は少しずつ静かになっていったが、言葉遣いも態度も相変わらずであった。いや、多少は言葉の内容は嫌味が抜けていっていたかもしれない。仲間とも何だかんだで打ち解けていた。
必要があればこちらにも何事もなく話題を振ってきたりする。探索時の連携は必須なものだからやり取り自体が無くなるわけではない。ふとした時に、やはり顔だけは好きだなと思うのである。
俺が飛空挺上の都市をほぼ踏破したくらいの頃、世界樹の調査もだいぶ進み、目指すべき目標が明確になっていた。同時に飛空挺の所有国のお姫様がいなくなったのを探したり、おっぱいが洞窟を歩いていたりと、何かいろんなことが起きていた気がする。おっぱいのこと以外は割とどうでもいいことだった気がする。
オウミ様のよく通る声に鼓舞されて、刀を振り下ろす力が一層強くなる。最近の彼は憑き物が落ちたようにやたらとスッキリとしていた。言葉の尊大さは変わらずだが、呪文のような悪口はほとんどなくなっていた。本当に楽しげな声で笑うこともあった。
なんとなくやめていた彼の鎧脱ぎの手伝いをした時はさすがにまた怒られたが、根気強く謝ったりなんかしていたらそのうち許された。
体の方も同じだった。痛めつけられることにも甘やかされることにも、両方ともに対応する。放置されることも受け入れていた。瞳の海はころころと色を変えて、どんな時も光を反射していた。
今にして思えば、出会った頃からすでにオウミ様は壊れていたのだ。俺が雇われ続けているのがまずイカれている。彼は壊れているからなんでも受け取り、だが途轍もなく馬鹿で頑丈だから光だけは失われない。
彼は愚直につきすすみ、世界樹の秘宝の正体に辿り着く。彼の国の王が求めていた秘宝とは、巨大な太古の災害みたいなやつのことであった。
我らはそれを打ち破り、結果的に世界を救ったらしい。
実のところオウミ様に与えられた命令というのは、世界樹の秘宝を探し当て国に持ち帰ることだった。だがその秘宝はとても所有できるようなものでは無く、しかもオウミ様は討伐までしてしまい、国王からの命令を達成することはできなかった。
だが彼の成し遂げた功績は秘宝の存在をかき消すほど輝かしいものであったはずだ。他国との友好的な繋がりも作ったので名声と名誉は拡散されるだろう。国の武器とすることは十分に可能であるし、使いようによっては厄災よりも強い手札となる。というふうにベテランのうちの1人が言っていた。ベテランが言うのだからその通りなんだと思う。
飛空挺の上で凱旋パレードが執り行われた。オウミ様はしぶしぶの参加でずっと仏頂面だった。
でも祭りが全てが終わって宿でくつろぐとき、感慨深そうに振り返っていた。窓から街の灯りを見て、彼らを救えたのだな、と静かに安堵の笑みを浮かべていた。
彼は自身の国から出立したあの日も、普段通り鎧に身を包んでいた。10ヶ月ぶりの再会なので随分久しぶりであったが、相変わらずの姿に思わず笑顔になった。
彼が直に手配した航海は順調だった。人手も物資も十分に充てられており、さすが王族だと思った。ちなみに今回の世界樹にも彼が単身で乗り込むらしい。直近の成果を評価されてのことだという。情報屋から聞いた。
海路を進む船の上で、彼はずっと自室に篭り切っていた。たまに姿を現す時は保存食を補充するくらいで、こちらとは一切会話をしようとしなかった。声をかけると足早に立ち去ってしまう。シャイでかわいい。
この野良猫のようなオウミ様は船内で話題になっていた。パンを数個抱えて早足で去っていくのが話のネタにならないわけがない。
しかし仮にもオウミ様は王家の人間である。船員たちが遠慮なく彼のことをネタにできるのは、彼の国家が国民と希薄な繋がりしか築けていないからだ。
あの国は先先代の王が元居た酋長を倒して興った国らしく、元から土地に暮らしていた人々をそのまま国民として扱っているという。民は王を名乗る余所者に、忠誠を誓う理由を見出せていなかった。
船上はなかなか愉快な空気だった。自分も他の乗組員と共に船旅を楽しみたかったのだが、オウミ様に会えないのは個人的に大問題だった。
事前にいろんな伝手から情報を集めてこの船に乗ったというのに、オウミ様に会えないのは非常につまらない。彼の部屋にはいつも鍵がかかっており、声をかけても返事はない。
彼と直接話したい。それならば彼自らが外に出ている時を狙った方が早そうだ。仕事をしつつ彼の気配に集中し、次に彼が出てくるのを待った。
彼がようやく部屋から出てきたのは、前回彼がパンを拝借してからまた数日後のことだった。真夜中の明るい空の時だった。
彼が向かったのは食料が積まれた倉庫ではなく、甲板の陰りだった。凪いだ夜中に鎧を鳴らして歩く。月光も差し込まぬ影の中、船縁にしがみついて海面を見ていた。
オウミ様、と声をかけると、彼は突然のことに驚いたかのように転ぶ。久しぶりの彼にたまらず駆け寄る。金の髪は乱れており、頬がこけている。
暗くてよく分からない。あまりの形相の違いに別人なんだと思った。本物の彼は別のところで守られながら行き先に向かっているのかもしれない。
相手は立ち上がるのに手こずっていた。それも彼らしくなく、首根を捕まえて顔を覗く。
妙な感覚であった。彼のような感触もあるが、それにしては何かが違う。見開いて睨みつけてくる目に気高さはあるが、しかし付け焼き刃の偽物にも見える。
何が違う?海の色か?光の具合か?しかしそれらに間違いはない気はする。でもやはり何かが違う。
「誰だ」と尋ねると、交じり合わさる先の視線は酷く揺れた。そのものはだんだんと呼吸を乱れさせて咽せる。その勢いでこちらを振り払い、船縁に体を擦りながらゆっくりと立ち上がった。海面に向かって一度えづく。そして思い出したかのように背筋を伸ばして歩く。いや、歩こうとして膝から崩れ落ち、再び船縁に寄りかかって姿勢を直そうと奮闘する。
血の気が引いた。こんな馬鹿みたいな挙動をするのはオウミ様くらいなものだ。急いで支える。
丸く曲がった背中に腕を回してもう一度彼の顔を覗き見る。暗い虚な目が一瞬こちらを捉えて、すぐに地面へ吸い込まれた。彼はまたえづき、数滴の涎を垂らした。
彼を抱えて急いで部屋に向かった。月明かりに照らされたオウミ様は見たこともないほどにやつれていた。顔の骨が分かっていいはずがない。鎧を纏っているはずなのにやけに軽い気がした。
入った部屋の中はゲロの臭いがひどかった。あちこちに吐瀉物が落ちている。寝台のシーツも例外ではなかった。
ひとまず抱えている彼を下ろし、汚れたシーツを剥ぐ。彼の元に戻って鎧を取る。下から現れた体は細くなっていた。横抱きしても軽いので腕が辛く無く、骨の形がやけに分かる。寝台に横たえさせるとまた彼はえずく。
浅い呼吸が繰り返されている。骨がやたらと主張するインナーの下はどんなものかと捲る。何となくの興味であった。
染みだらけだ。全ての服を脱がせて確認すれば、首から下の全身がアザでマダラ模様になっていた。どこもかしこも赤黒く、白いところも黄疸だと思われる。顔には何もついていないのに、胴は執拗にアザがつけられている。
こちらが動けずにいるとオウミ様はおもむろに脚を開いた。ガニ股に開かれた脚の付け根に手を這わせて指を動かし、顔を向こうに逸らせてえづく。その光景に思わず乾いた笑いが出た。
体勢を横寝に直しつつ、何か違和感がある足先を見ると、その指には爪がない。もしやと思い、籠手を外す時には気に留めなかった手を見る。こちらにも爪は無かった。
浅い呼吸は終わらない。そしてまたえづき、今度は中身も出したようだ。彼の口から垂れていたのは透明な粘液だった。まずは水を飲ませて寝かしつけなければ。
彼の部屋にはまだ飲み水があるようだったので、一度毒味してから飲ませる。こういう時は少しづつ飲ませるのだと聞いたことがある。布に水を含ませて少しずつ舌に伝わらせればよいだろうか。少しずつ口に含ませれば、オウミ様は飲んだ。これで寝てくれれば多少は休めるはずだ。
固くこびりつくゲロを片付けていると、オウミ様はまた吐いた。今までより若干量がある。飲んだ水を全て吐いている気がする。汚れた所を拭えるだけ拭い、再び彼に水を与えるかどうか迷う。せめて舌だけ濡らす程度ならばと考えていたその時にも彼は体をわななかせて吐こうとする。
何をそんなに吐き出そうとしているのだろう。ここで無理やり吐かせればこの動作も止めるのだろうか。
そんなことを考えている場合ではない。こんな海上でこんな有様になっている馬鹿をどうにか生かさねばならない。走り、航海士の元に行き、近くの街に向かうように怒鳴った。
それからは、何とか彼は耐え抜き、町にもついて医者に診てもらうこともできた。療養の末に彼はまた立つことができるようになった。
その後また船を進め、この街に着いた。乗組員たちとはとうに別れ、今頃は戻った国でまた他の仕事をしているだろう。
あの時の彼のことは、たまに今みたいに反芻する。
ようやく宿に着く。部屋のベッドにオウミ様を下ろす。
すでに正午過ぎくらいの時間であるが、ひさしが日光を遮って、部屋の中は程よく薄明るい程度だ。風も程よく通り、昼でも寝るのに適している。
ベッドに横たえさせられたオウミ様は目を覚ましていた。寝ぼけまなこで天井を見ている。
床に座ってベッドに肘掛けながらオウミ様を眺めていれば、相手もこちらに気がつく。顔をこちらに傾けてくれた。頭が働いていない故の無垢な顔を見ていると、その鼻に指を突っ込んでみたくなる。今はやらない。
「オウミ様、俺の名前呼んでください」
「なんだ、やぶからぼうに。俺にはやることがある」
「いいから」
起きあがろうとする彼の頭を抱いて静止させる。動きの途中で止まった彼は横寝の姿勢になった。努めて優しく頭を撫でてやれば、目が細められる。
俺は地べたに座り直し、オウミ様を眺める。でも彼が逃げないように頭は撫で続ける。
「オウミ様呼んでくださいよ。みつうろこって」
「おれは、こんなことをしている場合ではない」
「休む時はしっかり休むのです」
「まだ、昼だ。言い訳だ」
「オウミ様」
「みな働いておる。おれは、それにむくいねばならん」
「ならオウミ様、頑張ってる俺にご褒美ください」
するとほとんど閉じていたオウミ様の目はしっかり開かれ、こちらを見た。海色の瞳の色に変わりない。目はまた少し伏せめがちになったが、俺のことは見つめたままだ。何かを考えてくれているらしい。
「ああ。おまえはよく働いている。僅かばかりになってしまうだろうが、今度手当を支給する」
「オウミ様、物はどうでもいいです。それよりもみつうろこと呼んでください」
「なぜ」
「オウミ様、呼んでください」
「なぜだ」
「約束は守ってください」
「…悪かった」
オウミ様は非常に不可解そうな顔をしていたが、何かを納得はしたようだ。
半開きの唇が緩く閉じ、何かの音を発しようとする。
しかしそれはほどけて、違う言葉を発する。もどかしい。
「お前のなまえ、なんであったか」
「みつうろこ、です」
「…みつ、うろこ。そうであったの」
「ふ、へへ。そうそう。もう一回、ねえオウミ様」
堪らず互いの額をくっつけた。何度見ても好きな顔だ。鼻に睫毛が当たったので、彼が目を瞑ったのだと分かる。
オウミ様の長い髪の毛は外界を遮断するのにちょうど良い。こもっていく吐息が面白くてキスはしなかった。目を閉じているとこちらまで眠たくなるから不思議である。
「……みつうろこ」
「そうですよ。あなたの愛しのみつうろこですよ」
「み…」
「ぐふふ」
彼の掠れる声は夢の中で聞く音のようである。目眩のような強い浮遊感が頭を襲う。動くのも怠く、ずっとこのまま額を付けていていい気がする。
この妙な高揚感はそのうちに消え失せる。奔放になった集中力は五感を使ってあちこちから情報を拾い、それも飽きた頃に眠気がやって来た。
遠くの波の音、そういえば彼の名前にはナミがつく。オウミなどと略しているが、オウミナミが正しい名前だった。
初めて出会ったときもオウミナミと名乗っていた。変な名前だと思ったし当時も口にした気がする。そのときは「庶民には高貴さが分からないようだな」などと小馬鹿にする態度を取られたのだった。それが無性に懐かしい。
何者かに顔を押しのけられる。物思いに耽っていたところなので気配に気づけなかった。多分これはオウミ様の手である。力は大して無いが、顔面を掌で押されるのはさすがに苦しい。
しぶしぶ顔を上げると、オウミ様は健やかに眠っている。彼は息苦しさに耐えられず、寝ぼている素直さで腕を伸ばしたらしい。
寝顔にかかった乱れ髪を手櫛で退けてやる。首に落ちて絡んでいる毛も後ろへ流してやれば、幾分か涼しくなるだろう。
靴を脱いでベッドがなるべく揺れないように上り、彼と壁の間の空間に座る。窓から洗濯物を取り込み適当に畳んでベッドの隅に積む。
それから油を何滴か手に取って両手に馴染ませる。金の長い髪を掴み、手櫛で梳いた。広い範囲に付けていけば自然な艶になる。まとまった毛は上品に見える。まだ少し油がついた手で頭部の方も撫でる。さっき流した髪をもう一度整えるように梳いてやる。
髪の毛全体が落ち着くと、かなり見てくれは良くなった。
油は蓋をよく閉めて床に置く。オウミ様の隣に寝転がり、天井を見る。深い茶色の木の板はもう何度か見ているので模様は何となく覚えた。
目を閉じて隣の寝息に耳を立てる。一定の周期を保つ音に安心する。あとは彼が何もかも元通りに戻ればいいのだ。
目を開けてもう一度隣の彼を見る。オウミ様は何事もなさそうに寝ている。爪も生えているし、アザも然るべきところだけにある。髪の毛だってつやつやだ。
ここまで直ったのだから性格も元に戻るべきだ。だが出会った時から壊れていたオウミ様が完璧に治った時、そのオウミ様は俺の知らない彼になっているかもしれない。それならこちらの好きなように使い潰してしまった方がよほど楽しいのではないか。
こんなことを考えて心に湧き出る感情はひどい不安感である。我ながら笑えてくる。
心の底から楽しい日々ももう来ない。それでも今は、俺がオウミ様に飽きずにいられますようにと思う。彼よりも美しい人はこの世にはいない。俺が生きたいならばこの人を守らなければならない。
このまま目を瞑って寝ようかと思ったが、やっぱりオウミ様を背後から抱きしめて堪能してから寝ることにした。こういう時ばかりはこの島が常夏であることを憎む。
温かな腹に手を埋め、髪の毛の滑らかさを楽しむ。気分が高揚していく。この昂りは後でぶつけるとして、今は自分自身の疲れも解消してしまおう。
それにどうせ後々寝苦しくなって離れるのだ。
終わり!