【1186年 青海の節 18日】
夏らしく、昼間は特に暑い日が多くなってきた青海の節中旬。本来なら少し涼しげな飲み物を用意した方が気が利くのだろうが、生憎俺が人に振舞えるほど上等に淹れられるのはこれしかない。部屋の中で小さな茶会の用意をし、とりあえず自分の分だけに東方の紅茶を注いだ。
俺がこうして一人、大して騒ぎ立てたことも無い心臓に違和感を覚えつつ待つのは、他の誰でもないクロードだ。先日の手紙で、これからの展望について少し話をしたいとの申し出があり、今日この日を指定させてもらった。だから彼も来るはずなのだが、どうしてだろう、遅刻しているような気がする。
「……待ち遠しく感じているだけだろうか」
心臓に嫌な違和感があるが、これが不安だと気付くにはしばらく時間が必要だった。落ち着かなくて部屋中を見渡す。何かいつもと違う事を、と香りがくすむのが嫌だったから滅多に入れない角砂糖を一つ入れてみた。それをスプーンで弄っていると、やっと扉が叩かれる。
「悪い悪い、これでも走って来たんだぜ?」
「いや、構わない。君がこうして遅刻するのは、もう懐かしいというまで昔の話になってしまったな」
「そうか? あんたとの思い出はどれも特別だから、みんな昨日の事のように思い出せちまうけどな、俺は」
にやりと笑うその姿は、確かに五年前の彼そっくりだった。遅刻してきたというのに自慢げに笑うのだから、最初はこれが貴族の作法なのかもしれないとまで勘違いしたものだ。彼の器にもゆっくり茶を注げば、椅子に座った彼も「やっぱりこれだな」とまたしたり顔を見せる。
「結局、あんたが俺の好きな茶葉ばかり選んでくれるから、あんたの好きな茶葉を知らないまま今に至っちまった」
「俺は君と飲む茶なら何でも好きだよ。それに、そんな別れ際みたいなことを言わないでくれ」
「……そうだな」
少しの間沈黙が流れた。嫌でも察してしまう。こちらの用事では無いから下手に言い出せず、まだ形を保っている角砂糖を少し弄ってみた。「今日は砂糖を入れたのか?」
「ん、ああ。少し気分を変えようと」
「そうか。こんな戦時中だ、何につけても気分を変えるっていうのは良いもんだよな。そうだ、砂糖と言えばだな、うわさに過ぎない話ではあるがダグザの方に――」
先ほどまでの沈黙はどこへやら。彼が目を輝かせて遥か遠くの話をすれば、いつもの茶会のような雰囲気が戻ってくる。相槌を打ち、時に意見を言う。そんないつもの茶会なのに、やはりどこか気が晴れない。いつ、離れようと言われるかを考えていると気が気じゃないし、もし別れようだなんて言われた日には。
「表情に出ていないと良いんだが……」
「は?」
「え?」
「いや……ちょいと脈絡のない言葉が出て来たなと」
「あ。俺、今声に出していたか?」
「そりゃもう。表情どころか声にもばっちり……」
「……すまない」
言葉の失態、もうするまいと思っていたが、まさかこんな風に失敗してしまうとは。もとより目の敏い彼を表情で騙そうとしても無理があったのだが、ここまで露骨に声にしてしまえばどんな言い訳も効かない。思わず頭を抱えていると、彼の方から「本題についてか」と尋ねられてしまった。
「まあ、そうだ。邪推であるかもしれないが」
「そうか。いや、推察があるなら覚悟も多少決めてあるだろう。それなら話しやすい」
口の中と言葉を整えるように、彼が一口茶を流し込む。そして次、その瞼が開いた時にはもう少年のような笑顔は無かった。軍議をする時に見える、明確な合理を見据える目。思わずこちらも少し息を吸って、背筋を伸ばす。
もし、そう言われたときに、返す言葉は決まっていた。
「もうあんたにはバレてると思うが、俺はパルミラの出身なんだ」
「うん」
「で、戦後はそこに帰る。もちろん戦後処理なんかはちゃんと手伝うし、あんたが治世に慣れるまでは見届けるよ」
「そこの責任感はある人だと思っている」
「だとしても……今節末に控えたシャンバラへの進軍、それを最後に大それた戦いは終わる。戦後処理だって、ローレンツやセテスさんだとか、政治手腕に長けた人も多い。だから、きっとあと数節でお別れ、ってことになる」
「そうだね。終戦と治世の安定化は早ければ早いほど良い」
「パルミラとフォドラはお世辞でも仲がいいとは言えない。しばらくは会う事もままならない日々が続くだろう……それでも、俺がここを去りたいと言って、あんたは大人しく手放してくれるか?」
「もちろんだ」
「そうか、それなら俺にも……って、今、もちろんって言ったか?」
「? 言ったが」
翡翠が零れ落ちてしまいそうなほど目を見開いている彼。その少々開いた口から、拍子抜けだと飛び出てきそうだった。こんな間抜けた顔を見るのは五年前以来かもしれない。そうか……と呟いた彼は調子を戻そうと、もう一度だけ茶を飲み込む。
こうして離れ離れになると言われることがこんなにも不安だったのは、手放す覚悟が決まっていたからに他ならない。俺が彼の足を掴むようなことはしないと決めていた。つまり、彼が一言故郷に帰るのだと言えば、それだけでもうその未来が確定してしまう。それが恐ろしかった。察されないよう、彼の好きだと言ってくれる微笑で言う。「意外だった?」
「そりゃあ、多少なり引き留められるかと思ったんだが……快諾とはね」
「引き留めて欲しい?」
「意地悪な事を聞くなぁ、あんたは。まあ、確かに手放しで行ってらっしゃいってのは寂しいもんだが、あんたは俺のためを思ってそう言ってくれているんだろう。本当は離れたくないし、俺だってそうなんだが……俺達の未来のためだからな」
「君は自由でいるのが一番素敵な姿だと、俺は思っているしね」
そうか、と呟いた彼はまた一口紅茶を入れる。恐らく俺を言いくるめるためにいろいろと言い訳を考えていたのだろう。拍子抜けしすぎていて、彼が一番動揺しているのかも知れない。
「しかし、ここまで快諾となると……なんだか想像以上に後ろめたいな」
「よかったじゃないか」
「まあ……でもなんか、あんたを置いて行くんだから悪いことをしている気がしないでもなくてな」
「俺が寂しがるの、ちゃんと分かっているんだ」
「そりゃそうだ。俺が反対の立場だったら思いつく全ての策であんたの足を縫い付けるよ」
「……意外と、執念い質なんだな」
もう残り数節。それでもまだ知らない彼がいるのだから、やはり別れるのは惜しいなと思い知らされる。以前居心地の悪そうな彼が、何か妙案を思いついたのか「そうだ」と明るく声と腰を上げる。
「こうやって俺のお願いを聞いてもらったんだ、あんたも何かないか?」
「いいのか? 俺にそれを聞いて」
「よくないわけないだろう。普通のやつなら引き留めるもんをこう快諾してくれたんだ。もちろんこんな情勢下だし出来ることは限られるんだろうが……身一つで出来るような事があれば、何でも聞くよ」
夜には散々泣かされている君がそれを言うのは少々警戒心に欠けているぞ、というのは流石に飲み込んだ。身を少し乗り出してこちらをじっと見つめる彼。これではいつもと真逆だ、と少し気恥ずかしくて顔を背ける。それが面白いのだろうか、返ってニヤニヤと見つめられてしまった。「そうだな……」
「こんなのはどうだろうか」
そう言って簡易装に唯一ある物入れを探る。機会が巡ってきたらいつでも渡せるようにと毎日忍ばせておいたが、まさか本当に功を奏す時が来るとは。手のひらに乗せて差し出せば、彼の表情が一瞬固まった。先ほどまであれだけ余裕そうな顔を浮かべていたのに、視線が泳いで顔も赤くなっていく。
「……それ、指輪」
「ああ、大切な人に渡すようにと言われていた」
「……意味、分かって言ってる?」
「もちろん。君と永遠の契りを交わしたいという事だ」
なんの濁りも無く流れ出した突然の宣言に、彼も思わず腰を下ろす。顔を隠して所在なさげに唸る姿を見ると、やはりこんな提案をされるとは露とも思っていなかったらしい。
「これも、別に無理強いをしたいわけではない。特に……もしかすると、君はそうもいかなくなるような事情だって出てくるかもしれない。だから、返事は急がない。でも、これを渡すなら君だろうと、俺はもう確信しているとだけは伝えておきたいな」
「ああ……噛みしめとく、今の言葉」
「たくさん吟味して、答えを出してくれ」
「……俺、今日はあんたに転がされっぱなしだなぁ」
「いつも転がされている、特に最近は」
とりあえず、その指輪を一度机の上に置いて手を机の下に入れた。そう緊張していたつもりは無いが、やはり一世一代の告白だから意識せずに体が強張っていたらしい。そして、突然そんなことを言われた彼は当然俺より緊張しているだろうから、紅茶が空になってしまっているのも頷ける。場を自分の手のひらに戻そうと、一度深呼吸した彼がまた澄ました顔をしてこちらに向き直った。
「ちょっと、冷静に頭を冷やしてから考えさせてくれ。今は……こう、絶対受け取っちまうから駄目だ」
「受け取ってくれても一向に構わないけれど」
「いやいや、色々考える事があるんだよ! だから……近く、返事をさせてくれ」
言いたい事を言い切った彼は大きく息を吐いて、首にかけていた懐中時計を服の中から引っ張り出す。「もうこんなに経ったのか?!」
「何か急ぐ用事があったのか」
「いや、あんたとの茶会が楽しみでつい仕事の山を放っぽっちまってな。あんまり引き伸ばすと寝られなくなっちまう」
「そうか、それは大変だな。付き合ってもらって悪かった」
「いや、用事があったのはこっちなんだ。わざわざ茶会の席まで整えてくれてありがとうな」
そう彼と同じく立ち上がり、あまり手のつかなかった菓子類を早く包んでしまおうと思ったその時。
「もしも、その指輪を受け取るとしたら、だ」
彼のどこよりも男らしい手が、俺の左手を取る。そしてそのまま、主に誓う騎士のように、俺の薬指に口付けた。
「あんたに俺の薬指をやるんだ。あんたの薬指だってちゃんと頂戴するからな?」
そう大人びた微笑で言われる。加えて器用に片目を閉じてみせるのだから反則だ。十人のうち十人が恋に落ちてしまうと、すでに落ちてしまっている俺が言うのだから間違いない。久しぶりに彼にこう気障な事をされてしまえば、気恥ずかしくもなるもの。珍しく顔が火照る。
「君は、たまに気障な事をするね」
「あんたはいつも気障な事を言う」
目を合わせて微笑み合うのが無言の合図。俺も身を乗り出して、お互い口を少しだけ合わせる。これが一番の活力になるな、と彼は満足げに笑った。
「じゃあ、また今夜」
「ああ、君の部屋で」
簡単な口付けと言葉だけ交わして、その日の茶会は幕を下ろした。茶菓子を包みながら、ふと先ほどの事を考える。
「……寂しいだろうな」
覚悟は決めた。立ち止まってくれとは口が裂けても言いはしない。それでも、彼のその道のりの事を思うと、ここに残って欲しいと思わずにはいられなかった。我が儘だというのは理解している。彼の進む道が辛く長く厳しい道のりだから、優しく抱きしめていたいと願う事が。前に進むことこそが彼の幸せであること、抱きしめるような愛情を求めていないということは理解しているから、これはやっぱり我が儘に過ぎない。
茶菓子を包み終え、食堂へと運ぶためのトレイに彼の茶器を乗せる。その黒い粒が数滴残るだけの茶器を見て、幸せな時間が過ぎるのはいつも早いと柄でもない感慨に浸った。あの時は思いがけずに早まってしまったし、今回も、もう気づけば数節しか残っていないらしい。そこから先は、まだ検討がつかない。殆ど口のついてない自分の茶器を覗くと、意図せず声が落ちてくる。
「あと、数節」
砂糖はとうに、溶け切っていた。