語る世界、遥かなる沈黙〜第1章 物語る言葉(前)〜 貴方が永遠の命題について問うのならば、私は自らの舌を抜こう。そうして漸く、私は貴方の問いに答えることができる。
──「知恵の殿堂に残された走り書き」より
◇
「旅人〜!オイラ、お腹が減っちゃったぞ!早くランバド酒場に行こう!」
片割れを探すためのテイワットを巡る旅にも、時々休息は必要だ。それは時に思いもよらない出会いをもたらしてくれるし、世界の裏側にある意外な真実を教えてくれたりもする。それから、単に羽を伸ばして終わることもあるけれど──それだって必要なことだから。
前の国での一件が終わってから次にどこへ行くかパイモンと相談した結果、自分達はこうして再びスメールを訪れていた。「大切な友達がどうしているか気になるから」というのはパイモンの言葉だけど、その思いは同じだったから、こうしてスメールシティまではるばるやって来た。
「噂では酒場に新メニューが追加されて、それがお寿司みたいな見た目らしい……想像もできないな……」
「そっか。稲妻も鎖国が解けて随分経つもんね」
ビマリスタンの横を歩きながら、そんな他愛もない会話を続ける。途中でジュライセンに会ったけれども強く引き止められることもなく、そんな風に何人かの知り合いと会ったあと、ようやく冒険者協会の近くまで辿り着いた。
森の湿り気と独特な香辛料の匂いが混じり合った空気は、馴染んだと思っていたこの国をいつだって異国に思わせてくれる。それは酒場前ともなれば顕著なもので、腹ペコを抑えきれないパイモンは「ごはんと……おやつ……」なんて呟きながらご飯を待ちきれない駄獣みたいな表情をしていた。自分だって、店の前で焼かれているケバブの匂いが鼻腔を掠めて仕舞えば我慢なんてできそうにない。旅の途中のご飯は美味しいけれど、立ち寄ったお店で食べるご飯だって格別なんだから。
「いらっしゃい!お、旅人じゃないか!」
店主のよく通る声は、いつだって酒場の賑わいに負けちゃいない。昼だからお酒を飲んでいる人は少ないけど、昼食時の酒場はいつだって盛況だ。彼はイタズラでも思いついたようにニヤリと笑うと、「奥の席に行ってみるといい」と助言めいたことを言った。それから、新メニューもご馳走してくれるらしく、大はしゃぎのパイモンを追いかけるようにして奥のブース席の方へと足を向けた。
「ティナリにコレイ!それから……うへぇ、昼間から酒臭いぞ……」
「あはは……やあ旅人にパイモン、久しぶりだね」
「二人とも久しぶり。元気にしてた?」
「うん、こっちは大丈夫」
「オイラ達はいつだって元気だぞ!えぇと、少なくとも二人は元気そうだな」
ティナリとコレイの手元にはシチューやピタパン、サラダなんかが並んでいて、とても真っ当なランチタイムを過ごしていた。でも、そのすぐ横に目を移すと昼に似つかわしくない不健全な光景が繰り広げられている。
「ん……僕、酔っ払ってるのかな……ここにいないはずの二人が見えるよ……」
その瞳の色と同じくらいに顔を真っ赤にしたカーヴェは、盛大に酔っ払っていた。机の半分以上を占拠して転がる酒瓶と申し訳程度のつまみの皿は、彼が昼間からいかに深酒しているかを物語っている。
四人席のうち空いているのはカーヴェの隣だけだったので、文句を言うパイモンを問答無用で間に挟んで仕方なくそこに座った。絡み酒と空いた酒瓶を適当にどけて、料理の置き場所を適当に作る。。
「ごめんね。彼、今すごく荒れちゃってるんだよ」
「うん、噂には聞いてたけど凄いね……」
カーヴェの酒癖の悪さはティナリやセノから以前聞かされていたけど、後輩がいるのにここまで前後不覚になるとは思いもよらなかった。『先輩』だってことを結構気にする性格なのは短い付き合いでもそれとなく分かる。
「それより聞いてくれ!旅人!」
「うわぁ!突然元気になるなぁお前……」
目の前のティナリ達は揃って苦笑いをしている。二人とも、多分散々愚痴に巻き込まれた後なのだろう。そして、同じ話をこれからまた聞かされることにうんざりもしているようだった。
「この僕が、あの橋に半年心血を注いだんだぞ!周辺環境と馴染むデザインや耐久性について熟慮を重ねて、やっと着工すると思ったのに中止だなんて、依頼主は気でも狂ってるのか!」
「えぇと、話の流れが読めないんだけど……」
酔っ払いから聞き出した断片情報を繋げるとこうだ。
スメールシティの近くの川に交易路発達のために橋を架けることになり、その依頼をカーヴェが引き受けた。彼はその依頼を、同居人からの騒音苦情を無視しながら半年飲まず食わずの勢いで設計図まで完成させ、本当なら今日着工の予定だったそうだ。それが、朝になって急にプロジェクトの中止を言い渡され、結果としてこの酔っ払いが出来上がったらしい。
「金なら払う、だなんて僕を馬鹿にするにも程があるだろう。確かに金のために仕事をしていると言うのは事実だが、それ以上に僕は僕の創作行為を大事にしているんだ。それを、たかが怪談話ぐらいで中止にするなんて馬鹿げてると思わないか?」
「でも、お化けが出る道なんて……うぅ。オイラ、考えただけで身震いしちゃうな」
「その怪談話っていうのがまた奇妙なんだよね。実は僕の村の近くでも同じ話が出回ってるんだ」
呂律が回らなくなってきたカーヴェに代わり、ティナリは怪談話を続けた。
「そんなに特徴的なお化けなのか?」
怖いものが苦手なのに、パイモンは好奇心を抑えられなかった。今日の夜は布団に潜り込んでくるに違いない。
「お化け……なのかな。なんでも、体は人間のような形なんだけど、頭はキノコみたいな見た目のお化けらしいんだよね。なんだか血色が悪くてとにかく不気味だったって話だよ」
「レンジャーの仲間でも見たって人がいるの。私はまだだけど……あんまり見たくはないかも……」
それはそうだ。話に聞く限り、魔物の一言では片付けられない不気味さなんだから、好き好んで会ってみたい人なんていないだろう。
「……なぁ旅人、もしかしてアランナラ達のことじゃないよな」
「うーん、流石に違うんじゃないかな」
パイモンがこっそりと懸念と耳打ちしてきたけど、アランナラはかなり可愛いらしい見た目だし、レンジャーのような大人は見ルことができない。パイモンにそう伝えると「うーん、ならほんとにお化けなのかも……」とドラゴンスパインにいる時みたいな身震いをした。
「おう、四人とも神妙な顔だな。これでも食って元気だしな」
割って入った店長は話に加わるわけでもなく、運んできたお盆の上には飲み物といくつかの料理が載っていた。
「店長!それってもしかして……新メニューだ!」
「最近流行りのスメールロール?私もこれ好きなんだ」
お皿の上には稲妻の巻き寿司……のような食べ物が載っている。共通点といえばお米と具材が何かに巻かれているという部分だけで、海苔の代わりに周辺で採取できる香草が巻かれている。一口食べてみるとドライカレーのような味わいで、スパイスの絡まった肉や魚はご飯によく合っているし、そこに新鮮な香草がピリリとしたアクセントを加えていて、巻き寿司とはいえないけどクセになりそうな味だ。
「……そういえば、ティナリとコレイはどうしてスメールシティにいるの?」
場の空気がおかしくなってしまったので、話題を変えることにした。普段はガンダルヴァー村にいる二人が揃ってここにいるのは珍しい。
「コレイが教令院の予備科の授業を受けることになってね、僕はその付き添い」
「私は大丈夫だって言ったんだよ!けど、今回の先生がアルハイゼンさんだって言ったら──」
「え!あのアルハイゼンが……先生?」
悪い冗談だろ、とパイモンはさらに余計なひと言を付け足した。でも、あの唯我独尊にして我が道を行く──協調性の乏しい人間が、先生なんて務まるのだろうか。今までたくさんの『先生』を見てきたけど、あまりにも印象が剥離しているというか……
「なんでも知論派の大先輩から代打を頼まれたらしいよ。あの彼が断り切れないっていうのも意外だし、何しろ面白すぎるじゃないか。もちろん、コレイを心配して付いてきたのも本当だよ」
「あいつが教官⁉︎あんな傲慢なやつに出来るわけないじゃないか」
面倒なところで目を醒めしたカーヴェはそう吠えるなり、皿からスメールロールを一切れ掻っ攫った。うたた寝のおかげで酔いは少し醒めたようで、「これ、買って帰るか……」なんてブツブツと呟いている。
「予備科は公開授業だから僕は聴講するつもりだけど、旅人達はどうする?」
「オイラ達も参加できるんなら……でも、興味はあるけどあいつの話は難しそうだ」
「折角だし聞いてみるのも悪くはないかな」
なんせ、こんな機会はそうそうないだろう。面白そうなことが目の前にあるのなら迷わず飛びつく──この旅でずっとしてきたことだ。
「カーヴェ、君は──」
「僕は行かないぞ!僕が行ったら授業を乗っ取ってしまうからな!」
「ちょうど僕もそう言おうとしていたところだよ。君たち二人が揃ったら、折角の授業が不毛な口論で終わってしまうからね」
「よく分かってるじゃないか」
カーヴェはどこか誇らしげだ。全然誇らしい内容じゃないのに。
その後は巡ってきた国と数々の冒険の話をしたり、その間のスメールでの出来事を聞いたりして旧交を温めていたら、あっという間にお昼の時間は終わってしまった。ティナリ達とは明日の朝に教令院の前で待ち合わせすることになり、ついでにまだ千鳥足のカーヴェを家まで送るように頼まれたので、道中ぶつくさと同居人への文句を捲し立てる彼を適度に宥めつつ、教令院にほど近い彼らの家を訪ねることになった。
◇
「えぇと、鍵……」
家の目の前について、カーヴェは懐やポケットを弄るけど、目的のものは一向に出てこない。そうこうしているうちに、扉が突然開いたので三人揃って情けない声で驚いてしまった。
「君は鍵を忘れて出かける癖を治そうとは思わないのか」
「君ってやつは……本当に人の失敗をあげつらうのが得意だな」
そんなカーヴェの非難を無視して、アルハイゼンは何事もなかったかのようにこちらに向き直った。
「パイモンに旅人も久しぶり。元気そうで何よりだ」
「お前達も相変わらずだなぁ……」
パイモンと一緒に呆れ返ったけど、彼はそんなことを気にするような性格じゃない。カーヴェが酒場で購入したスメールロールや甘味の入った包みを渡せば「頂くとしよう」と言いながらそのままキッチンの方へと消えていった。分かりづらいけれど家に招いてくれているみたいだ。
カーヴェはそのまま自分の部屋の方へと消えていったので、リビングのカウチに腰掛けることにした。テーブルの上は資料や本で散らかっていて、その中に見慣れないものを見つけて手に取っってしまった。
「これってアルハイゼンが描いたのか?カーヴェ程じゃないけどかなり上手だ」
分厚い紙束の一枚一枚にはスメールだったりあるいはどこかも分からないような家族の情景だったり……とにかくいろいろな場所や情景が描かれていた。心動かされるようなものではないけれど、光景を正確に切り取った絵はとてもアルハイゼンらしい。更にもう一枚めくろうとしたところでキッチンから彼が戻ってきた。
「ひとの家のものに勝手に触るのは感心しないな。ここ以外ではやめておいた方がいい」
「ごめん、アルハイゼン。大切なものだった?」
「いや。見られて困るものを出しっぱなしにしたりはしないよ」
いつも通りのそっけない態度からして、謝罪する必要はなかったみたいだった。
目の前にコーヒーと買ってきた甘味が一揃いで置かれる。もちろんカーヴェの分も。
「それにしてもちょうど良かった。諸国を巡る君にいくつか確認したいことがあってね」
「アルハイゼンがオイラ達に?明日は槍の雨でも降るんじゃないか?」
「パイモン。君は俺が全知全能だと勘違いしているようだがそんなことはない。それより……これ」
アルハイゼンは紙束を取り上げると、何枚か捲ってこちらに見せてきた。
「これらは他の国の風景だと思うのだが、君達に見覚えはあるか」
「これってパレ・メモルニアじゃないか?こっちは璃月の望風旅館で……写真みたいに正確だ」
「こっちはエンジェルズシェアかな」
その後も何枚かの風景画を見せられたけど、そのどれもがスメールではない他国の風景だった。とても精緻な筆致で、この絵を見ていると旅の中で見た風景を正確に思い出せそうだ。
「これってアルハイゼンが描いたんだよな。お前ってスメールから出たことあるのか?」
「ない。これは……夢で見た光景を描いたものだ」
アーカーシャが停止されて以来、スメール人は年齢に関わらず夢を見られるようになったことは知ってる。でも、夢は行ったこともない場所をこんなにも正確に再現できるものなのだろうか。
「俺も他のスメール人と同じように朧げな夢を見ることはある。だが、ここしばらくは目覚めた後もはっきりと夢の内容を覚えているんだ。ビマリスタンの医者に言わせれば明晰夢だというが──俺の場合はその定義には当てはまらない。夢を見ている間、夢の中にいるという自覚はないからな」
旅の途中で遭遇した、同じように知らない情景を夢のような状態で見た経験をいくつか話すと、アルハイゼンは口元に手を当てて「ふむ……」と考え込んでいるようだった。いつもは一瞬で素晴らしい回答を導き出す彼の言葉は、珍しく何も語らない。
「……夢の光景が実在することがはっきりしただけでも収穫だな。感謝する、旅人。それからパイモンも」
「お前に何か聞かれるってすごくいい気分だ。オイラに分かることならいつでも、なんでも聞いてくれ!」
アルハイゼンが他人に意見を求めるのはかなり珍しいし、頼られてる気がして悪い気はしない。何か問題を抱えてはいるようだけど、ハイブマインドの一件のように彼なら自力で解決してしまうだろう。
アルハイゼンが紙束を手元に戻したところで、リビングにもう一人の住人が登場した。
「三人だけで食べるなんてずるいぞ。僕を呼んでくれたら良かったのに」
「さもしいな。俺は君の分も用意している。君が勝手に眠りこけていただけだ」
「僕の品性について、君にだけはとやかく言われたくないね!」
カーヴェはアルハイゼンとの間に割って入るようにドン、と席に座った。目の前にあるのはお菓子と、コーヒーではなく酔い覚ましの冷水である。
「それで、明日の授業の準備はどうなんだ。書記官の仕事をほったらかしにしている割には進んでいないんじゃないのか?」
「俺は自分の職務を疎かにはしないし、真っ当に休暇を貰っているんだ。君のような自由業と一緒にしないでほしい」
「君ねぇ!本当に失礼だな!折角この僕が手伝ってあげようと言ってるんだぞ!この配布資料のここなんか……相手はほとんど子供なんだ。もうちょっと分かりやすくできないのか」
「十分理解できると思うが」
「ちゃんと学生側の気持ちになってみろ。まぁ、君のような他人の心に無関心な人間には難しい要求だったかな?」
……沈黙。いつもならカーヴェの挑発にアルハイゼンがやり返して、最後には「君ってやつは!」とカーヴェがぐうの音も出なくなる──そういう流れになるはず。でも、アルハイゼンは何も言わず代わりに目を伏せた。
「あ、えっと……」
勢いを失ったカーヴェの言葉は、そのまま地面へと墜落するかに思われた。パイモンは「二人ともどうしちゃったんだよ」と文字通り右往左往して交互に見返しては周囲を飛び回っていた。
「ごめん。君相手とはいえ少し言い過ぎ──」
「資料のわかりやすさは感情論では決まらないだろう。それに、分かりやすい言葉というのは得てして正確性に欠ける。よって俺は資料を修正する気は毛頭ない」
「……っ、君ってやつはこれだから──」
墜落しかけた言葉は復行し、いつもの売り言葉に買い言葉の会話が戻ってきた。
二人はそれからひとしきりの口喧嘩をして、お互いに満足した頃にアルハイゼンは食器を片付けにキッチンへと戻っていった。時間は午後三時を回っていて、もうそろそろ今日の宿を探さないといけない頃合いだった。この二人が家に泊めてくれるはずもない。
キッチンに挨拶に行くと、アルハイゼンはちょうど片付けが終わったようで傍に置いてあった小さな包みをパイモンに渡した。中身はカーヴェが買ってきた甘味と誕生日にもらった本の続きで、パイモンは嬉しさ半分に笠半分といった形でその少し重い荷物をきっちりと抱え上げた。
「旅人、ちょっといいか」
丁度出て行こうとしたところで声を掛けてきたカーヴェは周りを二、三度見渡した。多分、アルハイゼンが部屋に帰ったかどうかを確認したのだろう。よっぽど聞かれたくない話みたいだ。
「どうかした?」
「その……アルハイゼンのことなんだが……」
カーヴェは酷く言いづらそうに名前を口にした。
「みんなとも話してるけど、あいつ、最近ちょっとおかしいんだ。さっきみたいに何も言い返してこなかったり……それに、時々すごく疲れてる」
「しかも他人に相談までしてる」
「えっ!もしかして君には何か話したのか?」
アルハイゼンから聞いた話を簡単にカーヴェに伝えると、彼は突然怒り出したかと思えば割れた風スライムみたいに急激に萎んでいった。
「アルハイゼンのことだから大丈夫だとは思うけど、もし何かあったら力になってあげてくれないか?僕がそういうことをすると、あいつはすごく嫌がるからね」
「カーヴェは人助けになるととことんまでやっちゃうから」
「そうか?当たり前のことをしているだけだと思うけど」
アルハイゼンの不調は周りを不安にさせているらしいし、本人にも自覚はあるんだろう。自覚していてなお隠し通せないのだから、明日の授業なんかよりもよほど厄介な事情を抱えているに違いない。
「あいつは肝心なことはいつも終わった後に言うからな。ああやって自分一人でも生きていけると思ってるやつはどこかで躓くんだ」
「アルハイゼンが躓くところなんて、オイラはあんまり想像できないな」
「僕だってそうさ。でも、人間は生きている限り必ず手に負えない複雑な事態に陥ってしまう。どんなに単純な人生を歩んでいるように見えてもね」
「パイモンみたいな人生でも?」
「パイモンでもだ」
「ひどいぞ、二人とも!でも、オイラもあそこで旅人が吊り上げてくれなかったら……」
「ほら、こういうことだ。アルハイゼンにも、他人に助けを求められるだけの賢明さがあることを願うしかないね。もっとも、あいつのことを助けてくれる人がどれだけいるかは知らないけど」
カーヴェは「自分は絶対に助けないぞ」なんて顔をしているけど、そんなことになったらいの一番に助けに行くのは彼に違いなかった。
「とにかく彼のことを頼んだよ、旅人」
自分に何ができるかは分からないけれど、その時が来たら必ず力になるとカーヴェに約束した。
◇
翌朝、約束通りの時間に教令院の前に行くと、早く来ていたティナリとコレイがこちらに手を振っていた。
「ごめん、遅れたかも」
「そんなことはないよ。時間ぴったりだ」
今日の教令院はちょっとした賑わいを見せていた。あのアルハイゼンが公開授業をすると言うことで聴講にきた学生達は相当な数になっていた。聞こえてくる話から考えると、その理由はアルハイゼン自身の経歴──書記官という冴えない職位にいながら以前の政変において重要な役割を担ったことへの興味から純粋な知的好奇心まで様々なようだ。
コレイは予備科の単位取得のためだけど、ティナリや自分たちはどちらかと言えば前者だろう。別に経歴が、と言うわけではなく、あのアルハイゼンが何を話すかに興味があるんだけども。
その賑わいは行動に入っても相変わらずで、全ての席が埋まっていると言うほどではなくても、これだけ多くの人が一堂に介しているのを見るのはフォンテーヌの歌劇場以来だった。コレイは予備科学生用に用意された前方の席に座り、自分達はティナリと一緒に後方の聴講用の席に腰掛けた。
教壇にある黒板のようなものに興味を示したパイモンに、ティナリは「あれは資料の投影機だよ」と教えてくれた。なんでもフォンテーヌ製の機械で、手元にある装置に資料を写すと同じ内容が黒板にも映る仕組みなのだそうだ。
そうこうしているうちに始業時間になる。ざわついていた講堂も、時間ぴったりに入室してきたアルハイゼンを見て一気に静まり返ってしまった。いつも通りの格好で来た彼はあくまで自然体だけど、講堂の中だと異質さが際立って妙な威圧感を感じてしまった。
「さて、黙らせる必要がない程度に君達が賢明で助かる。無駄な導入は無しで、早速授業に入ろう」
──ロアから見る言語の変遷について
黒板に映し出された資料には、大きく今日の講義テーマが映し出されている。
「知っての通り、知論派は文字や言語について扱う学派だ。だから、ロア──つまり民間伝承や歴史の中で伝えられてきた知識を扱うという今回のテーマに疑問を持つ者もいるかもしれない。なにせ、これは因論派の領分だからな」
アルハイゼンは黒板の前を大きく横切ると、再び学生の方へ向き直った。
「だが、ある真実の探究に単一学派の知識で足りる状況はごく稀だ。そういったことを予備科の学生に知ってもらうためにも、今回はあえて符文学や記号論などの基礎的な授業ではなく、このテーマを扱うことにした」
アルハイゼンが少し操作をすると黒板に映し出されていた資料が切り替わった。『言語で語り得ることは何か?』と題された資料には、いくつかの専門用語のほかに一枚の風景画が映されていた。それはフォンテーヌ邸の景色だったが、ここにいるほとんどの者はこれがどこなのかを知らないだろう。
「本題に入る前に、君たちに幾つかの重要な事実を提示しておきたい。言語の限界と思考との関係と、学者としての姿勢についてだ。そこ学生……あぁ、君だ。君はこの絵について何を語れる?」
指名された学生は少しの逡巡ののち、「どこかの建物です。おそらくスメール以外の」と答えた。それからいくつか絵から読み取れる情報を答えた後、これ以上は分からないと言った。
「ここにいる大半の人間も今の学生のように答えるだろう。だが、そうではない者もいる。パイモン、君ならどう答える?」
「え!オイラか⁉︎う〜ん……」
突然指されたパイモンは唸りながらも小さな体で懸命に答えを出そうとゆらゆらしている。
「難しく考える必要はない。いつも通りでいい」
「そうか?なら……これはフォンテーヌにあるパレ・メモルニアって言う施設で、ここではいろんな人やメリュジーヌ達が法に関わる仕事をしているんだ。奥の執務室にはヌヴィレットっていう最高審判官がいて……」
パイモンの語りはしばらく止まらず、ひとしきりの説明を終えた頃には学生達が「あんなに小さいのに博識だ」とか「あれって噂の旅人じゃないか?」とかざわつき出していた。
「……静粛に。さて、彼女のおかげで君達は新たな言葉を知り、語りうるものが増えた。つまり、思考の限界を規定しているものは言語である、と言うことだ。どのような時においても、思考を言語で行わない者はいない。俺達は言語を拡張・変化させていくことで思考の限界を押し上げることができると言うわけだ。なら、その拡張は一体どこまで有効なのか。ここで、この世界のあらゆる事象を説明できる『完全な言語』を想定しよう」
完全な言語であるのなら、語れないことなんてないんじゃないのか?それはパイモンやティナリ達も同意見のようだった。
「この言語はこの世に存在しうるものを全て語ることができる。だが、どれだけ言葉を尽くしたとしても、言語の裏側にある『論理』を語ることは不可能だ」
「それはおかしいのではないですか?完全な言語でなくても──今の僕達は命題の真とその対偶や逆を考えることはできます」
「それは論理を語っているのではなく、論理に基づいて語っているものだ」
学生の質問に、端的な答えをアルハイゼンは投げ返した。
「君は命題の逆がなぜ逆なのか、なぜ対偶なのか──なぜその論理がなんの疑問もなく成り立っているのか説明することはできるのか?」
そんなの無理だ。だって、逆なものは逆だから。それ以上の説明なんてできるはずもなく沈黙してしまった。
「君の質問は良いものだった。落ち込むことはない。結局、言語を成り立たせる論理について語り得ないと言うことは、思考もまたその限界に束縛されると言うことだ。思考を成り立たせる存在というもの──世界や自分自身がなぜ存在するかということも語ることはできない。そういう意味で、今の彼の態度はとても正しい。このような事象について、学者は沈黙するべきだからだ」
「では、私たちはどれだけ究めようとも全てを知ることはできないということなのですか?」
不安そうな別の学生が質問を投げかける。
「そうだ。この言語の限界と、それによってもたらされる思考の限界を自覚しない者がどうなるかは──前任の賢者達が示している」
不安を無情に切り捨てたアルハイゼンが続けた言葉は、意外にも現実主義的でない──少しロマンチックなものだった。
「だが、その限界を自覚してなお挑み続けるということも、学者としては好ましい態度ではある。語り得ることだけを語るのも良いし、語り得ないことに挑戦するのも──君の選択次第だ。学者にとって大切なことは『限界を正しく理解し傲慢にならない」ということだ」
アルハイゼンはそう締めくくり、この資料を締め括った。次の資料からはいよいよ本題に入るらしく、ロアの形態や変遷について詳しく書かれている。
「さて、ここからは語り得ることについて話していこう。先ほどのパイモンが示してくれたように、言葉の限界は思考の限界であり、言葉と思考は包含関係にある。それ故に、言葉──今回扱うロアから、語ってきた者達の思考を読み取ることもできる──」
アルハイゼンの講義はそれから一時間ほど続き、時折居眠りしている学生もいた。退屈なわけではないのだが、話が難しすぎるのだ。
最後に提示された資料には予備科の学生向けの課題が提示されていた。
「身近にある物語や噂話などを一つ選び、その発生理由や語られる内容、言葉の変化についての小論文を記述し、提出すること。細かな要件は配布した資料を参照するように。大事なことは、協力者がいる場合はきちんとその名前とエフォートを記すことだ。内容に不足がなく、それさえできていれば最低限の評価は出すことができるだろう」
それだけ言い残し、アルハイゼンは講堂から退出した。途端に、緊張の糸が切れたのか講堂内はにわかに騒がしくなる。
前の席に座っているコレイに会いにいくとそれはもうぐったりといった感じだったが、ティナリが差し出したおやつを黙々と食べているうちに少しだけ元気を回復したようだ。
「教令院の授業ってこんなに難しいんだね……自信がなくなってきたかも」
「大丈夫だよ。こんなに意地の悪い講義をするのは知論派だけだから」
いつにも増して、ティナリは頼れる先輩と言った感じだった。
「ところで小論文のテーマはどうするの?僕もできる限り手伝うけれど」
ティナリのその質問にコレイはちょっとだけ考えた後、口を開いた。
「わたし……例のお化けの噂について書いてみたい」