DomSubカピオロ 一話目 調子が悪いのにこの道を通るんじゃなかった。
心の底からそう思っても状況は好転しない。
震える指を弓に添えて、吐き気にあふれそうになる息をこらえ唇を引き締める。
落ちそうになる腕を上げて、雷元素をバリアにまとうアビスへ矢先を向けた。
DomSubカピオロ 一話目
いつの時からか、どうにも調子が悪かった。なんとなく怠さを覚える程度のものだから、長く続がなければ不調だと気づかなかった。
魂の不安定さから来る体調不良ではない。お守りを身から離さない限り、魂との縁が深く繋がる場所でない限り、気をつけていれば体調を崩さない。
最初は寝れば治ると思い、遅くまで起きているのを減らした。睡眠時間を増やし、体調が治るようにと気配りもした。
だが怠さは減らず日ごとに増えていく。
体力があるからこそ日中に動けてはいるが、もしかしたらいつか動けなくなる日が来るかもしれない。
そんな思いが頭をもたげてからオロルンは諦めて重い腰を上げた。シトラリのところへ行くべきだろう。
だるいだけだと思っているうちに原因がわかった方がいい。
(ばあちゃんは怒るだろうな)
どうしてもっと早く来なかったのと怒る様子が容易に想像出来て憂鬱な思いが心の底へ沈んでいく。
でもどうしようもなかった。すぐに治ると思っていたほどに初期症状は軽かった。
説教は甘んじて受けようと決めて、怠さを抱える身体をベッドから引き離した。
アビスに遭遇したのは、空がゆっくりと赤くなりかけた頃。
オロルンの家から謎煙の主へ向かう道には無人の場所も多く、アビスがいたのはそのうちのひとつ。ちょうどオロルンの家と謎煙の主の中間辺り。
いつも通りの道をいつも通りの速度で歩いていた。
ただそれだけなのに、唐突にアビスの魔術師と目が合った。
即座に弓を掴めたのは良かったものの、状況は不利だとすぐに悟った。
アビスの魔術師が操る元素は雷。纏うバリアにオロルンの攻撃は当たらない。
加えて木の盾を持ったヒルチャールが数体と水と風を操るシャーマンのヒルチャールが一体ずつ。
数としては多くないものの、一人で戦うには明らかに戦力不足だとわかる。
地面から跳ねる水から飛び上がり、向かってくる竜巻を避ける。地面へ足を着いた途端に棍棒を振り上げて向かってくるヒルチャールへ牽制の矢を放ち、後退する。
(人がいるところまで退避するか、隙を作って謎煙の主の方まで走り抜けるか)
矢を一本打っただけで震える指先に歯噛みする。怠いという感覚だけだった身体の不調がこの状況を不利に貶めていた。
普段の体調なら退避も走り抜けも問題なく行える。
しかし歩くのさえ億劫ないま、狙い通りに弓を弾けない。頭も重く、巫術を使う選択肢は取れない。
動けば動くほど具合が悪くなっていく感覚に、耐えきれるはずのない戦闘。
最悪の状況に頭は必死に退避の手段を探り、攻撃を避け続ける身体は冷や汗が伝う。
不意に視界からアビスの魔術師が消え、あ、と口から音が飛び出る。
冷える指先で必死に弓矢を構えた瞬間、円状に雷を広げたアビスが目の前へ瞬間移動して来た。
アビスの後ろに控えるヒルチャール達。
絶望の淵に立たされている。
不調を訴える身体は今にも崩れ落ちかけ、言うことをひとつだって聞いてはくれない。
それでも、とオロルンは矢を弦へかけた。
アビスが紫に爆ぜるバリアの中で杖を振り上げる。
命を無くすよりも、とオロルンは一か八かで巫術を組み立てた。この身を一瞬だけ見えなくするだけの、準備さえしっかり出来ていたら問題のない巫術。しかしなんの準備もないまま打つにはリスクが高すぎる。失敗したらそこで終わり、成功したって身体に何があるかわからない。
それでも、ともう一度繰り返し、震え始めた膝を叱咤して力を入れた。
瞬間、後ろから風が吹いた。
ごう、と音を立てて通り過ぎる冷気を感じる前に、オロルンの目の前にいたアビスが吹き飛ばされていった。同時に背後から肌を突き刺すような「何か」が飛んでくる。殺気に似ているのに違う。無意識に身体が震えた。
「何か」が何を示しているのか判断がつかない間にも次々と風が通り過ぎていく。
炎を纏う刃とともに水の波紋が地面に映り、ついで雷を纏った大槌と氷の放射器が上から敵へ降り注ぎ、炎の弾丸を追うように風の盾が飛び込み、全てを守るように岩のバリアが張られていく。
無駄のない、見慣れた連携にオロルンは膝から崩れ落ちた。
安心感から力が抜けたのだ。必死に保っていた身体は限界で、気力だけで持ち堪えていたらしい。
もう安全だという感覚から、抑えていた不調が一気に吹き出す。
気づけば視界は揺れ、吐き気が込み上げて咄嗟に口元を抑えた。
地面に座り込んだ身体が地面へ横たわりそうになる。
その背を支える感触があった。
「間に合ったようだな。大丈夫か」
膝をついた隊長が片手でオロルンの背を支えてくれている。
問題ないと口を開きかけ、けれどこぼれたのは掠れた息だけ。どれだけ上手く息を飲み込もうとしてもそれすらままならない。
安堵している精神とは裏腹に心が定まってはくれなかった。
吐き気はますばかりで、座り込んでいるだけで精一杯な状態だ。
隊長は何も言わないオロルンを一瞥し、戦闘中の部下達に続行の指示を出す。
「動けるか」
隊長へオロルンは返答もできず、首を横へゆっくりと振った。
わかったと返されると同時にオロルンは浮遊感を感じた。抱き上げられたのだ。
子供を抱き上げるような縦抱きに、オロルンは揺れから来る吐き気から隊長の肩へ頭を乗せる。
オロルンの体重は平均的な成人男性程度にあるはずだが、隊長はそれを全く思わせないしっかりとした足取りで後退した。
十分に戦闘範囲から離れたところにオロルンは横たえられる。地面の冷たさに震えそうになるのを耐えながら隊長を見上げる。
「ここで待っていろ」
その言葉に、身体の震えが消える。
強くなる一方だった吐き気も少しだけおさまり、話せないながらもオロルンはなんとか隊長へ頷きを返せた。
隊長もひとつ頷いてから、先ほどまでオロルンがいた先頭エリアへ戻っていく。
その背を見ながら、ただひたすら待つ。
何秒か、何十秒か、何分か。
わからないままずっと待っているうちに、いつまで待てばいいのかわからない恐怖が少しずつ心を侵食して来た。
隊長率いる部隊なのだからすぐに引き上げられるとわかっていても、思考が恐怖に引きずられる。
自分が至らないからここで待たされているのではないか、自分の待てが足りないから、ずっとこのままになるのではないか。
(僕は彼が期待する待機を出来ているのか?)
そんな感情が考えを染めてくる。
通常ではない思考だとどこかでわかっているのに、時間が経てば経つほど身体が冷たくなっていく。おさまっていたはずの震えが止まらくなり、吐き気がぶり返す。腕で口元をおさえても吐き気はおさまらなかった。
どれだけ時間が経っているのかもわからない。
あとどれだけ待てばいいのか。
それだけが頭の中でぐるぐると回り、無意識にまぶたを閉じた。
それからどれだけ長い時が経ったのか、あるいはほんの数十秒だったのか。
「オロルン」
低い声が名を呼んだ。
冷たい空気が肺に入り込んできた感触に、自分が息を止めていたことに気づいた。
触れるぞ、という一言と共にフードの隙間から首元に隊長の手が触れてくる。
それだけで吐き気がおさまるような気がするから不思議だった。
「たい、ちょう」
なんとか絞り出した声に、隊長がオロルンを見た。仮面越しに目を合わせてくれているだろう。
「ぼく、まてたか?」
言ってから催促するのは良くなかったかもしれないとぼんやりと思ったが、でも聞きたかった。
隊長は呼吸ひとつ分の沈黙の後、「ああ」と頷いてくれた。
「よく出来た」
その言葉に、喜びが肺を満たすようだった。
先ほどまでの不安が一体どこへ吹き飛んだのか、それだけで全てが良くなった気がしてくる。
息を止めるほど苦しかった吐き気もほとんどなくなり、冷えていたはずの身体も温かい。
もう充分。
幸せな心地のまま、オロルンはまた目を閉じる。
なんだかひどく眠く、冷たく感じていた地面でも眠れてしまう気がした。もうそのまま寝てしまってもいいだろう。
そうしてオロルンは、そのまま意識をまぶたの裏へ落とした。
*
オロルンの意識が上がった時、まず感じたのは身体の軽さだった。
日に日に悪くなっていた体調がだいぶ元に戻っている。
完全に元通りとまではいかないが、不調は減っていた。
次に気づいたのはまぶしさ。
目を開かなくても感じるまぶしさに無意識に布団を頭まで被せかけ、「オロルン、ダメよ。起きなさい」と聞き慣れた声で目を開けた。このでやっとばあちゃんに会いに行くところだったことを思い出した。
「おはようネボスケ。説教したいところだけど、とりあえず今は動かないで」
シトラリの巫術のまぶしさはオロルンも知るところ。素直にそのまま受け続けていると、あと少しで終わりだったらしく本当にすぐに終わった。
起きてよし、と言われたので起き上がると、そこは見慣れた施術用の寝台の上だった。ここは謎煙の主にあるシトラリ専用の施術所だ。シトラリの家の奥にあるから滅多に人がいない。ほとんどオロルンが使用している。
「ありがとう、ばあちゃん」
「お礼を言うなら、ここまで連れて来てくれた『隊長』に言うのね」
シトラリはふんと鼻を鳴らして機嫌悪そうに言う。
「隊長が……」
意識を失う前のおぼろげな記憶が蘇る。
「ここに来る途中で、助けてもらったのか」
「そうよ。オロルン、体調が悪くなったのならもっと早く来なさいよね」
「ごめん、ばあちゃん」
ばあちゃんの判断は正しい。オロルンが真剣に謝ると、シトラリはしょうがないわねとオロルンの頭をひとなでする。
「『隊長』にも話があるから呼んでくるわ」
出入り口へ向かっていくシトラリの背を眺めてから時間もそんなに経たず、隊長が部屋へ入ってきた。シトラリが部屋にある椅子の一つを隊長に勧めてから、さてと説明を始める。
「まずは改めて、オロルンを助けてくれてありがとう。この子は無茶ばかりするから本当に助かったわ」
「ばあちゃん……でも本当にありがとう。隊長へ僕からも感謝を」
シトラリとオロルンからの感謝に隊長は少し間を空けてから頷きだけを返した。
不可思議な間にオロルンは首を傾げたが、シトラリは気にせず次の話題へと移る。
「それで、この子の体調不良なんだけど…隊長、心当たりがあるでしょう?」
「ああ」
頷く隊長に対して、オロルンは頭の上に疑問符が乗っている。
「でも、これは僕の体調不良で」
シトラリの人差し指がオロルンに向けられる。
「それよ。その体調不良は一体イツからなのかしら?」
「戦が終わってから、だけど」
「ええ。ちょうどその頃からこの男に会ってない。そうでしょ?」
シトラリは今度は隊長を指差す。
「そうだけど」
「なら原因の特定は早いわ。オロルン、その体調不良の原因は『サブドロップ』よ」
「さ、ぶどろっぷ?」
聞き慣れない単語にオロルンが首を傾げる。
シトラリが人差し指を上へピンと立てて説明しようとした矢先「そこから先は俺が説明しよう」と声が挟まった。
シトラリのジト目が隊長の方へ向けられたが、一拍置いて「いいわ」と説明役を譲った。
隊長はひとつ頷きを返してからオロルンへ向き直る。
「お前の魂が夜神を起こした装置の前でひどく不安定になっただろう。あの時お前を押さえる巫術がどうやら今回の問題に繋がったようだ」
「それと何の関係がある?」
「お前の魂は生まれた時から欠けている。その不安定さも相まって、本来ならば有無も含めて定まるはずのダイナミクスが元々不安定だった。そうだな、『黒曜の老婆』」
「ええそうよ。この子はダイナミクスが不安定だったからこそ発現していなかった。どちらにもなれるけれど、どちらでもない状態だった。だから今までは何も問題がなかったの。だけど、」
「あの時掛けていた巫術は身体を抑えるものではなく、本来お前の身体に存在するはずのないものを抑える技だった。それがあの時お前の崩れかけた魂の補強にも影響していた。これはお前の祖母がお前に持たせているお守りと近しい技だからそれ自体は問題がない。問題の起点は、俺にダイナミクスがあったことだ」
シトラリにはダイナミクスがなく、隊長にはダイナミクスがある。
その言葉にオロルンは考え込むように顎に指を当てた。
「もしかして、不安定だった僕の魂に君の技を通して僕のダイナミクスを片方に安定させてしまったのか?」
隊長は正解だと頷く。
「不死の身体になってからほとんど存在しないと言っていいダイナミクスだったが、まさかこんなことになるとはな」
ふんとシトラリは鼻を鳴らした。
「本当よ。こればっかりはワタシだってどうしようもできない。以前のようにダイナミクスがどちらでもない状態に戻るまでどれだけかかるか」
オロルンの目がぱちぱちとまたたいた。
「この状態がずっと続く、わけじゃないのか?」
「モトモトは一時的に偏ってるだけだもの。これ以上の影響がなければ最終的に元のどちらでもないダイナミクスに戻るわ。ただーー」
「ただ?」
「オロルンがいま安定しているダイナミクスはSubと呼ばれているの。そしてそのダイナミクスを持つ者たちは、『行為』と言うものをしなければ体調を崩してしまう」
今回のオロルンの体調不良もそれね、もシトラリが付け加えた。
「なるほど、それが原因だったのか」
「そうよ。だから、だから……力が抜けきるまでは『行為』をしないと体調を崩す、のよ」
シトラリは言いたくないことを言うようにひどく苦い顔で、どこか低めの声で伝えてくる。
対してオロルンは首を傾げた。
「それって一体どんなものなんだ?」
オロルンにダイナミクスの知識はほとんどない。
性にDomやSubがあるくらいのもので、それ以外はおぼろげだ。
なにせ今まで生活に必要なかったのだ。
育てている野菜やミツムシにだってダイナミクスは存在しない。
だからこそある程度教えられていた基礎知識も薄れている。ウォーベンの中にはダイナミクスが関係した話も複数あったが、興味がなかったので記憶に残っていない。
行為、というのも、聞いてからそんな言葉もあった気がするとぼんやり思い出した程度だ。
シトラリがぐぐぐと眉をギュッとしかめて口を開いた。
「それはーー」
「それは個人差がある」
シトラリの言葉を隊長が続けた。
「ある程度の基準はあるが、やはりそれも目安でしかない。『行為』を行うDomとSubが決めていくものだからだ」
「なるほど。じゃあ僕は君と決めるものなのか」
なあ隊長、とオロルンが言葉を向ければ、部屋に沈黙が落ちた。
気づけばシトラリは口を閉じ、隊長も音を発さない。
オロルンはまばたきを幾度か繰り返した。
そろそろと何度か視線をシトラリと隊長へ往復させ、眉尻を下げる。
「僕は、何かまずいことを言った、だろうか」
ハッとシトラリがオロルンを見て、あわあわと手を動かしている。
そう言うつもりではないと言いたげな仕草に、けれどオロルンはわからない。
そこへしっかりとした声が響いた。
「『黒曜の老婆』。今回の責任を俺に取らせてはくれないか」
シトラリはオロルンへ向けていた仕草を即座にシャンとさせ、息を大きく吐いた。
「何を言っているかわかってるの?」
「わかっている。オロルンのダイナミクスが元へ戻るまでだ」
シトラリが隊長へ目を細める。ひんやりとした空気を纏っていた。
「体調にシショウが出ない程度まで。それは守って」
「無論」
頷く隊長に、シトラリはオロルンへ顔を向き直した。
ひんやりとした空気は消え、あるのは心配そうに眉根を寄せた姿。
「ばあちゃんがダメって言ってもあんたは聞かない、わよね」
「大丈夫。この人は問題ない」
何を問題にしてるのかもわからないけれどオロルンにとって隊長は信用できる存在だ。
安心こそすれ不安になることは何もない。
「だからシンパイなんだけど」
「大丈夫だよ、ばあちゃん」
安心させるために深く頷いてみせてもシトラリはなんとも言えない顔をしていた。
「まあイイわ。オロルンが良いって言うなら今回の件に関してワタシは口出ししない。『行為』のことも二人で話し合って決めなさい。わかったわね、オロルン」
「うん」
ふとオロルンが隊長を見れば、隊長もオロルンを見ていた。
なんだかそれが嬉しくなってオロルンの口元がゆるむ。
「ひとつずつ教えてもらえたらありがたい」
隊長は「ああ」と頷き、シトラリへ「必ず守る」と念を押すように伝えた。
シトラリはすごく嫌そうに眉を寄せたが、諦めたように息を吐いたのだった。
おわり