この心をどう示せば、口だけにならずに済むのか。それだけを、ずっと考え続けている。
「おでんが美味しい季節になったねえ」
「……え、はい?」
素っ頓狂な声を出したと自覚している。案の定その原因はくつくつと肩を揺らしているし、さっきまで至って真剣に進めていたはずだった捜査資料の借用の話は、思い起こされたおでんの匂いにかき消されてしまった。いけないと慌てて気を引き締めて、ちょうどいいタイミングで腹の虫が鳴る。小さく震えていただけの肩はいよいよ大きく息の混じった笑い声を上げた。ここに自分達以外の人間がいなかったのがせめてもの幸いだ。
秋口の夕方、強い西日を浴びた桜田門の庁舎のオフィスでの出来事だった。捜査一課長宛に外部からの捜査資料借用の申請をしに来たはずだったが、その張本人である目の前の男に夕飯のメニューをまんまと誘導されるこの流れに、ついていける人間の方が少ないのではないか。話の流れが読めないのはいつものことだが、だからこそどうにかしてほしいと思う。
「ふ、なに。書類は預かったし、審査通るまでにどのくらいかかるかはもうご存知でしょうよ」
「そ、そうなんですけど!ちょっと話の切り替えが急だったかなと!」
「お腹すいたんだよねえ。珍しく穏やかな花金だし」
「それは何よりですけども……」
かくいう泉も、久々の平穏無事を甘受している身である。急ぎの事務処理はひとまず片付いて、何事もなければ今日はこのまま直帰だ。途中のコンビニでつゆだくのおでんでも買って帰ろうと思っていた矢先。
「美味しいおでんに美味しいお酒付きのコース、今なら案内したげるけど。どうする?」
飛んできたのは、段違いに魅力的なディナーの提案だった。どうやら誘導した分の責任は取ってくれるらしい。
以前は、捜査の一環だろうか、だとか、何か裏でもあるのか、だとか、様々な憶測をそれこそ本人の目の前で飛ばしてきた泉だったが。今回の話はそうではないのだろうなということだけがぼんやりとわかる、奇妙な感覚があった。それは少なくとも、まんまと釣られた腹の虫のせいではない。
「……服部さんが良ければ。ご一緒させてください」
「良くなきゃ誘ったりしないでしょ。それじゃご一緒されますかね」
こうして図らずも共有することとなった穏やかな夜を、泉は素直に嬉しいと思う。……それを、出来れば服部には見せびらかしたくなくて、心持ちぴんと背を伸ばした。
この人ほど、公と私の切り替えが曖昧な人間を泉は知らなかった。例えば仕事において、どこか緩い空気を纏っているように見えても、そこには一切の隙も見受けられない。寝ているようでいて状況分析とプロファイリングに勤しんでいたり、他所を見ていると思えば自分の背後で起こっていることを顔も向けずに言い当てたりするような、得体の知れない人。……その隙のなさが、私的な付き合いにおいても驚くほど変わらないから恐ろしい。
泉は服部のことを、怖い人だ、と思う。
発する言葉はいつも正論で、その全てにこちらに入り込む余地など一切与えてはくれない。突き放すとも少し違うが、まるで篩にかけるような、振り落とされたくなければしがみついて来いと言わんばかりの言動に、泉は何度挫けそうになったか分からない。今までだって、自分の至らなさを正確に受け止められるだけの素直さと、そこから一歩でも前に進もうとする意志だけで、どうにか食らいつくことが出来ていた。それだけの話だ。
目を閉じても明瞭に思い出せる、鮮烈な赤。服部耀という人間のことを知るにつれて、その恐れの感情は少しずつ姿を変えていった。最初は文字通り「得体の知れなさ」への恐怖だったが、服部の言葉や行動には、必ず理由があったから。それをきちんと分かって汲み取りたいと、今は思う。
それに、服部は完璧な実力主義という訳でもない。勿論結果を出せなければそれまでだが、その過程を蔑ろにする人間でもなかったから、泉の姿勢を無下にすることは決してしない。失敗したのであれば、何がいけなかったのか、次はどう考えどう動けばいいのか。そういったもののヒントを、説教の後に投げつけて去るような男だった。もちろん、直接的な解答を与えてくれるほど易しくはない。泉はそうして課題を与えられる度に、自身の働きの中に答えを出した。
「……結局、今日はどのような目的で誘われたんでしょうか」
場所は変わって、随分と賑わった居酒屋の奥のテーブルに、二人して向かい合わせに腰掛けたのが二時間ほど前で、希望通りおでんをつまみに口をつけた日本酒も、程よく飲み切った頃合いだった。
目的などないのだろうと思ってはいても、こうして投げかけるのはある意味癖のようなものだ。これで万が一でも「事件の関係者の見張り」「あまつさえその可能性を排除して挑むなんて失格」などという事態に陥るわけにはいかない。それは泉自身の、麻薬取締官としての意地の話だ。
「何にもないよ、ただの気まぐれ。強いて言うなら、君を振り回したくなっただけ」
「ふふ。振り回されてるのにすごく豪華にもてなされてますよね、これ」
「気に入らない?」
「とんでもない!ありがとうございます!」
冗談でなく、今日の夕食ははじめ思い描いていた分の倍以上は豪華だ。特に泉の心を弾ませたのが、この店は練り物が美味しいと勧めてもらったつくねの数種類。他にも定番の大根、こんにゃく、はんぺん、その他諸々綺麗に腹に納めて、その更に盛った量を軽く平らげる様子を眺めて過ぎていく時間。色気より食い気とはまさにこのことだったが、普段自分からは選ばないメニューも、美味しそうに食べるひとの様子を眺める時間も、ひとと食事に赴いた時の醍醐味だ。
「目的があって欲しかった?」
今日、服部がこの席で酒を入れることはなかった。それは泉が最後まで「目的など何もない」という選択肢に絞りきれなかった原因でもあり、実際のところは服部が泉を家まで送り届けるつもりだったという話がはっきりしたのがつい数分前。だいぶ手遅れだとも思ったが、穏やかな時間を素直に受け取れる権利をようやく得た気がして泉は安心した。
「ないならないでいいんです。今日は遠慮なく息を抜いていいってことですよね?」
「こんな状況でひと息つけるなんて逞しくなったもんだねえ」
「そりゃあ、服部さんが相手ですから」
言って、はたと動きを止める。自分の口から滑り落ちた言葉が随分と気安いことに、動揺が先行する。こちらをじっと見つめてくるその瞳が怖い。
「わ、えっと、今のは不可抗力と言いますか、他意はなくてですね……!」
「は、随分と懐かれたもんだ」
はじめに感じた奇妙な軟さが、すっと失せていくのを感じる。あ、と思った時には、遅かった。かち合った視線を逸らせないまま引き寄せられる。
「あんまり軽率だと、そのうち痛い目見るよ」
息がかかりそうなくらいに、寄せられた鼻先。
内緒話をするように、囁かれた言葉。
ここが境界だと、明確に突きつける声音。
……そんなの、今更だ。
「……満足?」
「へ、」
「ご飯。もっと食べたい?」
「え、あ。いや、満腹です!」
「そ。ならそろそろ帰ろっかねえ。あんまり夜更けに連れ回すのも野暮だし」
いつの間に回収した伝票を片手に席を立った服部の後を慌てて追えば、先に出ていていいと声をかけられて、泉はかろうじて「ご馳走様でした」と声をかけるのが精一杯だった。
店を出て、冷え込んだ空気に小さく擦り合わせた手のひら。そのままそっと頬に添えて、擦るよりよっぽど暖を取れるじゃないかと呆れてしまった。
「……いや、今のは近かった……」
それは、紛れもない動揺だった。
きっかけが何だったのかは、あまりよく覚えていない。ただ漠然と、服部耀という人間のことをもっと知りたいと思ったのが始まりで、けれど知りたいと思えば思うほど、言いようのない想いが、漣のように静かに、けれど確実に己の足を捉え絡めてくる。妙に落ち着かなくて、不安で、それでいて近寄らずにはいられない、そんな、少しだけ手に余るような想い。
きっと、この動揺も、その意味も、彼は気づいているはずだ。気づいているのに知らん顔をしている、意地の悪くて残酷な人。
なればこそ、彼の隙を暴きたいなら、言葉より行動で示すしかない。何を言われようと、私が貴方を諦めることはないのだと。今更この程度で軽蔑なんてしてやるものかと。示し続けることだけが、今の泉に尽くせる最善だ。
この後戻ってくる服部の助手席に乗り込む際、絶対に怯んだりしないように。揺らいだりしないように。もう一度だけ、ぴんと背を伸ばした。