青息吐息で縺れ合い「草履は」
言葉を掛けられた途端、足袋越しに瓦の固く冷たい質感を足裏から感じた。呆れた話だが、それまでは全く意識していなかった。
「あー……捨てて来た」
永倉は額の鉢金にこつりと手の甲を押し当てる。
本当に邪魔臭くなって脱ぎ捨ててしまったのかは覚えていない。甍の上を傍若無人に飛び跳ね、滑るように駆け回る敵性体を追い回し斬り付けているうち、瓦の一枚に引っ掛けてしまったのだろうか。
どこか道端に落ちてしまっているならまだしも、屋根の上に草履が放置されていたとあれば住民は不審に思うだろう。賊の忘れ物か悪たれ小僧の仕業か、どちらにせよ気持ちの良いものではない。
「いいだろ、放っておいても残るもんじゃあるまいし」
然れど魔力は消耗品。サーヴァントは消耗品から成る結晶体であり、永倉が腰に提げる刀も、袖を通している羽織も然り。一度は遠い思い出となったそれらは永倉自身と同様に魔力が形作る在りし日の再現だ。流動体である魔力は今も刻一刻と消耗され続け、減った分を補うようにマスターのパスを通してカルデアから供給され続けている。
ひとつの場所に留めておけぬ魔力の性質柄、結晶から零れ落ちた欠片が消えるのも時間の問題だろう。
「明け方までには無くなっちまってるさ」
わざわざ探して回収する必要もない。そういう意図であったが、どういうわけか斎藤には満足するところがあったらしい。
「おまえって、偶に思い切りが良いこと言うよな」
「偶にってなんだよ」
斎藤は答える代わりにふんふんと鼻歌紛いを口ずさんだ。声は夜風に乗ることもなく消えていき、やがて真意を掴み取る暇もなく途絶える。
「新八は雑なくらいが丁度いいってこと」
その憎たらしい笑い方、小馬鹿にするような声ときたら……腹を立てるより先に耳は遠くから近付いてくる二人分の足音を拾った。
足音のひとつは重厚な、もうひとつはそれと比べればとても軽い。音の方を見れば予想していた通りの二人組。先行するのは機能性のみを追求した無骨な黒甲冑に身を包み、これも同じく愛想のない盾を手にした少女。
「盾の嬢ちゃんか、無事に敵を倒せたようだな」
永倉の言葉に頷きつつ、斎藤は少女の後ろに続く人影を注視した。
「マスターちゃんもマシュちゃんも、怪我はなさそうだね」
そうやって素直に安堵して見せる斎藤が、永倉はどうも慣れない。
(あの捻くれ者が、随分と素直になっちまって)
とはいえ無事を確認すると、どこへともなく顔を逸らしてしまうのだから、やはり隣にいる男は永倉が知る通りの斎藤だ。なんでも器用にこなす割に可笑しなところで不器用な斎藤に代わり、顔を上げたマスターと目が合った永倉は暫し迷ってから片手を大きく振り上げた。マスターもまた、人懐っこい笑顔を浮かべて手を振り返す。
(あんな警戒心のない子犬みてぇな顔見たら、売られた喧嘩を買う気にもならねぇな)
それで先ほど、斎藤が折を見て憎まれ口を叩いたのだと合点がいった。マスターへと向けた視線をそのままに斎藤へ言い返す。
「俺にはてめぇが几帳面過ぎるだけに見えるがな」
「まさか! 一緒に戦ってた奴が気付いたら裸足同然になってたら誰でも驚くって」
大袈裟に肩を竦めて見せたが、その足元は草履を固定するための紐が複雑に交差し、幾つもの結び目を作っている。今となっては履くのも脱ぐのも魔力の扱いひとつでどうとでもなるが、生前はそのようには行かない。
「詐欺師は履物を見るってのはこういう意味か」
曰く、人となりは履物に現れる。そこから付け入る余地がある者を探すのだと。
「あぁ、ね。僕も結構見る、だから余計に反応しちまったのかな」
「おい、取り締まる側の言葉としちゃあ胡乱な発言だぜ」
もうマスターたちはすぐそこまで来ていた。
永倉は足元に集中して甍を飛び降りる。数秒、宙に浮いた足の先から瞬く間に草履が現れ、永倉は普段通りの姿でマスターたちを迎えた。
斎藤も同様に地面へと降り立つ。
ふたりが足音を殺しながら駆け回っていたのは、住人が皆寝静まった深夜の平屋の屋根の上で、背が低いその建物から地上への着地もまた、極めて静かに行われた。これが見るからに重量級の鎧を身に着けるマシュには賞賛するべきことであったらしい。
「音一つ立てない着地、お見事です」
皮肉でもなんでもない心からの言葉であるのだから、永倉は彼女の純朴さに戸惑った。一方で斎藤にとっては慣れたことであるらしい。
「マシュちゃんもさ、ひとりでマスターちゃんに怪我一つさせずに敵さんを倒したんでしょ。お見事お見事」
「それは、おふたりがほとんどの敵性体を引き受けてくださったからで……」
彼女の謙遜に、今度こそ永倉が返す。
「こっちは守るより戦うのが本領だからよ、嬢ちゃんがマスターの傍にいるってだけで安心して刀を振るえるから助かるぜ!」
「は、はい……」
白磁の肌にぽっと朱が乗る。
「新八ったら隅に置けねぇの、でもこの子はマスターちゃんのお手付きだからあんまり口説くなよ」
「く、口説いてねぇよ!」
「お手付き?」
首を傾げるマシュの隣、会話には参加していなかったが、先ほどから玄人顔で腕を組みうんうんと頻りに頷いていたマスターが斎藤を見やる。
「牽制はしなくていいよ、一ちゃん」
それから、少しだけ悪戯っ気を含んだ目が永倉へと移った。
「永倉さんがまだマシュの名前も呼べないくらい硬派な人だって十分わかってるから」
このマスターはなんてことを言うのだろうか。
永倉より先に声を弾ませたのは斎藤だ。
「硬派! 硬派と来たか! そうなんだよ、マスターちゃん! 新八ってば、僕相手に喋るときでさえ盾の嬢ちゃんって呼んでやんの!」
なにがツボに入ったか腹を抱えて笑われ、永倉は強く拳を握った。軽く拳骨を落とすくらいは許されるだろうか。そう思っていたところを、小鹿のようなあどけなさでマスターは言うのだ。
「一ちゃんは永倉さんのことが好きなんだね」
「マスターちゃん……今なんて?」
「あれ、違った? 永倉さんの話でこんなに楽しそうにするんだから、永倉さんのことが好きなんだろうなって思ったけど」
怪訝な顔で固まってしまった斎藤に溜息を吐きつつ、永倉は一歩マスターへと近寄った。ほとんどこの男の自業自得ではあるのだが、その誤解は永倉に響く可能性もある。だが永倉は、そこでも先手を逃した。マスターへと声を掛けるより先、マスターの方から永倉へと身を寄せる。
「ふたりとも仲悪いって聞いてたけど、そんな風に見えないね」
これもまた茶目っ気のある表情であったから、永倉も口を開いたままで固まった。マシュの伺うような視線を受けながら、永倉と斎藤は共に口端をひくつかせる。
「は、はは……マスターちゃんってば」
「意外といい根性してるじゃねぇか」
この年若いマスターに七十代まで生きた爺が揃って揶揄われたわけである。
「お、おふたりとも! マスターには私から厳しく言いますので!」
「別に怒っちゃいねぇけどよ」
「ごめんね、ふたりとも。今度、食堂でランチを奢るから!」
「そこまでしてもらわなくたって大丈夫だけどね……」
マシュに叱られ、マスターが両手を合わせて申し訳なさそうに笑う。その顔を苦笑いで見つめる斎藤の目は、どこまでも穏やかだ。
カルデアのサーヴァントとしてはまだまだ新顔である永倉には、マスターのなにが斎藤の琴線に触れたのかはわからない。ただひとつ言えるのは、永倉と斎藤は水と油の関係だが、概ね同じ人間に惹かれる。
(いつ斬り合いになってもおかしくねぇ時期もあったが……マスターにはあんまり悟らせたくねぇな。今後もそういうのを見せるようなことが起きなけりゃあ良いんだが……)
そのうち管制室から通信が入り、マスターとマシュが中心となって一通りの報告が行われた。青白い映像の向こうでは煩雑な作業が行われているらしく、しばらくの時間を要してから「よし、帰還の準備ができたよ!」との声。
間もなく世界から弾かれるような、あるべき場所へ引き戻されるような感覚を経て、夜中の景色から一転。白を基調とした管制室の眩しさが永倉の目を刺す。
此度のレイシフトでは和装の方が違和感ないと聞き、永倉は老爺から青年の霊基へ、それも京を走り回っていた頃の装いを選び特異点へ飛んだのだ。
労いの言葉に応えつつ管制室を後にした永倉は、自室へと戻る際中に一番楽な老爺の霊基へ戻そうとしていたところを浅葱の羽織もまだ纏ったままの肩を叩かれた。
「仕事上がりと言えば呑むしかないだろ、酒は持っていくからさ」
振り返れば、同じく羽織を纏ったままの斎藤がへらへらと笑っている。
端から永倉の部屋に上がり込む気しかない口振りだ。それでも自分の縄張りに他人を連れ込もうとしないのは斎藤らしくて、あまりの自然さに釣られるように永倉は頷いていた。
「南京豆が残ってたか……ツマミはそいつでいいか?」
「あぁ、頼む」
そのような会話をして、永倉は斎藤と別れた。
(サーヴァントは召喚者の影響を受ける、か)
一時は小さな衝突ですら、互いに刀を抜きかねないほど余裕がなかった。そこを越えてしまうと、両者の間に横たわるのは寂莫とした無関心。
どんな拒絶よりも、それはふたりの仲を遠ざけた。
だというのに、どうしたことだろう。
召喚者の影響か、はまたまたカルデアでの生活の中で心境の変化があったのか、斎藤は確かに永倉へ歩み寄ろうとしている。
(あいつが俺に……? まさか。土方の前でくらいは可愛げもあったが、俺にはとことん無愛想な奴だった)
自分に対してはやたら横柄で可愛げのない奴というのが斎藤に対する永倉の評価だ。
そのくせ土方相手には妙に懐いていたから、ふたりが揃っているとき、永倉は極力その場を離れるようにしていた。どれほど癪に障るとはいえ、相手は自分より歳下なのだから、気を使ってやるのが歳上の役目だと思ったのだ。
(なにかの間違いじゃねぇのか。だが……)
先のレイシフトはより顕著であった。
見てるだけで毒気を抜かれるマスターの到着を待ってから軽口を言ったのは、あの会話がただ軽口の応酬で収まるよう気を使ったからではないだろうか。そもそも喧嘩に発展するようなことを言わなければ良いのだが、いやそこにも意味を見つけられないわけではない。
(口喧嘩がじゃれ合いの延長で済んでいたのはいつまでだったっけか)
組織化に伴い細かな序列を割り振られる以前、試衛館に集い志を語り合っていた頃だったろうか。
もしも永倉の考える通り、斎藤がまだ露骨に反目しあうより前の関係を取り戻そうとしているのであれば──
***
半刻もせず、斎藤は予想していた通りの姿で壜を手に永倉の部屋へと現れた。浅葱の羽織も鉢金もない、かといってスーツ姿でもない。
黒い着物と袴のみの軽装で、肩に癖毛が乗っている。
永倉も髪こそ結っているが、似たような格好で斎藤を迎えた。
ツマミには管制室で伝えた通り南京豆を出したが、なによりも酒の肴となるのは他愛もない話だ。
生前から繋がりがあり、カルデアでも纏まって行動をすることの多い新撰組の面々に関する話題が主で、それ以外だと斎藤はマスターについてよく喋りたがった。一方で他のサーヴァントについては広く浅く、当たり障りないことを大袈裟に語ってみせるが、踏み込んだことは口にしない。
永倉はと言えばその逆で、蛍の商いを手伝ったこと、武田と呑んでいたところ上杉の乱入により始まった川中島に巻き込まれたことなど、極めて限られた人々のことを細かに話した。
斎藤が食堂から持ってきたという酒がまた美味で、信じられないほど話は弾んだ。話題が尽きる頃には皿も空になり互いにやや酔いが回り過ぎていた状態。
斎藤はいつの間にか人のベッドに乗り上げており、心地良さそうに枕に顔を埋めている。僅かに残った酒を嘗めながら、永倉は酒精により色が乗った頬を眺めた。そもそも斎藤が浅葱の羽織に袖を通していた齢は当時でも十分に若造と呼んで差し支えなく、そこに実年齢より老けて見える原因であった目の下の隈も肌の紅潮で目立たなくなってしまえば随分と印象が変わる。
「なに見てんの……あぁ、いや。そんなことよりさ」
視線に気付いた斎藤は一度咎めるような言葉を口にしたが、すぐに止めて別の話をし始める。
「希望したら和室に変えてもらえるんでしょ?」
その口振りでは、斎藤の部屋も与えられたままなのだろう。
「そこまで世話を焼かせるのはなぁ」
これ以上じろじろと顔を見続けるのも気まずく、永倉が視線を変えた先には足袋をどこに放ったのか、白いシーツの上で斎藤の素足が無防備に晒されていた。元々の血の巡りの悪さが影響してか、頬や首筋とは違い袴から覗く足首は褪めたままの色をしている。同じく青白い甲には、いくつもの赤い線が引かれていた。
「新八。今度はなにが気になってるの」
斎藤は寝転がったまま首を傾げた。癖毛が枕に擦れる音がする。
「これ、鬱血してんじゃねぇか?」
永倉はベッドに凭れ掛かり、紫味のある赤い痕に触れる。斎藤の足がむずがるように揺れた。
「固定するためだから」
「それにしたって強く結び過ぎだろ」
斎藤がのそりと起き上がる。
途端に魔力の粒子が立ち上り、斎藤の手元に草履が現れた。
「新八は結べないの?」
「あ?」
「僕が手本、見せてあげよっか」
酔ってはいても身に染み付いた所作なのか。草履を足に合わせると、赤い痕を上からなぞるようにして器用に紐を交差させていく。
「できねぇことはねぇよ、面倒なだけだ」
「そう? じゃあ、やってみてよ」
薄く大きな手が草履から離れる。半端に作られた結び目を頼りに、草履がぶらりと宙に揺れた。
男の素足なんて艶やかでもなんでもないはずだが、いくつも赤い線の走る生白い足の甲。適当な人間を自称するくせ切り揃えられた爪。そこに手を伸ばすのには幾らか時間を要した。
互いに声を発さず、紐同士の交差する音のみが静寂の中に響く。
半ばまで紐を交差させたところで、ようやく永倉から沈黙を終わらせた。
「足の指、長いんだな」
「そうだよ、一ちゃんは脚長いよ」
「足の指だって言ってんだろ」
「言われてもね、そんなのじっくり見ないし他人と見比べねぇよ」
そして、もう一度。
「でも一ちゃんの脚は長いよ、なんと股下六畳分」
「化け物かよ」
酔っ払いめと胸の内で罵ってみたが、永倉も酒精のせいか指の動きは鈍い。緩慢ながら、なんとか最後の結び目を作ったところを斎藤は意味ありげに息を吐いた。
「……なんだよ」
「いや? これなら確かに固定するよりも脱いだ方がいいね」
斎藤が足をぶらつかせると、草履も浮き上がり揺れる。
「聞いてた? 固定させるために結ぶんだけど」
草履は粒子に戻り、残された白い足が永倉の手をぺしりと蹴る。
「もっときつく締めてよ」
耳を打つ声は淫らな響きを持って聞こえ、永倉は困惑のまま立ち上がった
「新八?」
一体なにを興奮しているのか。
自問自答を繰り返しつつも、酒精以外の要因から頬が熱を持っているのだけは否定しようがなかった。
焦るほど額には汗すら浮かぶ。
「いや、いやいや……なにを馬鹿な」
「しーんぱち? さっきからどうしたよ」
ひとり勝手に窮地に立つ永倉をさらに追い詰めるように、呼び掛けても返事すらしない永倉に飽きたらしい斎藤が、ベッドの上から身を乗り出して永倉と距離を詰めようと動く。
「そうだ、今度は僕がやってやるよ」
「……やってやる?」
嫌な予感しかしない。
瞬きを繰り返し見やるのは、永倉と異なりただ酒精のせいで頬を火照らせた斎藤の顔。仄かに滲む汗に永倉は喉を鳴らした。
まるで、そういうことをしていると錯覚してしまいそうだった。
「だからさ、一ちゃんが正しい草履の結び方を、おまえの足を使って教えてやろうってわけ」
酔っぱらいの浮かれた笑顔と発想が今の永倉には毒だった。
(馬鹿を言え。さっき俺がそうしたみたいに、俺の足元に座り込むってのか?)
土方や山南が相手ならばともかく、沖田やマスターが相手であるならばまだしも、他でもない永倉相手にこの男が草履を履かせてやろうなんて、一体どういう気まぐれか。
いや、なんにせよ後ろめたい熱を持った今、この身に触れられるのだけは回避したい。急ぎ距離を取ろうとしたのだが、酔っ払いといえども京都を震え上がらせた新選組三番隊の隊長。
「隙あり!」
永倉の行動を予期したのか、先手必勝とばかり斎藤は力いっぱい永倉の手を引いた。
「あっ!? おいっ」
しかして新選組三番隊の隊長であろうとも此処にいるのは酔っ払い。後先なんてまったく考えちゃいない。
「っぶねぇ……」
こと力較べとなれば軍配は永倉にあり、素面であれば踏ん張りも効いたであろうが、酔いが回り動揺もしている状態で不意打ちのように引っ張られては平時のようには行かない。
手をひかれるまま前へと倒れ伏しつつ、間一髪でベッドに両手を突っ張った。
「ん〜?」
おかげで押し潰されずに済んだ斎藤であるが、果たしてそのことに気付いているのかどうか。
常々眠たげに重い瞼の掛かる瞳が、永倉を訝しむようにまじまじと見つめている。
「…………斎藤、そこ弄らんでくれねぇか」
永倉の身体の下、何事か確かめるように斎藤が膝をもぞもぞと動かす。その度、言うのも憚れる場所が柔い刺激を受けて大変に気まずい。
永倉の言葉にどう思ったのだろう。暫し考え込む素振りを見せた後、斎藤はゆっくりと問いかけた。
「実は縛るのがお好き?」
「そんな趣味あるかよ!」
更に時間をかけ、蚊の鳴くような声で「ねぇはずだ」と付け足した永倉を、声を上げて斎藤は笑った。そうすると斎藤の身体が小刻みに揺れるのが密着した体制では響いてつらい。甘く追い詰められていく永倉を、爛々と光る目が見上げている。
「じゃあ足? 足を触ってて興奮しちゃったの? フェティシズムってやつ?」
「っ……本当にやめてくれ、この手の揶揄いは……苦手なんだ」
なんだってそんな興味津々なのか。妙に浮足立った様子の斎藤とは対照的に、永倉は動き回ったわけでもないのに息も絶え絶えといった具合で懇願を口にした。返事はなかったが、代わりに伸びてきた両の手が永倉の後頭部へと回る。そのままなにをされるのかと身構えているうち、不意に後ろ髪が首に纏わり付いて結紐が解かれたことがわかった。
「なにを」
意識を持っていかれた刹那、斎藤が体制を変えた。
とはいっても、大きな動きはない。斎藤はただ、ほんの少し身を起こしただけだ。それすら上体を完全に起き上がらせた訳ではない。そもそもほぼ同じ体格で、筋肉量ならば斎藤を上回る永倉が覆い被さっているのだから簡単に起き上がることはできまい。だから斎藤は自由が効く範囲で僅かに上体を持ち上げ、そして顔の角度を変えただけ。
「っ!」
澄んだ青色とくすんだ朽葉色の視線が交差した。
硬質な髪と柔らかな癖毛が触れ合った。
熱を孕み酒精を帯びた吐息同士が混じりあった。
──唇が重なった。
動揺から口を開けてしまった永倉へ、これ幸いとばかりに斎藤の舌がぬるりと入り込む。たっぷりと唾液の搦んだ舌は、独立した生き物のように器用に動き回り、永倉の咥内を蹂躙する。
なんとか引き剥がそうとしたが、その抵抗は斎藤の癖毛を乱暴に掻き回しただけだった。
「んむっ……ぐぅ…………ふっ」
漏れ出る声はどちらのものか。
永倉の淑やかな抵抗を意に介すこともなく、更に大胆に勢いづいた斎藤の舌は燃えるように熱い。
淫猥な水音を立てては、翻弄されるばかりである永倉の舌に熱を移すように纏わりつく。
「っ……!」
音を上げた永倉が誨淫な舌へと遂に明確な抵抗を示すのには、そう時間は掛からなかった。
「……ぁ」
あえかな声はどちらのものか。
舌の上を染みるように広がるのは、当に慣れた鉄の味。だが、今日ばかりは異なった味わいをしていた。それもそのはずで、永倉の唇から伝う赤い糸を辿れば、組み伏されたまま寝そべる斎藤の薄い唇へ辿り着く。見せつけるように伸びた舌の先にはくっきりと歯形が残っている。
「見て、興奮してるほど粘つくんだって」
乱れた前髪の合間から永倉を見上げる瞳は陶然と酔い痴れていた。照明の明かりを受け耿耿と光る唾液は、そのうち悪戯に切れる。呆気なさにむしろ煽られて、永倉は咥内に残る唾液をごくりと飲み下した。その喉の動きを見送りながら、しかし斎藤は、ふしだらな状況に相応しくない言葉を口にしたのだった。
「おまえが此処に来て、そろそろ一年かい」
よもや、この状況で世間話に興じるというのか。
返事もろくにできない永倉に、それならそれでいいと斎藤はひとり話を続ける。
「新しい環境に慣れてきたら、次は人肌が恋しくなって来た頃だろ。なぁ、新八──恋人なんて如何?」
とっくに状況に置いて行かれていた永倉だ。
当然、不意打ちでそんなことを尋ねられても答えなんて用意できるはずもなく、呆けた顔で斎藤を見つめるしかない。だが、ここまで自身の間合いで話を進めてきた斎藤も、じっと永倉を見つめながら固く口を閉ざしてしまった。そうなると永倉がどうにか言葉を捻り出すしかなかい。
「その……そんな良い雰囲気の相手もいねぇしよ」
回らない頭に鞭を打ち、なんとか喉から絞り出した言葉は、今ならば馬鹿っ八と罵られても素直に受け止めるしかない酷い返事で、けれどこういうときに限って斎藤は永倉を馬鹿にするようなことを口にしなかった。
「ここにおまえに押し倒されてる奴がいるだろ」
まったく妥当な返事である。
押し倒しているのは不可抗力だし、口付けだって斎藤が仕掛けてきたものだが、そこを踏まえても先に斎藤を不埒な目で見たのは永倉だ。今、ひとつのベッドにふたり横たわりながら良い雰囲気の相手がいないなんていうのはカマトトも過ぎるというもの。
「新八も気付いてるだろ、一ちゃんがおまえに大変心を砕き、親切に且つ親しみを以て、寛容に寛大に接していることに」
「おまえの寛容とか寛大って茶碗一杯分くらいなのな」
こういうときだって、軽口への応答は淀みなくできるらしい。
そんなことを他人事のように考えた。
「遺憾の意なんだが、この酒樽くらいある心の広さが目に入らないかね」
「心を目で見れるわけねぇんだよなぁ」
ああ言えばこう言うんだから、やれやれと溜息を吐く斎藤は、もしかしたら永倉の緊張を解そうとしているのかもしれない。
(こいつが俺に対して、そんな優しい男であるもんか)
そう思い込もうとしても、つい先ほどの斎藤の言葉が邪魔をする。
先の言葉を信じるのであれば、斎藤は意識して永倉へ優しくしようとしている。そうするとやはり、特異点で見せた歩み寄るような仕草も……。
「新八だって、わかってただろ」
それは思い込みではなく。
そして気まぐれでもない。
まるで頭の中を覗き見られたような心地になりつつ、念押しされて永倉は渋々という体で頷いた。
「まぁ……サーヴァントになる前と後とじゃ、随分と柔らかさが違ぇなって」
「意識してやってんだから、そうと思っててくれなきゃ困る」
だが、その変化が意味するところを永倉は知らない。
核心をはぐらかすのが得意の斎藤は、この日ばかりは素直だった。奇術師が意気揚々と自ら手品のタネを明かす様を見ているようで不自然さを覚えながら、好奇心に負けて耳を傾ける。
「俺も若造の姿をしちゃいるが、一度は老いて死んだ身だ。そうまでしてみると、おまえともっと話していても良かったのかもと思ってな」
「それだけか。なんだ、俺はてっきり……マスターが理由かと……」
自分たちの殺伐としたやり取りをマスターに見せたくない。そういうところもあるだろうと踏んでいたが、驚くことに斎藤はマスターの名を一度も出しはしなかった。
「そりゃまぁ負担は掛けたくないけどね……でも多少の不仲芸だの喧嘩漫才だのは慣れたもんだよ、あの子は」
そういうものだろうか。いや、新参の永倉でも喧嘩が絶えないサーヴァント同士を容易に思い浮かべられるのだから、そういうものなのだろう。
「……なぁ、おまえだって考えたことないかい。もっと話し合っていたら、俺たちはもう少し違う関係を築けたんじゃないかって」
瞬間、寝惚けたことを抜かすなと一蹴してやりたい衝動に駆られた。というのも永倉にとっては、いつだって斎藤の方がこちらを拒み遠ざけていたからだ。
だが、その考えを否定する自分もいた。
(本当にそうだったか? 俺はただの一度も斎藤を拒絶しなかったのか?)
刻一刻と変わる情勢、追い込まれていく新選組。切迫した状況の中で斎藤は硬くなっていくようであったが、永倉はそうはなれなかった。
頑丈な縄か鉄鎖に際限なく締め付けられていくような圧迫感、窒息しそうな息苦しさ。己というものが日毎に罅入り脆くなっていくのがわかってしまった。
両者の間をいつからか隔てるようになった硬度の違い。気安い軽口も偶然の衝突も、罅割れた永倉にはすべてが致命傷になり得た。そのような状態で斎藤と正面からぶつかり合うなんて到底……。
(距離を置くようになっていたのは、お互い様か)
襖の向こう。あの人のための新撰組を愛した男へ、それは当に失われてしまっているのではないかと仄めかす。鬼の副長と渾名される男を誰より敬愛しながら、その逆鱗に程近い場所まで近寄り語り掛ける声を、永倉は本当に聞いていなかったのか。
(試衛館にいた頃なら……いいや、京に出たばかりの頃であっても、斎藤が突き放して来るなら正面から叩き伏せてやれたんだ。あいつがひとりでなにかを抱え込んでいるなら、俺にも一枚噛ませろと言えたろうに)
突き放されたと感じたのと同じくらいに、突き放してもいたのだ。
永倉がとうとう新選組を抜ける決意を固める頃には、斎藤と目が合うこともなくなっていたと思う。
そうとなれば確かに、あのとき忌避感に押し流されずに斎藤へと踏み出していたら、変えられたものがあったかもしれない。時代なんて大層なものではないが、同じ組織にいるだけの他人なんて冷たく渇いた関係で別れずに済んだかもしれない。
「もっと湿っぽく別れを言えたのかもな」
「そうそう、夕日に照らされて泣きながら握手したり」
「時間の指定までする必要あったか?」
「雰囲気」
「雰囲気か……でも、そんな青臭い別れ方しちまったら、江戸でおまえを見つけても声を掛けられなかったかもな」
思い返す二度目の別離。
そちらも決して涙々の別れとはいかなかったが。
「その話はまた今度」
「なんだそりゃ。ってかよ、結局なんだって恋人なんて話に繋がってくるんだ」
「そこはサーヴァントってのになってみて……新八も爺さんの姿になると爺臭いことばかり言っちまうってぼやいてたろ」
斎藤は目だけで永倉の顔に刻まれた傷跡をなぞる。
老いた肌に残る傷跡は蒼古の秘密を匂わせる一方で、却って激しい戦いの残滓をどこか遠いものとした。今や若くしなやかな肉の上で、傷跡も嘗ての生々しさを取り戻している。
「表に現れる側面が違うたって、若くても老いてもおまえはおまえだろうに、姿が違うだけでこうも変わる。なら、前よりもっと上手くやろうと思うなら、関係性を変えてみるのが良いんじゃないかと」
そうして唐突に忘れていた感覚を与えられて、永倉は背中を丸めて呻き声を上げた。
「お、おまっ……俺はいま真面目に話聞いてたってのにっ」
「真面目に聞いてても萎えないもんだ。こうも興奮してくれてると来たら………………僕も人のことは言えないし、そうなったら……ね?」
永倉が噛み付いたせいで殊更赤く染まった舌で、これみよがしに舌なめずりなんてしてみせる。その表情のなんと凶悪なことか。
これがまた解けにくいよう十文字に結んでいた袴を、斎藤は勿体ぶることもなく霊体化させて白い肌を晒した。
「ふん、俺と上手くやるために自分からそっち側になるって?」
「言ったろ、寛大に接してやってんだよ」
刀を両手に持っても振り回されない体幹なのだから、細長く見えて布一枚下は随分と鍛え上げられたものだ。
「草履の結び方を教えてやるって話から飛躍しちまったもんだな」
「そっちはまた今度、あんな嘗めた結び方できないようにしてやるよ」
結べないわけではないのだと述べながら、永倉はさりげなく斎藤の部屋のことを尋ねた。ここまで歩み寄られたのだから、もしかしたら斎藤の領域に立ち入ることを許されるのではないかと思ったのだ。
「部屋はないよ」
「ない?」
「欲しいって言えば用意してもらえるみたいだけど。でもまぁ、僕って基本的には屯所にいるし、酒なら食堂の宴会に入れて貰えれば良いもん呑めるからさ、サーヴァントって寝る必要もないんだし」
ノーチラス号は空き部屋が限られているって聞いたし……あくまでオマケのようにして付け加えられた言葉が真意だろう。
(頼めば和室に改装してもらえるんだったか……工房作成持ちのキャスターか……いいや、艦内のことは艦長に伝えるべきだな)
段取りを考えつつ、太腿をなぞり着物の裾に潜り込もうとしては引き下がることを繰り返す不埒な手を斎藤は嗤った。
「なんだ、やっぱり脚が好きなんだ」
「馬鹿言え、股下六畳の脚がどんなもんか確認したかっただけだ」
「なにそれ、化け物じゃん」