クロードが風邪を引いたらしい。いつも通り寝坊かと思っていた朝の教室、そうヒルダが教えてくれた。
どうしても自室で療養したいと言って聞かなくて、マヌエラは医務室から抜けられないし、今は一人で回復するのを待っているのだそう。しかし、病人を部屋で一人放っておいていいものだろうか。恐らくマヌエラも一応何度か様子を見に行くだろうが、何かあった時にすぐ隣に人がいないと心細いだろう。
そんなことを教卓を前にして考え込んでいると、目の敏いヒルダがそれを悟ったかのように声を掛けてくれた。
「せーんせ。クロード君が心配なんですよね? 私たち、今日自習にしますから、クロード君の看病よろしくお願いしますよ」
「……さぼりたいだけ?」
「む、違いますよ~いくらあのクロード君とは言え、弱ってる時に一人なのは寂しいだろうなと思っただけです。それに、クロード君といえば先生ですから」
クロードと言えば俺なのか、そんなことを考えつつ、他の生徒たちも行ってやれと言わんばかりの表情だったので、今日は自習にすると決めた。各々学びたいことがしっかりしている子が多い、きっと真剣に取り組んでくれるだろう。
教室から学生寮までの距離はそう遠くない。しかし、何かと心配していたらしい俺にとって、その距離はいつもの数倍はあるように感じられた。
ああして金鹿の生徒たちが「クロードと言えば先生」と言うのは、俺たちがあからさまに付き合っているからに違いない。クロードは距離が近い人の様に見えて、実際の接触は避ける方だ。しかし、俺にはいつもべったりと言うか、体が離れている時間を数えたほうが早いくらいに距離が近い。加えて俺も、彼の前ではよく笑い饒舌になるそうだから、付き合い始めて一週間でバレた。秘密にしておくつもりだったんだが。
そうして恋愛関係に至ってから一か月程度で体の関係も持ち、あらかた恋人同士ですることを一通り終えた天馬の上旬。寒いのが好きでない彼が体調を崩したのは、冷え込みが激しくなったからかもしれない。
彼の部屋の扉の前まで来て、一度戸を叩いてみる。「クロード、入ってもいいか」しかし、返事が無い、寝ているのだろうか。眠れているのならいい、その方が回復が早い。主が眠る部屋に勝手に入るのは気が引けたが、彼の様子を見るなり入って良かったと思った。酷く苦しそうにうなされていたからだ。
「……辛そうだな」
こちらまで思わず苦しくなってしまいそうな表情と顔の赤み。これは熱のせいなのか、はたまた悪夢を見ているのかは分からない。いやしかし、この様子じゃ朝食は愚か、上手く水も飲めていないのではないだろうか。どうしてこんな状態になってまで自室で休もうと思ったのだろうか。
とりあえず額の上に乗せてあった濡れ布巾を変えようかと手を伸ばしたその時。
「っ……!」
急に眼を見開いたクロードが俺の手を掴み、短剣を枕もとから取り出した。そして間髪入れずに起き上がり、地面に押し倒し、一言も発さずに俺の脳天めがけて振り下ろす。何とか頬をかすめて避けるも、すかさず今度は横に握り直し、首筋にその切っ先を当てた。
荒い息で、手負いの獣の様にクロードはこちらを睨みつける。しかし、自分が今まで見ていたものと違うと気付いたのか、俺の姿をじっくりと見て、だんだんと表情が驚きと混乱に変わっていく。
「kim……si……あ、れ……?」
一体どこの言葉なのだろう。聞き覚えの無い言葉が、困惑よりも怯えと言える声色で飛び出した。フォドラ語が戻り、冷静を少し取り戻したのだろうか。しかし、手は震えはじめ、握った刃物は今にも零れ落ちそうだった。
「クロード」
そう名前を呼ぶと、彼の肩が大きく跳ねる。
「だ、れ……あ、待って……クロード、ごめん」
「違うよ、俺の名前じゃない。君の名前。落ち着いてごらん。大丈夫、大丈夫だ」
俺に馬乗りになったままの彼の体が、いよいよ全身震えはじめる。きっと、少し落ち着きを取り戻したからこそ、自分がどんなことをしたのか理解して恐ろしいのだろう。
「あ……せん、せい?」
「そうだよ。俺はベレト。ベレト=アイスナー。君の担任で、君の恋人で、この世で一番君を大切に想っている人だ」
「ごめん……ごめんなさい、俺……その、傷……」
「大丈夫。大丈夫だから、まずゆっくり息をしなさい。ね」
そう言って刃物を持つ彼の手を握る。まだ背中をさするのは早い、もう少し落ち着いてからでなければどんな拒否反応が出るか。ただ声だけで、真剣に彼の目を見据える。笑ってはいけない、微笑んでもいけない。彼は、まっすぐみてくれなければ、安心してくれない。
「ゆっくり吸って、吐いて。もう一度繰り返してごらん。吸って、吐いて……毒なんてないからね。大丈夫」
その俺の声と共に、浅い息を必死に治そうとするクロード。そうしているうちに、徐々に今までの呼吸が戻ってきて、青ざめた顔も、熱の赤みが戻ってくる。
「そう、いい子。大丈夫、君に痛いことする人はここに居ないからね。大丈夫、大丈夫」
「先生、その……俺、先生の事……」
「いいよ。こんなのかすり傷にもならないから。大丈夫、今は他に何も考えないで。俺の事と、君の事だけ考えて」
ゆっくり体を起こして、彼の肩に手を当てる。まだ触れられるのは怖いだろうかと様子を見ながら、徐々に背中へを手を動かす。うん、大丈夫そうだ。彼の刃物をゆっくり取り上げ、床に置く。そうしてその手も同じように背中へと回す。手が動くたび、彼の肩が跳ねた。それでも嫌だと言わないのは、きっと俺を受け入れようとしてくれているのだろう。そうして両腕がしっかりと彼を抱きしめた頃、彼もその顔を俺の肩に預けてくれる。
「ほら、落ち着いてきた。大丈夫だったろう、クロード。大丈夫、君と俺しかここに居ないからね。誰もひどい事しないから。俺がずっと、こうしているからね。大丈夫、大丈夫」
整ってきた息とは裏腹に、彼の震えは未だ収まるところを知らない。背中をさすり、その柔らかい髪の毛に手を沈める。すると、彼が少しだけ口を開いてくれた。「どこも、いかない?」
「もちろん。ずっと君の傍にいるよ。誓って、君から離れたりしない。絶対だ。君が生きる糧で、君が居ないとなんにもできない俺が、一体どんな理由で君から離れられるだろう。ね、だから大丈夫だよ。心配しないで」
そう伝えると、徐々に彼の震えが収まっていく。顔を見ようとすると嫌がられるだろうか。とりあえずもう少しはこのままでいよう。
初めて情を交わした時も、同じような事があった。あの時は流石に俺も焦ったが、今はもう対応できる。何しろ、彼が混乱するのは何か嫌なことを思いだしてしまった時か、ひとりぼっちになってしまうのを恐れている時か。だから、こうしてゆっくり向き合ってあげれば、落ち着きを取り戻してくれる。
息も整い震えも収まった所で「寝台に戻ろうか」と尋ねる。小さな声で肯定の返事が返ってきた。彼を抱きしめたまま立ち上がる。俺と同じ身長でこれほど楽に持ち上げられるくらい軽いというのだから、少し心配になる。そのまま俺が覆いかぶさるような形で彼を寝台に横たえると、どうも熱のせいばかりでない赤が頬に差していた。
「……恥ずかしいだろ、取り乱して」
「ん、俺は何も言ってないぞ」
「いや、顔が言ってたんだよ! なんで赤くなってるんだろう、って……」
深いため息とともに顔を逸らすクロード。先ほどまでの怯え方は、どうも彼でない別の人の様に感じられたが、今は等身大のクロードがそこに居ると感じられる。恐らくこういった事には彼の過去が起因しているのだろうが、いつか教えてくれる日が来るだろうか。とにかく、落ち着きを取りもどしたのならあとは休養だ。床に落ちた毛布を引っ張り上げ、彼の上にかける。
「何か水でも持ってこよう、食べられそうなら軽食も……」
「あ……ちょっと、待ってくれ」
寝台の上から降りた俺の、外套の袖が彼につままれる。毛布を口元まで引っ張り上げて、目を泳がせて、何か恥ずかしがるような事を伝えたいのは明白だった。「あ、のさ……」
「俺が、寝付くまでここに居てもらって……いいか?」
「寝台の中に行こう」
「あ、いやいや! そこまでは来なくてもいいんだ! つーかそんなことしたら、あんたも風邪がうつっちまうしな。だから、その、そこらへんに座って、で寝付いたらあとはどこにでも好きに行ってくれて構わないから……」
そう言って徐々に目線が下がっていくクロード。これをいじらしいと言わずしてなんと言うのか、生憎俺の語彙では言い尽くせない。彼のいう事を全く無視して寝台に潜り込み、正面から彼の事を抱きしめる。
「あんたなぁ……人の話の何を聞いていたんだよ……」
「風邪は移すと楽になるらしいからな。うつすと良いい。口付けはするか?」
「いや、いい! 今は……あんたに顔向けらんないしな……」
そう言いながら俺の胸に顔を埋める彼。まだまだ子供だな、と思いつつその頭を撫でていると、すぐに安らかな寝息が聞こえて来た。ただでさえ風邪で体力が無いのに、あれだけ感情が乱れたらそうもなるだろう。
「おやすみ。今度こそ、いい夢を」
結局、風邪を貰って呆れ笑いのクロードがつきっきりの看病をしてくれたのは後日譚。