生前捏造、明治の東京で再会する永斎(CP未満、CP要素薄め) 気づいたのは若草色の葉と共に桃の花が咲く三月。
梅はもう散っていた。
桜が咲くにはまだ早い。
──新撰組はやがて物語になるだろう
「斎藤!」
男が大声で呼び掛けている。
交通の要所である板橋は人の往来が盛んで、声はすぐ雑踏に掻き消された。それでも、誰かは懸命に名を呼び続けている。有り触れた名前であるから、何人かが足を止め振り返っては、自分でないことを確認してまた歩き出すのが見えた。
その間も「おい!」とか「無視するな!」と言いながら名前を呼びつつ追いかけているらしく、声は徐々に近寄って来ている。誰かは知らぬが"男の知り合いの斎藤"もいい加減に返事のひとつくらいしてやればいいのに。
遂に男の声が近くまでやってきて、そのまま傍らを通り越して行くのだろうと想定していた彼の腕をぐいと強く引っ張った。
「なぁ! 斎藤だろ!?」
振り返る。
硬質な銀色の髪と青い瞳。
稲妻のような傷が跡を残した顔。
特徴と呼べる部分が幾つもあり、一度見たら忘れられない見た目をしている。そうであるから不思議だった。彼は男が誰だったかを思い出すのに時間を要した。
「しん……」
「よく生きてたなぁ!」
ようやく記憶を探り手繰り寄せ、浮かび上がった名前を口にするより先、男は待ちきれなかったように掌で強く彼の背中を叩いた。その衝撃に倒れ込みそうになるのを、片足を一歩前に出して堪える。
「おまえね……」
睨み付ける余力もなく見つめた男、永倉新八は今し方まで女と会っていたのだろうか。その唇の端に紅が付いているのが見て取れた。板橋は旅館の他に割烹店や娼家も多いから、遊ぶ場所には困らないだろう。ところが永倉は、カカッと笑いながらその推測を断ち切った。
「おまえも江戸に来てたのかよ! 俺も女房と息子とな、しばらくこっちにいるつもりでよ」
「女房と、息子と……」
自身もまた去年の春に祝言を挙げたことを、彼はどうしてか口できなかった。
近頃は鋭利に過ぎる彼の直感が、碌に言葉も交わさぬうちから男と自身の間に横たわる断絶を感じ取っていたのだろうか。
「あぁ、まあその辺の話も……なぁ、これから時間はあるか?」
永倉は積もる話もあるだろうと、落ち着いた場所で話したがったが、今になって一体なにを話すと言うのだろうか。釈然としないまま近場の手頃な店に入ろうとする男を止めて、彼は板橋を後にした。どうにもこの場所は、ふたりにとって縁が強すぎる。彼はそれと自分が結び付けられることを危惧したのだ。
「そんなこと気にしなくていいだろう。そんな、新政府連中の顔色を伺うような」
これが気質の違いというものか、とは同じ組織に属していた頃にも頻繁に考えたことだった。
間諜として働く中で下手にコソコソするより、堂々と往来を闊歩する方が怪しまれないとはよく理解していた。それでも東京に出る際は、顔を隠した方が良いかと悩んだものだ。ところが永倉は、その特徴ばかりの姿をひとつとして隠しもせず東京にやって来た。増して、板橋にさえその姿を物怖じせず晒して見せたのだ。
「新八は相変わらずだね」
あの場所で、この男に斎藤と呼ばれ無視を決め込まなかったのは良くなかったかもしれない。おざなりな相槌で返しながら、彼は自身の浅はかな振る舞いに後悔していた。
さりとて板橋だ。重ねて言うが、あそこは交通の要所であり、旅人に飛脚に人力俥にと人の動きが忙しない。あの程度の騒ぎは、あの場では些細なことだろう。そのように自身へ言い聞かせる。そうしているうちも、今の季節によく合う寒椿の絵をあしらった人力俥がふたりの横を通り抜けていく。
京にいた頃は見なかった乗り物だ。
明治政府が政権を握って以降はあらゆるものが海を越えてやってきたから、東京は今や見慣れぬものばかり。ところが人力俥というのは、どうやら西洋のものではない。定着しなかった馬車の代わりに生み出されたこの国独自の俥という。
客寄せのため派手に描かれた背板をいくつか見送ったところで、ふと目に付いた牛肉店を指さした。
「なにがあっても怒らんと約束するなら、僕はああいう店が落ち着くよ」
「どこだって構いやしねぇがよぉ、おまえにしちゃ騒がしいところを選んだもんだ」
開化鍋と持て囃される。そうは言っても座敷で鍋を突くだけなのだから、他の目新しいものたちと比べれば敷居は低い。こういう店には散切り頭の書生がよく集う。彼等は国学、漢学、洋学とそれぞれ自身の学ぶ学問に熱心だ。この中で洋学が最先端なのは言うべくもないが、それで洋学生が国学と漢学を時代遅れと笑うのが他の学生たちは面白くない。酒が入ればたちまち各学生でどの学問が優れているかと論争を繰り広げるものだから、おちおちと静かに食事もできぬ。
「それだから良いんだろう」
こちらがなにをしなくても囮のように自ら目を惹く輩が後を絶たないのだから、今は牛肉店ほど密会の場に相応しい場所はないかもしれない。とはいえ、それはこちらも騒ぎを起こさねば……という前提の上でだが。
彼はちらりと永倉の頭を見やった。
「因循姑息の音がする……なんて言われても怒るなよ」
共にしたのは会津までであったが、土方か洋装に切り替えるとき追うように髪を切った彼と異なり、永倉は未だ髷を落としていない。
「餓鬼に煽られて腹を立てるものかよ」
永倉は一笑に付すに留めたが、挑発にも聞こえる物言いに引っかかるところがあったのか、先陣を切って牛肉店に足を踏み入れた。
「それで、なにを話そうってんだい?」
箸先で牛肉を突きながら問えば、自ら誘いをかけたというのに青い目が泳ぎ、言葉に困っている素振りを見せた。かと思えば不意になにか気付いたように目を見開く。
「斎藤……おまえ、老けたか?」
「はいそれじゃお開きで」
「悪かった! 悪かったよ!」
半ば腰を浮かすと面白いほどの平謝りだ。実のところ本当に帰ってしまおうかという迷いはあった。
東京を出て間もなく、どこから情報を得たか彼の正体を知った上で誘われた仕事は、去年の夏から本格的に始まった。その仕事柄のせいか、彼の嗅覚は既にこの先の嫌な予感を嗅ぎ取っていた。或いは、これもまた鋭くなり過ぎた直感に依るものだろうか。彼は自らの嗅覚を自嘲しながらも信頼していたが、直感に関しては慎重だった。
嗅覚と直感。どちらが反応したにせよ、互いにいけ好かぬ仲であったはずの永倉が妙に頭を下げて来るものだから、腹に一物抱えているのはまず以って間違いない。再会の喜びに浸ることが目的でないことは明白だ。
「えぇと……そうだな、斎藤。おまえ、江戸でなにしてんだ?」
「あ、あぁ。仕事だよ……食っていくための」
本題と思えぬ問いに些か面食らった。
そうまでして戸惑う話とはなんだろうか。何年も前に名を改めたこの地を、いま当たり前に江戸と呼んだ男であるから、よもや反政府の動きが盛んな連中に便乗し、そこに自分も誘おうという魂胆ではないかと彼は身構えた。
東京には妻子を伴って来たというが……。
「ここいらで探せるような仕事なんてぇのは新政府の犬になるようなもんばっかだろうがよ」
「こんな飯屋ひとつでも景気良く銭を落としていくのはそういう連中だろうな……それにしても犬と来たか、新八にはそう見えるんだ?」
「俺だけじゃねぇさ。飼い主から貰った棒切れを持ち歩いてるんだ、誰が見たって犬ころだろう」
にべもなく言い切る様に、彼は苦笑いをこぼした。
「警察のことか」
ふさふさとした眉を大きく顰めて頷き、牛肉を口に放り込む。その深い眉間の皺を見て、派手な傷にばかり気を取られて歳相応に刻まれた皺が目に入っていなかったと気付いた。気性の荒い芹沢からも好かれた好青年にすら、遂に老いの片鱗が現れたか。その皺の入り方から歳月ばかりではない、心身の疲労が永倉を青年から壮年へ手引きしたのだと伺えた。
「木の棒を振り回してなにが警邏だ、治安維持だ……馬鹿馬鹿しい」
咀嚼しながらぼやく。
永倉には佩刀も許されていない巡査たちの警邏なんて児戯にしか見えないのだろう。それと併せて天下の秩序を守ると信じ、誉と共に白刃の輝きを振り翳した過去への懐古もあるようだった。
燦爛とした日々を振り返ればこそ歯痒いのだ。
その過去は美しいものばかりではない。それよりも血腥いことの方が圧倒的に多かったが思い出はやるせない。当時は胸を掻き毟るほどの激情も劣等も、まるで陽の光を反射する廃油のよう。
汚らしくても目映く、玉虫色に煌めいている。
「──で、本題は」
永倉の言葉に染み付くものを振り払うように、彼は切り込んだ。
「あ?」
「なにか言いたいことがあるんだろう、気付いてないとでも思ったかい」
「それは……」
また言葉に困ったように口篭り、かと思えば日没後の朝顔のように項垂れた。
「おいおい、なにをそんな思い詰めて」
「──弔いてぇんだ」
落ちた肩に手を伸ばし掛けたところへ沈鬱とした声。
「あいつらを弔いたい」
途端、騒がしい店内が水を打ったように静まり返った。
否、そのように錯覚した。
「そうか、そいつはまた……」
犬の嗅覚は馬鹿にならぬ。それとも、悪しき予感を見事に的中させたのはささくれだった第六感だろうか。
「なんだよ」
「別に、おまえらしいと思ってさ」
その言葉をどう受け取ったか、永倉の顔が歪む。彼には途方に暮れて困っている、そういう風な表情に見えた。
「驚かねぇのか?」
「もちろん驚いてる」
ただ、その驚きという感情そのものが妙に他人事だった。
あまりにも出来過ぎた話だったからだろうか。
もうずっと会っていなかったところを、選りにも選って板橋で再会した。挙句には供養の話だ。
「あの人の?」
「あの人も、他の連中も」
すべて仕組まれたことのようだった。
誰かしらの作為が絡んではいないかと睨んだが、それは瞬く間に彼自身によって否定される。もし誰かしらの思惑が絡んでいるならば、それこそ犯人は自分に他ならない。
「他のって言うと……沖田ちゃんと、それから」
会津で見送った黒い外套が視界の隅でチラつく。そんなはずはない、あるものか。
そうだとしたら彼は白昼夢の中にいる。
「全員だ」
永倉は彼の目を真っ直ぐに見据えて言い切った。先まで散々言い淀み言葉に詰まっていたのが嘘みたいだ。
だからこそ、今も色付く唇が痛々しい。
「斎藤、おまえの協力が必要だ。最後まで土方と共にいたおまえの」
鉄鍋が眼前に迫った。
それが自分の身体が傾いているせいだと把握して、咄嗟に畳へと手を置くことで鉄鍋に顔を突っ込むことを寸前で免れる。
「おまえが知る限りの散っていった連中の……どうした?」
「別に」
「そんなことあるかよ、酷ぇ顔色だ。なぁ、おまえもまさか沖田みてぇに」
「……なわけ」
牛肉の臭いが鼻につく。
鋭い光の明滅が目に痛い。
潮騒の音がする、違う。これはただの耳鳴りだ。
永倉に手拭いで額を拭われて、脂汗が滲んでいることを知った。
──目眩が収まるのを待って話の続きをしたかったが、永倉はこの状態では続けられないと切り上げてしまった。それで牛肉にほとんど手をつけていないまま、彼は帰路へと着く。
どうせ食べられやしないのだから、食べない口実ができたこと自体は良かったのだろう。
ふたりの再会。
それは明治政府が佐幕派の戦没者への弔いを正式に許した翌年のことだった。
***
無駄話を挟もう。
そうしなければ語るに語れない余分が多すぎる。
彼には永倉に伝えられない秘密が幾つもあった。
たとえば、最後までは傍にいられなかったこと。
永倉が隊を抜けて暫く、彼もまた会津で土方と別れた。翻る黒い外套、風に煽られ不安定に形を変え細く小さくなっていく背中。立ち上る煙のようだと思いながら、やがて見ていられず目を逸らした。
そうして土方は行ってしまった、終の五稜郭へ。
最後には、市村鉄之助さえ手放して、ひとりで逝ってしまった。
たとえば、東京より前は斗南藩にいたこと。
それを伝えることで会津新撰組局長という肩書きに辿り着かれてしまわないか、それを彼は忌避した。
新撰組ばかりの面倒を見ていられなくなった土方は、きっと何度も永倉を呼び戻そうか迷ったろう。生きている者の中で、あの人の忘れ形見に等しい新撰組を任せるに足る人間は土方を除き永倉しかいなかった。
けれど結局、妥協により彼が選ばれた。
「おまえの代わりに局長になった」なんて、どう言い繕っても恨み言にしかならない。
たとえば、主人に棒切れを与えられ尻尾を振っている犬になったこと。
同じ東京で暮らすなら。いつまでも隠し通せることでもなし。そのときが来て怒鳴られるならまだ良い。冷めた青い瞳が軽蔑に染まる、それは疑わしい第六感から成る未来予知。
伝えられない秘密が幾つもあった。
どれもこの話に関わりを持たない無駄話。
やがて露呈する三つ目の秘密を除き、彼が永倉に語る日は来ないだろう。
だから……彼が永倉への協力を渋ったのは、もっと別の──。
***
窶れた顔は青白く、誰もが今に泣きそうな顔をして、けれど流す涙も枯れ果てたとばかり乾いた眼をしている。噛み締められた唇ばかりが赤く染まって濡れていた。
人々は疲れきった笑顔で彼を受け入れた。
温もりすら分かち合うこともできない不毛の地。
伸ばされた手は縋り付いても寒々しい。
あれほどの凍てつく寒さを知って尚、それに遠く及ばない東京の冬に震える。程度の差はあれど寒いものは寒いのだ、そのように自身に言い聞かせても、嘗て背を向けたあの土地の冷気を忘れたようでいたたまれない。
謹慎が解けたとき、彼は速やかにその土地を去った。あの地に残っても結果は見えている、ただ野垂れ死ぬだけだ。今だってその考えは変わらない。
けれど彼には不毛としか思えぬ過酷な地に残ることを選んだ人がいた。そして海を隔てた更なる北で土方は戦った。
遥か北に思いを馳せながら吐き出した息は白い。
吐息の先に目当ての家を見つけ、彼は立ち止まった。
警邏の最中、ただ目に入っただけという体で遠巻きに眺めやる。
──あれが杉村家。
杉村義衛……その男もまた、北海道にいたようだ。
杉村は妻の家名で、どうやら婿養子であるらしい。最近になって妻子を連れ東京にやって来た。
本人が話した通りの情報もあるが、知らなかったことの方が多い。聞かれなかったから答えなかったのが大部分ではあろう。それは承知で裏表のないように見えた男ですら、すべてを詳らかにしてはいないことに親近感を覚えた。
永倉新八は、いまは杉村義衛なのだ。
東京を江戸と呼ぶように、北海道を蝦夷と呼び続けているのだろうか。そんな永倉でさえ明治という新たな時代を迎えてなにも変わらずにいられなかったわけではない。
ふと兆した仄暗い感情を探るより先、彼はこの場所を離れようとした。警察という仕事はちょっとした身辺調査が容易に行える分には良いが、制服姿で暫く足を止めるとすぐ人々の目が突き刺さる。明治政府の手となり足となり、政権転覆や要人暗殺の企てを執拗に探る警察は、言ってしまえば鼻摘み者なのだ。
……せめて休日に出向けたなら良かったが、再会した時期が悪かった。元旦の浮き足立った空気の中、なにが起こるかわかるまいと警戒した川路大警視の指示により、巡査は総出で東京中に繰り出している。永倉と会った日が去年最後の休暇で、以降の彼は年を跨いだ後もずっと働き通しなのだった。
次の休みに再び会う約束となっている。というか、そのような約束を取り付けられてしまった。
それで、その前に状況を把握したく此処にやって来た。約束が一方的であったから、それへの意趣返しもある。
最後に家の周りを一巡りして去ろうとしたところだった。
「!」
杉村家の戸が開く気配に彼は急ぎ物陰に身を潜めた。
戸を開けてまず、足袋に包まれた足が最初に現れる。それは永倉に間違いなかった。次いで彼の息子であろう少年、最後に現れた女性が彼の妻であろうか。
せっかくの元旦であるから共に出かける算段か。なにを話しているかまではわからぬが、三人の様子は遠目に見て仲睦まじい。新撰組にいた頃は、このような穏やかな家族団欒の中での年越しなど叶わなかったろう。明治の世で、永倉はいつか手にし損ねた幸せをようやく手に入れたのだ。
それは喜ばしい、とても喜ばしい。
言祝ぐべきことだ。
「……」
けれど彼は、その眉宇を悩ましげに歪めた。
信じられないものを見たように目を大きく見開いて……そして、その場を駆け出していた。
ここがふたりの再会した板橋でなくて良かった。板橋を多く走る人力俥は、浅草で凄惨な事故を起こし二度目の禁止令が降りた馬車よりずっと小回りが利くのだが、車輪は鉄製で勢い着いたら中々止まらない。車夫の腕前次第では乗客が外に放り出されることもあるというから、誰かが向こう見ずに駆け出せば如何なる事故に繋がったか……そのような足取りで、彼はしばらく宛もなく走った。
「……っ」
隣接する長屋、その間を通る細い隙間が目に付いた。通り抜けることは可能だが、野良猫しか使わぬような路地に身を滑り込ませる。
これでも警視庁では、彼を元新選組と知らぬ者たちからすら只者ではないと距離を取られているのだ。それが今の彼を同じ警視庁の者が見たら驚愕したろう。幸い誰に見られることもなく、彼は長屋の外壁に寄り掛かり荒く息を吐いた。忙しなく白い息が上がっては消えていく。
強く閉じた瞼の裏、繰り返すのは先の光景。
「どうして……」
誰にも聞こえぬよう注意深く潜めた声で、彼は言う。
「どうして、おまえはそうなんだ」
戊辰戦争の始まる間際、永倉が愛する女と死に別れたと知った。女との間には子供もいたらしい。
果たしてどこから知り得た話だったか。それすら思い出せないほど、彼には関心のない出来事だった。緊迫した情勢の中で男とか女とか、愛だとか恋だとか、なんて寝惚けた話だろう。そんな風に思ったことだけ覚えている。
だから心を動かしたのは、愛する者と別れた直後ですら常の通り勤めを果たした永倉の強靭さである。感嘆や敬意なんてものではない……それは理解できない存在への強烈な嫌悪だった。
今だって同じだ。
永倉は斗南へ移った人々と同じ、毎日砕けるほど歯を噛み締めて溢した血で唇を濡らしている。奴にとってすべてはまだ過去になり切っていない。傷口は生々しく赤光り、裂けた肉と肉がくっ付き合おうと蠢動を繰り返しているだろうに。
「どうして、あんな……笑えるんだ」
松原や山南がそうであったように、背負えぬものまで見てしまえば、最後は必ず崩折れてしまう。だから余計なものは見ないようにして来た。
永倉は誰よりも不器用な男を装って、先立ったふたりにも、そして彼にもできぬことを仕出かしている。
それが、なんて──。
言葉にしてしまえば、燃ゆる紅葉が枝を離れた後は褪せていくように、この思いも忽ち色をなくすのだろうか。そうであったとしても、彼は一葉の呪いを認めずにはいられなかった。
「ずっと、あなたを妬み申しておりました」
土を踏む音がした。
日頃からここを抜け道にしている近隣の者だろうか。
彼はのろのろと反対側から路地を後にした。
さて、胸の裡を逆巻く嵐が吹き荒れようとも、それで仕事が手につかなくなるほど初心でもない。なにより彼の頭は病的に働く。これが警邏の仕事にはよく向いていたのも、仕事が滞らず済んだ理由だろう。もしかしたら京で刀を佩いていた頃より調子が良いかもしれない。尤も、自身が正常でないことは常に留めておく必要はあるが。
そうして恙無く再会の日はやって来た。
「おう、来たか」
先に約束の場所に訪れていた永倉が、片手を挙げて彼を迎えた。場所は銀座、一時は焦土と化した跡に築かれた煉瓦の街。とはいえ街の完成には一足早く、ふたりは近代化の先駆けとして西洋に倣い築かれた広い通りを歩いた。
「大層なもんだが、こいつが全部ハリボテとはなぁ」
永倉が顎に手を当て、感嘆とも呆れているともとれる声で言った。ハリボテと言って、本当に建物が薄っぺらなわけではない。むしろ明治政府がない袖を振っても資金を掻き集め築かれたのだから、どこもかしこも立派なものだ。一方であまりに革新的過ぎたか、居住者を募っても人が中々集まらぬらしい。単純に家賃が高いのではないかと思うが、それも建築費分を払い切れば生まれや育ちに関わらず建物の所有者になれると聞くから、政府としては身分制度が定着した幕府との違いを懐の広さを以て示したつもりが出鼻をくじかれた気分だろう。本来の用途を果たせぬ建物と言う意味であれば、永倉の見せ掛けだけが立派だという揶揄もあながち間違ってはいなかった。
とはいえ全く存在を無視されているわけでもない。明治政府の手掛けた街を一目見てやろうという物見高い見物人は多く、仮にふたりの顔を知る者がいても、このような雑踏の中でまで見つけることは容易ではない。人波に紛れどこへともなく敷き詰められた煉瓦の上を歩くのだが、この煉瓦というのも新鮮だ。
「赤く塗ってるんじゃねぇ、元々赤い土を焼いて固めてるんだ。建物は漆喰を塗っちゃいるが、この煉瓦を詰んで作られてるんだぜ」
永倉は自分が作ったわけでもなかろうに煉瓦のひとつを指さして得意気に胸を張った。
「新八は煉瓦職人になるために東京に来たの?」
「違ぇよ! 札幌で煉瓦の生産を始めるって聞いて、ちょっとどんなもんか調べたんだ」
「へぇ、そう」
気の抜けた返事をしながら、彼は未だ聞いた話でしか知らない北海道を頭に描いた。
とても寒くて雪が積もっている。開拓のために向かった者たちが住むための長屋も用意されているだろう。春にはさすがに雪も溶けるのだろうか? 真っ白な雪が溶けた後に真っ赤な土が現れる様を想像して、しかし上手く像を結べないまま嘗て見たよく似た光景として、冬の京都で口から血をこぼしている少女を思い浮かべた。何者にも負けなかった彼女の血が雪の上に落ちて、その上にまた雪が降り鮮血を覆い隠していく。
「それで前に話した件だが」
「いや、その前にだ。新八、おまえに言わせてもらいたいことがある」
以前と異なりまず本題に取って掛かろうとした永倉を、彼はやや尖った声で制した。
「おまえ、僕の後を尾けていただろう」
板橋で再会した翌日のことだ。仕事から戻ると妻から来客があったことを伝えられたのだが、これが特徴を聞けば牛肉店を出て直ぐに別れた永倉であったのだ
「そりゃあ、そうでもしねぇとおまえと話せねぇだろ」
永倉は平然として悪びれない。
彼だって尾行されたことそのものに腹を立てるつもりはない。少なくともふたりが生きた世界において、尾行とはした側よりも気付かなかった側が悪いのだ。
「だがな、それで我が家が佐幕派連中の密会所だなんてあらぬ嫌疑を掛けられたらどうする? うちの奥さんが警察にしょっぴかれたら責任取れんのか?」
これについては妻帯者になったことを永倉に言わなかった彼にも非はあるのだが、とはいえ永倉にとって痛い部分を突かれたのは確かだった。
「ちっと訪ねたくらいなら問題ねぇだろ、おまえの女房には俺の名だって出しちゃいねぇよ!」
それは妻からも聞いている。
来客は名乗りもせず言伝のみを残して帰ったと。ならば当然、新撰組の名も出してはいないことだろう。その気遣いから永倉が、彼の妻の正体に至らなかったことまで理解できた。
新撰組は会津藩預りの組織であるから、彼の妻が何者かに気付いていれば、彼が神経質に青筋を立てる理由も忽ちにわかり、ついでに己が永倉新八であると隠す必要がなかったことも知るだろう。
然れど永倉が気付いていないことを良しとして、彼は妻のことを永倉へ伝えなかった。やはり組織としての繋がりを超えて、彼個人が会津藩と密な関係になっていることへ踏み入ってほしくなかったのだ。
さて、仕切り直しといこう。
「供養塔の建立に、おまえの協力がほしい」
以前よりこの日が来ることを予期していたと思う。
或いは、そのように錯覚するほど畏れていたのかもしれない。
英霊と祀られた戦没者。そこに名を連ねることを許されなかった幕府軍。細々と慰霊碑は建てられていたが、公的に許されたのは明治七年のこと。それからは日本各地で増え続ける碑を横目に、彼もずっと板橋で待っていた。
胸中ですら明確な形にしたことのない曖昧なものであったが……あの人の終の場所に訪れる誰かはきっと、彼等の鎮魂を願うだろう。
そのように漠然と理解していた。
──新撰組はやがて物語になるだろう
それは梅には遅く、桜には早い。若草色の葉に守られ、あえかに色づく桃の花びらが開いた三月。
会津藩高士である高木家の娘、時尾と彼は夫婦になった。
新撰組として京を駆け回った日々が二度と却らぬ過去だと実感を得たのはその瞬間だった。彼女との婚姻により、遂に自らの在処を理解したからだろう。
廃藩置県こそ成された後であったが、自分は今や会津藩に属する人間である。それを受け入れたら、新選組であった自分は俄に過去となった。
人が見つめていられるのは今だけだ。ときに慧眼を持つ者は未来すら見通すが、そういったひと握りの者にとっても過去は良くない。足元を掴まれたら最後、未練と後悔が圧し潰しに来る。溺れるように過去へ浸るのは今日が最後だと遠くなった日々を振り返り、思い至ったのだ。
「答える前にひとつ、おまえの考えを知りたい」
「俺の考え?」
「新八、明治政府の連中は僕等を歴史にすると思うか?」
永倉は幾度か瞬きをしてから、探るような目付きで彼を見やった。
こんな目をするような男であったろうか。こんな目ができるような…… いや、元々永倉とは馬が合わなかった。自分の知り得ない表情など幾らでもあるだろう。
……それは言い訳だった。
真実はといえば、当時の彼は土方等のことばかりを気に掛けて、それ以外では沖田の病を案じ、共に隊士を率いていたはずの永倉が新撰組を抜ける間際まで、どのような顔で戦いに明け暮れていたか一切見ていなかった。今になって罪悪感を覚えたが、すべて手遅れだ。
彼は降って湧いた後ろめたい気持ちを仕舞い込む。
代わりに、じっと永倉の答えを待った。
「そりゃ残るさ、だって俺たちは……」
それは嘘だった。
だから彼が止めるより先、永倉は口を閉ざした。
ギリギリと張り詰めた音がする。潮騒と並んで飢えた日々に聞きなれた音。やるせなさから歯噛みする男の隣で、彼は静かに待ち続けた。
「残らんだろう。いいや、残るはずがあるものか」
厚い唇はまた赤く滲み、開かれた口からは噛み締めすぎて欠けた歯が覗く。
「いつの世も歴史を作るのは勝者だ。その中で奴等が賊軍を歴史に残す理由はなんだ、難敵への勝利を誇るためか? 脅威を悪として追い落とすためか? ならば奴等の編纂する歴史に新撰組の席はない」
にべもない言葉に、彼は諸手を挙げて同意した。
伏見で敗れ、母成峠では大敗を喫し、新撰組は数ある佐幕派組織の中から殊更に格別の勝利を誇るべき難敵でなければ、特別に悪と追い落とす脅威でもなかった。ただ一纏めに旧体制へ縋り付き無惨に散った時代遅れの幕府軍としてしか残るまい。
きっと新撰組は歴史から取り零される。
「だから、俺たちがあいつらの名を遺すんだ」
「だけど、忘れられた方が良いこともあるんじゃないかな」
永倉が足を止めた。
彼は距離が離れるのも構わず前へと進む。
「こういうのは気に食わない? なら捨ておいてくれて構わないよ」
振り返ることもなく言い捨てる。
それで永倉が失望し、彼を見放すならそれでも良かった。
「いいや、その言葉は聞き捨てならねぇ。おまえはなにを考えている?」
開いた距離を詰めはせず、永倉は問いかける。
「馬鹿にはわからん」
「なら馬鹿にもわかるように言ってくれ」
視線で人が殺せるなら、彼は既に事切れていただろう。けれど彼は生きていて、生きてる限りは人間は死んだら負けだとせせら笑う。
「言葉を変えるよ」
そんな性根なので、童子が戯れに蜻蛉の首を落とす軽々しさで男を突き放した。
「馬鹿にしか、わからんさ」
見放してくれてよかった。
そうしてくれないなら、突き放すまでのこと。
歴史はどうしたって美しいばかりではない。処女雪の如く繊細で息を呑むほど柔らかな手触りも、一枚下には赤剥けた筋肉に張り付く黄色の脂肪。富める者も貧しき者も、賢き者も愚かしき者も等しく生臭い。それらを百年先も普遍的に保管し続けるのが歴史だ。
比べて物語はどうであろう。それらには肉がない、骨がない。剥いでも切っても開いても、出てくるものはなんだ。桜の花弁、鶯の和毛。或いはもっと掴みどころない、陽の光を受けて黄金に輝く砂粒だろうか、春しか知らぬ蝶の落とす鱗粉だろうか。それすら超えて存在覚束ぬ靄、霧、雲。物語には腐敗も風化もない。人の記憶に留まる限り、理想と妄想の分だけ堆積する。物語の中においては、執拗に悪とも愚かとも蔑まれたって、それすら数多ある堆積物のひとつ。やがてこの国において歴史より軽んじられている物語は、人々の感心を失えば下層に埋もれ忘れられる。如何に貶められても、その果てには穏やかな微睡みが約束されている。
どうか安らかな忘却を望むのは、我儘だろうか。
「違うだろう。俺たちのことを刀を振るしかできない馬鹿だって嘲って、自分は違うって笑って、おまえは」
「昔の話だろ」
……斗南藩での生活は元々痛みを訴えることの多かった彼の胃に深刻な後遺症を残した。
東京へ出て何年経っても食欲不振が続き、酷いときには空腹感を覚えても胃が食べ物を受け付けない。縮こまった胃に合わせた不規則な食生活にいつからか白昼夢を見ることが増えた。突飛な考えに浸り、些細なことへ過敏に反応する。自覚しているからまだそれなり上手くやれているが。
「僕は馬鹿になってしまったんだよ、おまえより、も」
不意打ちで後ろから強く掴まれる。背中から倒れそうになるのを誰かに受け止められた。それが誰かは確認するまでもなく、随分と開いていたはずの距離は足音ひとつもなく詰められていた。永倉の傷だらけの手が、彼の生白い腕首を骨が軋むほど強く握り締めている。
「ろくすっぽ説明もしねぇ、俺の誘いをしっかり断りもしねぇ。ただ曖昧な言葉で煙に巻こうとしやがって、そんなの通るわけねぇだろ!」
永倉は大きく肩を怒らせて憤っていた。
顔なんて真っ赤で、目は鋭く吊りあがっている。
その怒声に周囲の目がふたりへと向いたのを感じ、彼は急ぎ大したことではないと笑って周りへ手を振る。それで怪訝な顔の人たちは、遠巻きに彼らを避けて通り過ぎていった。
「じゃあ、なに。おまえはそこまで僕と一緒がいいの」
「そうだ」
即答である。
「どうしてそんなに拘るかな。僕等、そんなに仲良くなかったでしょ?」
問いかけながら、彼は男がなんと答えるか概ね予想がついていた。
「どうしてもなにも、此処にはおまえしかいねぇだろう」
きっと永倉にとってはそれで十分だった。
好きとか嫌いとか、そんなことは二の次だ。
仲間の生存を喜び、その死を悼む。明日戦争が始まるとしても愛し合うことは美しく、しかして自らの事情で役目を投げ出すことは許されない。それが啀み合った者同士であろうと、共に生き残ったなら手を取り合うことになんの疑問もないのだろう。
個人としての感情よりも人として大切なことを裏切らない。そのために強く己を戒めている。
眉間に深く刻まれた皺も、口の中を染める赤い血も、そこから自分自身をどれほど痛めつけているか、果たして男は理解しているのだろうか。
「新八、僕はおまえが……」
「斎藤……?」
「おまえみたいに……おまえみたいな友達がいない奴、可哀想だ」
なんとか鼻で笑うと一切の手加減なく足を踏まれた。
「おまえよりかはいるっての! 此処にいるのがって言ってんだろ、馬鹿!」
「馬鹿って言った方が馬鹿なんだよ、馬鹿」
「てめっ、さっきは自分の方が馬鹿になったとかなんとか言ってたくせに!」
手の甲を抓れば頬に手が伸びるが、指先がなにかつまみ損ねたように空振って永倉は舌を打った。
「斎藤、おまえ老けたんじゃなくて」
「あ? また老けてるって言ったか、ジジィ」
「言ってねぇよ! 誰がジジィだ!」
きっと永倉は正しい。
死者の忘却を望むなんて、その方が間違っている。
おまえみたいにはなれない、それは寸前で推し留めた言葉。
過去も今も同じように見つめて、なにもかも置いて行くことなく未来へ向かえるなら、それはなんて素晴らしいだろう。
考えるだけで気が狂いそうだ。
そんな狂おしい嫉妬の炎に炙られ爛れた心で、確かに抱いた別の言葉があった。
──妬んでばかりいても仕方がない。
「発起人は杉村義衛で?」
「なんだよ。そっちの名前も知ってたのか。だが……あいつらを弔うなら永倉しかねえだろう」
「そうか。なら、僕は……」
本当は彼等と共に物語にしたかった。
斎藤一は物語の人物となり、彼は現実を生きていく。
そんな風にしたかったけれど。
「斎藤一として、いっしょに願い出てやるよ」
けれど、永倉が彼等を現実に繋ぎ止めようと足掻くなら、斎藤一を今この時代に残しても良いと思ったのだ。
***
世情は慌ただしい。
聳える供養塔を前に彼は告げる。
「立派なもんだな」
「そりゃそうだ、なにせ俺たち新撰組なんだから」
理由になっていないように思ったが「まぁ、新撰組なら」と一先ず頷く。
供養塔にはあの人──局長、近藤勇と土方歳三の名が大きく彫られ、側面には隊士たちの名が並ぶ。中には彼から永倉へ伝えた名前もあったが、会津で土方を見送った彼の証言は穴だらけだ。それに気付かぬ永倉ではなかろうが、不思議なほどなにも問いかけては来なかった。
結局、永倉が彼に求めたことはふたつだけ。
ひとつは永倉と供養塔の建立願い申し立てを共に行うこと、もうひとつは彼が知る限りで散った隊士の名を永倉へ伝えること。それ以外はすべて、果たしてどのような伝手があったか場所の確保も石材の調達も、永倉がいつの間にか話を付けていた。
彼の知らぬ協力者が永倉に多くいるのだろうと思えば、恐らくはその方面から入ってくる情報もあり、彼が押し黙っている事柄も永倉はとっくに把握している可能性は十分ある。……そこまで推測はしつつ、永倉がなにも尋ねて来ないのに凭れ掛かり、なにも伝えないまま今日まで来た。
それもここまでだ。
ふたりは暫く無言で佇んでいたが、徐に彼が口を開いた。
「おまえとはもう会えない」
やはり永倉はなにも問いはしなかった。
「薩摩か……でもおまえ、軍人じゃねぇだろ」
同じ東京にいては知っていて当然と割り切っていた故、永倉の言葉に彼は然して驚くでもなく頷いた。
「そうだな。薩摩は軍に任せて、こっちは警察の睨みを効かせる。政府だってそうしたいだろうさ」
だが、大西郷が立てばそうも行かない。
大久保が幾度と説得に向かっていると聞くが、懸念は潰えることなく日増しに増長し続けている。
西郷が立てば薩摩隼人も追従しよう。武士制度の廃止により彼等は随分と殺気立っている。薩摩人ではないが、士道以外に道を見つけられなかった者も集うだろう。
「これから政府の目はより厳しくなる」
故にもう会えないのだ。
これ以上は彼を受け入れた会津へ火の粉を飛ばしかねない。
新撰組と会津の繋がりは強く、朝敵の汚名を被せられた会津と明治政府の禍根は深過ぎた。会津藩士の中には、明治政府へ反抗的な動きを見せ投獄された者もいる。あからさまに言葉とするには気が引けるが、供養塔の建立に際して必要な殆どを永倉が請け負ったのは彼にとって都合が良かった。新撰組を弔う塔と彼の間には永倉がいて、永倉は彼に必要最低限の助力しか求めていない。明治政府がなにを嗅ぎ付けても、今はまだ叩いたって出るものはない。
名残惜しいけれども……と、そんな言葉が出るほど、彼の中で永倉への嫌悪は薄らいでいた。そこに妬みという別の呼び名を見つけたからだろうか。今ならもう少しだけ、以前とは別の関わり方を見つけられそうであった。しかし、これ以上は火遊びだ。
「新八もお上と仲良くする気がないなら北海道に帰った方がいいんじゃない?」
「はっ、あいつ等の顔色を伺って行動するなんて真っ平御免だ!」
威勢よく吠えて、永倉は獰猛に笑った。
「だって俺は我武者羅新八だからな!」
明治政府を、この時代を、いま後ろ髪を引かれる気持ちでいる彼をすら、丸ごと笑い飛ばして見せたようだった。
その口端から血の滲まない日はなかったくせに。
この男はこれからも、そうして生きていくのだろう。
「おまえだってそうだ。次にあったときこそ、なんで新政府に媚び売ってんだって詰めてやるからな!」
勢いよく身を翻し、潔く去っていく。その後ろ姿が見えなくなるまで見つめながら、彼は呆れたように口を開いた。
「もう会えないって伝えたろうに、次なんてあるものかよ」
けれど、それでも。
それでも、もしも次があるのなら──よく生きていた……と、今度はこちらから言ってやろう。
そのように密かに決めて、藤田五郎は誰にも届くことのない別れの言葉を口にした。
「じゃあな、新八」
今度こそ最後まで、去りゆく仲間の背を見えなくなるまで見送ることができた。
聞こえてはいなかったろうけれど、ちゃんと別れの言葉を口にできた。
嘗て目を逸らしてしまった斎藤を、このとき藤田は少しだけ許せたようだった。
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斎藤さん
栄養失調で思考回路はショート寸前
永倉さん
歯を食いしばり過ぎで歯が崩壊気味
土方さん
斎藤さんから酷い誤解を受けている