【バンフリ】人戯え 友愛に恋心が芽吹く情景を目にして初めて、恋に焦がれる熱情を知った。俺以外の人間にはきっと認識することが叶わない原風景を思い返すたび「共有も共感も得られないなんてもったいないな」と、少し残念な気持ちが滲む。色彩に温度、匂いや味。人の感情から連想される色々な観念をはっきりと体感したのもそれが最初だ。
俺の想い人が俺に実らせた恋心はこうして口寂しさに咥えた溶けかけのキャンディみたいな、ほんのり切ない甘さをしている。舌先から伝導する人肌で磨かれていくうちにその身を擦り減らしていなくなってしまう。そんな淡いくちどけを壊したくなくて、俺は自らの熱視線をひた隠しにしながら見守ることに徹している。
俺の相棒かつ想い人、シルバ・セラ・バンビエーリとの出会いはただただ純粋な幼心から始まった。
自分と連勝記録を競うようにその名を轟かせている同い年の少年。コートの端から端まで縦横無尽に動き回ったかと思えば身軽に宙を舞い相手を惹きつける、パルクールテニスの使い手。記録や伝聞から窺い知る情報はどれもが未知との遭遇で、同じくらいの戦歴を持つ者として当然気にならないはずはない。
日に日に文字をなぞるだけでは物足りなくなり、一目会うためだけに彼の通うテニスコートに足を運ぶほど心が突き動かされていた。あの頃の衝動を振り返り、今になって名前を上書きするのは野暮かもしれない。ともかく、そんな子供特有の目映さに駆り立てられるようにして俺はバンビと巡り会った。
溢れ返るほどの興味関心から勢いで迫った少年は随分と寡黙で、知り合って間もない時期は俺が十話し終える頃にやっと一が返ってくるかどうかだった。それでも顔を覗けば饒舌な感情が俺だけに全部教えてくれる。表情や態度にはあまり表さないだけで彼なりに俺と過ごす日々を楽しんでくれていることを。
どこか自分の殻に閉じこもりがちなバンビに持てる限りの言葉を尽くし、徐々に打ち解けていくにつれて彼の纏う空気感が自然と和らいでいくのを感じていた。別れ際に俺が口にする「また明日」の約束を大切に心の引き出しにしまってきらきらと瞳を輝かせる、無垢で優しい少年。その純朴な一面に彼の奥底にある寂しさの片鱗を垣間見た気がして、俺も「バンビと一緒にいられたらいいな」と願う明日の数がどんどん増えていく。
彼と心を通わせられたのはやはりテニスの力が大きい。バンビとの打ち合いは純粋に楽しくて、他の誰が相手でも感じることのなかった心地のよさを味わわせてくれる。実力が拮抗していて張り合いがあるのも理由の一つだが、何よりもぴったりと波長が合う。返球のタイミングとかテンポ感とか、型に嵌まった言い回しで表せるものとは違う。感情認識力を必要としなくともラリーを交わせば彼の全てが分かってしまうような、言葉以上の熱量が一球一球に込められている気がした。
俺達は一度テニスで交わったのだから繋がりが完全に絶たれることなんてない。いつしかそんな確信めいた直観が自分の中に存在していた。待ち望んだ直接対決、バンビが何も告げずに俺との決勝戦を棄権したときでさえもそう信じてやまなかった。実際、少年は不戦敗で終わった後も俺の前に現れて虚空に放ったサーブを返しに来てくれた。
やっぱりこれでお別れじゃなかったんだ。胸を撫で下ろしてみてようやく、自分にとってバンビがどれだけ特別な相手になっていたかを自覚する。キミにとってのオレはどんな存在なんだろう。衝動の赴くままに振り返ると「いずれ来る未来でフリオとの関係が終わりを迎えるかもしれない」と、悲痛な思いを抱いているのが見えてしまう。別れを惜しむのは俺との時間を愛しいと思ってくれている証拠だ。打ち解けてみたいという当初の希望を超えて、俺はもっと彼に踏み込みたくなっていた。
「人の感情を認識できるんだ」
「感情を認識?」
「そう。相手の考えていることが顔を見たら全部分かっちゃうんだよ」
バンビの心に踏み込むための第一段階として、俺自身の感情認識力について詳細に明かした。
隠すほどでもないと自分では思う。だが、感情認識力のことを知って怖がる人も少なからずいる。一方的に感情を知られる感覚や秘密を盗み見られてしまうのではないかという、得体の知れないものに対する脅威が警戒に繋がってしまうらしい。みんなにはない能力みたいだから理解が及ばないのは仕方のないことだし、その見解が全て間違っているというわけでもなかったので否定的な意見も甘んじて受け入れていた。
恐怖心があるからこそ、人は危険から身を守れる。誰しもが持つ感情だからと気に病むことはしないが、みんなと俺との間には明確な隔たりがあることはさすがに理解していた。
驚かれるだけならいい。自分に対して向けられる怯えた目つき、八つ当たりにも似た怒りを正面から受け止める術を幼い俺はまだ知らなかった。感情認識力について他言を避けるようになる時期を挟むくらいには未熟だった。自ら世界を閉ざすほどの悲観はしないけれど、バンビの抱えている孤独と近しい面はあるのかもしれない。
バンビにだけは否定されたくなくて、過度な期待を寄せてしまっている。ラブ&ピースを謳っていながら独りよがりな思考を持つ自分自身に苦笑いの味が沁みる。そんな俺の自嘲を掻き消すみたいに、真新しいミサンガを付けたばかりの手と手が触れ合う。手のひら同士を重ねる意図が咄嗟には読み切れず、弾かれるように目の前に灯る感情を凝視していた。宵闇の瞳にはちょっとやそっとじゃ揺らがぬ意志が燃え盛っている。
「バンビ?」
「フリオには全部伝わっているのか?」
質問ではなく確認。感情を読んでくれと暗に言っている。俺の感情認識力を前にしてなお、自ら心の内を開示しようとする人に出会った経験がなかったので正直面食らった。正気なのかと疑念の眼差しを向けてしまうが、彼の顔つきに現れた決意は変わらない。
バンビは俺を恐れずに尊重してくれる。もらえることが当たり前ではない無償の思いやり。彼の気持ちを無下にはしたくないと考えるのは必然だった。
バンビの内に潜む感情を認識することだけに全神経を注ぐ。これほどまで集中力を高めるのは手強い上級生と対戦したとき以来だ。もしも俺達がダブルスパートナーにならなかったら、シングルスの対戦相手としてネットを挟んだ向こう側でバンビを射貫いていた未来もあったのかもしれない。でも、それじゃ知り得なかった想いが此処にある。
断片的に流れて来る感情を一つずつ紐解いていく。考えるよりも触れたいという気持ちが先行したような、勇気を出して伸ばしてくれた手は俺に寄り添うため。慈しむかのような穏やかな眼差しはありのままの俺を受け入れてくれる証。ポーカーフェイスの裏で柔和な微笑みを浮かべるバンビから満ち溢れるものは、俺に対するひたむきな愛情ばかりだ。
友達であり、相棒であり、家族に近しい情もある。ただ、この愛はなんだろう。いくつもの愛が複雑に絡み合っている中でもほんの小さな灯火に過ぎないのに、一際存在感を放っている。俺に知って欲しいけど知られたくない、どっちつかずな態度で訴えかけるそれ。過去に瓜二つな感情を目撃した経験があった。クラスメイトの天邪鬼な男子が内気な女の子に心を寄せているのを覗いてしまった、かつての妙な気まずさがせり上がってくる。明確な回答は既に手にしているのに、どうしても言葉に詰まってしまった。
「俺のことを、すごく大事に想ってくれている……」
嘘は吐いていない。しかし、肝心なことは伝えなかった。おずおずと口にした俺の言葉をバンビはあくまで肯定的に捉えている。ただはぐらかした結果、目を伏せるバンビの微かに物悲しそうな感情を掬ってあげることはできない。
「うん……俺はフリオの、相棒だから」
相棒、という響きが本音と建前の両方で揺れている。陽光の注ぐ昼下がりに降る小雨みたいな泣き笑い。恐らくはバンビ本人すらも自らの機微をちゃんと把握できていなかったんじゃないだろうか。相反する感情が入り混じった、俺にしか視認できない少年の表情に目が眩む。
悲哀から来る心のざわめきで睫毛が切なげに揺れるのを綺麗だと思った。どんな絵画や絶景よりも精一杯背伸びした微笑が美しかった。彼の種火を分け与えられて俺の心にも仄かな光が灯る。恋に落ちるという感情を正しく理解した瞬間だった。
バンビは本心を打ち明けなかったし、俺も手を握り返すだけで相槌さえまともに返せなかった。例え拙い言葉だとしても、どちらかが素直に抱いた想いを吐露していたなら。なんて、今になってたらればを考えたとて後の祭りだ。
恋心は甘やかな蕾をつける。強風に吹かれても萎れずに佇む凛々しい様を、俺は傘も差せずにじっと見つめるばかりだ。
バンビに釣られるようにして心理的錯覚から恋をしたのかもしれないし、バンビだって吊り橋理論で俺に惚れ込んだ可能性もあるだろう。それでもきっかけなんて俺にとっちゃ些末な話だ。現に高校生となった今でも俺はバンビエーリを密かに想い続けている。そして、それは相手も同じだ。
「フリオ」
「バンビ。何かあったのか?」
「何かって……もうすぐミーティングの時間だろう」
あからさまなため息を零すバンビの態度は呆れ果てたというよりも純粋に心配が勝っている。チームのスケジュール管理も担う俺の立場をよく理解しているからこそ、聞き返すことへの珍しさに戸惑っているのだろう。どうやら自分で調整した予定を忘れるほど長々と物思いに耽っていたらしい。舌の上で転がしていたはずのキャンディもいつの間やら影も形もなくなっていた。
「調子が悪いようなら俺が断りを入れておこうか」
「心配ないよ。ちょっと考え事をしていただけさ」
はぐらかす癖もいい加減にしなければと思いながら何食わぬ顔で伸びをするのをやめられない。俺の動向を訝しんだのか暫し観察していたバンビだったが、やがて要らぬ詮索と結論付けたようだ。腕時計に目を向けた一瞬の隙を狙い、バンビの横顔から奥底に潜む恋心を覗く。
溢れんばかりの愛情を必死に塞き止めようとしているのも、何度となく覚悟を決めようと奮闘しているのも知っている。幕引き自体は容易いことだ。たった一言、俺も愛していると伝えればいい。相棒というかたちは多少なりとも変容するだろうが、幼い頃のバンビみたく「この関係が無くなってしまうかも」とは俺は考えない。感情認識力を通してずっと見守り続けてきたからこそ、俺達が結んだ糸はこれくらいで切れるほどやわなものじゃないと断言できる。
壊れるものではないと知りながら壊したくないと願うのは、バンビが少なくとも「まだ」恋の終焉も成就も望んでいないからだ。それでいて、バンビはずっと何かを伝えたそうにしている。だから決心がつくまで明日も明後日も待っている。来るべき日、バンビの覚悟が決まった完璧なタイミングで他の誰でもないこいつのためのサーブを上げるために。
それにバンビには本当に申し訳ないと思っているけれど、もうちょっとだけこのままでいられたらと望んでしまう。お前に甘えている時間が俺自身の恋心の昂りを一番に感じられる。こんな本音を悟られたらまず間違いなく機嫌を損ねられるだろうが、バンビが教えてくれたかけがえのない感情を享受していたい。今一度、俺は目隠しをつけた振りをする。
「行こうぜ、バンビ」
「……ああ」
肩を組むというありふれたスキンシップにすら僅かな動揺が挟まるのは、俺を恋焦がれる対象として意識していたからだろう。だが長年に渡って想いを秘め続けてきた産物なのか切り替えの早さも見事なもので、緊張で強張っていた彼の指先も瞬く間に元通りになっていく。すっかり相棒の顔つきに戻ったバンビを見届けて俺も肩の力を抜いた。微かに震えの残る指は拳を握りしめることでどうにか隠し通す。
結局、俺も人並みに怯えているのか。バンビからの拒絶というありもしない未来ではない。積年の恋が実った先に生まれる、この目ですら認識が叶わない俺自身の知られざる感情が気付かぬうちにおぞましい姿へと変貌を遂げてしまう可能性。仮定の話じゃないかと笑い飛ばす勇気も出ないくらい、報われた自分がどうなってしまうかが分からなくて誰しもが持つ恐怖心で必死に己を制御している。
(2025.07.21)