いい夫婦の日01 決闘と秋雨と夫婦善哉の話A面
山を抜ける風が冷たくなり始めた頃、念願だった相手と休日の約束を取り付けた。
そいつは加減を知らぬ鍛錬バカで、八つ当たりで学園中の壁を壊し回るどアホで、ケチケチそろばん野郎で、顔を合わせれば睨めつけてくる眼はちぐはぐだし、第一隈が酷すぎるし、その上歯もなんだかギザギザだし、どこを取っても美点なんてひとつも見当たらない。
そんな欠点だらけの男と六年間「犬猿の仲」というのをやってきて、先日ついに次の休みの予定をもぎ取ったのだ。
なんの約束かって? ――もちろん決闘だ。
やっとこぎ着けた約束を、留三郎は相当楽しみにしていた。だから当日を迎えるまで、良くない癖を見直したり、型を改良したり、とにかく毎日鍛錬を怠らなかった。
ただ、前日になって、恐らくあいつは滝行――ならぬ池行で精神修養をしてくるだろうと思い至り、寒空の下、気合い注入と禊のために井戸水を被ったのが悪かった。健康優良児のはずが、よりにもよってそんな大事な日に風邪で倒れる羽目になったのは自業自得か。たかが風邪とはいえ、滅多に経験しないものだから十分辛い。熱は高いし目は回る。ついには変な幻覚まで見えて可愛い一年生に呆れられた。あの有様では、到底最高のパフォーマンスであいつを迎えることはできなかっただろう。そうして渋々申し出た計画の延期は案外あっさり認められ、気分が浮上したのも束の間、約束の日取りはどんどん先へ先へと延ばされていった。
こちらが期待しているほど、相手はこの約束を重視していないのだと思い知らされ、一人腐っていたこの一月。
ついに来た、今日がその新しい約束の日だった。
北からの風は確実に冷たさを増し、冬を感じる空が抜けるように青い。
待ちに待った留三郎は早朝からそわそわわくわくまるで落ち着かず、ついに同室に鬱陶しがられて部屋を燻し出された。冬になるからゴ……が巣ごもりしないように煙を焚くんだ、と煙幕の中で伊作は取って付けたように言う。こうなると、彼自身もこの部屋にはいられないだろう。
部屋を出た留三郎は、約束の時間まで鍛錬だ、と勇んで学園の中庭を目指した。だが、確実にそれが間違いだった。
たどり着く前に、あの老人に出会ってしまったのだ。
万が一を考えて、学園長の庵からは十分距離を取って行動していた。それなのに、あたかも誰かの不運がうつったかのような見事なエンカウントだった。
もちろん、そのあとは予想どおりの展開が待っていた。
留三郎は深い深いため息をついた。
町外れの茶店で串団子を三十本買ってきてほしい。みたらし団子が三色団子より三本以上多くなるように、かつ三色団子は偶数本必要で、残りは白餡ときな粉を半々にしたいがどちらも極端に少なくならないように配慮して、見栄えの良いようにふたつに小分けして包装してもらった上でお客様にお出しするものなので丁寧に持ち帰ること。本数は限定品の白餡の残数によってその場で考えて、とにかくなんかいい感じに買ってきてくれ、との簡単なお願いだった。
学園長先生のお使いを、まさか行けませんとも言えず、確かにこんなややこしい内容じゃいつもの一年生には頼めないのだろうと、彼は早々に抵抗を諦めた。しかし、ひぃふぅと指折り計算してさらに絶望が募る。その茶店まで行って戻ってくるのには結構な時間がかかるのだ。あいつには、可能なら夕方まで待っていてくれないかとまた延期を願い出るしかないだろう。
流石に、二度目は無いように思われた。
約束の時間、約束の場所。あからさまに消沈した様子で現れた決闘相手に、文次郎は変な顔をした。促されて渋々事情を話すと、不揃いなどんぐり眼をぱちぱちさせて首を傾げ、なんだそんなことかと呟く。そんなこと、と言われたことに引っ掛かりを覚えて、留三郎はすかさず目を尖らせた。けれども、文次郎の方は相手の不興などお構いなしにさっさと武器を懐へしまってしまう。道理で私服で来たわけだ、と彼は一人納得したように頷くと、少し待っていろと踵を返した。
ヤキモキしながら待つこと暫しの間。留三郎の前に再び現れた時には、どういうわけか自らも私服に着替えていて、早く行くぞと偉そうにふんぞり返った。半時も待たせた者の言葉ではないが、それより一緒に行く気かとか、決闘はどうするんだとか、聞きたいことは山ほどあった。けれど。
無言でずんずん歩いて行く背を追って、出門票にも上機嫌でサインする横顔を見ていると、まあいいか、という気になってきた。二人でお出かけですか、と不思議そうな小松田さんに、学園長先生のお使いに町まで行ってきます、と返した文次郎はなぜか得意げで、いつまでも決闘に拘っている自分が最早滑稽に思えた。そうするとむしろ、なんだか今日一日が少し楽しみにさえ思えてくるから不思議だ。
抜けるような青空の向こうには、ちらりと灰色が混ざり始めていた。町までは何とか保つだろう。
留三郎も元気よく、行ってきますと挨拶をした。
町へ至るまでの山道も、驚く程に順調だった。先日習った忍術の話、後輩の自慢、同室の失敗、次の実習の作戦――取り留めもない、普通の学友同士の会話が上滑りするように滔々と流れていく。共に歩くことが楽しい。けれど、本当にこれが正解だろうか?
空は灰青、午前中の柔らかな光が色付いた木々を映す。上がりきらない気温に手足の先が冷たい。冬は目前だ。
***
思った通り、外れの茶店に着くまでなんとか雨は降らなかった。不穏な濃灰色した雲が進行方向のさらに向こうで待機しているようなのは、ずっと見えないふりをしていた。町をゆく人が西の空を見上げて何か話しているのが時折聞こえた。
店に出ていたのは奥さんだった。愛想が良くてまだ若い、ころころした色白の女だ。留三郎の注文を聞くと、あらあらまあまあと、ふくよかな頬に手を当て目を大きく瞬いた。よく動くどんぐりみたいな目が文次郎に似ているな、と思った。
「もしかして大川のおじいさん?」
どうやら学園長はここの常連だ。そんなややこしいのはあの翁くらいだ、と主人も顔を覗かせた。
ちょっとばかり時間がかかると言う主人に、奥さんは座って待ってな、と暖かい店内を勧めてくれる。店は暖簾で仕切られただけの簡素なものだったが、それでも団子屋特有の蒸気と客の人いきれで外とは比べ物にならないほど暖かく、なんとなく張り詰めたような留三郎の気持ちも緩んだ。
『いい夫婦の日記念 本日限定 汁粉、善哉の白玉増量中』
店内の壁に何枚も貼られた紙を文次郎が読み上げた。
「いい夫婦の日?」
留三郎は疑問を呈しながら、そういえば外にも貼ってあったなと思い至る。それには何も答えず、すみません、善哉二つください、と大きな声で言ったのは文次郎だった。そのまま、当然のように奢れよと言う。
留三郎は目を見開いて非難を向けるが、文次郎は何処吹く風、お前のお使いに付き合ってやったのだから当然だろうとふんぞり返った。確かにそう言われると反論はできない。悔し紛れに、俺は汁粉の方が良かった、と言ってみる。接待する側が合わせろよ、と文次郎も応戦するが、本気で言っているわけでもあるまい。
大して待つ間もなく運ばれてきた、見るからに熱々の汁にこれでもかと白玉が入った椀を見て留三郎はどうでも良くなった。本当はどちらも好きなのだ。小豆の粒があればあったで歯ごたえが良いし、無ければ無いで上品に美味い。
「いい夫婦の日ってなんですか」
留三郎は卓上に椀を置いた奥さんに尋ねてみた。彼女はちょっと照れたように声を潜めて言う。
今日、結婚記念日なの。
笑った顔がふくふくと幸せそうで可愛らしかった。
見回すと、周りの客もほとんどが汁粉か善哉のようだった。声を潜めてはいるが、きっとこのやり取りを今日何十回とやってきたのだろう。それでも嬉しそうな奥さんが微笑ましくて、留三郎も自然と笑顔になる。
おめでとうございます、と二人して言うと奥さんはますます幸せそうに笑って、よく動く瞳はすっかり丸い頬に埋まってしまった。
あの長い文句を唱え、いただきますと丁寧に頭を下げた文次郎を盗み見て、留三郎は小さく嘆息した。なんでこいつと善哉なんて食べてるんだっけ、とこれまでのことを反芻する。考えながら自分もいただきます、と手を合わせて箸を持つ。汁に対して随分団子が多いそれは、かなり食べごたえがありそうだった。夫婦の幸せ分、と思えばなんとも愛おしく幸せな食べ物だ。
熱々の団子を口に入れ、留三郎はもう一度嘆息した。自然緩んでいく頬を、気合いで引き締める。真横に座る相手に、だらしない顔を見せたくないと思った。
そいつは、六年間犬猿の仲というのをやってきた好敵手で、決闘目前で、何をやっても一々気になる存在で。
気になるのは例えば、強い信念でひたむきな努力を続けているところ。だからこそ素直に悔しがれるところ。誰よりも責任感を持って仕事をまっとうするところ。真面目で一所懸命で無茶をしがちなところ。
留三郎はいつの間にか箸を止めて、右隣で善哉に夢中の男を見つめていた。
表情豊かな大きな目が嬉しそうに細められ、大きく開けた口からギザギザの歯が覗く。綺麗な箸使いで、つるんとした白玉がその可愛らしい口に運ばれていく。
可愛らしい口?――と自問する前に、文次郎がこちらを振り向いた。
食わないと冷めちまうぞ?
わかってる、と返答が些か乱暴になったのは、どうしてだろう。
店を出るとき、店の主人が文次郎に何か言ったようだった。けれど、勘定を済ませた奥さんの、傘を持っておいき、と言う声に遮られて聞き取れなかった。蒸かし立てのおまんじゅうみたいに幸せな笑顔の奥さんは、にこにこしながら一本の傘を差し出していた。一本しかないけど、と言う彼女に、留三郎は躊躇った。いや、雨はたぶん降らないと思います、と言いかけたが、それより先に、翁の土産が濡れたら困るだろう、と先手を打たれて断れなくなる。
ありがとうございます、と苦笑しながら受け取った留三郎をちらりと横目で確認し、文次郎は奥さんに一礼するとさっと店を出て行った。いつもより綺麗に結われた髻が揺れて、するりと暖簾の向こうへ消える。
その時一瞬見えた表情に、留三郎は心臓を思いっきり掴まれたように感じた。
一瞬しか見えなかった。けれど、それはさっきまで上機嫌で甘味を頬張っていた顔とはまるで違っていた。猫舌のくせに熱々の椀に鼻の頭を赤くして、あんなに嬉しそうにしていたのに。見えてしまった横顔は、ほんの少しだけ寂しそうだった。
何だ、それ。
もう一度今日のことを思い返して、朝からまだ一度も喧嘩をしていないことに気が付く。あいつはよく笑って、始終楽しそうにしていた。そろそろいつもの眉間の皺も懐かしい。――いや、眉間の皺が怒りや不満だけを表すものではないのだと、留三郎は不意に悟った。
「随分先に行っちゃったよ」
奥さんの声に、慌てて暖簾を潜る。文次郎はお使いの包みの片方を抱いて、すでに街道を進んでいた。
「おい、待て、置いてくな」
ご馳走様でしたと叫んで、留三郎は駆け出した。
あたりは雨特有の匂いがして、真っ黒い雲はもうすぐそこまで迫っていた。(結)