冥王星には♡がある<1>
二十時過ぎの駅構内は一日を終え帰路に着く沢山の人々で交差していた。
おそ川書店の営業マン、松野カラ松もその一人だ。
たまたま退勤のタイミングが合い、会社のエントランスで会ったトド松と並んで歩いている。
トド松とはカラ松の五つ歳の離れた実弟で、同じ勤め先の広報課で働いている。
「ヘビーだったが、今週もナイスウィークだったぜ」
「何? ナイスウィークって」
トド松が笑う。
今日は金曜日。
おそ川書店は暦通りの勤務体系なので、カラ松もトド松も明日明後日と連休だ。
花の金曜日ともなれば、企業戦士たちは慰労という名目で居酒屋を筆頭に呑みの場へと繰り出すものだろう。
しかしカラ松とトド松はまっすぐ各々の家路を目指している。
理由は簡単。夕方、カラ松のスマートフォンに入った一通のメッセージによるものだ。
《今日の晩飯はからあげ》
装飾のないシンプルな文面。しかしカラ松の心を躍らせるには充分な内容だった。
「ボク、今日は吉松卯で牛丼食べて帰ろうかなあ。カラ松兄さんは?」
「フフン! オレの今日のディナーはからあげとのことだ!」
思わず笑みが溢れる。からあげはカラ松の大好物だ。
だが上機嫌な理由はそれだけではない。
「一松のからあげは本当にデリシャスなんだ」
メッセージの送信者、松野一松はカラ松の恋人だ。
交際を始めて七年、一緒に暮らすようになって五年になる。
愛する恋人が自分の好物を作って家で待ってくれている。
家族が待つ家の窓の灯りをダイヤモンドに例えて歌ったポップスが十年以上前に流行ったが、まさにそれだ。
改札を出てすぐ、思わずカラ松の足が止まった。
視線の先にあるのはマンスリーのスイーツショップだった。
紫と青で彩られた装飾と、ショップの名前に目を奪われる。
「どうしたの、カラ松兄さん」
小首を傾げながらトド松がカラ松と同じ方向を見る。
そして小さく「ああ」と微笑んだ。
Cosmic Sweets Shop
期間限定!銀河土産のスイーツが登場!
「一松が好きそうなやつだ」
カラ松が恋人のことを語る上で宇宙のことは外せない。
一松の職業は小説家。
若年層向けの童話に近いジャンルを書く作家で、人気という言葉を使っても過言ではない程度に知名度がある。
尤も一松自身には人気作家であることも有名であることも微塵も自覚が無いのだが。
そんな彼が書く小説の舞台は宇宙であり、自分たちを模した登場人物たちも星の名前からつけている。
「ちょっと寄っていこうか」
カラ松の腕を引いてトド松がショップに向かって歩き出す。
トド松のこういう仕草は子供の頃からで、いくつになっても変わらない。
「いらっしゃいませぇ」
若い女性店員が笑顔で二人を迎えた。
星形のアイシングクッキー。
地球を模したドーム状のケーキ。
天の川をイメージした四角いカットケーキ。
銀河土産というキャッチコピーの通り、ショーウィンドウには色鮮やかでかつ個性的なスイーツが飾られている。
「すごいね~。一松兄さんの小説に出てきそう」
「そうだな」
ショーウィンドウの中はまるで小さな宇宙だった。
見ているだけでため息が漏れる。
左から右へと視線を動かしていくと「一番人気!」というPOPが目に入った。
「こちらはPLANETという、太陽系の惑星をイメージしたショコラです」
すかさず店員が説明を入れる。
細長い長方形の黒い箱に、半円型のショコラが一列に並んでいた。
水星イメージのショコラから始まり、全部で八つ。
絶対一松が好きなやつだ!
そう思ったら胸が高鳴った。
「えっと、水、金、地、火、木……」
数えて、そしてはっとした。
「……この星のクッキー3袋下さい」
カラ松が店員に言う。
その声音でトド松も気がついたようだった。
困ったように眉を下げてカラ松のことを見ている。
「ありがとうございました~」
店員の声を背に再び歩き出す。
少ししたところで、トド松にクッキーの袋を一つ差し出した。
「トド松、プレゼント」
「ありがとう……」
淡い紫と水色のクッキーはとても可愛らしかった。
だがトド松の寂しい気持ちは晴れなかった。
「残念だったね。すごく綺麗だったのに」
「仕方無いさ。プルートゥ……冥王星は惑星では無いからな」
ショコラは八つ。水金地火木土天海。
一松にとって最も思い入れのある冥王星は入っていなかった。
冥王星があれば買っていたところなのだが、無いものは仕方無い。
そもそも準惑星に降格した冥王星をラインナップに入れている商品自体殆ど目にしない。
しかし、ふとカラ松はあることに気が付いた。
「あれ? そういえば冥王星ってどんな星だ?」
「え? 全然知らない」
色、大きさ、由来、逸話。何も思い浮かばない。
なんて事だ、まさか冥王星について何も知らなかっただなんて。ミステイク。
カラ松はむうと唸って顎に手を添える。しかしすぐにぱっと明るい顔をした。
「そうだ! 冥王星が無いのなら、どんな星か調べて自分で作ればいいんじゃないか~!」
ナイスアイディーア、とカラ松は自身の妙案に高らかに笑った。
カラ松は料理にせよ裁縫にせよ、何かを作ることが人より少しだけ長けている。
面相臭がりな性格の為あまり発揮されることはないが、基本的に器用なのだ。
「明日は土曜日!
幸い一松は明日は担当編集のチョロ子ちゃんと朝から取材で夜まで帰って来ない!
パティシエ・カラ松の腕が唸るぜえーっ!」
「ちょっとカラ松兄さん! ここ駅だから!」
突如大きな声を上げたカラ松に周囲は振り返り、トド松は真っ赤な顔でそれを咎める。
しかしカラ松はそんなことはお構い無しだ。
カラ松の頭はもう、明日のことでいっぱいなのだ。
カラ松とトド松に対して周囲が訝しんだ視線を向ける中、くすくすと笑いながら二人を見ている人たちがいた。
いや、人というのは正しくない。
駅の行き先案内板の上にちょこんと腰をかけている、十六センチほどの極めて小さな体格の二人の男性。
茶系のレトロゴシックな服装に身を包んだ二人の姿は、通行人たちには見えていない。
「アイツ、喜ぶだろうね」
ぼさぼさ頭に鈍い金色のゴーグルを斜めにひっかけた小人。
一松の物語の主人公、プルートゥが言う。
プルートゥは一松に瓜二つな外見をしている。
外見のみならず、口調、仕草、思考回路に至るまで似ていて、一松の分身でもあり相棒でもある存在だ。
「そうだな」
隣にいるのはネプチューンという名で、物語のもうひとりの主人公。こちらはカラ松の分身だ。
黒のテンガロンハットと金属製のバラのアクセサリーでキザに決めているところもカラ松によく似ている。
「冥王星ってどんな星、か。お前と出逢ったばかりの頃のことを思い出すな」
ネプチューンの言葉にプルートゥがふっと小さく微笑む。
物語には命があって、ひとつひとつに世界がある。
プルートゥとネプチューンは一松が生み出した世界の住人で、一松たちと同じように日々生活を営んでいる。
一松が書いた小説の内容は二人の行動に影響を与え、
逆に二人の行動も一松の小説に影響を与え、お互い気が付かないところでリンクしあっている。
ただ一松の小説で書かれているのは生活のほんの一部で、一松も知らない二人の出来事なんていうのも沢山ある。
これから語られるのはプルートゥとネプチューンの二人以外は知らない、二人だけのエピソードだ。
<2>
煙突から立ち昇る真っ白な蒸気と機械油の匂い。
外壁には金色をした大小さまざまな歯車が取り付けられており、忙しなく稼働している。
ここは機械修理を請け負う小さな工房で、年老いた技師とその弟子である若者が数人働いている。
蒸気機関が発達したこの国において、機械修理技師は無くてはならない存在だ。
工房の表の入口から男性が数人、談笑しながら出てきた。
時間は昼時、仲間達と食事を取りに行くのだろう。
年相応に騒がしく、ふざけあいながら歩いて行く。
一方、工房の裏手側。
一人の男が階段に腰を下ろしパイプを吹かしている。
名前はプルートゥ。
手入れのされていないぼさぼさの頭に、への字に曲がった口。
煙を眺める目は半分しか開いてなく、眠そうにも不機嫌そうにも見える。
彼が誰かと昼食に出掛けることはまず無い。
まずはパイプを一服をしてからパンなどを買いに出掛け、適当に胃に押し込んで仕事を再開する。
これが彼のルーティーンだ。もう何年も変わらない。
「ランチタイムか? メカニシャンボーイ」
頭上から声がして目だけ動かしてその方向を見る。
「ああ……午前中に修理依頼に来た人」
「ザッツライト!」
男が笑う。
黒のテンガロンハットに金属製のバラのアクセサリー。
年齢も背格好もプルートゥと同じくらいであろう青年。
彼は自身が乗る飛行バイクが故障したとのことで工房に来ていた。
その修理を担当することになったのがプルートゥだ。
目の前の男は茶色の紙袋を二つ抱え、にこやかな表情でプルートゥのことを見ていた。
プルートゥはため息をついた。
人と群れるのは苦手だ。だからこうして一人で工房裏に居るというのに。
そもそもメカニシャンボーイというのは何なのだろう。
彼は異国語混じりの独特な話し方をした。
「何か用? おれ今休憩中なんですけど」
「フフーン。奇遇なことにオレも今からランチでな。さっきサンドイッチを買ってきたんだ」
「いや、そういうことじゃなくて。おれは、今、休憩中なの」
「分かっているぞ! 見てくれ! 美味そうだろ?」
そう言って紙袋からサンドイッチを取り出す。
ダメだ。空気を読むとか話を察するという能力が1ミリも無い。
プルートゥは小さく唸った。
面倒なやつに絡まれてしまった。とはいえ一応顧客なのでそこまで無碍にも出来ない。
嬉々とした表情で目の前にサンドイッチを差し出す男に、プルートゥは極力感情を出さないように努めて言う。
「あの、おれ、一人で飯食いたいんですけど」
「ノンノン! つれないぜ、メカニシャンボーイ」
ちぐはぐな会話は止まらない。
あろうことか男は断りも無しに隣に腰掛けてきた。
狭い階段だ。腕と腕が触れ合い、プルートゥは思わずどきりとした。
距離感がおかしい。
「実はな、ボーイにプレゼントがあるんだ」
「え?」
そう言って男は手に持っていたもう一つの紙袋を差し出した。
戸惑いつつもおずおずと受け取ると甘い匂いがする。
見ればそこにはドーナツが二つ入っていた。
オールドファッションで、半分にチョコレートがかけられている。
「これ……何でおれに……?」
プルートゥは困惑した。
男とは初対面だ。それなのにどうして。
「オレの愛馬の修理担当は君になったんだろう? マスターに聞いたぜ」
「愛馬……ああ、移動用飛行機械馬のことね。だからってお礼とか別にしなくていいし。金は貰ってるし仕事だからやるだけ」
だから物なんて贈る必要無い。
それもおれなんかに。
「美味い! セラヴィ!」
隣で男がハムとレタスのサンドイッチを頬張る。
話聞かねえな、コイツ!
「あのさあ」
「君もランチにしたらどうだ? ドーナツはその店自慢の商品らしい。オレもさっき食べたけどデリシャスだった」
きっと君も気に入るぞ。
そう言って男が笑う。
プルートゥは再びため息をついた。
「あっそ……」
何を言ってもこの男は聞きやしないだろう。これまでの流れで充分分かった。
プルートゥは諦めて、男からもらったドーナツを一口齧った。
ドーナツはさくさくとしていて確かに美味しかった。
何なの、コイツ。変な奴。
どうしておれなんかに話しかけてくるんだろう。
チョコレートの優しくて甘い味が口の中に広がる。
プルートゥは何とも言えない気持ちになり、俯き無言でドーナツを頬張った。
◇
一日の勤めを終えて家に帰り、プルートゥは薄橙色をした同居猫と共に夕食を買いに夜の街を歩いていた。
飼い猫ではない。
同居猫と呼ぶのは、この猫––カロンは不思議なことに人の言葉を話せるからだ。
プルートゥは身寄りが無く、随分前から一人と一匹で暮らしている唯一の家族だ。
「ねえ、プルートゥ」
「え、あ、何?」
急にカロンに話しかけられ、プルートゥの肩が跳ねた。
「今日は何だか変だよ。さっきからぼーっとしてるよね」
「な、何でも無いから」
カロンは勘が鋭い。
今日来た変な客の話くらいしても良かったのだが、何となく誤魔化してしまった。
結局男はサンドイッチを食べ終わった後もずっとプルートゥと一緒に居て、色々と話しかけてきた。
尤もプルートゥは相槌を適当に打っていただけなのだが。
カロン以外の誰かと喋ったのっていつぶりだろう。
雇い主である工房長や同僚と話さないこともないが、仕事上必要な最低限のことだけだ。
相手が嫌いな訳ではなかったが、ただ人付き合いがどうしようもなく苦手だった。
自分から壁を作ってしまう。
その結果、プルートゥに進んで話しかけようとする人などいなくなった。
ましてや笑いかける人なんて。
アイツは一体何なんだろう。
どうしておれなんかに構ってきたのだろう。
悶々と考えていたその時だった。
「キャーッ! ひったくりよー!」
「えっ?」
小型の一人用飛行艇が轟音を立てながらこちらに向かってくる。
搭乗しているのは深緑色の目出し帽を被った小柄な男が一人。
高そうな女性物のバッグを掴んでおり、これがおそらく盗品だろう。
HIJIRISAWAとペイントされた泥棒の飛行艇がプルートゥの真横を掠めた。
気がつけば手に持っていた紙袋が無くなっている。
「ああっ! おれらの飯もパクられた!」
「ええっ!?」
最悪だ。
プルートゥは舌打ちをし、ポケットからリモコンを出すと一番左上のボタンを押した。
「逃すか!」
間もなくプルートゥの元に一台の無人飛行艇が来た。彼自身が手掛けたメカだ。
プルートゥとカロンは飛行艇に飛び乗ると夕飯泥棒を追いかけた。
「このまま逃げるだよう」
泥棒が笑う。
プルートゥはぐんぐんと距離を縮め、飛行艇の側面から二本の伸縮アームを出して泥棒を捕まえようと試みた。
しかし相手の運転テクニックは高等で、巧い具合にかわしてくる。
「ちっ!」
アームでいくら殴りかかっても、掠る気配も無い。
プルートゥは機械修理だけでなく操作も得意だと自負しているのだが、相手のレベルが高すぎるのだ。
恐らく常習犯。奪うのも逃げるのも慣れているのだろう。
通りに出ると中央向かいに一つの影が見えた。
プルートゥくらいの背丈の男。
両手には小型の拳銃を構えている。
パン、と乾いた銃声が二つ鳴り響いた。
すると泥棒の飛行艇はどういう訳か急停車し、機体を前後に激しく揺らしながら白煙を吐き出した。
何だ一体。故障でもしたのか?
泥棒の機体にぶつからないように脇に避け、プルートゥは飛行艇から降りた。
泥棒に駆け寄ると、衝撃で稼働したエアバッグを枕にしてすやすやと眠っていた。
「どうして……?」
ふと先程の人影のほうに目をやる。
「ん? メカニシャンボーイだったのか」
工房に来た客の男だ。
二丁の拳銃を腰のホルダーへ戻すと、昼間と変わらない笑顔でこちらに向かってくる。
まさかこの男が手練れな泥棒を、あの一瞬で?
男は泥棒を飛行艇から引っ張り出し、盗品である紙袋とバッグをプルートゥへ手渡した。
変な歌を口ずさみながら泥棒を縄で縛る。こちらも慣れた手つきに見えた。
その間に保安官が来た。
簡単な会話を交わすと、男は保安官からそこそこ厚い封筒を受け取っていた。
あっという間の出来事だった。
「マシン、すごいじゃないか! 見てたぜ! あれもボーイが作ったんだろう?」
普通の顔をして話しかけてくる。
しかしプルートゥはなかなか言葉が出てこなかった。
「あの、お前……」
「ん?」
「すごいね、君」
足元から声。カロンだ。
「ワオ! キャットボーイは言葉を話せるのか! すごいな!」
男が屈んでカロンの顔を覗き込む。
「ありがとう、これはぼくらの夕飯だったんだ」
「そうか、お役に立てて何よりだぜ」
男は喋る猫を「すごい」と言ったが、そこまで驚きもしなかった。
それが少しだけ意外だった。
「ほら、プルートゥもお礼を言って」
カロンが優しい声音でプルートゥに促す。
「あ、あ、ありがと……」
いつになく素直だったのは、驚きすぎて余裕が無かったからかもしれない。
プルートゥの言葉に男は微笑んだ。
◇
「美味い! こんなに美味いシチューは初めてだぜ!」
本日二度目の男の「美味い」を聞きながら、プルートゥもシチューを口に運ぶ。
「キャットボーイは料理も出来るなんて! マーベラスだな!」
「ずっとここで二人で暮らしているからね。猫だって話せるようになるし料理上手にもなるよ」
カロンはプルートゥよりずっと会話が上手い。
小さな木のテーブルに食事が三人分。
椅子が足りなかったので古い木箱の上にプルートゥは座った。
「しかし今晩泊めてもらっちゃって本当に良かったのか?」
「いいよ。だって野宿だなんてこの時期大変でしょ。夕飯を取り戻してもらったお礼」
カロンがプルートゥのほうを見る。
「ね、プルートゥ」
「うっ……」
言葉に詰まる。
こういう時の正しい会話の仕方が分からない。
それに、何だろう。
この男の笑った顔を見ると、何だか落ち着かない気持ちになる。
久しぶりに人と会話をしているからだろうか。
カロンは穏やかな顔で微笑んだあと、男に会話を戻した。
「君は一体何者なの? 銃の扱いに慣れているみたいだけど」
ああ、と男がスプーンをテーブルに置く。
「オレは賞金稼ぎなのさ」
「賞金稼ぎ!?」
カロンよりも先にプルートゥが驚き、声を上げた。
一方のカロンは変わらず涼しい顔をしている。
「それなら泥棒を簡単に捕まえられたのも納得だね」
男が快活に笑う。
なお二丁拳銃のうちの一丁はマシンを緊急停止させるプログラミングが弾丸に込められており、もう一丁は催眠銃だと説明をした。
「つか何でそんな野蛮な仕事やってんの? 生き急いでるの?」
賞金稼ぎだなんて想像もしていなかった。
プルートゥが生きる世界の中で、これまで出会ったことのない生業だったからだ。
「プルートゥはね『どうしてそんな危ない仕事をしているの?』って言っているんだ」
「お前っ! ちっげえよ!」
自分を良く知る家族の言葉にプルートゥはがたりと椅子から立ち上がった。
「ハハ! 確かにデンジャラスだ。だけどこれがオレに取って一番丁度良いマネーの稼ぎ方なんだ」
一番丁度良い?
賞金稼ぎが?
疑問に思ったが、次の言葉で納得した。
「オレはこの銀河を旅しているんだ」
旅人。それなら確かに賞金稼ぎは都合が良い。
一度に大金が手に入るし、旅先でも金を稼ぐことが出来る。
喋る猫を目の当たりにしてもそこまで驚かなかったのは、旅先でそういう動物を他に見ていたのかもしれない。
「ふうん、旅ねえ……」
自分には無縁なことだと思った。
プルートゥは物心ついた時からこの街にいる。
毎日家と工房の往復。ごく狭い世界でプルートゥは生きてきた。
これまでも、きっとこれからも。
男は食事を終え、スプーンをテーブルに置いた。
「オレな、探しているものがあるんだ」
そう言って笑う。
焦茶色の澄んだ真っ直ぐな瞳。
その表情にプルートゥはまたも落ち着かなくなった。
「オレのことよりメカニシャンボーイ、君の話を聞かせてくれないか」
「え、おれ?」
突如話を振られ、プルートゥは目を瞬かせた。
「どうして機械技師をしているんだ? いや、その前に年齢は? 好きな食べ物は? 休みの日は何をやっているんだ?」
「いやいやいやいや! 何この質問攻め!!」
マシンガンのような勢いにプルートゥがたじろぐ。
「聞いちゃダメだったか?」
眉を八の字にして男が言う。
犬だったら耳と尻尾がしゅんと垂れ下がっているであろう表情。
この表情も落ち着かない。勘弁してほしい。
「いや、ダメとかそういうんじゃなくてさ。おれのことなんて聞いたって何も面白くないだろうし、何の得もないし意味なんてこれっぽっちもないじゃん」
本音だった。
他人が自分に関心を持つ訳が無い。社交辞令も要らない。
そう思っていた。
しかし彼の返事は意外なものだった。
「意味ならあるぞ」
「え?」
「オレは君に興味がある」
興味がある。
彼ははっきりとそう言った。
予想だにしていなかったことに、プルートゥの胸は大きく鳴った。
「な、なんで……?」
「オレと君は名前が似ているんだ」
え、名前?
正直、少しがっかりした。
がっかりした理由は自分自身でもよく分からなかったが。
「そういえば君の名前を聞いていなかったね。何ていう名前なの?」
カロンが尋ねる。
すると男はニッと口角を上げた。
「オレはネプチューンというんだ」
なるほど、とプルートゥは思った。
「ネプチューン……海王星か」
「そう海王星! ネプチューン、異国での名はポセイドン。巨神王クロノスが次男、青く澄み渡る大海原を統べる海王。そんな神と星の名を持つのがオレさあ!」
芝居がかった口調でネプチューンが言った。
言い慣れたこの感じがからして、彼の決まり口上なのだろう。
大袈裟な身振り手振りもついていて、キザに拍車がかかっている。
「君はプルートゥと言うんだろう?」
「あ、ああ、うん」
「プルートゥは冥王星。海王星とは並びが隣同士だ。それに神話の中ではオレと君は兄弟に当たるじゃないか」
確かにその通りだ。
神話に明るくないプルートゥもこのあたりのことは知っている。
「ほら? 君も興味が湧いてきただろう?」
瞳を輝かせてネプチューンがプルートゥの顔を覗き込む。
「いや、全然」
「ええ~~っ!?」
ネプチューンが声を上げる。
しかしプルートゥは気に留めない。
「おれ、自分の名前のこと別に好きじゃないし。だってプルートゥって死神の名前でしょ?」
「死神じゃない! 冥界を統べる神、冥王ハデスだ!」
「どっちだって同じでしょ」
「全然違ぁう!」
先程までより高い声でネプチューンが言う。
普段無駄にキザに決めているくせに、やたら幼い言い方だ。
気を抜くとこういう口調になるのだろうか。
「あと冥王星って惑星から降格されたじゃん。そういうしょぼい星なんだよ」
すると、ネプチューンがこれまでとは打って変わったかのように真剣な表情をした。
「……君は冥王星を見たことが無いのか?」
「あん? 無いよ。興味無いもん」
そうか、とネプチューンが呟く。思案顔で、顎に手を添え俯いている。
ネプチューンが黙ってしまった為、家がしんと静かになってしまった。
プルートゥは気まずくなり自分の足元に視線を落とした。
沈黙には慣れている筈なのに、どうしてか胸がきゅっとなる。
空気を変えたのは、この中で誰よりも気配りの出来る雄猫だった。
「ねえ、これまでどんな星を旅してきたの? 思い出話とか聞かせてよ」
「ああ! 勿論だぜ!」
ネプチューンはこれまで通りの明るい表情に戻った。
プルートゥはカロンに心の中で御礼を述べつつ、後ろ向きな自分を初めて少しだけ悔いた。
◇
橙色のランプが灯った部屋で、工具のがちゃがちゃという音が響く。
プルートゥはゴーグルを目にかけ机に向かい、カロンはその机の上でゆらゆらと尻尾を揺らしていた。
「何してんだ?」
「おわあ!」
突如、背後から声がしてプルートゥは跳ね上がった。
「そんなに驚かなくても」
「うるさい!」
早鐘を打つ胸を押さえ、プルートゥは彼を睨んだ。
「風呂ありがとな」
「へいへい」
広間のかっちりとした服装とは異なり、彼は薄水色の簡素な寝間着を纏っていた。
首元が大きく開かれていて、ちらりと鎖骨が覗いて見える。
先程まで微かにしていた硝煙の匂いも消え、今は石鹸の香りがする。
やはりどうにも落ち着かない。
今日会ったばかりの旅人にどうして胸を乱されるのだろう。
こんな感情を自分は知らない。
そんなプルートゥの気持ちなど知る由もなく、ネプチューンは変わらぬ調子で話しかける。
「これも仕事か?」
「いや、私物だよ」
プルートゥが直しているのは古い懐中時計だった。
もう随分前から動かなくなってしまっている。
「見てても良いか?」
「まあ……」
こんなの見て何が面白いんだよ。
そう思ったが口には出さなかった。
再度修理を始める。
ネプチューンはこういった作業を目にするのは初めてなのか、時折感嘆の声を漏らしていた。
手元に注がれる視線が熱い。
普段だったらこんなことは絶対に許さない。
人に作業を見られるなんて鬱陶しいし大嫌いだ。
けれど、嫌じゃない。
すごいな、と呟く声が柔らかくてくすぐったい。
でも、同時に少しだけ寂しい気持ちにもなる。
「……お前の馬はさ、あと三日もすれば元通りになる」
自分の手元を見つめつつ、プルートゥが呟くように話しかける。
「そうしたらさ、お前はまた探し物を見つける旅に出かけるの?」
ネプチューンの顔を見ることが出来ない。
自分の今の顔だって見られたくない。
きっとすごく情けない顔をしているに違いないのだから。
「そうだな……」
「そっか……」
カロンがちらりとプルートゥの顔を見て、猫の声で「なあん」と鳴いた。
◇
「なあ、本当にオレがベッドを使っちゃって良いのか? オレがそっちで寝るぞ?」
一人用の小さなベッドの前で、ネプチューンが眉を下げる。
プルートゥは椅子の背もたれを倒し、ベッドのようにして寝転がった。
「あん? おれの垢がついた小汚いベッドはお断りですか?」
違ぁう! とネプチューンの情けない声が響く。
予想通りのリアクションにプルートゥは小さく笑った。
「良いんだよ。一応おれは家主だし、おれがこっちで寝るほうが気楽だから」
そう言うとネプチューンも穏やかに微笑んだ。
「ありがとな」
ネプチューンがベッドに潜り込む。
「おやすみ、プルートゥ」
「……おやすみ」
リモコンに手を伸ばし天井のランプの灯を落とす。
ネプチューンは目を閉じ、もう今にも眠りに落ちそうに見えた。
しかしプルートゥはまだまだ眠れそうにない。
ーー名前、呼ばれた。
きっと彼にとって、名前を口にしたことなど些細なことだったに違いない。
しかしプルートゥにとっては些細なんかではちっともなかった。
何故だか瞳の奥がぐっと熱くなる。
暫くするとくうくうと隣から寝息が聞こえてきた。寝入りの早い男だ。
寝返りを同時に毛布がばさりと床に落ちる。
「ああ、まったく……」
立ち上がり、毛布を拾って掛け直してやる。
涎を垂らし、幸せそうに眠る姿はまるで小さな子供のようだ。
「うちにお客さんが来るなんて初めてだね」
小さな声でカロンが話しかける。
プルートゥは座椅子に戻って再び横になる。
カロンの眼差しが優しい。
「恋しちゃった?」
「そ、そんなんじゃないから」
そうなの? と保護者のような目でカロンがプルートゥを見る。
「ただ……おれなんかに話しかけてくる変人なんてこれまで一人もいなかったから、心がちょっと誤作動を起こしているだけ」
そう、これは誤作動なのだ。
それに、もしこれが仮に恋と呼ばれるものだったとして、こんなに不毛なことは無い。
何故なら彼は、あと数日しかこの町にいないのだから。
「……旅人なのは寂しいね。出来ることなら彼にはずっとプルートゥと一緒にいてもらいたいな」
ぼくはそう思うよ、とカロンが言う。
プルートゥは何も返すことが出来なかった。
◇
「プルートゥ!」
翌日の昼、工房の表の入口にネプチューンが立っていた。
彼の愛馬を修理する手を止めて、小走りで駆け寄る。
「何お前、どうしたの?」
「一緒にランチに行こうと思ってな! もうそういう時間だろう?」
確かに今は正午。ちょうど昼休憩の時間だ。
プルートゥはくるりと踵を返した。
「……手、汚れてるからちょっと待ってて」
「ああ!」
頬が火照る。こんな顔、とてもじゃないが見せられない。
ばたばたと音を立て、プルートゥは洗面台へと向かった。
ーーったく、勘弁してよ。……期待、しちゃうだろ。
手と同時に顔も洗う。
これで幾分かは赤みが引いただろう。
前髪が若干濡れてしまい、雫が滴っているが気にしないことにした。
洗面所の扉を開けると、同僚たちがネプチューンを囲っていた。
「昨日からよくアイツと一緒にいますよね」
「アイツ? プルートゥのことか?」
「そうそう、そのプルートゥです」
「お客さん、あなたどうしてアイツと一緒にいるんですか?」
ハッとして、反射的に扉を閉める。
息が荒い。気分が悪い。足が鉛のように動かない。
「遅かったな」
工房の入口前で、先程までは持っていなかった筈の紙袋を二つ抱えネプチューンは待っていた。
しかしプルートゥの顔を見てハッとする。
「お前、顔が真っ青じゃないか! 大丈夫か? 具合が悪いのか?」
ネプチューンがプルートゥの肩にそっと手を触れる。
その顔が心底心配そうで、苦しくなった。
「もうおれのことは放っておいてよ……」
「え?」
「だってお前、すぐ遠くに行っちゃうんでしょ? おれに優しくしないでよ。
おれなんかと一緒にいても良いことなんて何も無いよ。お前まで変な奴だと思われるのがオチだから」
ここまで吐き出すと下唇を食んで俯いた。
顔が上げられない。
「さっきの話を聞いていたのか?」
真面目なトーンのネプチューンの声。状況を察したのだろう。
「……別におれじゃなくたって良いじゃん。ただ名前が似ているからおれに興味があるんでしょ」
そう、広い世界で生きるこの男にとって、自分などこれまで出会った大勢の人間のうちの一人にすぎない。
付き合う人間を幾らだって選べるはずなのだ。
「名前はただのきっかけだ。おれはお前のことを知りたいと……お前と一緒にいたいと思って……」
選ぶように紡がれるネプチューンの言葉。
困らせているのは分かっている。しかし汚水のように澱んだ感情は溢れて止まらない。
「何で、おれなんかと一緒にいたいなんて思うんだよ。こんな、卑屈で、陰鬱で、無気力で、つまんない人間に。
お前はただひとりぼっちのおれに気を使っているだけなんだろ?」
「そんな風には思っていない。オレはお前が優しい人間だってことを知っている」
その言葉にカッと頭に血が昇った。
顔を上げキッと目の前の男を睨みつける。
「はあ!? 何分かった口聞いてんの!?
お前に何が分かるんだよ! おれの何を知っているっていうんだよ!」
激情をぶつける。
昨日出会ったばかりの男に、おれのことなんて何も分かる訳が無い。
しかし口にした後、血の気が引く思いに駆られた。
どうしようもない後悔。指先が冷たくなっていくのを感じる。
ネプチューンは口を一文字にしてプルートゥのことをじっと見つめていた。
怒らせてしまったかもしれない。
焦るがどうにも二の句が注げない。
先に口を開いたのはネプチューンだった。
「……確かにオレはお前の全てを知っている訳じゃない。それどころか知らないことの方が多いと思う。
でもお前もお前自身のことを分かっていないんじゃないかな?」
「え?」
ネプチューンは真剣な目をしていた。感情が読めない。
しかし次の瞬間にはまたいつもの穏やかな表情へと戻った。
「これ、昼ごはん。評判の店で買ったから食べてくれ」
温かな紙袋をプルートゥに手渡す。
プルートゥを待っている間に買いに行ってくれていたのだろう。
ネプチューンはそれを渡すと踵を返して工房の扉のノブに手をかけた。
「あ……」
行ってしまう。
こんなひどい八つ当たりをして、おれは……
扉を開き、ネプチューンが振り返る。
「なあ、プルートゥ。仕事が終わったら、オレと一緒に出掛けないか?」
◇
夜の大通りを二人並んで歩く。
丁度昨日騒動があったあの道だ。
「キャットは来なくて良かったのか?」
「……留守番してるって」
まったく、変な気を使いやがって。
プルートゥは内心で悪態をついた。
昼間のこともあって気まずいからついてきて欲しかったというのに、カロンは笑顔で「いいからいいから」というばかりだった。
「で、どこに行くの?」
「ステーションだ。星間列車に乗る」
「はあ!? どこまで行くの!?」
まさかそんな遠出の予定だったとは。
しかし驚くプルートゥの様子など、ネプチューンはお構いなしだった。
「それは行ってからのお楽しみさ」
星間列車。
それは近隣の星と星を繋ぐ蒸気列車のことだ。
空を駆け、宇宙空間に出てからは星屑の間を走っていく。
その駅がこの町には存在していた。
しかしプルートゥはこれまで一度もこの列車を利用したことがなかった。
移動の必要がなかったからだ。
光の線路の上を列車が駆ける。
あっという間に空を越え、窓の外は紫と青のインクが混ざったような幻想的な空間へと変わった。
列車のボックス席に二人は向かい合って座っていた。
ネプチューンは楽しげに窓の外を眺めている。
プルートゥは膝の上の拳を強く握りしめた。
「あのさ」
「ん?」
ネプチューンが振り返る。
「昼間のこと、お前、怒ってないの?」
「怒る? どうして?」
「だ、だって、おれ……」
声が震えた。しかし、言わなければいけない。
「ごめん……」
恐らく、きっと、カロン以外に対して初めて言った言葉だった。
謝りたい。そしてまた昨日と同じように話がしたい。
ネプチューンは、プルートゥの言葉に「はは」と声をあげて笑った。
「別に最初から怒ってなんかないぞ」
ネプチューンの言葉は意外なものだった。
しかし声の様子や表情を見るに、恐らく嘘ではないのだろう。
「オレは気にしてない。だからお前も気にするのはストップだ。オーケー?」
「うん」
例えるなら兄気質というのだろうか。
ネプチューンの優しさは包み込むような大きいもののように思えた。
暖かくて心地よい。
そういえば彼には兄弟はいるのだろうか。
プルートゥはまだ、彼のことを何も知らない。
「お前はさ、何を探して旅をしてんの? おれも知ってる物?」
ガタゴトと揺れる列車の中でプルートゥは問う。
「いや、目に見える物を探しているんじゃないんだ」
え、じゃあ、どういう。
そう尋ねるより先にネプチューンが答えた。
「オレはな【本当の幸い】を探しているんだ」
「【本当の幸い】?」
ネプチューンが【本当の幸い】について教えてくれる。
幸せのその先。
自分にとってのいちばん。それは人によって異なる。
愛か、財か、地位か、それともまた別の何かか。
それが自分にとってはなんなのか。ネプチューンはまだ分からない。
でもきっと、旅と通して自分自身を見つめ、向き合っている中で見つけられるだろう。
ネプチューンはそう笑った。
「だから愛馬が直ったらすぐ旅立たなければいけないという訳じゃないんだぜ」
「そうなんだ」
プルートゥはそっと胸を撫で下ろした。
それを感じ取ってか、ネプチューンは目を細めていた。
◇
「ここは?」
オフホワイトの塔が目の前に聳え立っている。
天体観測所さ、とネプチューンは言った。
「ここには高性能の望遠鏡がいくつもある。色々な星が間近で見ることが出来るんだ」
それを聞いて理解した。
ネプチューンが自分をここに連れてきた理由を。
「お前に冥王星を見せたいと思ってな」
ネプチューンがキザったらしくウインクをする。
しかし嫌だとも鬱陶しいとも思わなかった。
「お前に冥王星のことを少しだけ話しておくな」
そう前置きをし、ネプチューンが歩きながら話を始める。
「冥王星。別名プルートゥ。また別の国の言葉ではハデス。
巨神王クロノスが長男、冥界を統べる神。最恐の神と呼ばれているが真面目な常識人で実は不器用。
それと恋愛に関してはすごく奥手だったらしい」
恋愛に、奥手。
「はあ!? 何勝手なこと言ってんだよ!」
「ノン! 冥王ハデスの話だってば!」
こほん、と咳払いをしてネプチューンが続ける。
「それと海王星と冥王星は共鳴関係にあるんだ」
「何それ」
「公転周期の話なんだけどな。まあ細かい話は置いておいて、オレとお前の星は順番が隣同士なだけじゃないってことさ」
白い大きな扉の前で足を止める。
「ほら、着いたぜ」
扉の上には濃紺のプレートが掲げられていた。
金で<PLUTO>と記載されている。
扉の取手も金で、星を模した豪華な装飾が施されていた。
扉の先に足を踏み入れる。
「お前の名前の星だぞ。きっとビックリするぜ」
少年のように無邪気な笑顔でネプチューンが話す。
「ただの星でしょ? 縞があったり、輪があったり、燃えてたり、光ってたり、そういった感じなんじゃないの?」
星なんて大体そんな感じだ。
プルートゥが知っているのはせいぜい土星と木星と太陽くらいであったが、
映像で見た時にこれと言って何も感慨を受けたりはしなかった。
だから冥王星だってきっと同じだろう。
同じ名前だからって、感動したり、心が動いたりすることがあるだろうか。
ガラスの窓の向こうに広がるのは宇宙だ。
紫と青の世界。白い壁のこの部屋にもその色が映り込んでいる。
その方向に向けて設置された、こちらも真っ白な大きな天体望遠鏡。
大変高性能で、何千光年先をも映し出すことが出来るらしい。
プルートゥは望遠鏡を覗くのも生まれて初めての体験だった。
「ここに目を当てるんだぞ」
ネプチューンがファインダーを指差す。
促されるまま、プルートゥはそこを覗き込んだ。
きっと何も感じることは無いだろう。
そう思っていた。
「…………え?」
ファインダーから目を離し、ばっとネプチューンの顔を見る。
何だこれ。聞いていない。
「ほら、ビックリしただろ」
ネプチューンはいたずらに成功した子供のような顔をしている。
「だ、だってあんな」
言葉にならない。
冥王星は白だったり赤茶色だったり水色だったり、思っていたよりもカラフルだった。
でも色のことで驚いたのではない。
表面右下のほう、約三分の一という広範囲にかけてある、一際目立つある模様。
「うん、冥王星には大きな♡があるんだ」
よく見たらハート、なんてものではない。
くっきりと、はっきりとハートの模様を形取っていた。
これは氷で出来た平原なのだという。名前もついているらしい。
しかしそんなことはどうでも良かった。
「冥王星だってまさか自分にこんなに大きなハートがあるなんて夢にも思っていないだろう。
何せ自分自身じゃ見ることが出来ないからな」
ネプチューンの真っ直ぐな瞳がプルートゥを捉える。
「目を向けない者には知り得ない。
恐らく自分自身でも気がつかない。だけどまっすぐ見つめているものには分かる。
プルートゥ、お前だってそうさ」
再び、名前を呼ばれて胸が大きな音を打つ。
おれの周りの連中は知り得ない。
おれ自身でも気づいていない。
ねえ、まっすぐ見つめているものって、それって……
「懐中時計はお前のではなくて、キャットのものだと聞いたぜ。毎日夜に少しずつ修理をしているんだってな。
オレにベッドを譲ってくれたこともそう。
それにお前が作ったマシンはピカピカに手入れがされている」
お前が想いを込めて整備している証拠さ、とネプチューンが微笑む。
「なあ、お前も持っているんじゃないか? ここに」
ネプチューンの右手がそっとプルートゥの左胸に触れた。
触れられたところが強く脈打つ。
喉の奥がぎゅうと閉まって苦しい。
もう否定のしようがない。
だってこんなにも頬が熱い。
胸いっぱいに広がる、温かくて何だか泣きたくなるような、そんな想い。
ずっと自分のことを見ていて欲しいと思った。
ずっと触れていて欲しいとさえ思った。
「オレは少なくとも工房の人たちよりお前のことを知っているぜ。だって、オレは、お前を見ている」
観測室に二人きり。
誰より優しいこの男の澄んだ声が紫と青に染まった部屋に響く。
「だから、お前のハートをもっと見せてくれないか?」
<3>
キッチンから陽気な鼻歌が聞こえる。
真っ白な平皿の上に乗っているのは焼き立てのガトーショコラだ。
ブルーのエプロンを身に付けたカラ松が、最後の仕上げを行なっている。
茶漉しを使って、ガトーショコラに粉砂糖をふりかける。
なおこの茶漉しはこのために午前中に百円ショップで購入したものだ。
そのカラ松を眺める目が四つ。
食器棚の上にプルートゥとネプチューンは腰掛け、カラ松のことを見守っている。
随分と昔話に花が咲いた。出会ったばかりの頃の話。
二人で星間列車に乗って天体観測所に行き、冥王星を見に行った時のこと。
「……この時にさ、嫌ってほど自覚させられたよね。お前のこと、本気で好きになっちゃったなって」
プルートゥがそう言うと、彼の恋人は急にサングラスをかけてキザったらしい声を出した。
「フフーン! つまりお前の持つ大きな♡は全てオレに向けられたって訳だな!」
「そうですけど」
「あ、うん」
サングラスがずれ落ちて、真っ赤な顔が露になる。
「はあ!? 何照れてんの!? お前が振ってきた話じゃん!」
プルートゥに背を向け、ネプチューンが「だってぇ」と情けない声を上げる。
「やだやだ~! 昔みたいにお前も照れてワタワタしてくれないとやだ~!」
「ひひっ」
恥ずかしがる恋人のなんて可愛いことか。
月日が経ちまさかこんな関係になるとは、あの日には考えもしなかったなとプルートゥはしみじみ思う。
こちらに向けられて丸まった背中にそっと体重をかける。
「でも」
ネプチューンが言う。
「一松の小説の読者はまさかオレたちが実はラヴァーだなんて、夢にも思っていないだろうな」
「そりゃそうでしょ。おれとお前は、物語の中ではあくまでも相棒なんだから」
「オレとお前と、それと一松だけの秘密だな」
小説家松野一松のデビュー作。
長きに渡って愛されている主人公二人の、秘密の話。
「よし! パーフェクト!!」
カラ松の弾んだ声が聞こえた。
同時に玄関のほうからはガチャガチャという音がした。
「あ、丁度一松が帰ってきた!」
パタパタと音を立て、玄関まで彼を迎えに行く。
「一松~!!」
取材だったため、一松は水色のスーツに身を包んでいた。
廊下を靴を脱ぎながらネクタイを乱暴に緩める。
知らない人と話をすることも、外を歩き回ることも得意ではない一松は心底疲弊していた。
しかし廊下からカラ松が駆けてくるのが見えた途端、ふにゃりと顔が綻んだ。
「今日はお前のためにケーキを焼いたんだ!」
「マジで!?」
一松の瞳が輝く。
それを見てカラ松も嬉しそうだ。
腕を引いてキッチンまで連れて行き、一松の目の前にガトーショコラを差し出す。
「ほら見てくれ!!」
昨晩寝る前にスマートフォンで諸々調べ、一松を想って焼いたオリジナル。
ホール型のガトーショコラは粉砂糖で化粧を施されている。
表面右下のほう、約三分の一という広範囲にかけてある、一際目立つある模様。
カラ松作の冥王星のケーキ。
しかし、一松は冥王星のケーキだとは知らない。
「えええっ!?」
とびきり大きなハートマーク。
そりゃあ、恋人同士ですけれど、こんな大きいハートを描いちゃうの?
おれの恋人、可愛すぎじゃない?
一松の頭は一気に沸騰し、くらくらとふらついて冷蔵庫に強かに激突した。
「ええっ!? いちまつ~っ!?」
頭を押さえ床にしゃがみ込んで面白いくらい顔を真っ赤に染めた一松と、おろおろと心配そうに彼を見つめるカラ松。
「アイツは未だにウブなんだよね」
そんな二人の様子を見て、小さな分身たちは苦笑した。