うちにおいでよ(途中)うちにおいでよ
課題終わりですっきりとした気分だったというのに、午前の晴天から一転、教令院の外はあいにくの土砂降りに見舞われていた。傘を持たない学生達が足早に帰るその一団に加わった僕は、上着を濡らしながら憂鬱な気分に見舞われていた。どうしたって、曇り空は心まで濡らしてしまうから。
濡れてしまうのはまだいい。一番悲しくなるのは、親や家のある学生達は皆途中で散り散りに消えてしまって、寮に着く頃にはほんの一握りの数しか残っていないことだ。こんな時、家も、親もいない理由をまざまざと思い出させられる。入寮して一年経っても未だに慣れない感覚だ。十二の誕生日を迎える頃にはもう少しマシな心持ちになれるのだろうか。
(こんな時は早く寝てしまうに限るな)
いつもの廊下は空模様を反映したようにどんよりとしているし、鬱々としていてはお腹が空くはずもなく食堂に行く気にすらなれない。一向に明るいものとは出会えないまま自分の部屋に差し掛かった頃、開きっぱなしになっている部屋から廊下に向かって、影が伸びるみたいに光が差し込んでいるのが見えた。その中を自分よりも背丈の低い、銀髪の男の子が行き来している。
「アルハイゼン──?」
彼の名だけは、よく知っていた。やたらと本の好きな変わり者の後輩が知論派にいることは聞き及んでいたし、以前、知恵の殿堂で声をかけたことはあったが、そっけない態度に交友を阻まれてからは一度も話をしたことがなかった。
振り向いた彼の腕は、その小さな腕には似合わない厚い本を何冊も抱えていた。廊下の影を目を凝らしてよく見てみれば、綺麗な布を敷いた上に同じような本が高く積み上げられている。
「君が命よりも大事にしてそうなものを持ち出すなんて……いったい何の騒ぎだい?」
少年はこちらを一瞥し──いつものように無視を決め込まれるかと思ったが、意外にもそうはならなかった。
「……天井のシミのせいです。カーヴェ先輩にもそう見えますよね?」
「ん?雨漏りか」
アルハイゼンの部屋の中をみるのは初めてだったが、床が見えないほどの量の本に驚き、そして天井に大きく広がるシミと床に向かって落ちる大きめの水滴に思わずため息が出た。この寮はだいぶ古い建物だから、雨季の度にどこかしらガタが来てしまうのだ。
「全くもって忌々しいです。何冊かは濡らしてしまいましたし」
「そうか……それは災難だったな」
「はい、災難で忙しいんです。だからもういいですか?」
話している時間すら勿体無いとでも言いたげな態度で、少年はまた部屋の中へと戻っていく。彼の体で全てを出し終えるには時間がかかってしまうだろう。その間に、また被害が出ないとも限らない。
「だからと言って廊下に本を出しておくのはまずいだろう。僕みたいな濡れ鼠がまたここを通るかもしれない」
「……そこまでいうからには、もっとマシな打開案があるんですよね」
「ふふ……ちょっと待っててくれ」
カーヴェは二つ隣にある自分の部屋へと急ぎ、濡れた上着を窓際に適当に吊るしてから部屋の中を片付け始めた。そうは言っても、散らばっている道具類を部屋の隅に追いやる程度のものだ。渦中にある後輩を長々と待たせて焦らしておけるほど性悪ではないのだ。
「アルハイゼン!僕の部屋を空けたぞ!好きなだけ運び込んでくれていい」
「……はぁ」
ここは感謝の言葉じゃないのか、とか。言いたいことは山ほどであるが、彼が相当変わっていることはすでに知っていたので腹を立てたりなんかしない。そもそも自分のための行いではないのだし、彼が喜んでくれればそれでいいと心からそう思っているから。
目の前の少年は、それを凄く煩わしく思っているようだった。
「先輩に何のメリットが?」
「後から強請るような真似はしないぞ。僕はただ親切にしているだけだし、君もそれを素直に受け取っていい」
「はぁ」
それでも、アルハイゼンは懐疑的な目を向けてくる。年頃に比べて大人びたその表情は一瞬の逡巡の後、諦めの表情に変わった。怪しさとメリットを天秤に掛けて、後者を選んだのだ。
二人で運び出しても小一時間は掛かってしまうほどの量だった。あの小さな部屋によくこれだけ収めていたものだと感心する反面、思った以上に自分の部屋の足の踏み場が失われてしまって、僕は途中から唖然とする羽目になっていた。それでもようやくベッドへの通り道ぐらいは作り終えたのがついさっき。
「……今回はありがとうございます。本は雨が止んだら引き取ります」
「ちょっと待て!」
雨濡れの部屋に平然と帰ろうとするものだから、煩わしげな目線にも構わず呼び止めてしまった。この大雨は数日は続くだろうし、天井の修繕も雨の後だろう。この後輩はそれまでの間、湿った冷気と乾いていない布団にくるまって眠るつもりらしい。
「君、風邪を引くぞ」
「先輩には関係のない話です。一人でなんとかできますから」
無表情でそう言い切る少年は、けれども一人でなんとかするには幼すぎる、と思う。
「全く……手だってこんなに冷えてるじゃないか」
あれだけの本を持っていたとは思えない、小さく柔い手を取る。すぐに振り払われるかと思ったのに、無意識なのか彼はほんの少しだけ握り返してきた。
「こんな時は、ちゃんと人を頼ったっていいんだ。君はまだ小さいんだし」
「……子供じゃない」
「子供だろ。少なくとも僕からみれば十分に子供だ」
アルハイゼンはそれ以上は何も言わなかった。部屋に連れ込み、返事もないまま適当な会話を続けていたのだが、気が付けば彼はベッドの上で眠ってしまっていた。重労働はかなり体に応えたのだろう。
(僕も眠ってしまおうかな)
シングルサイズのベッドに二人では少し手狭に感じられたが、それが今は逆に心地が良かった。こうしていると、遠い日の日向を思い出す。今は何度も、どれだけ頻繁に母に会いに行っても手に入らない温もりを、少しだけ感じられたのだ。そうやって湧き出てきた罪悪感と悲しさを紛らわすように隣の小さな体に寄り添い、すっかり重くなっていた瞼をようやく閉じることができた。
ようこそ
翌日、寮母への報告を済ませたアルハイゼンは部屋に戻ってきて、落ち込んだ様子で結果を包み隠さず話してきた。
「雨漏りの修理に二ヶ月は掛かる?それは参ったな」
休日であるのをいいことに昼近くまで惰眠を貪っていた僕は知らなかったが、アルハイゼンは早朝いの一番に寮母の元へ向かったらしい。そこから粘り強く交渉を続けたものの、どんなに早くてもそれぐらいの時間はかかる、という結論に落ち着いたようだった。雨季はただでさえ運搬が難しくなるし、職人は同様の依頼で手一杯になる。アルハイゼンは他の人よりもほんの少しだけ不運だった、ということだ。
「それで、修理が終わるまで君はどうするつもりなんだい?」
「本は倉庫に移してもらえることになりました。週末中に片付けるつもりです」
「別にこのままでも大丈夫なのに。それで?」
「……?」
アルハイゼンは手を口元に当てて少し考え込んだ後、何の話かわからないというふうに首を傾けた。そんなに難しい質問だっただろうか。
「君自身のことについてだよ。まさか昨日みたいに部屋で寝泊まりするなんて言わないよな」
「俺もそこまで馬鹿じゃないですよ。本当は他に部屋が空いていればよかったんですが生憎と空きがない。だから倉庫に寝具を持ち込むつもりです」
うーん、この後輩は結構考えなしなところがあるかもしれない。どう考えたって人間用に作られていない空間で寝泊まりするのは得策ではないし、あそこは虫だって出るし床は硬いしでとても横になれる場所ではないのに。無愛想な後輩は黙り込む僕に向かって「名案でしょう」と付け足した。
「あー、いや。それって結構無謀だと思うけど……背中が痛くなっても知らないぞ。いっそ僕の部屋で寝泊まりしたらいい」
手狭になることは間違いないが、健康を考えたらその方がいい。だけど、アルハイゼンはただ嫌そうに眉を顰めた。
「お断りします」
「……僕に気を遣ってるわけじゃ」
「俺がそんな殊勝な人間に見えますか」
大変残念ながらそうは見えない。アルハイゼンが無愛想かつ傍若無人であることは噂に聞いているし、噂など知らなくても実際に会って数回言葉を交わせば分かることだ。悪い奴じゃないんだろうけど付き合いづらい部類の人間だ、と思う。
「俺にとっては静かな方が大事なんです。先輩には分からないかもしれませんが」
新手の悪口か?確かに無人の部屋よりは誰かと話している方が気が休まるし、作業に集中して一人で盛り上がってることもあるけど、僕だって四六時中うるさくしてるわけじゃないんだ。ただ、静寂は色々と考え込んでしまうから避けているだけで。
「そもそも、先輩には何のメリットがあるんですか?対価のない献身は自分を不幸にするだけです」
アルハイゼンは当たり前の道理を子供に説くように語る。
──冷たいやつだ、と思った。僕にとっては当たり前の理屈が、目の前の彼には全く通らない。それでも僕は優しさを振り撒くことをやめられない。これは性分なのだと分かっている。性分のはずだ。
「……誰かに優しくするのは当たり前のことじゃないか」
上手く笑えているだろうか?
心臓の鼓動が妙に大きく聞こえて、耳を塞ぎたくなる。それでも、口角の震えを、手に走る緊張をどうやって覆い隠すか──その術を僕はよく知っていた。
「それで誰かが満足してくれれば、僕だって嬉しくなる。対価としては十分だ」
アルハイゼンは微動だにせず、ただ僕を見ている。その視線は観察に近しい鋭さを秘めていて、それでいて観察者特有の嫌らしさはない。ガラス玉よりも透明な思考が翡翠の瞳の奥に透けて見えるようで、僕は思わず目を逸らした。
「……先輩」
静かに瞼が閉じられ、ひとときの空白が訪れる。そして、ため息が小さくひとつ。
「分かりました。先輩の熱意に免じてしばらく泊まらせてもらいます」
「ほ、本当か?良かった!」
後輩が体を痛めて泣きながら通学する、なんていう悲しい事態はこれで避けられそうだ。目についた不幸の種が芽吹くところなんて僕は見たくはないのだから、これでいい。部屋はちょっと狭いし同居人はかなり生意気だけど、これが一番いい結論には違いなかった。その道理が目の前の後輩に通じたようで──
「……いや、何で君の方がちょっと偉そうなんだ」
「譲歩したのは俺です。むしろ俺に感謝して欲しいくらいですよ」
彼はなぜこうも鼻につく発言をするのか。今は可愛らしい容姿で中和されているが、将来大きくなったら味方よりも敵の方が多くなるんじゃないかとか、親しい人間もできずに独身一直線なんじゃないかとか、色々余計なことを考えてしまう。
「君、そんなじゃ友達もできないぞ」
「別に幸福の必須条件というわけでもないでしょう。現に、俺は今のままでも十分に満たされてます」
謙虚なのか傲慢なのか判断つき難い発言だけど、不思議とそれは虚勢なんかではなく真実に思える。幸せの定義というのは確かに人それぞれだけれども、彼のそれは少し他の人とは、もちろん僕とも全く違う。それをただ自然体でこなす術を、彼は既に持っているように見える。
(譲歩、か)
この小さな後輩が小さな頭脳で何を考えたのかなんて分からないけれど、それは憐憫ではないのだろう。ただ論文の誤字を修正する学者のような態度が、その推測を裏付けている。後悔はないけれども、随分と面倒な後輩を招いてしまったのかもしれない。
「まぁ、別にいいよ。これから二ヶ月一緒に暮らすんだ。僕が君の最初の友達──ってことになるね」
「そうかもしれないですね」
素っ気ない答えとともに右手が差し出される。
「改めて、俺はアルハイゼンです。しばらくの間よろしくお願いします」
「僕はカーヴェだ。こちらこそよろしく」
本当にやっていけるのだろうか、という不安は正直ちょっとはある。けれど、どんなに理性的な思考を持っていても、しっかりと握った手の温もりはやっぱり人間のそれで、僕は心の片隅でほんの少しだけ安堵した。
安眠の秘訣
騒がしくて妙に湿っぽい先輩とルームシェアを始めてから一週間、一つ分かったことがある。
「……むにゃむにゃ……にゃにするんだ……!」
「うっ……」
隣で眠っていたはずの人間の拳がみぞおちにクリーンヒットして、折角熟睡していたというのに夜中に叩き起こされた挙げ句に呻く羽目になる。俺は何も悪いことはしてないのに。
そう、この先輩は寝相がとても悪いのだ。小さな子供でもこうはならないだろう、という具合にブランケットは足元で丸くくしゃくしゃになり、大の字に広げられた手足は無作為に動き回っては俺の大事な睡眠時間を的確に削ってくる。
最初の数日は少し手狭なベッドの上でお互いお行儀よくしていたのだが、遠慮という言葉はすでに霧散したらしい。両者合意の上の居候であるわけだし、俺だけがこんな不利益を被る謂れはないはずだ。
「……先輩、起きてください」
非難の意味を込めて、まだ隣で眠る丸くて白いほっぺを痛くない程度に軽く摘んでやる。違和感に目を覚ましたのか、先輩は薄っすらと瞼を開くがそれでも覚醒には至らない。相変わらず理由のわからない寝言を言いながら、挙句の果てにこちらを猫か何かと勘違いしているのか「ほら~エサだぞ~」と何も無い手を差し出したり、俺の髪をくしゃくしゃと撫で回してくる。
不思議と煩わしいとは感じず、いつかお祖母様が撫でてくれた手のひらを思い出しかけて──深夜に叩き起こされたという現実を思い出した。なので、体を起こして隣の先輩を思いっきり揺さぶってやる。
「先輩、起きてください」
「……なんで……まだ夜……アルハイゼン?」
可愛い灰色の猫がいたのに、とカーヴェはすごく残念そうに言った。夢の中で猫扱いされていたことはともかく、今の俺が言いたいことは一つだ。
「先輩、寝相を直してください」
「え、ごめん。もしかして起こしちゃったか?」
「日を見るより明らかだと思いますが」
「そうか。気付かなかったな」
カーヴェはかなり申し訳無さそうにうなだれていた。睡眠時の様子など、他に共にする人がいなければ知りようがない。だから、気付かなかったことは問題ではないのだ。大事なのは直すことであり、その先に俺の安眠が得られるのだから。
「前から、よくブランケットや枕が落ちるとは思ってたんだ」
「取り敢えず明日から改善方法を考えましょう。今日のところは、俺は床で寝ます」
「それは駄目だっ……て、おい」
ベッドの上の枕とブランケット、クッションなんかをすべて強奪し、床の上に簡易的な寝所を築く。ベッドに比べれば寝心地は最悪の部類に入るが、途中で起こされるよりは遥かにマシだ。
「全部持ってくことはないだろ!ブランケットまで!」
「どうせ剥いでしまうのなら、はじめから俺が使っていたほうが有用ですよ」
不満そうに口をとがらせているのを無視して、俺はさっさと眠る体制に入る。いつもより遠い天井が少しだけ胸の中にざわめきを残したが、それは眠気の中に霧散していった。
昼下がり、休日のバザールは露天商と日常の品を求める客で賑わう。そんな中で俺達は寝具を扱う店の前でしゃがみ込み、握りしめた財布と相談しながら露天商が並べてくれた品物を吟味していた。
「これなんかいいんじゃないか?『肩こり・腰痛の改善に!魔法の枕 3000モラ』、装飾も凝っていていいじゃないか」
カーヴェが手に取ったのは流線型で構成された硬い材質の枕だ。肩首の負担を減らし健全な寝姿勢に寄与する品物だが、きっと役には立たないだろう。なにせ枕は放り出されてしまうからだ。
「そういう君は何を買うんだ」
「自分用のブランケットと枕、それから簡易マットレスです。元々のものはカビで使い物にならないですから」
「もしかしてまた床で寝ようとしているんじゃないだろうな?」
勿論そうだ。やはりベッド一つで二人眠ることに無理があるわけで、なら根本原因の解決を図るべきだ。問題といえば床で眠ることは少し埃っぽいことと、高く積み上がった本や隣の棚が倒れてこないか心配なことぐらいで、仮初の寝床と思えば快適に過ごせるだろう。
「これなんかどうですか?『ふたりの夜を劇的に!ベッド用拘束具セット』……手足をベッドの隅に固定するための道具みたいですね」
「縛れば寝相が悪くても暴れないってことか?!僕は猛獣じゃないぞ」
「ふむ……しかしどうしてこれが寝具屋で?」
降って湧いた奇妙な問いに二人して考え込む。医療用の拘束具なら知っているが、目の前にあるものはいかにも牢獄で使われそうな黒い見た目をしていて、そのくせ柔らかい革でできており装着者に不快を感じさせないようになっている。そうなると、やはり寝相が悪い人間を拘束するためのもの──
「おや、熱心に何見てるんだい」
他の接客を終えて戻ってきた露天商は、件の拘束具を見るなり顔を青くして、すぐさま物陰へと商品を隠してしまった。
「すまん、これはおとな用なんだ。仕舞い忘れてしまってすまんね」
「おとな?」
異口同音に疑問が放たれれば、店主はもごもごと言い訳のような言葉を羅列し始めた。あぁ、この顔は知ってる。俺が「どうやって子どもができるのか」をおばあさまに聞いたときの困ったような、はにかんだような、答えに窮していた時の顔。
「そうか。ところでこれとこれを──」
俺は別に人が困っている顔を見るのは好きじゃない。だから、話を変えて寝具を一通り注文した。寮への配送まで手配してくれるので、なんとも親切な露天商である。
「先輩は?」
カーヴェは、まだ唸りながら考えている様子だった。これでは日が暮れても決まりそうにない。だから、最近一番熟睡できた時の状況からヒントを得てはどうか、と伝えた。現に、俺が来た日は寝相の悪さなどなく大人しく朝まで眠っていたのだから。
「……そうは言っても……あ」
「……?」
気恥ずかしそうにこちらをちらりと見た紅い眼は、すぐにふいと逸らされる。そして、彼の指は落ち着いた色合いの抱き枕を指さしていた。てっきり隣の派手な色のものを選ぶかと思っていただけに、少し目を見張った。
「先輩こだわりのインテリアにはこっちの方がいいと思いますが」
「う、うるさいな。こっちの方が寝やすそうだ。例えばこの辺の刺繍とか模様とか……」
「はいはい。早く買ってくださいね。俺はお腹が空いてるんです」
自分の用は済んだし、早いところお昼ごはんを食べに行きたい。そんな俺の心中を察したのか、「まったく、君ってやつは……」と言いながらもカーヴェはテキパキと注文を進めた。
そうやって、俺は自分の寝所を手に入れて、カーヴェも抱きまくらを買って解決した。解決したはずだ。なのに、どうして隣にカーヴェがいて、しかも俺に抱きついてるんだ。
「……あつい」
蒸し暑い季節に抱きつかれて、余計に暑い。みぞおちパンチを食らうよりは余程マシだが、器用に下に落ちてきて抱きついてくる手腕を他のところでは活かせなかったのか?
「先輩、起きてください」
前と同じように思い切り揺さぶってみるが、今度はびくともしない。仕方がないので、俺は秘技を使うことにした。お祖母様がよく眠る俺に使った必殺技だ。
「……カーヴェ」
息がかかるほどの近くで囁き、まつげをくすぐるように触る。どんな大人でも一発で起こせる優れ技だ。
「わ、アルハイゼン!どうして僕のベッドに?
「カーヴェ、それはこちらのセリフだが」
数回の瞬きの後、カーヴェは状況を理解したようだった。顔を真っ赤にしたかと思うと両手で覆い隠してしまう。指の隙間からちらりとこちらを覗いてはすぐに視線をそらすことを繰り返して、全く意味がわからない行動だ。
「折角の抱き枕はどうしたんだ」
「そりゃちゃんと抱っこして寝たよ!それがいつの間にか……」
耳まで赤くして言い訳する様を見ていると、こちらまで妙に落ち着かなくなる。だが、俺に非があるわけではないし、ここは冷静に追及しておくべきだ。
「つまり、抱き枕よりも俺を抱いていた方が寝心地が良かったということか」
「ち、違う!僕は……僕はただ!」
焦ったように声を上げ、布団をばさりと持ち上げて中に潜り込んでしまう。肩口まで覆い隠したその仕草は子どもじみているが、昨日まで先輩風を吹かせていた人間と同一人物とは思えない。
「……まぁ、いい。途中で起こされるよりは寝苦しい方がまだマシだ」
「な、なんでそんな悟った顔をしてるんだ……!」
布団から飛び出してきた紅い目が、怒りと羞恥の間で忙しく揺れていた。その姿に少しだけ笑いそうになるのを堪えて淡々と続ける。
「ただし条件がある」
「じょ、条件?」
「これから先も、俺を蹴ったり殴ったりしないこと。もし暴れたら、『おとな用』拘束具を検討する」
「や、やめろ!あんなの買うな!」
慌てて身を乗り出した先輩の声は、いつもよりも一段高く裏返っていた。昨日バザールで見た拘束具が、まだ彼の頭の中で尾を引いているのだろう。
「じゃあ約束するんだな。今後、寝相は改善する努力をする、と」
「……わかったよ」
渋々ながら差し出された右手を、俺は迷いなく握った。温もりが伝わってくると、不思議と胸の奥が静まっていく。
「というか」
「……?」
「君、敬語はどうしたんだ!それに僕は先輩だぞ!?」
ぷりぷりと怒った調子で指摘されても、俺は握った手を離さない。
「こんな子どもみたいな人に、敬意を払う必要はないと思っただけだ」
「君って、まったく……」
大きくため息をつきながらも、先輩の目尻はどこか笑っているように見えた。怒っているのか呆れているのか、判別がつかない。
「……まぁ、いい。だけど、君は僕の後輩であることを忘れないでくれよ」
「後輩であることと、敬語を使うことは必ずしも一致しない」
「屁理屈を……」
言葉では反論しているのに、その声は不思議と楽しそうだった。俺はその変化を聞き逃さない。 真っ赤になって抗議する姿が、まるで本当に子どものようで、俺は口元を押さえて笑いを堪えた。
「……何がおかしいんだ」
「いや。先輩は感情が顔に出やすいと思っただけだ」
「っ、僕はいつだって理性的だ!」
「その理性で俺を抱き枕にしていたのか」
「~~っ!」
ぐうの音も出ない、といった顔をして布団に潜り込む。その背中が小さく震えているのは、怒りか照れか。どちらにせよ、俺にとっては大した違いはなかった。
夜も遅く、眠気に抗えそうになかった俺達は二人でベッドの上に寝そべった。カーヴェは俺を抱きかかえるようにしてすり寄ってくる。明かりの消えた部屋で、その温度だけが妙に現実味を感じられて、小さく嘆息した。
「……先輩」
「な、なんだ」
「おやすみ」
布団の中でしばし沈黙が続いた。やがて、小さく「……おやすみ」という声が返ってきて、俺はようやく目を閉じることができた。