物言わぬ、お前へ。『今日の記録、どう?』
『凡そ1325g。昨日と変わらん!』
『了解。ありがとう。』
添と子タろのここ最近のチャット履歴はこの流れの繰り返しで埋まっている。添がそれの重さを聞く、子タろが答える、それに軽く反応する添。これの繰り返し。
『彼女』の隣に置いた"それ"の緩い円柱型の側面に、添は優しく手を沿わせた。ピコ、とスマホから通知音が鳴る。こんな時に、と溜息を吐きながら添が投げ出していたスマホを手に取ってロック画面から通知の内容を確認する。それを見た瞬間、すぐに添はロックを解除し、その通知を届けたアプリを開く。
『おはよう、テン。』
添は少し表情を綻ばせた。そして、"それ"に再び顔を向けて、手でその側面を撫でた。
「……おはよう―――練牙さん。」
添が『練牙さん』と呼んだその円柱型のカプセルには、緑がかった透明な液体で満たされていて、その中に、人の脳みそが一つ、浮かんでいた。カプセルの分厚い蓋の部分に並ぶいくつかのランプのうちの一つが赤く点滅した。そしてまた、添のスマホのアプリに通知が来る。
『今日はテンの『彼女』と少し話すことができた。』
「…え。練牙さん、話せるの?オレも聞きたいよ。どんなこと話したの?」
『テンは、オレ、の、話をよくしていたと言っていた。』
「わー、何それ、恥ず。」
赤く点滅していたランプは緑色に戻った。それ以降、通知はしばらく待っても来なかった。
「…ふう。だいぶ話すようになってきたし、子タろにこの口調アップデートできないか聞いてみるか。」
―――
2ヶ月ほど前。
礼光のもとにとある報告が上がってきた。それは朝班のみで共有されたが、朝班全員を震撼させた知らせだった。
――キバが瀕死で発見された、と。
一番ショックを受けていたのは、礼光ではなく、練牙に見えただろう。礼光は胸中こそ練牙と同じくらい穏やかではなかっただろうけれど、朝班を集めてその事実を告げ、唇を噛み締めながら立ち尽くしていた礼光と、ショックで一瞬意識をなくしてその場に崩れ落ちてしまった練牙とでは印象に差がつくのも当然の話だった。
キバの容体は深刻で、身体は全て使い物にならない状態で、意識だけ生きているというものだった。礼光は何があったかは話さなかった。しかし、彼は少なくともそのままキバを看取るつもりだった。
――「オレの身体を、"練牙に返す"。」
その場にいた全員が止めた。添を除いて。
礼光でさえ止めた。「その必要はない。これがこいつの運命だ。」と。可不可も雪風も、主任も、大泣きしながら止めた。しかし、練牙は誰の言うことも聞かなかった。
この身は『西園練牙』のものだと。
普通は、身体ごと移植なんて不可能なことでも、何もかもが同じであるキバと練牙であれば可能だった。
要は、脳の入れ替えであった。
今、"練牙"の身体の主はキバで、持て余した"練牙"の脳みそは、添の『彼女』の隣でカプセルの中の保存液の中に浮かんでいる。
――「これ、どうするんですか。」
手術が成功して、別室で主任たちがメンタルケアを受けている間、1人、添は隅に置かれた"練牙"の脳みそが入ったカプセルに視線を向けながら、医者に聞いた。
こんなケースは初めてだから社会的な処理も含めて正直どうするかはまだわからない、と困っている様子だった。おそらく専門の研究センターに届けて今後の医療研究のサンプルに使われることになるとも言っていた。
――「どうするか決まってないなら、これ。オレが引き受けてもいいですか。オレ、この人の大事な人なんで。」
これからも、『西園練牙』は変わらず存在し続ける。誰も、その正体に気づくことはなく。朝班と主任以外――也千代は絶対に口外してしまうので知らされていない――には、『西園練牙』の中身が変わったことは知らされていない。だから、『練牙さん』が居たことを証明するものは、朝班と主任の記憶と、添の持つこの脳みそだけになった。いや、正確には、もう1人、知っている者はいる。
――「子タろ、頼みがあるんだけど。」
――「できないことわない。けど、媒体が必要じゃ。」
――「何を用意すればいい?」
――「レンチの、大切なヒトの一部じゃ。」
―――
「これがほんとーに、あんたの望んだ未来なの?練牙さん。呆れるくらい、あのキバって人以外どーでもいいんだね。」
添が少し顎を上にあげると、カチャ、と左眼に当てがっている黒い眼帯が音を立てる。この脳波を感じ取って間接的に会話ができる装置は、最初のうち――つい最近までまったくうまくいかなかった。受信を示すランプの赤い点滅も、点滅しはしても、肝心の言語化がうまくいかなかった。
やっぱり、自分の一部じゃダメだったのだろうか、と考えた日もあった。添は初めて会話ができたその日まで、もう見当がつかないほど、いっそ"練牙"の脳みそを浮かべたそのカプセルを蹴飛ばして、中身をひっくり返してやろうかと何度も考えた。
それでも、それができなかったのは、"練牙"のような善性の塊が、純粋の権化が――初めて見返りを求めずに自分と接してくれた友達ってヤツが、この世の不条理に潰されるのを指を咥えて見ていられなかったからだったのかもしれない。
カプセルの外壁をコツンと指で突いてから、その指をツツと下へと沿わせて、ぱたりとそのままベッドのマットレスに力無く手を落とした。
「まだここにいたのか、添」
今の『西園練牙』――キバが部屋に入ってきた。
"練牙"が着ていたレンタルのブランド服に身を包んでいる。薄く微笑みを浮かべたその表情は、キリッと目尻が上がっていてもう"練牙"特有のあどけなさは残っていない。
添は不快そうに眉を顰めてキバを睨んだ。
「…誰も見てない時はそう呼ぶなって言いましたよね」
「ああ、ごめんな。――『十番目』くん。呼び方にも拘るなんて、相当レンのことを懇意にしてくれてたんだな。感謝するよ。」
うるさいな、と思いながら、添は寝返りしてキバに背を向けた。
「俺はレンのことを不幸にしてしまった。運命だったのに。何よりも大切だったのに。不注意だった。」
「……」
「でも、まだ、レンは生きている。死んでいない。君には本当に感謝しているんだぞ。そこにまだレンがいる限り、今世もまだわからない。」
たまに、このキバという男は遠い目をしてよくわからないことを喋る。そんなに言うなら、"練牙"の身体を返せよ、と思う。キバは、絶対に身体を返すとは言わない。でも、だからといってもし身体を戻したとしても、"練牙"がそれを望むかどうか考えると、添は何も言うことができずにいた。
「毎日毎日、何も言わないレンの脳みそに大事そうに話しかけて。君はその隣の植物にも話しかけていて、意外とメルヘンなところがあるみたいだね。」
「…オレ、寝るんで黙ってもらってもいいですか。」
「そう言うなよ。俺はレンが特別大事に思っていた君のことが気になるんだから。」
「…寝るって言ってるでしょ。」
「子タろに聞いてる脳みその重さ、一体何に使うつもりなんだ?」
少しの間、沈黙が流れる。
空調の音と沈黙が作り出す耳鳴りのような高い音が2人の間を紡ぐ。
「…はぁ。わかったよ。もう何も聞かない。今日はこの後も芸能の仕事と区長の仕事が夜まで入ってるから俺は戻らないけど。いつか一緒に飲みに行こう。俺がおすすめのバーを紹介してやるからさ。」
「…結構です」
キバはフッと軽く息を吐いて柔らかく微笑み、「わかった。また今度な。」と最後に添の背中に向けて言葉をかけ、部屋を後にした。
再び静寂を取り戻した部屋の中で、添が寝返りをして布が擦れ合う音だけが響く。
「…あんたが身体ごと持って行った"21g分"をつくりだそうとしてんだよ。」
1人呟いて、添は"練牙"の脳みそをカプセルの冷たいアクリルガラスの外壁越しに愛おしそうに撫でた。
あの身体に残っている"21g"が、キバに染まりきったものだとしたら、この後もし、"練牙"が1gでも増えたら。
――それは全部、添のものだと言っていいだろう。
「ねぇ、練牙さん。」
「これから先は、オレと練牙さんの思い出の方がきっと多くなっていくよ。だって、オレに委ねられてるからね、練牙さんのこれからは。」
「練牙さんも、大事な友達にこんなふうに大事にされて、嬉しいよね?オレ、他にも友達たくさんいるのに、練牙さんにだけつきっきりなんだよ?」
"練牙"と会話を交わすためのアプリの通知は鳴らない。
自分の一部を犠牲にしてまで、この脳みそとコミュニケーションをとる手段を得たかったなんて。添は自分もなかなか猟奇的なことをするもんだと、自分自身を偶に嘲笑っていた。
「大切な人の一部」として自分の片目が役割を持てた事実に酔って、今日も彼は話しかけ、"21g"の発現を待つのだった。
ピコ、とアプリの通知が鳴った。
添はスマホを手に取り、ゆっくりと眉を緩めて微笑んだ。
『大好きだ、テン。』
添は、そっと脳みそを容れたカプセルに口付けをした。
「…オレも、オレのことが大好きな練牙さんが好きだよ。」
そう呟いた添の、吹雪の夜のように冷たく低く、甘い声色が。閉められたままのカーテンから漏れる僅かな太陽の光だけが灯る薄暗い部屋に、静かに響いた。