長月二十六日、魔が差す、或いは。 たまたま通りかかったは組の居室。
引き戸が開けっ放しになっていた。
夜でもなし、衝立も片されて、荷物が異様に多いこの部屋も真ん中だけはがらんと広かった。
その部屋のど真ん中に、男は大の字になって眠っていた。
枕替わりなのだろう、そんなに厚くもない本が頭巾を外した髪の下から覗いている。私物でもあるまいに、皺にしたら長次に死なない程度にどつきまわされるぞ、と呆れた。
夕陽が差し込んで、部屋の中は黄金色に溶けていくようだった。存外静かに眠る男も、普段の勝負馬鹿は鳴りを潜めて、ただゆったりと、規則正しい胸の上下に合わせてこちらに届かないくらいの寝息を立てるだけだ。
癖の強い髪、高い鼻梁、長い睫毛。
そういう男の持ち物すべてが、きらきら舞う埃塵の中で、朱い夕陽に映じて一層神秘的に見えた。だらしがない、と思うより先に、思わず見入っていた。
伊作はどこへ行ったのだろう。
頭の片隅でそう思いながら、文次郎は引き寄せられるようにそうっと近付いた。
近づいて、男の、留三郎の顔を覗き込んで、ああ、しまった、と思った。自分が近づいたために、触ると意外に柔らかい髪も、真っ直ぐ通った鼻梁の頂も、眼光を蕩かす甘い睫毛も、あんなに綺麗な黄金色ではなくなってしまった。そんなことにがっかりしながら、何気なく目線をずらして、文次郎はその動きを止めた。
他意もなかった。
薄く開いた唇から、すうすうと聴こえる寝息。聴こえる位置までこちらが近付いたというのに、まるで目覚める気配もない無防備さ。
魔が差した、とでも言えば良いのか。
ゴクリと息を飲んで、文次郎は一層気配を消して留三郎の頭側に移動した。髪の下から縹色の表紙が覗く。それは思うに初級の兵法書だった。
目をやったのは一瞬で、すぐに薄くて、形の良い唇に再び視線が吸い込まれる。薄いのに柔らかそうなそれは、ちょっと厚ぼったい自分のものとは全然違っていた。
留三郎の顔を挟むように両腕を付き、真上から覗き込んで息を止める。恐る恐る、顔を近付けていく。
そおっとそおっと、一寸進むのに十数えるくらい、ゆっくり、ゆっくり。
何かが込み上げてくるような気分がして、自分が今どんな顔をしているのかも全然分からなかった。止めた呼吸が苦しいような、いつまでも止めていられるような、目の前が白いような、朱いような、――なんだか分からないけれどとにかく夢中で、頭はじんと痺れていた。
鼻先に吐息がかかりそうな距離。
前髪がはらりと落ちた。
ぱち、と音がするように、留三郎の鋭い眼が開く。寝ぼけ眼でこちらを見て、すぐにやりと口角を上げた。
よく働く右手が伸びてくる。
「なんだ、寝込みを襲う気だったか? 文次郎のムッツリすけべ」
からかう言葉に、唇をなぞる硬い指先。
文次郎のふくりとした唇は、緊張からきゅっと強ばっていた。
図星をさされた文次郎は、一瞬――ほんの一瞬だけ対応を誤った。
「……っこんなに近づいても目覚めない鈍り腐ったてめえの寝首搔いてやろうとっ」
言い募る文次郎の首筋に向かってにゅっと伸びる反対の腕。すわ反撃か、と応戦のため身を捻ろうとした文次郎の後頭と首に素早く巻き付いた両の腕は、重力を味方につけていともあっさり獲物を胸に抱き込んだ。ごろん、とそのまま床に転がると、暴れる文次郎をぎゅうっと捕らえて放さない。腕だけでは飽き足らず、長い脚まで絡みついた。
視界が遮られ、見えるのは留三郎の着物の合わせだけ。さっきまできらきら美しかった夕陽も、もう裏山へ沈んでしまったようだった。
あたりは薄暮の蒼。
秋彼岸が過ぎてめっきり涼しくなった夕暮れに、寝起きの留三郎の体温がじんわりと染みる。
「ごめん、もう少し、目を閉じてれば良かったな」
腕の中で聞くその声が、本当は大好きだ。
(結)