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角弓の節、十の日。夏の盛りが過ぎ、暑さも落ち着き始める頃。特別涼しくなる朝の教室で生徒が一人、教師が一人、そして猫が一匹。
猫を抱きかかえたまま、一時間目の兵法用に布陣を黒板に書いている先生。片腕に掴まれた猫は、全く支えも無いのに今にも寝そうなうっとりとした顔をしていた。……猫って、あんなに長いんだな。「なあ先生?」
「それ、邪魔じゃないのか?」
「それ、とは?」
「猫だよ。そこらへんに置いてきたらいいのにさ」
「まあ、でも、猫はかわいいから」
最近少しずつ言葉で見え始めた感情表現。いままではおいしいや楽しいくらいしか聞かなかったが、最近ではかわいいだとか恥ずかしいなんて言う言葉も聞けるようになってきた。
つい先日の茶会で、いつも通り見られてばかりでは無く、こちらからも見つめ返してやった時があった。どちらが先に目を逸らすかの勝負。脳味噌が茹で上がるかと思うほどに顔が熱くなったが、何と先に目を逸らしたのは先生で、相変わらず無表情だったが「恥ずかしいな」と初めての一言を引き出すことができた。あの勝利は今でも思い出すと口元が緩む。あの先生が、恥ずかしい。
まだ誰も来ていない教室で、自分の席に突っ伏す。顔を見られちゃいけない。先生より早く来ていたから珍しいなと言われたけれど、徹夜であることは流石に黙った。
黒板に一通り書くことは書いたのか、教卓へ戻る先生。流石に教科書を開くのに猫は邪魔だったようで、地面に優しく放した。
「そいつ、名前とかつけてるのか?」
「リーガンフェリス二号」
「……いや、何だその二号って」
「リーガンフェリスは品種名で、この子はかわいい方だから二号。クロードに似ている方は一号だ」
色々言いたいことが多すぎる。もう少しまともな名前が無かったのか。俺が猫に似てるってそんなことがあるか。それに、俺と似ている方はかわいくないのか。
(いやいや、可愛いと思われたいのか?)
流石に俺はかわいいってことは無いだろう、と自分に言い聞かせる。しかし、そんな俺を挑発でもするかのように、二号は教卓の上に上がって先生に撫でろと催促した。「ん、撫でろか」
「わかった。二号はかわいいな」
猫相手だと、よく喋るな。それに、俺に似ていない二号はそんなにかわいいか。
場違いな対抗心を抱いているとは考えられなかった。なぜか、考えられなくなるほど悔しかった。自分の事を可愛いだなんて思ってはいないが、顔立ちが良いという意味では褒められて嬉しくない奴はいない。それに、個人指導で上手く行った時みたく、先生に撫でられるのは結構好きな質だ。そんなものを無条件で目の前で手に入れられたら、少々羨ましくもなる。
「なあ、先生」
出来るだけ艶やかに、甘い声を。意地でも撫でて欲しいという訳では無いが、この前のように何か珍しい反応でも得られるかもしれない。別に、かわいいと言って欲しいわけでは無い。本当に。
「猫にかまけるのもいいが、可愛い生徒の事も見てやってくれよ」
相変わらず無表情だが、猫を撫でる手を止めている。教卓越しだから体づかいでは煽れないが、ちょっとだけ眉を顰めて、寂しそうな顔をして、出来るだけかわいらしく。
「そんなに俺はかわいくないか? 先生」
「……」
「……」
本当にやめときゃよかった。徹夜明けのよくわからん頭は本当に危険だ。色仕掛けとか慣れないことするもんじゃない。せめて「何を言ってるんだ」と一言くらいあってもいいのに無言ってなんだよ! ああくそ、誰か時を巻き戻す魔法なんて使えないか?! 本当に、何で無言で見つめて……
「クロードはかわいいぞ?」
「いや悪かった、変な事言っ……てぇ?」
「クロードは、一番かわいい」
変わらず真顔で、先生の手が伸びてくる。いつものように頭にでは無く、頬に。
「クロードはかわいい。特に今の表情はとてもかわいいと思う。よければ今度、もう一度見てみたい」
「あ、あの……先生?」
撫でる手つきが、いつもと全然違う。恐らく父譲りのあの少し乱雑な撫で方では無く、ゆっくりと傷つけないように、五本の指を全部利用した……少し、厭らしい手つき。
「クロードは、撫でられるのが好きだろう」
「は?! バレてたのか?」
「ハッタリだ。正直でかわいいな」
「っ……あんたなぁ」
肌の色が色だから、赤面していても目立ちにくい方だ。でも、今ばかりは百人が全員分かるほど真っ赤になっている自信がある。だって今の一瞬で五回もかわいいと言われた。それに、恐らく他の生徒の誰にもしたことの無い撫で方で。嬉しくて恥ずかしくて、ちょっと優越感まであって、徹夜で過労気味の頭が悲鳴を上げている。でも正直、気分が良いからこのままでいたい。
「撫でられるのが好きなら、授業の直前までこうしていよう。まだ三十分くらいはあるだろう」
「ま、まて、それは駄目だ!」
半ば吸い付かれたように当てられていた先生の手から何とか離れて距離を取る。三十分前ともなれば、勤勉なリシテアあたりが昨晩の自習について何か質問をしに来てもおかしくない。
(な、なんだよあれ……)
先生の事だ、きっと他意はない。本当に、純粋にかわいいと思ってやっているだけだ。いやそれだけでも問題だとは思うが。先生は何故駄目なのかが分からないようで、細くて綺麗な目を少しだけ丸くしていた。
とりあえず一旦切り替えよう。書庫帰りだったから、実は授業道具なんて何一つ持っていなかった。あの偉大なる研究室から探し出すのも一苦労だから、遅刻しない様に早く取りに行かなければ。「そうだ」
「ちょっと授業道具で忘れちまった物があってさ。いったん取りに行って来るよ」
「そうか、遅刻しないように」
相変わらず眉一つ動かさない先生は、俺がここまで慌てているのに気付いているのかも分からない。
逃げるように教室を出るが、緊張で力の入りにくくなっている足を一旦休めるため、出てすぐの廊下にしゃがみ込む。
「……無理だ」
口元を押さえる指先が、少し頬に触れているだけであの感覚が甦る。血の通っていなさそうなほど美しい手で、顔で、ちゃんと篭手を外してから撫でてくれた、少しだけ暖かい感触。今度は茶会の時にしてもらおう。そうすれば時間を気にせずにすむ。
(いや、ちゃっかり次の事考えるなよ……)
今日何度目かのため息。やっと調子が戻って来た足元に、いつの間にか薄茶色の猫が一匹いた。二号は終始教卓の上に居たから、きっとこれが俺に似ていると噂の一号だろう。覗き見ていたのか、少しだけ不服なようで不愛想な表情をしているように見えた。あの撫で方をされるの私たちだけだったのに! とでも言いたそうな顔だ。「残念だったな」
「先生は、みんなの先生だからな」
頭を掴むように撫でてやると、相当気に入らなかったのか鋭い一撃をお見舞いされた。まあ、あの先生の手つきと比べればいいもんじゃないだろうが……
「それにしても、お前らはいつもああやって撫でられてるのか……」
掴み上げて喉のあたりを撫でてやれば、今までの不愛想さもどこへやら、幸せそうにうっとりとした顔で喉を鳴らしてすぐ伸びる。相手は先ほど一撃食らわせたばかりの巨大生物だと言うのに、この気の許し方はなんだ。平和な世の中とはいえ、よくこの性格で生き延びてきたものだ。
(こいつの事見てたら、眠たくなってきたな)
授業まであと三十分。仮眠を取るには危険な時間だ。まぁ、こいつはそこらへんに置いておいて、いろいろあさっているうちに眠気も覚めるだろう。
でも結局、部屋まで連れ帰った二号に釣られて寝台に上った瞬間寝落ちてしまった。もちろん、遅刻。