語る世界、遥かなる沈黙〜第3章 律する言葉(前)〜◇
教令院の最上部に位置するスラサタンナ聖処は、以前と訪れた時と同じ静謐さを湛えていた。ただ、その時の沈黙は今ここにはない。セノとティナリはマハマトラやレンジャーの応援に向かったため、ここには自分とパイモン、カーヴェ、それからナヒーダの三人だけだ。
「アルハイゼンに博士……それに人造の『神の心』……昨日、神座への干渉を感じたのはそのせいだったのね」
ナヒーダはアルハイゼンからの相談を受けて、件の魔神について世界樹の中で調べていた。その時、不意に世界樹との接続から弾き出されてしまった瞬間があったらしい。
アルハイゼンの上に神の心が現れた時、神の目が光を失っていたことを話すと、カーヴェは酷く動揺した。
「なんだって!それなら、あいつはもう……」
僕はまた助けられないのか、と小さく呟いたきり、カーヴェは黙ってしまった。俯いたままの表情は制裁を欠いている。
「そうとは限らないわ。方法は分からないけれど、神の心はアルハイゼンと神の目との接続を乗っ取り、その先にある神座との接続を試みているの。いわば物理的に引き離されているようなもので、危険な状態ではあるけれど猶予はあるはずだわ」
「アルハイゼンから魔神の骨を回収するだけなら、本人を連れ去る必要はない」
ドットーレはトドメを刺せたのに刺さなかった。つまり、生きたアルハイゼンが必要だった、ということになる。人造の神の心に魔神の研究──いい予感はしない。
「それって人体実験ってことか……?ファデュイならやりそうだけど……」
「パイモン、それ以上言う必要はないよ」
一層顔色を悪くしたカーヴェを見て、パイモンは「ごめん」と小さく謝った。
「そういえば、アルハイゼンは元々魔神の骨を持っていたらしいんですが……クラクサナリデビ様はそのことに気付いていらしたのではですか。それに、魔神の研究や目的についても──僕達には分からないことが多すぎますが、貴方はもう見当がついているのではないですか?」
世界樹にはこの世界で起きたあらゆる事象が記録されている。十分な時間さえあれば過去を調べるのは容易なはずだ。
矢継ぎ早のカーヴェの疑問を、ナヒーダは否定した。
「少なくとも魔神について、私はある程度の情報を持っているけれど完全ではないの。それに、目的やアルハイゼンを助ける方法を知るには、彼の最もプライベートな部分を覗き見なければいけないわ」
「あいつはそんなことで怒るような奴ではないですよ。必要ならやるべきです」
秘密を知られて怒るアルハイゼンを想像しようとして──結局失敗に終わった。問題ない、とだけ言って流されてしまうだろう。
「そうね。ではこうしましょう。私はもう少し魔神について調べる必要があるの。だから、アルハイゼンのことについてはあなた達に探って欲しいの」
ナヒーダはそういうと、缶詰知識に似た装置と新型のアーカーシャを取り出した。
「本当は彼が帰ってきてから確認するつもりだったのだけれど、中には世界樹から複製した記録が詰まってる。このアーカーシャを使って調べてもらえないかしら」
◇
地面に足がつき、手を振れば確かな空気の柔らかさを皮膚で感じる。眼前に広がる光景が壊れていること以外、問題はなさそうだった。
「夢境だから壊れてる、ってことじゃないよな」
一軒の家が見える。僕とアルハイゼンが住む家だ。見慣れたスメールシティのようにも見えるが、道は途中で途切れ、ノイズの先にあるのはモンド様式の建物だ。それだけじゃない。屋内も屋外も国も時代も関係なく、あらゆる景色がでたらめにつぎはぎされている。空には酒場の床が見えて、自分が踏みしめる地面が地面であるか怪しくなってきた。隙間から見える空は昼と夜を忙しなく行き来している。
それだけじゃない。この記憶の街には住人がいる。顔はあるが誰にでも見えて誰でもない人間、大人なのか子供なのか、あるいはどちらでもあるのか。水面にインクが広がるように常に形を変え続けるそれらが、なぜ記録の複製に現れるのか。
(あいつ、こんな幻覚を見続けてたのか)
僕だったら三日で参ってしまう。それを平然と生活できていたのだから、呆れると言うかなんというか。目の前にいたら一発張り倒してやりたい気分だ。手の届く範囲にいる人を助けられないことは何よりも、辛い。
クラクサナリデビ様は、道を歩き続ければ過去の記録へとつながるとおっしゃっていた。とはいえ、こんな状態ではどこが道かも判別し難いが、進むしかない。
モンドの酒場、璃月の港──およそ人がいるところならば、全てここにあるのではないかと言う錯覚を覚える。それでもがむしゃらに進む以外に術はない。
(──ここは、見たことがある)
フォンテーヌの、白い式場。そうだ。何年も前に、母さんの結婚式に参列した。その時の場所だ。そして、壇上には見覚えのあるブロンドの女性と、この先二度と見ることはない男がいる。
(あの時、僕はどこにいた。確か一番前の……)
一番前の、右から二番目。想像通りの姿に驚愕する──なぜ、アルハイゼンがこれを知っている?もしかしてひっそりと参列していた、なんて可能性がある奴ならここまで理解に苦しむことはない。これは僕の身に現実に起こったことで、幻覚ではないはずだ。
『おめでとう』
『……では誓いの……を……』
『また……は置いてかれたんだ』
『カー……あなたはスメールで……』
『違う……これは喜ぶべきことのはずだ……』
言葉が濁流のように頭の中を掻き回す。現実に発した言葉と、聞いた言葉と、言わなかった言葉、言われなかった言葉が。なんの身構えもできずに刺されたナイフは確かに胸の奥に刺さり、気が付けば逃げるように走り出していた。
嬉しかったし、悲しかった。取られた、と少しだけ思ったこともあった。抱いてよい感情と抱いてはいけない感情が目の前に等しく並べられた。現実は一つのはずなのに、何度も異なった色で現れるそれらを見て、ほんの少しだけ、感情を全て投げ出したくなる。
「──カーヴェ!」
「……たび、びと?」
気が付けば、旅人が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「合流できてよかった。でも、無事じゃなさそうだね」
「いや……ここに来るまでに、君も何か見たのか?」
お互い、あまり顔色がいいとはいえなかった。旅人はそれでも汗ひとつ掻いていないが、僕はといえば冷や汗で背中はぐっしょりとしていた。とてもじゃないが見せられたものじゃない。
「……ずっと会いたかった人がいた。大勢に囲まれて近づけなかったけど」
「それは、例の生き別れの片割れかい?」
「……うん」
この記憶はおかしい。アルハイゼンが知るはずもないものが寸分違わず再現され、切り貼りされている。そして語られなかったはずの言葉すらも──ここには、全てがあると言わんばかりに。
「進もう。カーヴェを探している途中で道を見つけた」
「……そうだな。謎解きは後だ」
旅人の後をついて歩けば、やがて景色は見慣れた、現実味のあるものへと変化した。家から教令院まで続く道を眠たげな学生が歩き、すれ違う。朝の群衆の中には見慣れた姿もいた。アルハイゼンだ。
「おいっ──待て!」
呼びかけも虚しく、彼は横を通り過ぎていく。
「カーヴェ、ここは記録の中だから」
「……分かってるよ」
また歩みを進める。周りの風景はオルモス港になり、パルディディアイのいつかの飲み会になり、日が暮れた後のランバド酒場になり、見慣れた夕暮れ時の帰り道になった。最初のような壊れた光景もなく、ただ淡々と、色のついた景色が流れていく。その全てにアルハイゼンがいたが、何も語らない。何度も同じ風景を繰り返すうちに彼の周りから人は消え、少しずつその背が小さくなっていく。
『それで、君の理想はどうなった』
僕は答えた。
『……方法を間違えただけだ』
今だって同じように答えてみせる。間違っているのは理想ではなく、僕の方だ。理想の体現にはまだ程遠い。
誰もいない真っ暗な家の前でまだ破綻していた頃のやり取りを終えると、二人の家はひとりの家になった。
再会するまでの数年間、彼がどんなふうに過ごしていたのかを知るのは初めてだった。そうはいっても特別変化があるわけではなく、キッチンには一人分のカップが置かれ、食卓には彼が好んで作る奇妙なキッシュと、時々つまみやら酒やらがある。嬉しいことも、悲しいこともここにはない。
浮き沈みない人生なんて退屈すぎる、と僕は思うのだが。
「アルハイゼンって意外と可愛い趣味があるんだね」
「ん?なんの話だ?」
「だって、あれ」
庭園の奥まったところに座る幼いアルハイゼンは、ポケットから包みを取り出すと小さなものを取り出し、それをそれに向かって掲げた。
「今まで何度か、あんな風に眺めてた」
手の中で輝くそれは、いつかに贈った砂漠のプリズムだった。ヒビの入ったプリズムをほんの少しだけ空に翳した。
「大事にしてるんだね」
「どうだか。あいつの性格ならもう捨ててるかもな」
幼い彼の腰には神の目がぶら下がっている。何を思ったか、決別の後も後生大事に持っていたのか。
「行こう。ここに見るべきものはない」
決別の夜と、曇り空の墓場と、平穏な夜を抜けた先にあったのは、土砂降りの雨の夜とぬかるんだ道、それに鼻につく鉄の匂いだった。
『……アルハイゼン……もう少しだから……』
木々の隙間からスメールシティに灯る街の光は見えた。だがそれはまだ随分遠い。
女性が身につけているのは教令院の学者の服と因論派の証だ。服のどこもかしこも真っ赤に染まり、歩くのがやっとの様子だったが、それでも背負った小さな子供を落とすことなく夜の森をスメールシティへと歩き続ける。
「あの人は、アルハイゼンのお母さんなのかな」
「おそらくね」
意志をどこまでも貫き通そうとする瞳と理知的な雰囲気──そんなところまで、親子で似るものなんだな。背中で眠る子供の年頃は三、四歳と言ったところだろうか。ひどく痩せ細ってはいるが、今は静かに眠っている。
「あいつの両親は事故で亡くなってると聞いていたが、これはどういうことだ?」
「まぁ、どう見ても事故じゃないよね」
暗闇でよく見えないが、血の跡は道の奥にも続いているのだろう。僕達が求めている答えも先にある。
さらに先の方で、虫の息で倒れている男性を看取った。その人のことを、おそらく僕は知っている。母が残した荷物に紛れていた小さな一枚の絵にいた人物──彼の手には使い込まれていない真新しい片手剣が握られており、周囲には壊れた荷車の残骸が散らばっており、更に何人かのエルマイト旅団の傭兵が倒れていた。
これは過去の痛みだ。アルハイゼンが同じものを抱えているかは分からないが、少なくとも彼の過去の中にこの現実はあった。そのことを彼は知っているのだろうか。
(知っていたとしても、わざわざ事故死だなんて誤魔化す必要は彼にはない)
つまり、祖母から知らされていなかったか、そもそも祖母すら知らなかったか。そればかりは本人に聞いてみないと分からない。
「……どうにかして、助けられないだろうか」
「カーヴェ」
「記録の再生に過ぎないことは分かってるんだ。だけど、あんなに傷付いてる人を置いていけない」
「──全部は助けられない」
「……は……まるであいつみたいなことを言うんだな、君は」
罪悪感を他者に投影したところで、現実は何も変わらない。現実逃避では何も救えず何も得られない──そんな理想とのギャップを、僕はここ数年で実感してきたじゃないか。
「……取り乱してすまない。先へ進もう」
森の景色は岩山の景色へと変わり、木々の間にも乾いた砂の匂いを仄かに感じさせた。
「この秘境……」
「建築様式や意匠まで、子供たちが閉じ込められていたあの場所と同じものだな」
同じように岩山をくり抜いており、地形も相まって場所を知らなければそう簡単にこの場所を見つけることはできないだろう。
扉の先には広い空間が広がっており、正面の壁には壁画が描かれている。天井から差す一筋の光が、その全貌を淡く照らしていた。
一番左の絵には、白い布を被った痩身の女性が天から落ちてきて、人々に迎えられる様子が描かれている。中央の絵ではその女性が大地を全て抱えようと大きく手を広げており、その下には無数の人間と魔物と、種類すらも分からない動物たちがいる。一番右の絵は中央のものと指して変わりはないが、女性が消えて空白となった部分に碑文が刻まれている。
「これは……古代文字か……?だが見たことがない文字もあるな」
こんな時に言語学者がいてくれれば助かるが生憎、彼の消息すらも分からない。
「なんて書いてあるか分かりそう?」
「うぅん……福音……拡散……魔神戦争……律……感情と理性……単語を拾うことはできるが、意味のある文章にはならないな。専門家がいれば話は別なんだが」
「アルハイゼンを助けて一緒に来ればいい」
「……そうだな」
どうにも湿っぽくなってしまっていけない。早いところ助け出さないと、しけた紙のような時間を送り続けることになってしまう。ばちり、と自分の両頬を叩いて、無理矢理にでも気分を切り替える。旅人は気候に少しだけ驚いていた。
「さて。この空間は一見して行き止まりのようだが、旅人はどう思う?」
「隠し扉とか、仕掛けがあるとか」
「そうだ。こういった信仰の場──特にそれがマイナーなものであるほど、人々はある場所へと居を構えようとする。入り口を隠すとして、僕なら──」
入り口から見て、見えづらい場所。出入りに十分な広さが確保されたスペース──そして、最も信仰を感じられる場所。
「旅人、あの辺りの床を攻撃してみてくれ」
壁画が一番よく見える正面の床。そこはほんの少しだけ、他の床と埃の積もり方が違う。その場所なら、光に照らされた壁画に視線を誘導されて、注意深く見なければ発見されづらいだろう。
旅人は「壊していいの?」と困惑していたが、仕掛けを探している暇はないのだからしょうがない。ここで壊したところで現実のものが壊れるわけではないのだし。
夢は便利なもので、旅人はどこからともなく剣を取り出すと二度三度と床に打ちつける。経年劣化で脆くなっていた床は壊れ、呆気なく地下への入り口が姿を現した。
瓦礫の隙間を、風が金切り声を上げて通り抜ける。暗闇を覗き込むと、奥に僅かなあかりが灯っているのが見えた。あの少年は──この先にいるのだろうか。
地下は暗く湿っていて、息が詰まりそうなほど濃い空気を進んでいるような錯覚さえ覚える。巨大な空間というわけではないが、何度も枝分かれする道と無数の部屋は、部外者を迷わせるための設計なのだろう。
その部屋のうちの一つから話し声が下。若い女性と男性の声だ。
「……カーヴェ」
呼びかけに応じて、扉の覗き窓から中の様子を伺う。そこにいたのは、森の中であった二人と、背が低い銀髪の子供だった。女性は少年を力強く抱きしめているが、少年の方は時折瞬きを繰り返すだけで感情らしい感情を表情として表すことはなかった。
『……やっぱり、私たちの子供は生きていたんだわ……死産なんかじゃなかった……』
『俺達のことは……分かる訳ないな。でも、お前の父さんと母さんなんだ。信じてくれ』
アルハイゼンの両親は、彼にそっくりだった。目元や他の顔のパーツもそうだが、もっと根本的なところで血の繋がりを感じる──そんな具合に。ただ髪の色だけはまるっきり違っていて、あの不思議な銀髪は遺伝ではなかったのだろう。
『私達の家に帰りましょう、アルハイゼン』
『家?』
まだ齢三つか四つぐらいだろうに、幼さを感じない明瞭で理性的な声が響く。
『痛いことも苦しいこともない、平和な場所のことよ』
『……僕は、痛くも苦しくもありません。それならば、ここも家と呼べるのではないですか』
『そうじゃない、そうじゃないんだよ』
父親は少年の頬を包むと、諭すように優しくそう言った。
『本当は苦しいはずなのに、そう感じるための機能を学者達に外されてしまっただけなんだ』
『それなら尚更、僕があなた達についていく意味はない。機能がないというのなら、ここにいても外に出ても僕の暮らしは変わらない。違いますか?』
昔は、確かにアルハイゼンのことは理性と思考の塊で、まるで感情なんてものとは無縁の生き物なのだと思っていた。そういう性格なのだと、割り切っていた。目の前の少年はまるでかつての想像通りのアルハイゼンで──だが、そうじゃないことは今の僕がよく知っている。学院祭の後の夜、彼には彼なりの思いやりがあり優しさがあったことを知ってから、変化の乏しいあの表情から心の変化を感じ取れるようになって。
単純に、アルハイゼンは自分の心をそのまま外に出すことが不得手なのだろうと気付いたのは、その時だった。他人の感情も、感情を操るための振る舞いも理解し、実行できるというのに、彼は自分の感情だけはうまく表すことができないらしかった。三思後行──よくよく理解していれば、行動に移すことは容易い。裏返せば、彼は未だ自分というものの核心を理解できずにいる、ということになる。
(感じるための機能を取り外す──身体的な現象と脳への電気信号の伝達を切り離すということか?そんなことが可能とは思えないが……)
僕は、それを生来の性格のせいなのだとばかり思っていた。だが、そうではないという事実を突きつけられている。
『確かに、お前は変わらないかも知れない。でも、変わることもある』
『……変わる、こと』
『例えば毎晩違うディナーが出てくるし、天気もここじゃあ分からないが、雨で濡れることもあれば緑の葉っぱが眩しいことだってある。それに、沢山の友達が出来て、毎日違う遊びをして、たまには喧嘩別れもするかも知れないが──お前がどうであれ、お前を取り巻く世界はずっと変化し続けるんだ』
それはとっても素敵なことだろう──その言葉を聞いた少年の表情は相変わらずだったが、ほんの少しだけ瞬きの回数を増やした。
『……あなた達のことはなんと呼べばいいですか?』
母親が少年に耳打ちすると、彼は辿々しく「おとうさま」「おかあさま」と両親のことを呼び、彼らについてこの場所を出ていくことを伝えた。
足早に去っていく三人を見送りながら暗澹とした気持ちになる。あの二人は死んでしまうのだ。事故なんかではなく、息子を守って。
「カーヴェ、行こう」
暗いものを払拭するような強さが、旅人の言葉の中にはあった。
「真実はきっとこの先にある」
だから迷っていても仕方がないのだと。そういう割り切りをできるほど僕は出来た人間じゃない。それでも今は歩みを止めてはいけないんだ。
廊下を進み続けているはずなのに、何度も同じ場所をループする。ただし時間は遡っているようで、初めは一部屋にアルハイゼンが一人いるだけだったのが、別の部屋に一人、二人と子供達は増えていった。褐色肌の砂漠出身の子供や、森の子供、それに明らかに国外の子供まで。年齢も様々で赤子から背丈のある十歳そこらまでいるようで、部屋の中には時折彼らの亡骸があった。
(成人はいない……あくまで子供が対象ってことか。反吐が出る)
やり口はこの間見た学者達と一緒だ。だが、亡骸にはあの悍ましい変形は見られず生前の形を保ったままで、精々体のあちこちに包帯を巻いているだけだった。
魔神を研究しているグループは二つあり、ここがもう片方の拠点だとして──その人体実験の方向性には差異があるらしい。そもそも、こちらは人の進化を目指すというよりも、人を単なるパーツとして消費しているような、そんな雰囲気さえ感じた。
『三十三番、実験の時間だ』
与えられた狭い個室の中で僅かな光を頼りに本を読んでいた少年は、呼びかけに応じるように顔を上げた。壮年の学者は些か乱暴にその小さな手を取ると、小さな歩幅を気にすること無く歩き出す。少年は時折転びそうになりながらも怪我をしないように懸命に歩みを進めた。
暫くするとこれまでの廊下続きの閉鎖空間ではなく、実験器具の立ち並ぶ無機質な広い部屋に出た。所々に立ち並び議論を交わしていた学者達はこちらに──いや、少年のアルハイゼンが入ってきたことに気付くと一様に目を輝かせた。さながら素晴らしい実験試料を見つけた、と言った感じか。
『さて、君はこれが何か分かるかね』
群衆の中の一人は前に出ると手に持っていた小箱を開くと、中身を少年の前へと差し出す。
『……知りません』
『これはかの魔神の骨を少し改良したものだ。最も賢明な成功例である君ならこれが何を意味するか分かるだろう』
『……それは、傲慢な行いなのではないですか』
『確かに傲慢だとも。だが、その傲慢を咎める者がこの世界のどこにいる?私達はこの世界がより良くなるために、最も相応しい神を作り出そうとしているだけだ』
学者は箱の中から七つの骨を取り出し少年に手渡すと、と自らの神の目を使い草元素の力を迸らせた。小さな手の中で浮かび上がった七つの骨は、元素力に継ぎ目を編まれて一つの形状へと変化していく。チェスの駒に似ていて、その実、なんの役割も帯びていないまっさらな神の心。それが完全な形となり胸の中へと飛び込んできた時、眩い光と共に飛び込んできたのは轟音のような言葉達だった。悲鳴と喜びと、様々な人の声が入り混じる。
「──っ!」
頭が割れそうになるその情報量で苦しんでいるのは僕達だけではない。ブレる視界の中で蹲る小さな背中に手を伸ばそうとしたが、距離感を掴めずに手は空を切った。
『……紡がれる可能性の海の……』
『……世界を焼き尽くし……世界の中で生き……』
『──世界が、私を忘れませんように』
濁流の中で不思議とはっきり聞こえたのは、女性の声だ。慈愛と冷たさの両方が灯ったそれは確かに両耳を包み込み、音を遮った。そうしている内に光は収束し、元の実験室の風景が広がる。
少年の手の中にあった神の心は元の骨へと戻り、七つあったはずの骨は六つに数を減らしていた。
『おい、どうするんだ!』
『だから言っただろう。器と神の目自身の繋がりが重要なのだと』
『一つは体内に留まったままだぞ。取り出すには──』
『これほど優れた検体をみすみす失うわけにはいかない』
苦悶の残滓で床に倒れ伏す少年を顧みることなく、学者達は実験と結果について延々と議論しあっている。ここには倫理も道徳もなく、探究という純粋な目的にのみ取り憑かれた狂学者と無力で小さな人間がいるだけだった。
「こいつらはアルハイゼンを使って魔神を復活させようとしているのか。この時は失敗に終わったみたいだが、あいつが神の目を手に入れたことで状況が変わった。他にも見落としているところはあるんだろうが……」
「うん。知るべきことは知れたと思う」
空間は少しずつ綻び始めていた。記録の終点に辿り着いたことで、僕達も夢境の中からもう直ぐ目を覚ましてしまうのだろう。ここで見たことは現実の再現であり、空間が消え去っても無かったことにはならない。そして、今からすることはなんの意味もないんだろう。
「……アルハイゼン」
呼びかけたところで、ぐったりと倒れる少年が呼びかけに応じるはずもない。それ以前に、彼らにこちらは見えていないのだ。それでも、その小さな頭を撫でるように、触れる。
「普段はすごくムカつくやつだって思ってるけど……でも、君のことは必ず助けるよ」
◇
あれだけ長い時間を過ごしていたはずだったが、夢境に入ってから高々一時間ほどしか経っていない。夢というのは便利なものだ。
そして、そんな短い時間でもクラクサナリデビ様が情報を全て調べ上げるには十分だったみたいだ。
「あなた達が見たものは、間違いなく『魔神を神にする』ことを目的とした研究グループよ」
曰く、魔神が死した際にその魂は砕け、テイワット中に広がった。それは、魔神の中にしか存在しなかった言葉という概念をテイワット中に、区別なく齎した。
「眉唾物の話ではありますが……僕達はそれを証明する術はありませんね。ここは信じるしかない」
「えぇ。言葉を持つ私たちには、言葉が存在しない世界を想像することすらできない……問題は、学者達がただ魔神を復活させようとしているわけではないことよ」
「相応しい神を作り出す……彼らはそう言ってた」
「旅人の言う通りよ。彼らは言葉を二つの属性に分けたの」
一つは、感情を交わすための言葉。もう一つは、理を支配するための言葉。
「蒼白なる魔神の核は未だ骨の中に眠っているけど、その魂の大部分は今も私達……言葉を扱う生物の中になら誰にでも、どこにでも存在している。その眼差しの普遍性は神としては有用だけれど、彼らはもう一つの条件を付け加えた……」
「『感じるための機能を外す』……それってそういうことか!」
学者達の実験の戯れだろうと思っていたが、明確に目的があってそうしたわけか。どんなことをしたら手法を思いつくのかは、あまり考えたくはない。
「彼らは理性のみの、ただ『律』として機能する神を求めたのよ。感情によって視座が揺らぎ、神ですら判断を誤ることがあるのは認めるわ。けれども、本来不可分の体と心──それを切り分けるなんてことは極端すぎる」
いつかに旅人から聞いた稲妻の神の話を思い出す。永遠を希求し悲しみからその姿を見失ってしまったことも、永遠とは正反対の腐敗を招いてしまったことも確かに誤りかもしれない。だが、僕らにそれを断罪し、あまつさえ否定することなどできるのだろうか。神も人も、誤りの積み重ねをもってして初めて理想を実現できる──僕はそう信じている。
「博士が連れ去ったと言うことは、アルハイゼンはもはや彼自身ではないのかもしれない。それでも助け出したいのなら、まずは彼の心のありかを探し出す必要があるわ」
クラクサナリデビ様は、手元から小さな浮かぶ端末を取り出した。可愛らしいフォルムではあるが、各所にあしらわれた目のような紋様が神としての権能から作り出されたことを示している。
「これは昔、旅人に渡した新型アーカーシャを改造したものよ。神座に干渉される可能性がある以上、わたくしは魔神に近付けない。けれどこれを使えば、遠くからあなた達と彼の心を繋ぐ手助けくらいはできるわ」
ナヒーダから受け取ったアーカーシャを、旅人は大事にしまった。
「それから、いくつかのアドバイスがあるの。言葉を権能とし振るう魔神なら、きっと──」