【82】ドライアドの気まぐれ 短い悲鳴と共にすれ違っていく女子を横目に柳生が校舎裏へと足を踏み入れたのは、好奇心以外の何物でもなかった。まるで幽霊でも見たかのような反応だと一抹の不安を胸に、立海大附属の有名スポットである大木の下を訪れる。そこには危惧したような不穏な空気はなく、代わりに熱心な眼差しを大木に向けて座り込む少年の姿があった。
一際目を引く銀髪には何枚もの桜の花びらが纏わりついており、神話に登場する樹木の精霊を彷彿とさせる。確かに幽霊に近しい非現実的な存在だと恐れられるのも何ら不思議ではないのかもしれない。
他者を惑わせる花びらの群れはそれなりの時間を此処で過ごしていた確固たる証拠。恐らくは前の授業をサボタージュしていたというだけの話だ。しかし「不真面目な態度は感心しませんね」と眉を顰めるよりも先に、桜と同化した彼の存在に柳生は心を奪われていた。
この少年には見覚えがある。自分と同じくテニス部の新入生として、今日の朝練でも球拾いや素振りをしていた姿がすぐに思い浮かぶ。名前は確か、仁王雅治。直接言葉を交わしたことは未だにないが、一目見れば二度と忘れることのない風貌のおかげで接点はなくとも強く印象に残っている。
恐る恐る一歩を踏み出す。こんなに近くにいるというのに、仁王は柳生の存在を気に留めることはしない。瞬きをしていることから当然意識はあるのだろうが、いくら待てども一心不乱に大樹を見つめるばかりだ。
自分は試されているのだろうか。その思考に至ることすら、もしかすると既に彼の術中に嵌まっているのかもしれない。誘われるように白銀の毛先に絡まる花びらをひとひら払いのけた。
緩慢な瞬きの後、ようやく視線がかち合う。何かを語りかけるわけでもなく、探るように窺っている。先程まで大木に集中していた熱視線が全て柳生に向けられている。眼鏡越しではなくレンズの隙間から覗く双眸を捉えられている気がして、無意識にブリッジを指先で押さえていた。
「すみません。花びらがたくさん付いていましたので、つい」
授業はきちんと受けるように、といったお咎めは出てくる気配のないまま、何故かばつの悪そうな謝罪から溢していた。少年は今気付いたと言わんばかりに毛先に目をやり、大きく頭を左右に振る。はらはらと彼の頭上から桜が散っていく。なおも纏わりつく花びらは色白の指先が乱雑に払い、立ち上がる頃には頭に咲いた花々はすっかり枯れていた。
「払ってくれてありがとさん。柳生」
自分の名前が何処か違う言語のように聞こえる。まさか彼が自分を認知しているとは露にも思わなかった驚愕。知らないうちに柳生の肩に落ちていた花弁を仁王の指がつまみ、ふっと息を吹きかけて空に返す。
そうして少年は微笑む。黄金の色をした瞳が細められる様はさながら真昼の月を見ているようだ。それ以上は言葉を交わすこともなく、不思議な隣人は校舎の中に消えていく。遠ざかる背中と舞い上がった花びらを交互に見つめる。名残惜しいという感情が芽生える頃にはどちらの影もすっかり分からなくなっていた。