甘い酒は果実の如く オロルンの唇を濡らしたのは赤い血。
切り裂かれた隊長の頬から風を切って懐にいたオロルンの顔へ落ちてきた。
かすかにオロルンは肩を揺らす。
しかし。
「オロルン」
呼ばれた瞬間弓を引き絞り、巨大なアビスを顎下から撃ち抜いた。
アビスは原型を留められず霧散していく。
ヒルチャール王者よりも大きな個体へと変化していたアビスは剣で仕留めることが難しく、何より通常の攻撃では特殊な鎧をまとっているようで刃が立たない。
そのため隊長が引きつける間にオロルンが撃ち抜く戦法になった。オロルンの視界ではアビスが纏う鎧の中で一番無防備だったのが顎下だったため、確実に狙うため咄嗟に足下へ座った。
だからこそ、隊長の頬を掠めた血飛沫が偶然にも口に触れた。
隊長は囮に使っていた剣を軽く振り払いしまう。
周囲を汚染していたアビスが消えたため、この辺りの空気は晴れ、空が青く澄んでいた。
アビスとの遭遇は偶然だった。
戦いで失った物資を補給する人手が不足していると聞いた隊長が、こちらは人手があると申し出を受けた。そして補給物資を抱えた部下達と共に目的地まで運んでいる途中、ミツムシの世話で外をうろついていたオロルンと会い、補給物資に関しては機密では無いためオロルンに手短に話すこととなる。
オロルンは手伝いたいと願った上、行き先に妙な気配がある気がする、と加えて言ってきたので同行を許可した。
ミツムシは思っていた通りの動きをしていたからあとは帰ってくるだけだと言っていたが、そこは部隊とは関わりがなかったため詳しく聞かずにいた。
はたして、オロルンの言っていた妙な気配というのは当たりだった。
大事な補給物質を部下達に預け気配がわかるオロルンを連れて先行したが、ここまで巨大なアビスだとは思っていなかった。その上アビスの中でも気配を察知する能力が高かったらしく、普段なら気づかれる位置よりも後方でも襲ってきた。
何度か打ち合ったことで装甲が異様に硬いことがわかり、この手合いはどこかに欠点があることが多いとオロルンに伝えればまだ年若い青年は即座に対処したのである。
大きな怪我もなく倒せたことで、遠く後ろにいる補給部隊への脅威は減っただろう。
考えながら今回の同行者へ声を掛けようとオロルンがいる足元へ目線を下げる。
オロルンは座ったままの状態で顔を俯かせていた。
即座に隊長はそばへ座り込み顔を覗く。
「オロルン、どうし……俺の血か」
俯いた顔には赤い血がぽつりぽつりとこぼれ、唇さえも濡らしている。
隊長の仮面は黒い布地に見える箇所が存在するが、実際は黒く見えているだけで布地はない。
仮面に触れてみると金属部の一部に少しばかり傷跡が出来ていた。そばの頬も薄く裂けている。
仮面も傷もあとでなおすことを決めながらもオロルンの様子を伺う。
「すぐに吐き出すべきだ。自分のものではない血は気持ち悪くなりやすい。何か口に含めるものを、」
「いや、大丈夫。すまない。少し、酔ったみたいだ」
「血は苦手、ということか」
この青年がそこまで戦いに不慣れだったとは思えない。
今回の戦闘でも冷静に対処してみせていると言うのに、この量の血で具合が悪くはなるのは不自然だ。
しかしオロルンは首を横へ振った。ひどく弱々しかった。
「本当に、酔っているんだ。酒みたいに」
オロルンは唇についたままの隊長の血を舌で舐め取って喉を揺らした。はあ、と息をつき、呻きともつかない息継ぎが混ざる。
「具合は」
「悪くない。僕は特殊体質らしくて、普通の酒ではあんまり酔わないのに、血で酔う」
「人以外のものも該当するのか」
オロルンはゆっくり頷いた。
「昔、竜の血を飲んだことがある。イクトミ竜の子が怪我をした時に洗ってあげようと思って舐めたら、クラクラして竜の子のそばでひっくり返った。そのあとばあちゃんは竜の子を診療所に連れて行って、僕が目を覚ましたあとは説教コースだった。血は舐めちゃダメだって」
通常の人間は例え親しいものであっても血を飲んだりしない。例外として毒を塗られた怪我に口をつけ吸い出すことはあっても、それも決して飲んではならない。
幼かったオロルンは飲んではならないことに区別がついていなかった。
だからこそ「黒曜の老婆」に叱られたのだろう。
「それで酔うと知ったのか」
「うん。ばあちゃんが酔った後になる症状と、そっくりになったから。ただ、」
オロルンはそこで言葉を切り、眉をひそめた。
おぼつかない眼差しで隊長を見上げた後、残念そうに眉を下げる。そしてすぐに顔をしかめた。
「オロルン?」
「いや、なんでもない。久しぶりに血を口にした上、君の血は、君の魂みたいに、ずっしりしている。少量の血で、こんなに朦朧、とするのは、初めてだ。でも、乾パンと、ちがって、おいしくて……」
オロルンは必死に意識を保とうと努力していたが、酩酊に揺れるまぶたは最終的に落ちた。
隊長はゆっくりと崩れ落ちるオロルンを支え、しばし無言になる。
俯いていた頬が日に照らされ、赤く上気しているのが見えた。
隊長はその頬を指先で少し撫で、そのままずれたフードを被せ直した。
帰還した隊長がわずかでも怪我していた上その腕にオロルンが抱えられているのを見てどよめいた部下たちがいたのも、この件が過ぎてからオロルンが隊長を見ては物欲しそうな顔をたまに覗かせるようになるのも後の話。
おわり