【82】隣の一等星 仁王が意図的にじゃんけんに負けようとするとき、どこか柳生を連れていきたい場所があるのだと知った。
違和感に気付いたきっかけは恐らくはまだ仁王本人も気付いていない癖であろう、嘘を吐こうとするといっとう低くなる声色だ。それに付随してこちらを執拗に観察する蛇のような眼差しが向けられたり、じゃんけんの掛け声がどことなくぶっきらぼうな物言いになる。まるで柳生に、この見え透いた詐欺を見破って欲しいとでも言いたげに。
初めのうちは故意だと知りながら罠に嵌まりに行ってもいいものか、疑り深く探りながらぽんの合図で出す手を決めていた。仁王の思惑に逆らって負けてみたところで特に咎められることも無い。いつも通りに柳生の運転で家路につくだけだ。なので最近は悩む間もなく、仁王が負けたいと思う日が訪れたら進んで勝ちの手を出すことにしている。彼がどんなところに連れて行ってくれるのかという興味と、二人で何かをしたいと願うひとときを大切に過ごしたかったからだ。
勝敗が決すると仁王はそれ以上言葉を紡ごうとはせず、自転車のハンドルを握りしめながら柳生が後部座席に座るのをじっと待つ。目的地につくまで一度も後ろを振り返ることのない振る舞いは、当然のようについて来てくれるという信用の表れのようだ。柳生もその意思を汲み取り、黙って仁王の背に腰を下ろした。
ゆったりと、しかししっかりとした足取りで漕ぎ出される。鬱陶しい蒸し暑さと共に纏わりつく生温い海風がこの時ばかりは心地よかった。
行き先は全て仁王次第だ。初めて連れられたのはテニス部でのトレーニング場所としても馴染み深い最寄りの海辺だったし、先日はアイスを買うためだけにコンビニで道草を食った。買い食いをするのは風紀委員として看過できるものではないと見て呉れの愚痴を溢せば、仁王は今さらだと喉を鳴らしながらせせら笑う。
引き留めるのであればじゃんけんの賭けから、もっと遡るなら関東大会のための詐欺を許容した頃からだったのかもしれない。帰り道に隠れて食すアイスの味が格別に美味しいものだと、柳生は既に知ってしまったのだから。
「着いたぜよ」
辿り着いたのは見知らぬ土地だった。眼前に広がる風景こそ見慣れた街並みであったが、柳生はこの場所に一人で来たことも二人で来たこともなかった。今までの寄り道とは違うと、ひとりでに心が弾むのをそのままに純粋な疑問を仁王にぶつける。
「此処は?」
「夜景が綺麗に見えるところ」
それだけを口にすると仁王は相方の困惑を気に掛けることもなく、手すりに寄り掛かって頬杖をつく。その慣れた佇まいで頻繁に訪れている仁王のお気に入りスポットなのだと察しがついた。己の胸の内に留めておくことも出来たはずの隠れ処を共有する行為がどれだけ大きな意味を持つのか、彼のことをよく知る柳生だからこそ身に沁みるものがあった。
学校もテニスコートも通学路も海岸も、胸に息づく景色がこの高台から余すことなく一望できる。多くの足跡を残したこの地を見下ろしながら仁王はいったい何を思うのか。ほんの一片でも感じ取れるならと柳生は彼に並び立ち、ただ前だけを見据える顔つきを眼鏡の隙間から覗く。
陽が落ちて辺りが暗くなり始めれば、きっと満天の星空が眺められることだろう。けれど柳生にとっては自分にしか知り得ない、隣で瞬く金色の一等星がどんな絶景よりも綺麗だと感じたし、どんな秘密を知るよりも胸がすく思いがした。
蝉の声が遠ざかる。体内から湧き上がる熱も今だけは全部、夏の所為だ。
(2025.08.02)