語る世界、遥かなる沈黙〜第四章 巡る言葉〜◇
あれから一週間が経ち、スメールには以前と同じ平穏が戻ってきた。そもそも魔神の一件は緘口令が敷かれていたので当たり前ではあるけれど、パイモンやコレイとシティを見て回る間、おかしな噂が流れていることもない。誘拐事件に端を発した噂についても子供達をどんな形であれ家に帰し、関係者を逮捕したこともあってかすっかり下火になっていた。
ただ、人の口に戸は立てられないもので、「新進気鋭の建築デザイナーをビマリスタンで見かけた」だとか「書記官が代理の者になっていた」だとか、部分的な真実はまことしやかに囁かれているようだった。
「でも信じられないよね。あのアルハイゼンさんが大怪我なんて」
コレイが受けた授業の課題については、『担当教官が入院した』という理由で単位が自動付与されることになったらしい。だから、彼女も詳細は知らないけれど彼が表に出てこられない状態であることは察していた。
「せっかく書いたから見て欲しかったんだけどな」
「あいつなら授業関係なしにコメントしてくれるんじゃないか?」
「コレイのことは気にかけてるみたいだし」
「旅人もパイモンもそう思う?うーん、師匠も『見てもらったらいいよ』って言ってたし」
「ま、辛辣なコメントが来そうだけど……」
予備科の授業も一通り終わり、コレイは今日、ガンダルヴァー村に帰ることになっていた。どうにも鬱屈とした気分を変えられそうになかったので、服飾を見て回ったり屋台で食べ歩きをしたり──萎れていたパイモンもいくらか元気を取り戻したみたいだ。
まだ日は高いが、帰り道を考えればもうそろそろお別れの時間だった。
「ティナリは一緒じゃないけど一人で大丈夫か?本当はオイラ達もついて行きたいけど……」
「うん、大丈夫だよ!レンジャーの人が付き添ってくれるし、大体師匠は過保護すぎなんだ。あたしだって十分強いのに」
「親からしてみれば、子供はいくつになっても子供なんだよ」
「も〜、旅人まで!また今度、森に遊びに来てね。また一緒にキャンプしたいんだ」
「うん、必ず行くよ」
「オイラも楽しみにしてるぞ!」
迎えに来たレンジャー隊と一緒に街を出るコレイを見送っていると、後ろから声を掛けられた。見慣れた金髪と、ここ最近とんと見かけなかった宙に浮かぶ工具箱。
「やぁ、奇遇だね」
服の隙間から包帯が見え隠れするので骨折はまだ治っていないみたいだ。顔色が悪いのは……別の理由もあるんだろうけど。
「君達もこれから教令院に向かうのだろう?なら一緒に行かないか」
「おう!いいぞ!」
「ピポ〜」
メラックは嬉しそうにくるりと一回りすると、パイモンの隣でふよふよとした。空を飛んでるもの同士、何か通じ合うところでもあるのかもしれない。
「てっきりメラックは家に置いてきてたのかと思った」
「ファルザン先輩が調べたいことがあったみたいでね、しばらく彼女のところにお出かけしてたんだ」
「ピポピポ」
「え?先輩のところの方がいい機械油を使ってた?うーん、多少無理してでもいいやつを買うか……?」
「今の音を聞いてそんなことが分かるのか?お前もアルハイゼンもすごい……あ」
カーヴェの肩がびくりと震えたのを見て、パイモンは所在なさそうに視線を泳がせた。パイモンにしてはデリケートになってるというか、周りを見ているというか。
「別に大丈夫だ。あいつを腫物みたいに扱うつもりはないし──大体、今日はあいつに会いに行くんだからな」
結果的にいえば、アルハイゼンは生きていた。明らかに人として生きているか怪しい状態であったにも関わらず、膨大な草元素エネルギは彼を傷付けると同時に一部の体組織を変化させ──原理はともかく、草元素エネルギーの循環さえあればバラバラだった体は問題なく繋がり命も失われることはない、というのがナヒーダの見解だった。
その言葉を疑うわけではなかったけど、スラサタンナ聖処に運び込まれた彼がナヒーダの力で息を吹き返すところを見て、みんなようやく安心できたみたいだった。でも、昏睡状態から目を覚ますことはなく、ナヒーダは「一週間、時間をくれないかしら」と尽力することを約束してくれた。
そして、今日がその約束の日だ。
聖処にはすでにナヒーダとティナリの姿があった。部屋の中心、そこにあるのはかつてナヒーダが閉じ込められていた檻ではなく、草元素で編まれた籠だった。元素視覚で見ると潤沢な元素エネルギーが込められているようで、目を固く閉じたままのアルハイゼンが中で力なく浮かんでいた。
「旅人達も揃ったから、はじめましょうか」
各々頷くと、ナヒーダはアルハイゼンの状態について説明を始めた。
「前にも言った通り、体の方は治った──というのとは少し違うけれど、でも生命活動を維持することに問題は見当たらなかったわ。目覚めない理由は生理的な理由ではないから──少し彼の心の中を覗こうと思ったの。でも──できなかった」
「できなかった?ナヒーダなら楽勝なんじゃないのか?」
「正確には覗くことはできたの。多分、見てもらったほうが早いかしら」
ナヒーダがそう言って胸の前で手を翳すと一冊の本が出てきた。放浪者が前世、とでもいうべき記憶を読んだ時にも同じものを見た気がする。けれども、この翠緑の本には絵なんてものは一切なくて、文字がみみずみたいに張っているだけだった。それを、ナヒーダ以外のみんなは上から覗き込むようにして眺める。
「えぇと、これってオイラが馬鹿だから読めないのか?馬鹿には読めない本、みたいな」
「いいや、僕にも読めないね」
「あいつ……こんな時にも意地が悪いのか」
標準的なテイワット語……にも見えるけど文字の並びは全く出鱈目で、時折単語を拾えることはあっても意味のあるものは読めそうにない。
「これが今のアルハイゼンの心の中なの。記憶や思い出が失われたわけではないけれど、それらに意味を持たせるためのルールが消えてしまっている。あの魔神の魂が散逸する際に、強く結びついていた彼自身にも傷をつけてしまったのね」
つまり、そのルールをどうやって彼に与えるか、が問題なんだろう。でも、どんな記憶同士が結びついて物語を形作るかなんて、当人以外に分かるものなのだろうか。
「それなら、散兵の時みたいにできないのか?」
ティナリもカーヴェも放浪者がファデュイにいた時のことは知らないから、怪訝そうにパイモンを見ている。けれど、ナヒーダには意図が伝わったみたいだ。
「私も考えたのだけれど……本というのは読む人がいてこそのものでしょう?それに、世界樹から彼のデータは読み出せないの」
読み出せない。失われたのではなく。そもそも、世界樹から記録が抹消されていたら、異邦の人間である自分以外が覚えているはずはない。
「彼の記録が世界樹には存在しないもので満たされてしまって──それだけなら良かったのだけれど、参照先のないデータを読み込もうとすれば世界樹そのものの動作に影響を及ぼしかねない。それがそうであるかわたくしには判断がつかないし……本当にごめんなさい」
「……それは……打つ手はない……ということですか……?」
多分、この中で一番心を痛めているのはカーヴェだった。彼らは友人で、ルームメイトで、お互いに一番近しい人間だったから。
「方法はあるけれど、きっとあなた達とってとても辛いことになるわ。それでも──アルはゼインを助けたいかしら」
◇
アルハイゼンが生きる世界は、驚くほどに狭い。人付き合いといえば僕やティナリ、セノとその周辺、教令院の同僚くらいのものだ。行くところだって職場とシティ、たまにオルモス港に出向くくらいで。僕達は、そんな小さな世界の中を空の缶詰知識片手に手分けして駆けずり回ってた。
「ファルザン先輩!」
教令院の裏庭で見覚えのある水色の髪を見つけて声をかけると、彼女お決まりの古風な返答が返ってきた。
「カーヴェじゃないか?なんじゃ?偉大な先輩であるワシに何か頼み事か?」
「えぇ、そうです。とても重要な頼み事です」
「メラックを貸してくれた礼じゃ。ほれ、なんでも言ってみるが良い」
快く引き受けてくれたファルザンの前に缶詰知識と懐かしのアーカーシャを差し出すと、彼女は訝しげな顔をした。そして事情を話せば、困惑と疑念を浮かべた。
「草神様がおっしゃるのならそれしか方法はないんじゃろうが、分かっておるのか?これは、誰にとっても辛いことをしているんじゃぞ」
「それは……百も承知です」
ファルザンは「そうか」とだけ返事をして、しばらく躊躇ったのちにアーカーシャを身につけた。缶詰知識を耳に当て、僅かな駆動音とともにそれが元素の光を帯びていく。
輝きが確かなものとなった缶詰知識は、ファルザンの持つ記憶の分だけ質量が増したように思われる。おそらく錯覚に過ぎないのだろうが。
「先輩、ありがとうございます」
「う、ん……そうじゃな。計画がうまくいくことを祈っておるよ」
頭の重さを振り払うように首を振るファルザンに「異常があったビマリスタンに知らせてください」とだけ伝え、その場を後にする。次は半ば助手扱いされていたパナーか、あるいは拘禁中のシラージの元に行くべきか。
「……メラック」
「ピポ」
「君だけは、忘れないんだよな」
「ピ?」
不思議そうな表情をメラックはディスプレイに浮かべた。いや、この子は機械だから、そこに感情を見出したのは僕の感傷なのかもしれない。
「ごめん……八つ当たりしてるわけじゃないんだ。むしろ、そうであってくれたら嬉しい」
「……ピポ!」
メラックは元気付けようとしたのか、頭上をぐるりと二、三周してからディスプレイを点滅させた。
「一つだけ方法があるわ。あなた達が持っている思い出を缶詰知識に詰めて、アルハイゼンに読み込ませるの」
アルハイゼンに今必要なのは、知識や記憶を結びつけるための物語──論理だ。それが彼の内側に存在しない今、バラバラになったピースを再び結びつけるには、外側からルールを持ち込む必要がある。その理屈は分かる、分かるが。
「これは一種の賭けよ。彼を知るあらゆる人から思い出を集めても、彼が記憶同士を結びつけるに足るものを得られるかは分からないわ。それに、他人の記憶で穴を埋めるわけだから、全くの同一の人格が得られるかも定かではないの」
目が覚めるかは分からない。目が覚めても、元に戻るかも分からない。それじゃあ──
「抽出した知識は人から失われてしまう。かき集めたとしても僕達は、世界は……以前のアルハイゼンのことを忘れてしまうことにことになるんじゃ」
「その通りよ、カーヴェ。本当は両者から承諾を取るべきだけれど、アルハイゼンは今答えられる状態じゃないわ。だからせめてあなた達には選んで欲しいの」
このままアルハイゼンを生きているだけの屍に成り下がらせるか、形を変えて誰からも忘れられたとしても生きていて欲しいと願うか。
「……僕は賛成だよ。カーヴェ」
「ティナリ……!」
「僕は、友達がこんなところに一生閉じ込められるなんて嫌だよ。それにアルハイゼンならきっと一人でも大丈夫だ。彼にとってはほんの少し状況が変わるだけで、すぐに慣れるよ」
違う。違うんだ。確かにすぐ慣れてしまうだろう。一人でも大丈夫だろう。でも、彼がようやく踏み出した日差しの中への一歩を、僕は無かったことにしたくない。
「……分かったよ」
無かったことのしたくないのならば、尚更そうするべきだった。物語は読み手がいて初めて意味がある──クラクサナリデビ様もそう言ったじゃないか。
缶詰知識片手に走り回る僕らの姿は、かなり奇妙なものに見えたのだろう。二、三日経ち、めぼしいものを全て集め終わる頃にはシティの中はすっかり噂で持ちきりだった。そう、集め終わってしまった。
スラサタンナ聖処に向かう足取りは自然と重くなり、牛みたいにのろまな歩みのくせに足は止まらず、結局来てしまった。
「これで十分でしょう。あとは、わたくし達の分があれば」
ここにいるのは旅人に僕、クラクサナリデビ様だけだ。目の前の大きな缶詰知識の前には、セノやティナリのものも入っていて──それはつまり、彼らはここには来ないことを意味していた。
「初めに決めた段取り通りに、あとはわたくしとカーヴェのものを入れて旅人に託しましょう」
嫌だ。渡したくない。そんな子供じみた泣き言が、ナヒーダにこれを手渡すことを拒む。楽しかった思い出も、不愉快な思い出も、思い出したくもないことも──全部忘れてしまう。それらを忘れてしまったらアルハイゼンだけじゃなく自分まで損なわれてしまう気がして──
「カーヴェ」
駄々っ子を言い聞かせる母親みたいに優しい声が耳元をくすぐる。缶詰知識の上に落ちていく水の粒は、そのまま床へと滑り落ちてシミを作ってる。
生意気だし、憎たらしいし、共感性なんてものはなくていつもイラつかされてばかりだったけど──やっぱり、友達、だから。
『どれだけ損なわれたとしても、俺はきっと同じ言葉を語るよ』
それは僕もだ、アルハイゼン。忘れてしまったとしても、多分、僕達はやっぱり言い合ったり喧嘩したり──それで時々は穏やかに酒を飲んだりするんだと思う。
「すみません、クラクサナリデビ様。お願いします」
涙を拭い、缶詰知識を渡して、アーカーシャを装着した。
「大丈夫よ、カーヴェ。人を形作るのは──言葉だけではないもの」
低い音が大きくなっていき頭の中身を引っこ抜かれる奇妙な感覚の中、一瞬だけ懐かしい夢を見た。何か特別な日というわけでもなく、ただあいつが本を読んで、僕は部屋で相変わらず模型を振り回していて──そんな日常の夢を。