【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/04ジキル 今日の食事会は、本当に気分が悪かった。研究者の集まりというのは、高め合うことが出来る時もあれば、牽制と探り合いが渦巻く時もある。今日は、後者だった。
そう飲まされたわけではなかったが、場の空気にあてられた僕はひどく苛立っていた。いつしかあの店のことを思い出し、足は勝手に表通りから一本入り込む。
地面を睨みながら歩いていると、ビルとビルの間の暗闇から話し声が聞こえた。ちらと目線を向ければ、気の荒そうな男が、どうやら学生に絡んでいる。肩がぶつかったとか、なんとか、ろくでもない理由で……咄嗟に二人の間に入り込み、苛立ちそのままに雑に声をかけた。
「もういいだろ、どっちも早く帰りなよ」
絡まれていた学生は、間に僕が入ったことでこれ幸いと駆け出す。絡んでいた男は、矛先を僕に向けはじめた。当然の結果だろう。
そうなってはじめて、浅慮だったかと思い至った。腕に自信はあったが、見た目に迫力はないから、この男は向かってくるかもしれない。喧嘩になっても、負けることはまずないだろう。しかしさっきまで近くで食事会だったのだ、仕事の関係者がいるかもしれない場所で、騒ぎになると困る。
どうしたものかと迷っていると、ふと目の前に影が差した。急に現れた別の誰かが、今度は僕と男との間へ割り入っていた。
後ろ姿だが、惚れ惚れするような長身だ。薄暗いせいで全てグレーにしか見えないが、薄手のタートルネックと、締まった腰から長い脚へ落ちる細身のスラックス。リラックスした服装でありながら、人目を引く雰囲気がある。影のように静かなのに、しなやかな動きは獣のようだった。長い腕が宙を切り、男の方へ一歩踏み出す。無造作な動作のひとつひとつが、異様なほど洗練されて見える。
しかし男も意地があるのか、後込んだ姿勢を正して声をあげた。
「なんだよ、次から次に。アンタ、関係ないだろ!」
「関係はない。だが話し合いなら、参加させてくれ」
落ち着いた口調に、男は今度こそ怯む。割り込んだ影は片手をポケットに入れたまま、もう片方の手を軽く開く。僕は直感的に気付く。多分この人は、本当に強い。男が殴りかかったとしても、封じるのは容易いだろう。
しばらく静かであったが、その誰かが更に一歩進んだ途端、男は「もういい」と吐き捨てて立ち去った。
騒ぎが起きなかったことにほっとして、僕は胸を撫で下ろす。
「すみません、ありがとう」
「お前も、危ないことに一人で首を突っ込まない方がいい」
長身の影がゆったりと振り向く。目が合った途端、僕らは一瞬、言葉に詰まった。
「……ピッコロさん」
僕が呟くと、ピッコロさんは困ったように口を閉ざした。
決してラフすぎるわけでも、品がないわけでもなかった。だが、身体の線の露になる出で立ちは、シャツとベストのフォーマルな姿とはまるで印象が違っていた。何よりも、荒っぽく刺々しい雰囲気が、カウンターの向こうの物静かな姿とあまりにも噛み合わない。それにそれに、僕に気付いていなかったとはいえ、僕を「お客様」ではなく「お前」と……。不意に肌に触れられたような、あるいは触れたような心地で、自分でも不思議なほど、背筋が粟立つ思いがした。
「普段、そんな感じなんですね……」
口にしたものの、自分でも何が言いたいのか、何を伝えたいのか、分からなかった。
ピッコロさんは口を閉ざしたまま、僕の方へ一歩踏み出す。手を伸ばせば抱きしめられそうなほどの距離に向き合っても、すぐには答えてくれない。路地裏の湿った空気を抜けて、体温が伝わってくる錯覚に惑わされる。無言のまま絡む視線に僕は心を乱され、その息遣いだけを、やけに近く感じた。
やがてピッコロさんが身を屈め、僕の耳元へ顔を寄せた。突然近くで交わったまなざしは、少し躊躇っているようにも見える。かすかに、ひそやかなライムの匂いがする……指先が冷え、心臓が跳ね、街の喧騒が遠退く。
「……今おれはバーテンダーじゃないし……お前も、客じゃない」
低く掠れた声で囁くように言い置くと、僕が返事をする前に、ビルの陰から出て行ってしまった。僕はその背中が雑踏に溶けてしまうまで、呆然と見送る。取り残された僕が気を取り直し、のろのろと歩き始めるまで、ずいぶん時間がかかった。
『Veil』へ着くと、カウンターの中には見慣れない店員がいた。二人と似た膚の色だが、体格はずっと小柄で、表情はひときわ明るい。先にマスターが僕へ気付き、微笑んで迎えてくれる。
「お客様、またお越し頂けましたね」
「いらっしゃいませ! よくお見えになるお客様ですか? デンデです!」
僕より年下だろうか、無邪気なほどの朗らかさでいきなり名乗ってくれた。マスターが苦笑して補足する。
「週に二度ほど、手伝いに来てくれています。我々より先にこちらへ出て来ていましたが、元は同郷で……」
「普段は植物園で働いてます。お酒は作れませんが、ハーブティーが得意なので、疲れている時や体調が気になる時は言ってくださいね」
デンデはにこやかに言って、カウンターへ座った僕へ切ったフルーツを出してくれる。裏表のなさそうな、人を和ませる雰囲気は、マスターやピッコロさんとは全く違っていた。
カウンターの花瓶では、大振りの薄紅の芍薬が咲いている。いつもここに飾られている花たちも、デンデの植物園のものなのかもしれない。
「何を飲まれますか?」
マスターに答えようとしたその時、奥の扉からピッコロさんが出てきた。いつもの白いシャツに黒いベスト、落ち着いた雰囲気……さっきの刺々しさを、微塵も感じさせない。僕と目が合うと、ほんの一瞬だけ、驚いたような、怯んだような表情が浮かんだ。
「ピッコロさん……こんばんは」
「いらっしゃいませ……お客様。何をお作りしましょうか?」
ほんの少しだけ声が詰まった気もするが、お前、とは言わなかった。今は、ピッコロさんはバーテンダーで、僕は客だということなのだろう。おかしな心地だ。あの声で、お前と呼ばれ、バーテンダーでも客でもないと囁かれたことが嘘のように思える……。
先にマスターに注文を訊かれていたので少し戸惑ったが、僕は自分の心に従った。
「ピッコロさんに任せます……少し飲んでいるので、強すぎないものを」
「かしこまりました」
マスターは、いつも通りの微笑でデンデと話しながらグラスを磨いている。ちらと僕を見、そしてピッコロさんをじっと見た目線も、いつもと変わらぬように思えたが……ほんの少し、グラスを棚へ戻す音が大きく響いたのは、気のせいだろうか。
グラスに、透き通るほど淡い金色のリキュールが注がれる。それから深紅のリキュールが、長いスプーンを伝ってごく静かに沈んでゆく。一つのグラスの中で、二色のリキュールは美しく層に分かれていた。
「どうぞ……ジキルです」
穏やかに、グラスが差し出される。カウンターの向こうのピッコロさんと、荒んだ空気を纏っていたピッコロさん、本当の姿はどちらなのだろうか。いや……きっと、どちらも、真実なのだろう。
金と深紅の重なるカクテルを間に、ピッコロさんの目をじっと見てみる。ビルの影に塗りつぶされていた昏さは、もうそこには見えない。
「別々に見えても……合わせて、一つってことですよね」
「……そういうカクテルです」
「だったら、どっちも大好きになると思います、僕」
ピッコロさんは、もう答えなかった。いま使ったスプーンを別のグラスの水へ差し、細い指でグラスと共に弄んでいる。指先がグラスの縁を撫でるたび、わずかに水面が揺れる。
長い指と黒曜石のような爪に、僕は目を奪われる。その指先に唇をそっと押さえられているかのごとく、これ以上の質問は、許されないように感じた。
一体どういう意図で、このカクテルを僕へ出してくれたのだろう。そして目も合わせてくれない今、一体何を考えているのだろう……。
美しく二層に分れたカクテルを湛えたグラスは華奢で、ちょっと力を込めれば、簡単に割れてしまいそうに見えた。